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 投稿者:=  投稿日:2016年12月26日(月)13時21分33秒
  早朝6時、校舎に据え付けられた照明が校庭を照らす。ザッザッザッ。薄暗いグラウンドに砂をける音が響く。ジョギングやウオーミングアップなどを組み合わせ、1日平均約6キロ走る。週6日、選手たちは黙々とメニューをこなす。「朝練をやるのとやらないのとでは大違い」と堀田茂利監督(44)は言う。1日6キロの朝練は1週間で36キロ、1カ月で約140キロになる。放課後の練習だけでは埋められない差となるという。チームの滑り出しは順調ではなかった。昨年の都大路で長距離区間を走った松村元輝選手らエースが卒業。上半期は結果が出ず、8月のインターハイには、チームから1人も長距離での出場がなかった。迫田和也主将(3年)は「気持ちの面でマイナス思考になっていた」と振り返る。故障者も増え、一時は部員の半数が別メニューをこなすこともあった。転機は夏。合宿日を4日増やし夏休み約40日中、20日を合宿日程で過ごした。炎天下、多い日で50キロを走り込むこともあり、「例年以上に充実した夏になった」と堀田監督は振り返る。また、8月に長野県八ケ岳であった日本陸連主催の合宿に参加した10人は、「ポジティブにやろう」「自分はできる」と声を出して自分を鼓舞する「セルフトーク」などのメンタル講習を受講。合宿後、講習内容を部員同士で伝えあうことで、全体が少しずつ前向きに競技に打ち込めるようになったという。  
 

(無題)

 投稿者:=  投稿日:2013年12月12日(木)04時55分11秒
  12月に入ったある日、ユニバーサルの練習に立ち会う機会に恵まれた。千葉県佐倉市の寮の近くのロードで3km(または2km)+1km。設定タイムはなく、間は 8分のレストでつなぐという。試合に向けて状態を上げて行く調整期で、量的には少ない練習だ。

練習開始時の集合で小出代表は「オマエ、何kmやる?」と何人かの選手に質問していく。スタート前になると個別に歩み寄り、肩に手をかけたりしながら何 事か話しかけた選手が3人いた。 練習がスタートするとスタッフの運転する車で選手たちの後方に付き、時には横に並走しながら走りを観察し、頻繁に声をかける。

「よーし、永尾となっちゃん(那須川)はもう少し前に行けぇ」 「そう、良い感じだ、良い感じ。ピッチでぽぽぽぽぽーんと行けぇ」 「よーし萌ちゃん(中村萌乃)、追っかけていくよ、ここで息抜いちゃだめだぁ」 「下りを全力で走ってみろ。ブレーキかけちゃダメだよ。もっと前傾して」 「ぜんぜん悪くないぞ、9分15秒ペースで走ってるぞ」 「青山、オマエなら最後500で行ける。永尾のところまでスーッと行ける」 練習後に注意をするよりも、走っている最中に声をかける方が効果が大きいという。 3kmはワンジュグがトップ。永尾が2番手、後藤が1秒差の3番手、10秒ほど開いて青山、那須川、中村と続いた。小出代表は上機嫌で言う。 「今日は去年より良いね。オレは調整、上手いからさ。同じレベルなら(調整をしたら)誰にも負けないよ。その辺は長くやっていればわかるんだよね」

驚かされたのは、ダウンジョッグの時間を選手個々に指示していたことだ。 「オマエは30分、ゆーっくりやろうな。オマエも30分、オマエは何分やる?ゆっくり40分な」 ダウンジョッグの時間は選手に任せるのが普通だろう。それを10分単位で細かく指示する理由は何か。 「練習ができてない選手は筋肉の張りを強くしないといけないんですよ。今日の記録が良くても油断はできません」

小出代表の調整期の練習は、鍛錬期に比べ極端に練習量を落とす。選手の状態によっては流しもさせないし、「散歩だけな」と走らせないケースもあるとい う。1000mや2000mで行う最後の刺激練習も、前日にやるのが良いか、2日前にやるのが良いか、選手個々の状態を見て決める。調整手腕は匠の域に入って いる。

膨大な練習量の鍛錬期

調整期に対し、鍛錬期の練習量は半端ではない。那須川が「こんな無茶苦茶に練習をして、試合になって走れるのか、と思います」と話すくらいだ。 小出代表自身は「レースで走るために何が必要かを考えているだけ」と“適正距離”であることを強調するが、他チームと比べたら間違いなく多い。小出代表 の「5000mが15分台程度なら、スピード練習よりも持久的な練習の方が有効」という言葉に、考え方の一端が現れている。

前述のように鍛錬期には試合に出ない。特に今年は徹底したという。

「練習を細切れにしたくないからです。小さな試合でもレース前2~3日は調整しないといけない。そうしたら前後1週間くらい練習を落とすことになる。そ れよりも練習を継続した方が中身の濃いトレーニングになる」

青山は東日本予選の長距離区間に抜擢されても慌てなかった。「他のチームより練習をやっているので、12kmでも行けると思うことができました。そのくら いボルダーで、きつい思いで練習をしてきたんです」 ハードな練習に選手たちが取り組める理由は、小出代表への信頼感だろう。高橋、有森裕子のマラソン五輪メダリストに加え、97年アテネ世界陸上マラソン 金メダリストの鈴木博美、トラックで五輪代表となった志水見千子、五十嵐美紀らを育てた(ここに挙げた5人は全員が日本記録も更新。高橋は世界記録)。

駅伝では高校教員時代の市船橋高(86年)を皮切りに、実業団指導者となってリクルート(93、94年)、豊田自動織機(08年)、そして昨年のユニバーサルと5回の 全国制覇。五十嵐利治コーチは「選手たちはつらいと感じることもあると思いますが、駅伝で勝てると思って乗り越えられるんです。個人種目の記録も伸び ているから納得して取り組める」と話す。

小出代表の発想には「無理と思わない」ことが前提にある。シドニー五輪前の高橋は、2600mで高所トレーニングを行った。以前は2000m前後が常識だった が、高橋は3000mで走ったこともあった。教員時代には投てき選手に、1日30本程度が当たり前だった投てき練習を120本も行わせた。 故障するリスクも大きくなるが、「臆病者に大成した者はいない」と一笑に付す。前向きな気持ちで取り組めばケガは減らすことができる、という考え方 だ。

“小出マジック”の正体

鍛錬期に超ハードに追い込み、調整期に絶妙のさじ加減で調子を上げていく。“小出マジック”を簡潔に表現すればこうなるが、ハードな練習メニューを紙に 書き出せば、選手が実行できるものではない。

小出代表は鍛錬期でも積極的に声をかける。合宿中は選手と生活をともにするので接触する機会は多い。
 

(無題)

 投稿者:=  投稿日:2013年12月 1日(日)05時29分11秒
  12月1日に行 われる福岡国際マ ラソンに出場す る、最強市民ラン ナー・川内優輝 (26=埼玉県 庁)が30日、福 岡市内で最終調整 を行った。

2時間7分30秒をオーバーするか、 来年のアジア大会(韓国・仁川)代表を 逃せば16年リオデジャネイロ五輪を含 む夏の国際大会からの撤退を決めている 川内だが、この日はリラックスした様子 で練習。軽いジョッグのした後「これか らカレーの大盛り2杯を食べる。その後 は髪を切りにいく」と話し、気負いは見 られず、マイペースを貫いた。

レースは午後0時10分にスタート。                                    
 

(無題)

 投稿者:=  投稿日:2013年12月 1日(日)04時39分27秒
  2013福岡国際マラソンは、アジア競技大会(2014年9月1 9日開幕、韓国・仁川)の代表選考会を 兼ねて、福岡・平和台陸上競技場を発着 点とする42.195キロで行われる。

注目は、8月の世界選手権モスクワ大 会代表の川内優輝(埼玉県庁)と、ロン ドン五輪代表の藤原新(ミキハウス)の 2人に集まる。川内は、レース前の記者 会見で、自己ベストを上回る2時間7分 30秒を切れない場合は、以後、五輪や 世界選手権の代表争いに加わらない意向 を示した。悲壮な覚悟で臨む今大会で、 過去最高の走りを見せたいところだ。 一方の藤原は、1月に左太ももを故障 し長期離脱していたが、この秋からレー スに復帰。ハーフマラソンのグレート ノースラン(9月、英国)、続く函館 ハーフマラソン(10月、北海道)と2 戦連続で同じレースを走った川内に先着 するなど、調子も上向きだ。昨年のこの 大会以来となるフルマラソンで結果を残 し、完全復活をアピールできるか。

そのほか、5000メートル日本記録 保持者の松宮隆行(コニカミノルタ) や、2連覇の懸かるジョセフ・ギタウ (JFEスチール)らも出場する。日本 大時代に留学生ランナーとして箱根駅伝 をにぎわせたガンドゥ・ベンジャミン (モンテローザ)は、今回が初マラソ ン。さらに、今大会が引退レースとなる 北京五輪代表の佐藤敦之(中国電力)の 走りにも注目だ。

2時間4分台の記録を持つゲブレグ ジャベル・ゲブレマリアム(エチオピ ア)ら海外勢が相次いで欠場することも あり、今大会は日本勢にも大いに優勝の チャンスがある。順位だけでなく、記録 も狙った積極的なレース運びを期待した い。

レースは1日、12時10分にスター トする。
 

(無題)

 投稿者:=  投稿日:2013年11月25日(月)09時48分23秒
  川内にモテキがキター!女子高生か ら公開告白「びっくりした」 2013.11.25 05:01

一足早い春がキ ター!!“公務員ラン ナー”川内優輝(2 6)=埼玉県庁=が2 4日、埼玉・川越市で 行われた小江戸川越マラソンにゲストラン ナーとして出場後、トークショーで女子高 生に公開告白された。

「まさか、あんなことを言われるとは。 びっくりした。漫画の一場面みたいだっ た」

年配の主婦からは婿入りを打診されるな ど、空前のモテキが到来した。理想の女性 は(1)おとなしい(2)マジメ(3)努 力する(4)一緒に走ってくれる人。「彼 女はいない」と言いながらも、まんざらで もない表情を浮かべた。

12月1日の福岡国際マラソンでは、自 己ベストを44秒も上回る2時間7分30 秒を目標に掲げた。恋も走りも“いちず”に 駆け抜ける。
 

(無題)

 投稿者:=  投稿日:2013年11月25日(月)09時44分15秒
編集済
  最強市民ラン ナーが女子高生 にたじたじ-。 川内優輝(2 6)=埼玉県庁 =が24日、小 江戸川越マラソ ン(埼玉県川越 市)のハーフの 部でゲストラン ナーとして参加 し、1時間4分 04秒のトップでゴールテープを切った。トークショーでは女 子高生から“公開告白”を受け「初めて。ドキドキした」とレー スよりも心拍数を上げた。

「好きです」

舞台に上がった地元の東邦音楽大学付第二高の女生徒から突 然の告白。抱擁も求められたが握手で逃げ切った。この日は週 刊誌の記者の姿も。川内は「女子高生の目だけぼかして『川 内、女子高生とハグ』ってなる。そういうリスクがあるのを分 かってるのかな」と苦笑いだ。

女子高生だけでは終わらない。60代女性からは「娘の旦那 になって」と懇願された。この女性は「実は娘よりも私がファ ン。心がきれいですよね」とほおを赤く染めた。10~60代 までの争奪戦。思わぬモテキ到来に、川内のほおも緩んだ。だ が、すぐに表情を引き締めた。

1週間後に福岡国際マラソン(12月1日・福岡市)を控え る。来秋のアジア大会(韓国・仁川)の選考も兼ねており「2 時間7分30秒、3位以内を目標にする」と力強く締めくくった。
 

【第二次世界大戦】クーベルタンの突然死

 投稿者:ねこ  投稿日:2013年10月29日(火)18時31分1秒
  【第二次世界大戦】クーベルタンの突然死
http://ichiba.geocities.jp/gbsg0309/0203/35/240.html
日本は、1940年9月21日、皇紀2600年を記念し、
かつIOC会長クーベルタン男爵の喜寿を祝賀し、
東京オリンピックで金メダル世界一を目指した。
開会式は、クーベルタン男爵と昭和天皇の列席・挨拶で始まる予定だった。
ところが、クーベルタンが1937年9月2日他界、
オリンピックの準備を着々と進めてきた日本は、引くに引けなくなった。
こうなったら戦争しかない。日本は、すぐさま盧溝橋事件をでっち上げ、
日中戦争を演出した。そして東京オリンピックを辞退した。
だが、他国で盛大にオリンピックが開催されるのを黙って見ているわけにはいかない。
こうなったら世界戦争しかない。アジアでは真珠湾攻撃、ヨーロッパでは、ヒトラーに任せた。
問題は、次の東京オリンピックをどうするかだった。次は、クーベルタンの生誕100周年を記念し、
1964年東京オリンピックとした。戦争から20年、日本には高度成長と八百長試合の自信があった。
時間は十分だった。1964年、見事、東京オリンピックは大成功だった。
(仮説を含む)
( http://ichiba.geocities.jp/gbsg0309/0104/44/295.html )
 

前田エピソード

 投稿者:=  投稿日:2013年10月 6日(日)16時46分59秒
  3年時の甲子園大会後、熊工には 西武を 除く11球団、前田の自宅にも8球団のスカ ウトが挨拶に訪れ、中でも地元九州のホー クスは上位指名を示唆するなど熱心だった が、同年11月に行われたドラフト会議 では 広島が4位指名する一方ホークスからの指 名はなかった。前田は会見場でテレビ中継 を見た後1時間近く泣き続けた。前田は一 旦プロ入りを拒否。何度訪問しても口を開 かない前田に痺れを切らした宮川(村上) スカウトは「ホークスは指名しなかった が、俺達は(指名の)約束を守ったぞ。男 だったら約束を守れ」と叱責、とつとつと 打撃理論を語った。前田は宮川の人間性に 惹かれて広島入りを決意。同年広島が指名 した6名の選手のうち、入団が決定したの は前田が最後だった [11] 。 デビューして間もない頃、 二宮清純に 「理想の打球は?」と尋ねられたところ、 「ファウルならあります」と答えた。ただ し、「野球小僧」2006年4月号のインタ ビューでそれがウソであったことを告白し ている。また1992年の二宮のインタビュー で「打席に立つ目的は?」と聞かれて、し ばらく考え込んだ後、「理想の打球を打っ てみたい、ということかなぁ」と答え た [12] 。 1994年に三村敏之が監督に就任した際、 前年まで3・4番だった前田と江藤の打順を 入れ替えた。しかし共に不調に陥り「僕は 4番というタイプではない。長打力のある 江藤さんが4番を打つべきです」と三村に 具申し、3番に戻っている(同年5月18日福 岡ドームでの巨人戦で 槙原寛己に完全試 合を喫した際は江藤と共に欠場)。その後 2000年に達川晃豊が監督に就任した際にも 4番に指名されたが、「自分は4番を打つだ けの打者ではない」と固辞し、金本を4番 に据えるよう懇願。結局は達川の説得に折 れて承諾、4月の月間MVPを獲得したもの のその後は不振に陥り、後に「(4番を打 つのは)気持ち的に中途半端で、あまり前 向きになれなかった」と語っている。その 後も歴代首脳陣から何度も要請されている ものの、足に不安材料を抱えることから 「4番打者は全試合出られるような人間で ないとダメ」と固辞している。 プレー中に笑顔を見せる事は滅多にない が、2007年ガリバーオールスターゲーム 第 1戦(東京ドーム)の7回裏、ホークス・馬 原孝浩の直球をすくい上げるようにスイン グし、右中間に飛び込むオールスター初本 塁打を放った。一塁を回ったところで打球 の着地点を見届けると拳を握り締め、三塁 手前で笑顔で手を叩いて小さくガッツポー ズを取りホームイン。ダッグアウト前でナ インと嬉しそうにハイタッチを交わした。 前田は「落合さん(博満・セ監督)からは 『楽しめよ』と言われていたし、ファン投 票で選んでもらったからには頑張りたかっ た。三振だけはしないようにと思っていた が、まさか本塁打になるとは思わなかっ た。本当に嬉しかった」と話した。 2008年のマツダオールスターゲーム に ファン投票で選出された際「ありがたい気 持ち。ただ、試合に出ていない選手が選ば れるのはどうかなと。元気な姿を見せたい が、元気がない」と不本意な成績からノミ ネートの経緯など投票システムに疑問を投 げかけている。 イギリスの大手雑誌社の「Wallpaper* 社」から広島の著名人特集の代表として取 材を受け、2008年9月号に掲載された。 チームメイトとなった 石井琢朗から「生 きた教科書」と呼ばれ、キャンプ中も彼の 打撃練習を熱心に見ていた。しかし、写真 撮影は「ブログに載せるから嫌だ」と断ら れた。 ストイックな印象とは裏腹にかなりの甘 党で、大怪我を負う前は好物のアイスク リームを毎日食べていたとの証言もある。 高校3年時の 1989年夏、高校野球選手 権熊本大会の決勝( 藤崎台県営野球場 ) で東海大二高 と対戦。0-1と熊工が1点リー ドして迎えた4回表の前田の打席で、東海 大二側ベンチは勝負を避けても構わないと 指示。投手・中尾篤孝がそれに従ってボー ルを2つ先行させた際、前田はバットを 持ったままマウンドに歩み寄り「勝負せん かい! ストライク入れんかい!」と怒鳴っ た。これに中尾が「何やと!」とやり返した ため、球審が間に割って入った。プレー再 開後、中尾が勝負を挑んだ球をライトスタ ンドへ打ち込んだ。中尾(卒業後協和発 酵硬式野球部入り)は後に「今となっては いい思い出です」と語っている。この試合 に勝った熊工は甲子園に出場。初戦の日大 三島戦で1回表に タイムリーヒット を放っ たが、攻撃が終わっても「だめです。俺は もうだめです」と頭を抱え込んで泣き崩 れ、守備につこうとしなかった。前田は同 学年の元木大介を強くライバル視してお り、本塁打を連発する元木に負けじと臨ん だ初戦で打ち損じたことに納得できなかっ たという。これ以前にも、練習などで打撃 に納得できないと深く考え込んだり、時に は当たり散らしたりすることが何度もあっ たという [13] 。 1990年、プロ入り後初の日南の春季キャ ンプでは打撃マシンを相手に快打を連発。 高卒同期入団の浅井樹は後に「同い年で自 分より凄い男を初めて見た」と振り返って いる。ある日の練習中達川光男に「打席で どんな球を待っとるんや?」と訊かれ「い や、来た球を打つんですよ」と答え、達川 は「凄いな、お前」と感心した [14] 。 北別府学の200勝のかかった試合の 1992 年9月13日の対巨人24回戦(東京ドー ム)、1-0と広島リードで迎えた5回裏二死 無走者、川相昌弘の中前への当たりに飛び 込んだが後逸、ランニング本塁打で同点と なる。前田は8回表一死一塁の場面で決勝 打となる勝ち越し2ランを放ち、ガッツ ポーズを見せた後涙を流しながらダイヤモ ンドを一周した。後日、決勝本塁打につい て「最悪でも、あれぐらいはやらなきゃ取 り返しがつかないと思った」と振り返り、 また本塁打後の涙について「自分に悔しく て涙が出た。ミスを取り返さなければいけ なかった次の打席(6回表二死二塁)で中 飛。それに腹が立って泣いたんです。最後 に本塁打を打ったところでミスは消えな い。あの日、自分は負けたんです」と語っ ている [15] 。 1994年5月18日の対巨人戦( 福岡ドー ム)で、広島は巨人・ 槙原寛己にプロ野球 史上15人目の完全試合を許し敗れたが、前 田はこの試合を欠場しており「この借りは いつか返す」と誓っていた。そして同年7 月9日の同カード(広島市民)で槙原から バックスクリーンへ本塁打を放った。前田 は「完全試合以来、槙原さんが出てくると (気持ちが)熱くなった。明らかに普通と は違った緊張感がありました。そうした逆 境が僕を燃えさせるんです」と語った [16] 。 1995年に右足の アキレス腱 を完全断裂し た後、打撃をはじめ走塁や守備などプレー 全般に精彩を欠いたことを嘆き「この足 (右足)はもう元通りにはならないだろう し、いっその事、もう片方(左足)も切れ て欲しい。そうすれば、身体のバランスが 良くなるらしい。それで元に戻るんだった ら」と語った。前田は走攻守全てに於いて 常に完璧なプレーを目指すのが信条であっ たが、満足にプレーする事ができなくなっ たのが余りに不本意だったのか、1996年頃 から「俺の野球人生は終わった」「前田智 徳という打者はもう死にました」「プレー しているのは僕じゃなく、僕の弟です」 「あれは高校生が打っていたんです」など といった発言を繰り返す。またこの頃から 打撃成績に関しては具体的な目標を掲げな いようになり、理想の打球へのこだわりも 薄れ、個人成績の目標として挙げるのは 「公式戦全試合出場」だけとなった [17] 。 このアキレス腱断裂は、前田の野球人生 にとって大きな転機となった。前田は1996 年春のあるインタビューで「怪我する前 は“自分がどこまで成長できるか”と考える と、毎日が楽しかった。(野球をやってき て)これまで努力した事はない。普通通り の事をやっていただけ。コーチから新しい 事を教わっても、すぐ出来た。神様から与 えられた素質、天性だけで野球をやってい たのが(怪我で)全て崩れ、訳が分からな くなってしまったんです」と語っている。 また、右アキレス腱には既に前年から不安 を抱えており、早く治さなかったことを後 悔していたと明かしている [18] 。 1998年8月もしくは9月 [19] に行われた試 合の後、タクシーで球場を出ようとした前 田に女性ファンが「前田さん、がんばって ください」と声をかけたところ、前田は 「お前に言われんでもわかっとるわ」と大 声で言い返した。朝日新聞の西村欣也編集 委員は、前田の言葉はユーモアにくるんだ 言い方ではなくその場の空気が凍りついた として、「野球選手はバットとボールで話 をするという姿勢は彼の魅力のひとつでも ある。しかし、それならば沈黙を貫くべき だろう」「ファンに暴言に近い言葉をぶつ けてしまうのは、やはりプロフェッショナ ルとして欠けている部分があるというしか ない」と記している [20] 。 2000年、江藤智がFAの権利を行使して巨 人へ移籍。新4番として迎えた3月31日、開 幕戦の対巨人1回戦(東京ドーム)では、2 回表に回ってきた初打席で巨人先発上原浩 治から先制ソロ本塁打、4回には二塁打、8 回にも犠飛を放つなど3得点に絡み、5-4で 逃げ切った。前田はヒーローインタビュー で開幕4番について「はっきり言って、気 持ち的には中途半端で入った。前向きに考 えるのが難しかったけれど(監督に) 『チームのために頑張ってくれ』と言われ た。それがいい結果で出たんでよかった」 と話し、さらにチームのムードについて 「やっぱり緊張感の中で勝てたのは大きい し、これから頑張っていきたいと思う。み んなで力を合わせて頑張るっていうのがウ チの野球なんで」と語った。この「みんな で力を合わせる」という文言は同年シーズ ン序盤、前田の常套句となった [21] 。 同年7月、アキレス腱が伸び切って炎症 が悪化し断裂の恐れがあることが判明し た。27日に左アキレス腱の腱鞘滑膜を切除 する手術を受け長期離脱。フリーエージェ ントの権利を獲得したが10月30日に記者会 見で「まだ乗り越えなくてはいけない物が たくさんあるし、カープで最後までいいプ レーをしたいという気持ちになったので、 今回はFA宣言というものは自分には関係な いという気持ちです。大きな怪我もあった がここまでやれるとは思わなかったし、 チームとファンに恩返ししたい。今年権利 を行使しないということは、来年もしない という事です」と、広島に残留する旨を表 明した。 2005年1月にグアムで自身初の海外 自主 トレを敢行。2月の春季キャンプでは「守 備重視」というチーム方針もあってレギュ ラー特権を剥奪される厳しいスタートと なったが、毎日早出・居残りで鍛錬を続け た。キャンプ中盤の2月14日、練習後の取 材に応じた前田は「今までのように(マイ ペースで)調整させてもらっている立場 じゃない。周りから『走れん』とばかり言 われているが、文句を言われんように、ま た走れるようになりたい。試合で(身体 を)作っていくのがベストだし、オープン 戦もできれば全部出たい。賭けだよ、賭 け。駄目なら賭けはおしまい」とシーズン への意欲を見せた。 2006年シーズン後の秋季練習の初日に 「うまく打撃のコツもつかみたいし、その ためにはバットを振るのは普通のこと。ま あ、多分つかめはしないんだろうけど。何 年やっても、どう打っていいか分からん」 と発言。 通算安打数「1999本」で迎えた2007年 9 月1日の対中日ドラゴンズ17回戦(広島市 民)、前田は4打席凡退していたが6-7と リードを許して迎えた8回裏、広島は代 打嶋重宣の3ランで逆転する。その後も攻 め立てて二死満塁とし、打者一巡して前田 の打席。久本祐一の3球目を右前へ運ぶ2点 適時打を放ち、プロ通算2000安打に到達し た。前田は一塁上で安堵の笑顔を見せ、長 男・二男から花輪を受け取った(このとき 前田は子供たちに「お母さんはどこにいる の?ありがとうって伝えておいてね。」と 言った)。この回広島は一挙8点を奪って 14-7で勝利、前田の金字塔に華を添えた。 試合後お立ち台に立った前田はまず「自分 個人の事でここまで騒がれるのは非常に残 念な事。ここまでチームの戦い方を考える と悔しい思いばかりだし、自分が(怪我な どで)いいシーズンを送れていないので、 責任を感じています」「怪我をして、チー ムの足を引っ張って…。こんな選手を応援 して下さって、ありがとうございます」と 声を詰まらせた。そして「最高の形で(自 分に打順を)回してくれたので、ここで打 たなきゃと思った。今日という日は一生忘 れないと思います」と喜びを語った。その 後記念のボールを手に場内を一周してファ ンの声援に応え、チーム全員で記念撮影を 行った。また試合後の記者会見では「今日 は何となく負けるような展開だったが、み んなが凄い力を発揮して、最後に打たせて もらった。18年やっているけれど、こんな 凄い試合は初めてです」と8回の攻撃を振 り返り、「こういう記録を達成できて、こ んな選手にいろんな声援を送ってくれたの に、充分応えることができなかった。これ からも暖かい応援を頂きたい」  

(無題)

 投稿者:=  投稿日:2012年 8月15日(水)08時54分43秒
  常識にとらわれず、自分で考える人生を!

マラソンを始められたきっかけは?

地元のスーパーに「ちびっこマラソン募集」というポスターがあったんです。それを見た親が申し込んだの が始まりでした。子どもの頃は、特に足が速かったとか運動神経が良かったということは全くなかったんで す。ただ、僕の両親は父が元ボクシング選手で国体に出場していたりと、凄く体育会系で、幼稚園の頃から 僕をバディスポーツ幼稚園(幼稚園・スポーツクラブ・野外活動教室・スイミングクラブの4つの機能をも つ幼児教育機関)に入学させるほどに熱心でした。

それでは練習もハードでしたね

それはもう、毎日(笑い)。基本的には母が一緒に走ってくれたんですが、夕方になると車で練習所へ行き ましたね。練習はいつも力いっぱいの全力疾走ですよ。それを小学校の6年間続けていました。当時、ス ポーツに力の入った幼稚園に入っている割には、体があまり強くなかった僕を慮って鍛えてくれていた、と いう事もあったかもしれませんね。この時の全力疾走という練習が、常に全力を出し切るという今の僕のス タイルのルーツになっていると思います。

練習がきつくて嫌になることはなかったのですか?

雨の日は練習が休みなので喜んでいました(笑い)。でも練習すればそれだけタイムが伸びていくのが嬉し くて。高学年になると校内の持久走以外にも地方各地のちびっこマラソンに参加するようになったんです。 いろんなところに旅行に行けるのが特に楽しみになりましたね。

中学時代もマラソンをされていたんですよね

小学校の6年間、陸上をやっていたので、中学でも陸上部に入ろうと当然のように思っていました。小学校 の時は漠然と練習していましたが、その中でも自分は特に「駅伝が楽しくて好き」と気付いたのは中学生に なってからですね。それで、高校は駅伝の強い学校に行きたい、という思いが強くなって。県内でも有数の 駅伝強豪校に入学したんです。

高校の時にはお父様を亡くされましたね

そうですね。怪我で精神的に不安定な時も父は本当に支えてくれたんですけど、突然亡くなってしまったん です。いろんな意味でとても苦しい時期でしたね。父も亡くなり、経済的にも母は大変だったと思います。 でもそんな家族の支えもあり、なんとか進路も変更せずに前を向けたんです。

大学進学は箱根駅伝を目指して?

いやー、怪我を繰り返すうちに記録や勝利を目指す気持ちはめっきり減ってしまいました。どちらかといえ ば怪我がなく楽しく走れれば幸せだな、という気持ちが強くなったんです。それでエネルギーが余った分、 勉強をより熱心にするようになりましたね。

勉強も沢山されたんですね

「陸上ばかり」なんて周囲に思われたくなかったですからね。それに現実的なところ、僕は個人の大会では 県大会までしかいけていなかったんです。駅伝では関東まではいけていたんですけど。そういう意味ではと てもじゃないけども陸上一本で生きていける気がしなかったんです。

でも学習院大学に入学してから箱根を走ることになるんですね

そうなんですね(笑い)予想外に記録が伸びてしまって。記録が伸びた要因は怪我をしなくなった、という ことが大きかったんだと思います。高校の時にあれだけ悩まされた怪我をしなくなったことが、精神的にと てもプラスになったんですね。 学習院大学陸上部の練習スタイルが、とても僕にマッチしたということもあります。高校時代はどんな練習 でもきっちり隊列を組んで全力で取り組むという姿勢でした。もちろんそれも大事だったと思いますが、学 習院大学では、週2回のきつい練習以外は部員各人が目白を起点にして自由度の高いコースをとりながら ジョギングするんです。都内を回って練馬区役所へ行ったり、日本橋に行ったり、浅草寺に行ったりと、い き過ぎない付加価値的な楽しみが絶妙なんですよ。

環境がマッチしたんですね。しかし箱根駅伝は団体戦ですから、参戦するには個人の力だけ では難しいですよね

そうですね。やはり大学で狙うのは難しかったです。それでなんとか学連選抜で食い込んでいきたいと考え るようになりました。

学連選抜には何年生の時に?

2年と4年の時です。1年の時は実力がなくて、3年生の時は期待されながらも大失敗をしてしまって(笑 い)。それらがあっての集大成として走れた4年の箱根はとても思い出深いものになりましたね。

学習院大学が箱根駅伝を走るのは初ですよね

そうですね。大学も凄く応援してくれました。登り旗を100本作ってくれたり、学長先生が現地まで応援に 来てくれたり、僕一人の為に応援団がバスで到着してくれたりで、本当に有難かったです。

大学生活は、箱根で一定の結果を出され、卒業後はランナーを目指される気持ちはありまし たか?

半々でした。卒業後は昔からの夢でもあるんですが、楽しく日本各地の市民マラソンを巡る旅、というのを やりたいと思う一方、大学連合で様々なライバルと出会い、刺激されながら練習を続ける中で、このまま鍛 錬を積めばもっと記録を伸ばせるんじゃないか、もっと上を目指せるんじゃないか、という気持ちも芽生え ていましたね。相反する気持ちの整理は難しかったですが、とにかく辞めるという選択肢だけはなかったで すよ。

そこから出した公務員という答えはどういう意図が?

自分のスタイルを確立して、一定の自信を得ていたので、社会人でも実業団でもやっていける気持はありま した。しかし、大学4年の5月までに実業団からの勧誘がなかったため、その時期から始まる公務員の試験に シフトしたんです。実業団からの誘いがあればもちろんやってみたいという気持ちはありましたよ。大抵の 場合、実業団からの勧誘は3年から4年になるころに行われるそうです。僕の場合は3年次に大きな失敗で目 立つことが出来なかったのが痛かったのでしょうね。でも結果として今の僕があり、記録を残せている現在 があるので、今の選択肢が正解だったと素直に思います。それに大学生の弟も二人いますし、生活基盤の安 定も絶対でした。仮に実業団に入れていたとしても数年後には公務員などの資格試験をうけていたと思いま すよ。

独力のみでわが道を突き進まれるのは、難しいことが多いのでは?

去年の夏までは大学時代の監督にみてもらっていたんです。週2回のポイント練習を含めて全部を組んでも らっていたんですが、昨年の夏に体調を崩してからは全部自分でメニューを組むようになりました。それが また楽しいんです。なにしろ、今までの陸上人生で出会い、師事した方々の教えを基礎、基本にしながら試 行錯誤して組み立てる自分の陸上の集大成みたいなメニューですから。もちろん独りで大変という側面もあ りますが、一緒に練習する仲間や支えになってくれる沢山の人たちがいてくれたり、団体に所属しているだ けでは味わえない楽しさやメリットがあるんですよ。

市民ランナーとしてここまで注目されたことはどう感じられていますか?

実業団を辞められて市民ランナーをされている方など有力な市民ランナーの方は決して少なくないと思いま すが、僕が注目されている理由はやはり2時間10分を切ったことが全てだと思います。2時間13分くらいま でのタイムなら今までもいたと思うんですけど、そこになかなか超えられない壁があるんです。僕にとって もその壁を突破することが最終目標だったんですね。今はなんと最終目標を達成してしまった状態で(笑 い)。

今、フルタイムで就業されている中で、どのようなバランスで生活を送られているのでしょ う

まず午前中に走ります。勤務時間がお昼の12時45分から夜9時15分の夜間勤務ということもあって、勤務が 終わってから走るというのは現実的じゃないんです。それで空いている午前中を使って15キロから20キロを 1時間20から40分くらいかけて走ります。それを週に5日間、後の2日間は大学時代からのスタイルでまた 違ったきつい練習をすることにしています。

遠征費用は自費で負担されているのでしょうか、大変ではないですか

そうですね、遠征費として年間約100万円くらいかかっていたんですけど、東京マラソンの結果を受けて今 年は陸連に強化費用を出してもらえたので、お金の面では困らなくなりました。そういう意味では実業団の 選手との違いは、時間的制約だけになっていると思います。ただ、お金を出して頂いている分、責任が重く なったというか、一市民ランナーと一線を画した緊張感を持つことになっていると感じています。そういう 立場に選ばれた以上は誰をも納得させるコンディションとスキルで結果を出せる選手でいなきゃな、と。

東京マラソンの結果は様々な変化を生んでいるのですね。他に変わったことはあったので しょうか

東京マラソン以来、周囲には期待をしてくれる人たちがよりいっそう増えました。そういう方々のおもいに 応えつつ、また自分をもっともっと向上させたいという気持ちは強くなっています。世界陸上への参加も良 い経験になりました。今はまだ通用しませんが、更に力を磨けばいけるんじゃないか、という手ごたえを得 たんです。

本当に陸上がお好きなんですね。やはり走るのがなによりも楽しいということなのでしょう か

そうですね、走ることが全てですね。旅行などの趣味ももちろんありますが、走ることは出会いや、そこに 生まれる人間関係などすべてを与えてくれました。これからもずっと自分の限界をめがけて走り続けていき たいと思っています。

今回、市民ランナーとして成功された事で若い人たちの目標にされていくことになると思い ますが、そういう方々へアドバイスをお願いします

一つはやはり怪我をしないことですね。そしてもう一つは楽しくやることです。楽しくないと気持ちものり ませんし、気持ちがのらないと長く続きません。長く続かないと結果はついてこないですから。怪我をしな いことについても同様です。怪我をしてばかりでは長くは続かないし、なにより楽しくないですからね。こ の二つの基本さえ押さえていればきっと記録は伸びると思いますし、仮に伸びなかったとしても、後悔する ことだけはないと思うんです。自分は楽しいことをやってきたんだぞ、ってね。そういう気持ちを大事にし て、陸上に限らず向かっていってほしいと思います。
 

こんな意見も??

 投稿者:=  投稿日:2012年 8月15日(水)08時48分41秒
  オリンピックは出場することに意義がある、

と言われております。

結果は見るも無残な最悪なものであっても

オリンピックに出場した経験を経て

その後の人生に有意義な結果をもたらす、

という選手にとってはまさにその通りでありましょう。

しかし初めから出ると負け、

どころかその結果が日本人として恥しいものになることが

事前に分かっている能力を持つ競技に出場する選手などには

「お国の誇りのために別に今は出場しなくてもいいのではないか」

とついアドバイスを贈りたくなるのでございます。

マラソンのロンドン五輪代表の藤原新選手などもその口でございます。

これまで藤原選手の記録を世界のトップマラソンランナーと比較してみると

はるか50位前後と低いものでございます。

ケニアなどには藤原選手クラスのレベルを持つ選手など

30、40人はいるのでございます。

ケニアに行けば藤原選手など市民ランナーのレベルでございます。

ただオリンピックへの一国の出場枠が決められているせいで

藤原選手のレベルが50位前であっても出場することが出来るのでございます。

ケニア以外にもアフリカ勢特にエチオピアなど

とてつもない能力を持っている選手が目白押しでございます。

生まれつきの身体能力が違います。

かつて「天才」といわれた瀬古選手のレベルなら分かりますが

「努力の天才」レベルではどうにもならないのでございます。

これまで藤原選手は出場した大きな大会で優勝をしたことが一度もありません。

2009年のベルリン世界陸上では61位の成績を残しております。

「恥しいから出ない方がいいよ」と思っておりましたのに

このところの藤原新選手のレース場外での活躍が目覚ましいのでございます。

藤原選手は別名「プータローランナー」で知られていました。

応援してくれるスポンサーやチームが見つからず、

細々と自前の経費で走り続けてきたからでございます。

ところが2012年の東京マラソンでは2位に入り

400万円の賞金と憧れのBMWを手に入れました。

試合後に出たインターネットの番組では

一口数百円の個人スポンサーを募集し

三日ほどで満額の800万円を手に入れることにも成功しております。

またBMWからは新たに来年8月までの契約でスポンサー契約を取りつけ

新たに1000万円相当のBMWを手に入れております。

またミキハウスからは今後の活動資金の全額の提供を受けております。

そしてロンドンオリンピックまで後45日というこの時期においても

「練習」と「取材」のエネルギーの発散は別腹ですから、などとたばかって

アチラコチラのマスコミや著名な女性インタビュアーの取材を受けて

笑顔を振りまいているのでございます。

日本人はマラソンで一発逆転のドデカイことをやってくれそうと思い、

藤原新選手に期待を寄せているのですが、

マラソンではその一発逆転が絶対に無いことを熟知しているのが

ご本人の藤原新選手でございます。

居並ぶ世界の強豪を向こうに回して

ロンドンでは30位以内に入るのも難しいでしょう。

金メダル確実といわれる北島康介選手はこの時期雲隠れ状態でございます。

自分を徹底して追い込んでコンマ1秒に賭けていればこそ、

マスコミや世間に出てチャラチャラして見せる時間など

一秒もないことを知っているのでございます。

なぜ勝負の日まで二ヶ月を切ったといわれるこの時期においても

藤原新選手は日本においてマスコミに出て愛敬を振りまいているのでしょうか。

世間を舐めているからでございます。

もとより入賞できるなどツメのアカほどに考えていない藤原選手でございます。

たとえ結果が30位40位であっても試合後

「元プータローランナーがロンドンまで来てよく完走した」

と日本人は優しく迎い入れてくれるものと思い込んでいるからでございます。

日本のインターネット支援者やスポンサーに

「次のオリンピックこそ雪辱を期して頑張ります」

と言えば世間は許してくれるとタカをくくっているのでございます。

これまで授かった金品や有名税はロンドンのためではなく

これまでの自分の努力に対してと思い込んでいるのでございます。

藤原選手の頭の中ではロンドンは完全に終わっています。

まったく甘い考えの持ち主でございます。

かつて日本マラソンが黄金期を迎えていた時代、

日本選手は命懸けで走っていました。

東京オリンピックで見事3位に入賞を果たした円谷幸喜は

翌年自殺をとげました。

理由は体の故障のために走れなくなったからです。

両親にあてた手紙のなかに

「お父さん、お母さん、お許しください。幸喜はもう走れなくなりました」

としたためられています。

オリンピックの最終日に行なわれるマラソン競技、その試合終了後、

日本のファンやスポンサーに向かって、稀代のマラソン詐話師が

どんなホエズラをかいて見せてくれるのか楽しみでございます。

そして日本オリンピック協会は

出ると負けのマラソン選手しかいない現状をかんがみ

当分の間マラソン競技に選手を送ることを

自粛するよう真剣に考えるべきでございます。

藤原新選手のようにありもない一発逆転のパフォーマンスに乗せられ、

苦い思いをする純粋なファンの顔を見るのは二度とご免でございます。

 

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