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イワクラ信仰に関する徐福と秦氏の役割

 投稿者:maeda  投稿日:2009年 2月26日(木)09時59分7秒
編集済
  愛知県の東三河地方に居住する機会を持ったが、そのとき、当地に石巻山、本宮山、鳳来寺山という3神山があり、それぞれの山頂付近には巨大な磐座と天狗や鬼伝説があることを見出していた。この中、石巻山については、秋田県の大湯にあるピラミッド型の黒又山(クロマンタ)と同じく、周囲から遥拝の対象となった古代ピラミッド山であることを論証し、イワクラ学会論文集「イワクラ」(2005年6月、遊糸社発行)に掲載されている。
そして、この地域には、秦始皇帝の時代に不老不死の霊薬をもとめて、童男童女を含む技術者集団が大挙して、蓬莱国に渡ったという徐福伝承をもつ秦氏の末裔の存在が確認された。これらのことは、拙著・古代神都東三河(1996年4月彩流社発行)に記載されている。
 その後、神奈川県秦野市に住む機会を得たが、この地域にも相州大山を含む「蓬莱山」呼ばれた丹沢山系と徐福伝承をもつ秦氏の存在が確認された。しかも、大山や丹沢山系には、石尊神や、クルソン仏という石神信仰が存在していた。 また、大山山頂には、4千年前の祭祀遺跡が存在したことが、考古学者の発掘により判明している。大山中腹には、阿夫利神社から出土した古拙シュメール文字が記されたのではないかと言われる目型石が存在する。ペトログラフ岩ともよばれ、記された文字の中で、Ψ型の文字はゾロアスター教の聖なる動物である牡牛(ミトラ神)を表していると見られている。 目形石にはその他、歴史言語学者の川崎真治氏の解読によって、古代中国甲骨文字(父)やインドのアショカ王に関係するアヒルクサ文字、エジプトの象形文字(ラー:日神)が混在していることが判明している。 これは、現代風に表現すれば4カ国語の文字が記録されているのである(鈴木旭著「超古代文明の秘密」(1994年8月、㈱日本文芸社発行))。 即ち、シュメール系海人族が、地中海や中近東の周辺文化を携えて渡来して残した遺跡と考えられるのである。
 

秦氏

 投稿者:莽翁 寒岩(一笠一蓑一杖)  投稿日:2009年 1月28日(水)15時50分23秒
   ご存じな事をまた一件。
 http://www7a.biglobe.ne.jp/~mkun/nazo/nazo.htm の日ユ同祖論のところに秦氏のことが書いてありますが、私個人は、この説は荒唐無稽ではないかと存じております。
 メソニック協会は良く知っており、決して秘密でもなんでもない、古い歴史のある団体です。インターナショナルで、いろんな国をまたいでいますので、そういう誤解もありますが、宗教の信仰のある方々の自由な団体です。勧誘はしておりません。
 日本の社会事業の草分けの一つである、戦前からの団体を引き継いでいる、日本社会事業大学の図書館には、社会福祉に関する文献の自由な閲覧に供する、メソニック文庫があります。メソニックというのは、フリーメイソンのことです。石工(メイソン)さんの古い職能団体を基盤にしております。
 日本でも橋やお城、或いは石灯篭の建築にはそういう古い職能者たちの横のつながりがあり、秘密厳守です。お城の建築ですからね。
 

(無題)

 投稿者:莽翁 寒岩(一笠一蓑一杖)  投稿日:2009年 1月28日(水)15時38分11秒
   前田先生の論文とご紀行を拝読。ありがとう御座いました。
 もうご存じかとぞんじますが、同時に、http://kikitai.teacup.com/qa4662964.html に聖徳太子に関する記述がありました。関連するかと存じまして、一応記録のためにここにご報告申し上げます。
 

東三河の聖地探訪

 投稿者:maeda  投稿日:2009年 1月27日(火)10時58分24秒
   東三河の古代史を見直すグループができて、先日(1月25日)車を連ねて12名ほどで石巻山と本宮山を探訪するチャンスに恵まれました。
 石巻山では、石巻神社下社と中腹の上社に参拝し、不動院・コノシロ池などを巡りました。
 途中、賀茂町の照山北麓に移された「天地主大神璽」と彫られた石碑を訪問し、神霊を感じ、大坂神社に回ったところ、偶然にも地元神社の総代が現れ、神社の御祭神の説明をしてくれました。大坂神社は、天照大神の親が祭られているということで、「イザナギ、イザナミ神」が祭られていることが分かりました。その隣の社は「天王社」だそうですが、神武天皇を隠し祭るところのように思えました。
 次に、八名井・一鍬田に架かる橋の欄干に建てられた天照像を拝観しましたが、この像は、瀬戸市の西山自然博物館「卑弥呼の里」で祀られている邪馬台国女王「卑弥呼」の絵と同じものでした。
 そして、三河一宮砥鹿神社奥の院のある本宮山へ。
 本宮山山頂では、まず、岩戸神社を参拝。と言っても、大きなイワクラの下方部に降りて、岩陰の岩戸に祭られた神を拝むわけです。女坂を下りたあと、男坂を登るのですが、鎖を張った岩壁をよじ登る極めて危険なコースでしたが、全員無事通過でした。
この岩戸の上に巨大な磐座があり、国見磐と名づけられていました。現在は、天の磐座と表示され、大己貴命が、眼下の平野を見まわして穂の国を治めたと記載されています。豊葦原瑞穂の国は、この地にあったことが分かるわけです。
 最後に、砥鹿神社奥の院の参拝です。途中、富士山遥拝所というところがあり、丁度快晴のこの日、白雪を被った富士山が見事に眺められました。東三河と富士が繋がったこの日でした。
 砥鹿神社のトガの名の由来はいろいろ説があります。豊川説、平原説などがありますが、「神の始めの神」が現れたという伝説があることからすれば、トオカミエヒタメのト神のことを指すのではないでしょうか。或いは岩戸神社の「戸」の神ではないかと思う次第です。
 いずれにしろ、古代神都・東三河の岩戸が開かれた一日だったと思われます。
 

東三河地方と聖徳太子(6)

 投稿者:maeda  投稿日:2008年 8月14日(木)10時57分52秒
  5)勝鬘経について
  法王帝説に、戌午の年(598、推古6年)小治田天皇、上宮王に請はせて、勝鬘経を講かしむ、とある。  三河多米郷の徳合長者が、聖徳太子の説教を聴きに行ったという伝承があることから、598年の勝鬘経は多米王・聖徳太子が東三河で講じたものであろう。
6)桐生山(鳳来寺山)のこと
  推古10年(AD602)三河の国桐生山(鳳来寺山)に巨大な異鳥がおり、偶々3尾捕まり、(天皇に)奉じられた。豊聡皇子31才は、これは鳳凰である、と奏上した。(尾参郷土史)。聖徳太子が、黒ぶちの駒に乗り、桐生山に飛び来たった(鳳来寺山縁起)。
  これらのことは、いずれも三河の出来事である。

7)秦氏とのつながりについて
  聖徳太子と強い関係のあった秦氏は、秦の始皇帝や徐福の後裔と考えられる。豊橋駅西は羽田町と呼ばれ、羽田氏の勢力の強いところである。聖徳太子から弥禄菩薩像を譲り受け、京都の広隆寺に安置した秦河勝も信州や関東に活躍地があり、東三河にも拠点を持っていた可能性がある。小坂井の菟足神社には、河勝の長男・石勝が天武朝に逗留したことが伝えられている。平井から現菟足神社に遷宮した地元の豪族ともつたえられている。

9.聖徳太子の思想
豊橋には、神社が多いこともさることながら、仏教の寺院が異常とも云えるほどに多い。
  八名郡には、150程の寺院があったが、60は廃寺となって消滅したと八名郡誌に書かれている。中には、太陽寺とか大知波廃寺など大型寺院群が廃寺になっている。
いわば、東三河は奈良、京都に負けない位の寺院をもつ、仏教王国になっていたのである。
  聖徳太子の思想は、「和を以て貴しとする」十七条憲法の外に、神道・仏教・道教・原始キリスト教、神仙思想など日本の精神性を形成する原点となったと思われる。

10.東三河の古代史の見直し
 東三河の資料を見直すと、鳳来寺が、推古天皇の勧請によるものであること、また、聖徳太子が来訪したとの伝承があることが判明した。一方、聖徳太子ゆかりの寺院、地名が多い土地について、奈良、京都のほかに播磨、滋賀、東三河に濃い分布があることを確認できた。聖徳太子の御児・山背大兄皇子が、蘇我入鹿に襲撃されたとき、家臣の三輪氏が、東国の乳部(みぶ)で、軍を整えて戦ってはどうかと進言したところ、山背皇子は、そうすれば勝つであろうが、自分のために人を死なせたくないとして、一族全員が自決されている。 東国の乳部とはどこかということであるが、筆者は、東三河の新城・千郷の壬生または、八名郡の美扶、石巻地域を想定している。
 そこで、東三河にある推古朝以前創立の仏教寺院と、聖徳太子自彫の像を持っていたと伝える寺を探ったところ、多数存在することが判明した。
推古朝以前につながりをもつ可能性がある仏教寺院が多数存在し、東三河で初期仏教王国を構成していたことが考えられる。

11.おわりに
聖徳太子を慕って、仏教の振興を図るために、日本に渡来した鑑真和上が、豊橋市多米町に有ったといわれる「萬象寺」に掛錫されていたことは、多米の地が、聖徳太子ゆかりの地であったことを示唆している。「隋書倭国伝」の記事に該当する「日本書紀」の記事では、輩世清は大唐の使人となっており、到着した海岸は、難波で都に近く、大郡というところである。そこに新居館を造り止宿し饗応を受けたことになっている。東三河の御津町の佐脇御所の南には、唐人池、都、大郡、などの地名が残っている。
 東三河の古墳、遺跡には、5-7世紀金銅製の金ぴか製品が多数出土するのも、これらの反映するものであろう。
 聖徳太子は、和を以て尊としとする21世紀の弥勒の世の到来を預言した、救世観音の顕現とみることができる。
 

東三河地方と聖徳太子(5)

 投稿者:maeda  投稿日:2008年 8月14日(木)10時56分9秒
  聖徳太子に対する新仮説
 厩戸の皇子・上宮聖徳太子の腹違いの兄は、多米王といわれた。真の聖徳太子は「多米王=アメノタリシヒコ」であったと考えられる。
1)倭王タリシヒコとは
「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す、つつがなきや、云々」   これは、隋書倭国伝に記された、倭王の隋帝に宛てた国書の挨拶文である。大業三年(推古15年、AD607年)のこと、倭王多利思比孤タリシヒコ が、使い小野妹子を遣わして、隋に朝貢したときのことである。日本国が隋( 中国) と対等の国交を始めた象徴的文言として、日本では国威を発揚するに大なる効果があった。  しかし、陽帝はこれをみて悦ヨロコ ばず、外相の鴻櫨卿 に命じた。「蛮夷の書は、無礼なところがある。再び以聞( 天子に申し上げる) するな」と。 それにも拘らず、陽帝は翌年(AD608) 文林郎輩清( 輩世清ハイセイセイ) を倭国に遣わした。このとき大臣・小野妹子が同道した。(㈱オノコムと関係?石巻小野田?)
尚、アメノタリシヒコは、天つ国を治める葛城系大王・首領を意味するのであろう。
2)並立する倭と日本
  唐の正史である「旧唐書」には「倭国」と「日本」が別々に登場し、後漢以来の歴代の王朝と交流があったのは「倭国」であり、日本とは倭の別種、或いは倭の地を併せた新興の国であると明記した。
旧唐書の倭国の条と日本の条の要点を拾いだしてみると次のようになる。
倭国の条
① 倭国は古の倭奴国(ワノクニ)
② その王の姓は阿毎氏
③ 貞観5年使いを遣わし方物を献ず。
日本の条
① 日本国は倭の別種。
② その国、日辺にある故をもって名となす。
③ 或いはいう、倭国自らその名の雅ならざるを悪み、改めて日本となすと。
④ 或いはいう、日本、旧小国、倭国の地を併せたりと。
  以上で重要なことは、「旧唐書」では、日本国は倭の別種すなわち、倭の分かれであると記してあることである。また日本は元は小国であったが、倭国の地を併合したともある。 とりわけ、倭国の領土と日本国の領土は違った所にあり、2つの国が並立していたといっている。
3)2人(3人)の役割を合わせた聖徳太子
聖徳太子は謎が多く、いろいろな説が出されており、そもそも、聖徳太子などは居なかったなど、百花繚乱である。「ふたりの聖徳太子」(関口昌春著)によると、「聖徳太子に多米王という兄がいた・・」とあり、さらに日子人太子が推古の末娘「ユミハリ王」を娶り、2人の子をもうけている、とある。  東三河豊橋には、多米郷があり、その東には、浜名湖との境界をなす、弓張ユミハリ山系があるのである。
「ふたりの聖徳太子」の要点は、通常知られる聖徳太子は、多米王といわれる兄の太子と上宮の太子といわれる弟の太子の二人がいて、聖徳太子の伝承の数々をつくってきたというところにある。
開皇20年(推古8年、AD600)、倭王が隋の文帝に使者を遣わしたとき、文帝の役人が倭国の風俗を訪ねた。  使者がいうには「倭王は天を兄とし、日を弟としている。天がまだ明けないとき、出掛けて政を聴き、あぐらをかいて坐り、日が出れば、すなわち理務をとどめ、わが弟に委せよう、という」と答えた。
これを解明すれば、兄は天帯日子(アメノタラシヒコ) で天子であり、弟は日子人(ヒコヒト)太子で日子であったのであろう。  兄は東三河にいた本家倭国の倭王である。一方弟・上宮の太子は蘇我の馬子や推古天皇と共に、本当に奈良の上宮に居られたのかも知れない。
4)倭王アメノタリシヒコたる聖徳太子
聖徳太子・多米王は本当に東三河に居たのだろうか。  多米王は豊浦トユラノ皇子ともいう。即ち、海隅に居られた方である。 多米は豊橋市の中央東部はずれにある。古代には多米郷はもっと広く、東田神明社も多米に含まれていたという。
東三河は豊の国であったと思われる。つまり豊浦は豊川に面した海岸、石巻町高井・玉川から神ケ谷・金田の地にあったと推定される。金田町に上浦、西浦の地名がある。国隠という地名もある。
多米には、由緒ある寺社が多く、徳合長者が居たという伝承がある。徳合長者は聖徳太子の勝鬘経の講を聞きにいったと伝えられている。
多米王は多米を地盤とする母の子と考えられ、多米王の母は蘇我馬子の兄弟で稲目の子石寸名郎女、多米王はこの母と橘豊日皇子( 用明天皇) の子である。 新撰姓氏録には、蘇我稲目の氏族に、石川、矢口、久米、川辺などがあり、東三河に多く分布している。
 

東三河地方と聖徳太子(4)

 投稿者:maeda  投稿日:2008年 8月 9日(土)11時31分53秒
  7)石巻村=神々村と呼ばれた根拠
  この古文書には、神代の神々、古代天皇、法王様が石巻村=神々村におられたことを記しており、その証拠能力は高い。 齊明天皇が来られていたことは、天武天皇の出自にも関係し重大事である。別資料によれば、齊明天皇は石巻神社に佳田50束を奉じたとされている。
8)鞍作鳥関連地
 聖徳太子の彫像を彫った、鳥仏師は、千郷・野田市場に在住し、彫像作りを行ったといわれ、その跡が、鐘鋳場という地名として残っている。 鳥仏師(地名):字野田市場89番地、氏は鞍作、鳥は名である。仏師なる故、世に鳥仏師と称した。梁の帰化人で推古天皇の御代大和に住した一族が鍛冶匠と共に来住して仏像を造ったのである。永正の頃鍛冶工の退出に際し、残って田畑の鳥追い役を命ぜられた。奈良・法隆寺内の中宮寺に白布で捲かれて封印されていた救世観音像は、鳥仏師作とされる。
9)山背の大兄皇子の東国壬生関連:千郷村の稲置壬生公
 成務天皇5年、県・邑を定め、国造を置いた。麻野県主は、土居氏で紀の国の人で、稲置壬生公である。垂仁天皇の皇子・鐸石別(ぬてしわけ)命の孫が稲置壬生公であり、日本武尊の従兄弟ということになる。壬生は、聖徳太子の子・山背の大兄皇子が、蘇我いるかに攻められたとき、生駒山に逃れて、挽回するならとの、家臣の三輪公との会話で、「もし東国壬生の国に戻り、兵を集めて戦えばきっと勝つだろう。しかし、自分の保身のために、殺生を起こしたくない。」といって、斑鳩寺で自ら一族もろとも火の中で滅びていった。
10)多米町の萬象寺:鑑真渡航と聖徳太子の謎に関連して
東大寺を建立の時、聖武天皇に戒位を授けるために、唐の高僧「鑑真」は、5度の渡航失敗、果ては両目失明にも屈せず、12年目にして、ついに渡海に成功した。その鑑真が、掛錫(かしゃく=禅僧などが修業のために寺に逗留すること)したといわれる寺が、豊橋市多米町の萬象寺であったと三河国総国風土記に載っている。
 「東征伝」(鑑真伝)によると、鑑真の日本渡航の真の理由は聖徳太子の国だからという。
唐大和上「東征伝」は、鑑真の弟子「淡海三船」の書とされるが、その詳細な著述は、山陰道使・三河守を歴任して都にいなかった三船によるものである。鑑真が三河・多米の萬象寺に、掛錫したということも、まんざら根も葉もないものとはいえない。多米の徳合長者が、聖徳太子の勝蔓経の講義を聴きにいったという伝承もある。鑑真は、その真の聖徳太子を偲んで日本渡航をされたのが真相のようだ。
 

東三河地方と聖徳太子(3)

 投稿者:maeda  投稿日:2008年 8月 9日(土)11時30分15秒
  東三河の聖徳太子伝承
 八名郡誌に「石巻神社の創建は孝安天皇の御宇とも、推古天皇の御宇、聖徳太子のご建立ともいふ。」とあることから、東三河が聖徳太子の事績を有していることは疑えない。
 東三河に存在する太子に関連する寺社と金石文および伝承、書籍を列挙してみる。
1)黄金大師を祀る寺
石巻山の西に中尾山・広福寺があり、そこに、黄金大師と十一面観音が祀られている。
 黄金大師は、欽明天皇の娘・間人皇女の口から飛び込んで、聖徳太子が生まれたという。2)蘇我物部戦関連の伝承地
聖徳太子が隠れた田:蘇我・物部戦で聖徳太子が三河まで逃れてきて、夕顔の畑に引き入れて助けてくれた土人に、太田という姓を与えたという伝承がある( 尾参郷土史)。太田は太田神社と共に豊橋北部石巻町神郷にある。
3)聖徳太子伝承をもつ寺
 ①聖眼寺:豊橋の下地にあり太子堂は行円上人が聖徳太子の夢想のお告げで立てられた。
聖徳太子が寺の大きな椋の木のほこらに隠れたという伝説と関連。大聖勝軍寺の大きな椋の木に隠れたという伝説があり16才の太子像があるという。聖眼寺にも椋の木があり、宝物の古い16才の太子像があった。
 ②正大寺:牛川、聖眼寺の末寺。伝聖徳太子自彫の2才太子像がある。
 ③円忠寺:暮川、聖眼寺末寺。聖徳太子自彫の像、大木村から。
 ④作手の金輪山善福寺  推古朝 聖徳太子草創の伝承、日本武尊ゆかり
 ⑤御津の広石山浄宝寺  本尊は聖徳太子の御作
4)石巻神社は聖徳太子の建立との伝承
八名郡誌の「石巻神社の創建は推古天皇の御宇、聖徳太子のご建立」ということを裏付けるのは、東光寺前立石碑で、これはかつて石巻神社里社西部の境内にあった物である。
5)石巻山麓・東光寺前石碑文
豊橋市東北部石巻山の北麓・神郷にある湯王山・東光寺の南面の地にある立石碑文は
    「天国峰之権主安楽坊  字茂敬行順  頗深選深山岩岳  不厭風雨雪霜  ・・・                顕金光書萬徳  我慈総  ・・・ 法主以言  桜雨天在  金二解来雷雪  季春中  況吉辰
    不能辞  故充供類遠代              湯王山物源誌     」
即ち、天つ国峰の権主・安楽坊・茂敬行順という人が、石巻山で行を積んで金光妙経の写経をつくり、幾万人に徳を施した。それに、慈総や法主が念じた言葉が刻まれている。
この立石は湯王山東光寺が僧”慈総”や”法主”と関与されていた貴重な証拠である。一方、法主は、聖徳太子が法主と呼ばれていたことを考えると、この立石は神郷が聖徳太子に関係していた証拠史跡であると考えられる。
6)東光寺「巨細取調帳」
  石巻町神郷にある東光寺の”かもい”から1995年に発見された東光寺「巨細取調帳」は、作成明治2年12月であるが、官の調査に対して、寺側が正式に回答したものである。
巨細取調帳     参河国八名郡神々村 湯王山  東光寺の由来書
抑も 此の土地は  大巳貴命  少彦名命  須勢理姫命  三柱之御神  御逗留の節、
  当山に少彦名命御留座あり、大巳貴命は 御恩を報じて蒼○なすものの病を療したもう。 ・・・  齊明天皇(654)  文武天皇(701)  延喜(醍醐901) 天皇  御調の節は、別段の御調(みつぎ)は御座なく候。久寿二亥年(1041?) 温泉湧出し、諸人の憂を救せ給うこと、誠に不思議の次第なり。  玉(白)川法皇様御入湯  御極幸有りて  御脳御平愈  健になられたまふ 云々
 

東三河地方と聖徳太子(2)

 投稿者:maeda  投稿日:2008年 8月 8日(金)11時08分9秒
編集済
  資料からみた聖徳太子観の変化
 太子研究は、分類すると「人間聖徳太子研究」と「聖徳太子信仰」に分けられる。
 人間「聖徳太子」の研究で、一つ一つ分析を加えていくと、玉ねぎの皮を剥ぐように、どれが芯か分らなくなってしまう。客観的な研究は、太子信仰の研究しかない。
 近代史学による太子研究は、従来の平安時代の「伝暦」を主要典拠として行われていた状況から脱却し、根本資料を見極める史料検討から開始されている。 戦後は徹底した太子批判が一時提示されたが、その後新生民主主義国家・日本の文化人の代表のような評価が与えられ、紙幣にも肖像が採用された。
しかし、21世紀に入ると、再び太子否定論が展開され、太子研究が活況を呈した。大山誠一氏などは、用明天皇の皇子として厩戸皇子という蘇我系の王族がいたこと、その皇子が推古9(601)年に斑鳩の地に宮を造営し、以後そこを居所としたこと、その後近くに斑鳩寺を建立したこと、それ以外の記事は殆ど信じられないという。ただ、太子否定論者の史料批判は極めて大ざっぱなもので、充分な説得力をもつとは言えない。
 

東三河地方と聖徳太子

 投稿者:maeda  投稿日:2008年 8月 8日(金)11時05分48秒
   石巻山は、謎の古代史発見の入口であった。東三河の豊川右岸・八名郡の誌書「八名郡誌」には、「石巻神社の創建は、孝安天皇の御宇とも、推古天皇の御宇、聖徳太子のご建立ともいふ」。その地に、聖徳太子伝承が多く残っている。聖徳太子には、東三河の地名を名にした多米王(兄)や弓張王(従妹)などに親族がいた。また隋書に記された、アメノタリシヒコと小野妹子との関連が気になる。本日は、聖徳太子の概略紹介の後、東三河との関連を、仮説を交えて紹介してみたい。

聖徳太子は、かつての1万円札など、紙幣の顔として馴染み深い。推古天皇の皇太子として、冠位十二階を制定し、憲法十七条の草案を作られたという。その略歴は次の通り。
① 穴穂部間人皇女が夢に金色の僧を見て懐胎した。
② 穴穂部間人皇女が厩戸の前で太子を出産した。
③ 16歳、太子が物部守屋との戦いのとき、四天王に戦勝を祈願。
④ 24歳、一度に十(八)人の訴えを聞き分けた。
⑤ 27歳、太子は黒駒に乗って富士山まで駆け上った。
⑥ 42歳、太子が大和の片岡山で飢人に出会い紫包を与えた。
  推古12年、AD604皇太子憲法17条を制定。(写が臨済寺恵日に?)
 聖徳太子は「未然記」や「未来記」を著し、現代の渾沌末世現象と弥勒の世を予言した。

太子の遺訓的な言葉には、
① 世間は虚仮(こけ)にして、唯仏のみ是れ真なり。
② 諸の悪をな作(せ)そ。諸の善き奉(わざ)行へ。
③ 17条の憲法
1)和を以って貴しとし、逆らうこと無きことを宗とせよ。
2)篤く三宝を敬え。(仏、法、僧)。
17)事は独断すべからず、必ず衆と共に宜しく論ずべし、などがある。

聖徳太子に対する見方の変遷
1)太子は仏教の保護者であり、最大の功労者として「法皇」とか「聖王」と呼ばれていた。やがて、太子を観音の化身とする信仰へと発展した。
2)江戸時代になると、国学者や儒学者から、蘇我馬子の崇峻帝暗殺を抑止しなかったことで批判されることになる。
3)明治5年ごろから、法隆寺に伝来していた寺宝に対する価値観が高まり、太子への非難が一掃され威信が回復された。
4)昭和5年(1930)に太子の姿が百円札に登場した。
第二次大戦後の日本を平和国家として再建するために17条憲法第1条「和」の提唱者・平和主義者・文化的な人物としての新しい太子感が形成された。
 

古代史から現代史へ

 投稿者:M  投稿日:2008年 8月 2日(土)11時28分18秒
   2008年も半ばを過ぎて思うところを少々。
 古代史の研究は、それだけに完結すべきものではないと思います。
 日本の近代史については、様々な論がでておりますが、今後の歴史形成に関しては、従来の自虐的歴史観でも、日本至上(高)主義的歴史観でもない、真実の日本の成り立ちを踏まえた和の精神からなる世界の主体となる歴史構築ではないでしょうか。
 特に、今後は従来の唯物史観にもとずくものではなく、スピリチュアリテイーを統合する役割を果たすべきではないかと思います。
 世界の中での偏見、差別をなくし、宇宙的存在として活動しうる社会を築くことに、主体的に関与していくことではないかと思います。
 世の中は大きく変革される時代です。新たな史観に基ずく現代の歴史構築について、考えるべき時期に来ていると思われます。
 

羊頭狗肉

 投稿者:莽翁 寒岩  投稿日:2008年 7月24日(木)09時20分16秒
  「平成の黙示録」は内容的にここのもんだいではないように存じました。
 ほかでお会いできれば、看板ちがいではないでしょうから、もっと理解と同情ができたと存じますが。
 

所 違い

 投稿者:莽翁 寒岩  投稿日:2008年 7月24日(木)09時17分9秒
  「平成の黙示録」を、多忙な時間をさいて拝読しましたが、この掲示板では関係があまりないように存じました。
 結果としては訪問者に、羊頭狗肉の経験をさせるのではないでしょうか。
 ほかの看板のところでお会いすれば、同情と理解がもっとできるのではないでしょうか。
 

test

 投稿者:ma  投稿日:2008年 5月28日(水)10時32分53秒
  test  

富士山と徐福をつなぐ情報

 投稿者:maeda  投稿日:2008年 4月21日(月)11時04分25秒
  富士山と徐福をつなぐ情報
(土橋寿氏資料「徐福さん・伝承地にみる徐福像」ほか参照)
1.義楚六帖(958)
 「義楚 曰く。 日本国また倭国と名づく。(中略)山ありて、富士と名づけ、また蓬莱と名づく。(中略) 徐福は此に止まり、蓬莱といえり。今に至るも子孫皆秦氏という。」  情報源は、日本の僧 弘順大師と記述している。 弘順はどうして富士山を特定し、姓氏まで特定できたのか疑問がのこるが、考えられるのは富士吉田市内に現存する古代文書「宮下文書」である。

2.宮下文書
宮下文書は、富士吉田市大明見の宮下家に相伝される超古代文書である。
 一般的には「富士文献」とか「寒川文書」と呼ばれている。
①その要点
「考霊天皇の御代、富士山麓へ渡ってきた徐福が村人たちから、土地に伝わる口碑を聞き、その重大さに驚いて、これを採録した。「神世実記」「神都実録」「イザナギ・イザナミ尊一代記」などに集大成し、「徐福十二史談」を根幹とする超古文書の資料群である。
②一端
「紀元前28世紀ごろ、支那震旦国の炎帝神農(黄帝の父)は、五男の農佐を日の本の島に遣わして、富士山麓に国を拓いた。「富士山高天原朝史」である。
 徐福に口碑を伝えた村人たちは、超古代に中国から渡来した農立(国常立尊)と農佐(国佐槌尊)の末裔たちで、代々世襲して文字を伝えていたという。後年、人皇初代の神武天皇はこの家系を、36神戸と定めて尊号を賜ったという。
 大国主命、猿田彦命、手力男命、武甕椎命などの神々である。
 徐福に同行して来麓した558人の克明な氏名記載もある。弘順の陳述した「秦」姓との係わりも大きい。
③宮下文書の故事来歴
天災、人災、時の権力から逃れて、隠蔽などの受難の繰り返しが窺える。
 徐福の編纂した「十二史談」は富士山の延暦大噴火(800)の際、相模の寒川神社に疎開し、建久3年(1192)に、宮下家49代・源太夫義仁が写本した。この間約400年間は、富士山を留守にしていた。
 寒川の原本はその後、洪水により流失して、今はない。
 写本が里帰りした後は、「みだりに開くべからず。もし開かば明を失すべし」と密封されていた。
明治16年(1883)に開封されるまで、門外不出の秘経として、天井裏に秘匿されていた。
弘順の生存時代には、相模に存在していたことになる。

3.鶴になった徐福
 宮下文書の宮下家から約2Kmのところにある下吉田に、西本願寺派の古刹福源寺がある。
 その境内に、鶴塚(寛政11、1798建立)があり、徐福のゆかりを伝えている。
境内に鶴塚あり、碑文にいう。「峡州に鶴郡あり。その地、南は富岳の跡に接す。相伝える。孝霊帝の時、秦の徐福、結伴して、薬を東海の神山に求む。ここに至るに、福壌なりと、遂に留まりて去らず。後に鶴三隻あり。恒に遊びて郡中に止まる。時の人以て福等の化する所となす。郡の由て名づくる所なり。」(淡海の高僧・六如による要約)

4.河口湖北部・浅間神社徐福碑(波多志神社小祠)
 小祠の中に、石柱があり、徐福碑として祀られている。 徐福は、陽石として祀られることが有るようである。 中国連雲港市の徐福村の徐福記念館境内にも同様の陽石が立っているのを、筆者は確認している。

5.藤沢市・妙善寺の福岡家墓碑との関連
 妙善寺の福岡家の墓碑については、徐福研究家の奥野利雄氏が、その著書「ロマンの人・徐福」(H3年4月発行、p119)に取り上げられている。その内容は、口語訳すると、
「故人は、いみ名を粛政と称し、俗名を正兵衛という。 その祖先は、秦の徐福から出ている。 徐福は、始皇帝の戦乱を避けて海を渡航し、我が神州(日本)まで来て、富士山の周麓に(処を選んで)下り住む。それ故、子孫は皆、秦を姓とした。福岡を氏(うじ)と為すものは、また、徐福の一字を取ったのである。 且つ、近くの地に秦野の名があるのは、粛政の一族の旧蹟に係るものらしい。これは、祖先の地を明らかにするに十分である。我が子孫は、そのことを永く記憶し忘れてはならない。」
  天文二三年甲寅(1554年) 一月十一日
  福岡家累代の墓 福岡平一郎(明治20年、熊野速玉大社参詣)
これによれば、福岡家は、秦の徐福の子孫であり、渡海して富士山麓に住み着いたのち、秦野に移り、後に、藤沢に移り住んだということが伺える。
尚、「富士古文書」によると、福岡姓は徐福の長男・福永の家系ということである。福岡家の先祖、故秦太郎可雄(応永二六年巳交=1419)は、秦野市今泉村「光明寺」に葬られたと伝えられている。「秦徐福後孫秦太郎蔵人可雄十七世」という位牌があるという。
1419年時点で、秦氏を姓とされていたことは、貴重な情報である。
光明寺は、既に廃寺となっており、近隣で縄文遺跡発掘がなされた「大岳院」に移された。旧光明寺跡には、大堂などの地名が残っており、旧石碑の破片が存在している。
今泉村は、近世、鵜殿氏の知行地である。
三河牧野氏の伝える「牛窪密談記」によれば、徐福一行の子孫の姓として、鵜殿氏があるとの記載がある。したがって、秦野市今泉の秦氏は、徐福に関係あることは、大いに頷けるものであった。鵜殿氏は、紀伊熊野、三河などに居城をもつ武家で、古代豪族の後裔と考えられる。

6.富士山麓と相模秦野の徐福つながり
富士山麓の徐福伝承によれば、山梨県南都留郡山中湖村沖新田地区には、徐福の子孫の秦(はた)一族が住んでいたが、1170年前の延暦19年(AD800)の富士山大噴火で、今の神奈川県秦野市に移住したと言われている。
 岩田氏の「秦野の伝説」の「からこさんと金印」には、次のように記されている。
昭和49年9月24日の毎日新聞の夕刊に、「伝奇始皇帝の‘金印’富士山麓で見つけた」という記事が載った。山梨県側の富士山麓の畑から中国の大変古い印鑑が出土し、地元の郷土史家が飛び上がるほど興奮しているという。 富士古文書(平安、鎌倉時代)が教える言い伝えが正史に組み入れられるかもしれないからである。
「秦の始皇帝の命を奉じ、徐福の一行が富士山に不老長寿の薬草を採りに来て住みついた・・・。」印鑑と徐福の結びつきが、もし立証されたなら、日本最古のものとなる。
富士吉田市明見の宮下義孝氏方に所蔵されている富士古文書には、「始皇帝は、徐福ら
558人に、蓬莱の国の不二の山に、不老長寿の薬草を採取してくるように命じた」ことを記し、中国の古い歴史書「始皇本記」にも、同様のことが書かれている。
郷土史家の渡辺長義氏は、徐福らが住みついたところは、印鑑発掘の場とみて、大胆な仮説を立てた。
「富士山麓・沖新田地区は、徐福の子孫の秦(はた)氏一族が住んでいたところであるが、1170年前の延暦十九年、富士山大噴火で、いまの神奈川県秦野市に移住した。 金印は、おそらく徐福の一行が持ってきたのではないか。
秦野市に移るまでの徐福の子孫らは、富士山麓で漢字を広め、古事記、日本書紀が作られる前までの日本古代史をまとめた。それらを伝える富士古文書は、富士山麓‘高天原’説を伝えている」と。
そうだとすれば、富士山麓に住み着いた徐福の子孫は、富士山の大噴火のために住めなくなり、丹沢山を越えて相模の秦野にやってきたことになる。
                                   以上
 

徐福と日本神話の神々

 投稿者:maeda  投稿日:2007年12月19日(水)10時19分33秒
  徐福フォーラムin神奈川では、徐福は日本神話の中に、名前を変えて記録されているという意見がだされました。どの神様かは明確にされませんでしたが、既に以下のような説があります。

1)天御中主神  インターネット情報で、徐福=天御中主説が展開されていた。
2)スサノオ命  羽田武栄氏「徐福ロマン」スサノオは鮮卑語でsuchunum(雲をつきぬく)という語があり、イズモ・出雲を漢語で速読すると「秦」という音になる。スサノオは中国から来た東夷の英雄の一人であり、徐福の衆徒にかかわるという。
3)神武天皇  「神武天皇=徐福」論は、香港、台湾の学者によって唱えられている。九州に上陸滞在のあと、瀬戸内海を通り、紀伊熊野に上陸したという伝承は、共通点が多く、興味深い説では有るが、時期的背景がことなっており、厳密には当てはまらないと思われる。しかし、象徴的な仮託の可能性はある。
4)大山津見命(大山祇命)徐福説
   佐賀県金立山金立神社と千葉県沼南町大井福満寺との類似性
   東三河の神山・石巻山の神社のご祭神に大山祇命が入っているが、この山麓に徐福伝説が多い。大山祇尊は徐福を反映していると思われる。
5)ニギハヤヒ命徐福説
工藤憲男氏「歴史研究373号」(徐福はニギハヤヒ)
 物部氏の祖はニギハヤヒ命であるが、物部氏の一族小市国造によって「大山祇神社」が創建されたと伝えている。(先代旧事本記考、大野七三著)
6)熊野権現  三重県誌では、熊野権現は徐福
 熊野速玉男神 =熊野権現=徐福、木像
7)イザナギ神  牛窪記、イザナミ神と徐福を併記

 物部氏を祭る神社に、伊予の大三島の大山積神社があります。
 大山祇命は、徐福を反映しているというのが、当方の持論ですから、物部氏と徐福集団は、重なってくるようです。
 物部氏も、九州に根拠地を設けたあと、瀬戸内海に広がり大和に定着し、三河や関東にひろがっているので、まさに徐福集団の可能性がありそうです。
 物部氏の後を追って、神武一行が大和にはいるのですが、神武一行も、物部氏と同族との説がだされていますので、遅れて九州南部から、畿内に、はいったのでしょう。
 日本の弥生時代の歴史は、物部氏から始まるようですが、今まで隠されてきた「徐福」一行が、形成してきた可能性がありそうです。
 面白いことに、東三河は、徐福伝承をもち、大山祇命を祭りながら、物部氏の祖・ニギハヤヒ命を祭っているのです。
 三河や尾張に物部氏の王国を作っていたと安本美典氏は言っています。
 いよいよ日本の歴史の主体(正体)が,わかってきたような気がします。
 

神奈川と徐福

 投稿者:maeda  投稿日:2007年12月14日(金)11時03分28秒
  5.日本の徐福情報と仏教そして相模国(神奈川県)
 釈義楚の『義楚六帖』によると、顕徳五年(958)日本僧弘順大師が、「徐福は各五百人の童男童女を連れ、日本の富士山を蓬莱山として永住し、子孫は秦氏を名乗っている」と伝えたとある。当時日本では、徐福の求めた蓬莱山とは富士山を指し、徐福はこの日本に上陸したのだという説が語られている。徐福の得た「平原広沢」が日本であると指摘した中国初の文献である。その「城郭・日本」という部分に、「日本国は別名を倭国ともいい、東海の中にあり。秦の時、徐福は五百の童男と五首の童女を率いて、この国に止まる…東北千里あまりに山あり、富士と名づけ、別名を蓬莱という。三面は海となり、その山は峻険で、一朶として上に聳え、山項に火が燃える。日中には、諸宝が流れくだり、夜には逆に上がる。常に音楽が開こえ、徐福はここに止まる。蓬莱という。今にいたるも、子孫はみな秦氏を名のる…」とある。一方日本国持念弘順大師賜紫寛補は延長五年(927)に寛建の従僧として渡海した真言宗・密教の僧侶だったらしい。
日本人として最初に、真言密教の奥義を究めたのは、弘法大師空海(774-835)で、空海は、15歳の頃、論語・孝経・礼記・春秋左氏伝や、儒教的な「経書」以外の道教的な「緯書」も学び、神仙や陰陽道など雑多な関心をもっていた。華厳経や雑密(ぞうみつ)に関心が深めたが、東大寺の別当となった良弁(ろうべん)がこの雑密の修行者である。
相模国大山寺縁起によると、大山寺の第三世は、真言宗の開祖・弘法大師であるという。大山山頂の本尊を石尊権現と名づけられたのもこの頃と推定されている。
大山阿夫利神社の由緒書によれば、神社創立は、今から2200余年以前(徐福渡来の時期に合致する)の人皇第10代崇神天皇の御代であると伝えられている。古来より大山は山嶽神道の根源地であり、別名に雨降山、古名を「大福山」と呼ばれていた。大山祗神は、またの名を酒解神(サカワケノカミ)と言い、酒造の祖神としてもあがめられている。また、生活の資源、海運・漁獲・農産・商工業に霊験を示されるということは、徐福の特徴をよく反映している。このことから推定すれば、真言宗僧侶の弘順大師寛輔は、弘法大師の教えを受けて、日本の徐福伝承の情報を得た可能性がある。それも、相模大山寺の住職経験をもつ弘法大師が、秦野において「徐福伝承」を聞き知ったことに、原因がありそうである。特に、大山寺の開山は、良弁僧正である。良弁は秦氏であるとの情報もあり、良弁を通じて秦氏のもつ徐福情報が、弘法―弘順と伝わり、中国の后周の僧・義楚「六帖」に記載されることになったと考えられる。

6.まとめ (日本における徐福伝承の流れ)
秦野には、秦始皇帝に不老長寿の仙薬を勧めた方士徐福が、蓬莱の島を求めて日本の紀伊の熊野に落ち着き帰化し、その子孫が富士山麓に土着し、延暦19年(800)に富士山の大噴火が起こり、大きな被害を受け、やむなく秦野に移住したと伝えられている。
神奈川県の徐福伝承は、これら秦氏の流れ、山岳神道や熊野修験道および弘法大師開創の真言宗や臨済宗を中心とした仏教展開の流れにのって、古代から伝わっていたことが考えられる。
九州(串木野、日向、佐賀諸富町)→瀬戸内海(大三島?)→紀伊熊野・新宮→三河湾(熱田、小坂井)→富士山麓(吉田)→相模(秦野、藤野→藤沢、鎌倉)→(八丈島、
伊豆諸島)→千葉→秋田→青森小泊、北海道
                                      以上
 

神奈川と徐福

 投稿者:maeda  投稿日:2007年12月14日(金)11時01分52秒
  3.禅僧・無学祖元と徐福
紀伊半島の徐福上陸の伝承地・新宮市には、最初にこの地の徐福の祠に言及した鎌倉時代の禅僧・無学祖元の詠んだ漢詩の碑「徐福祠献晋詩」が保存されている。無学祖元は、鎌倉幕府の執権・北条時宗によって宋から招聘された名僧である。弘安二年(1279)、八代執権・北条時宗の招きで来日。初め建長寺に入り、弘安五年(1282)、円覚寺の開山となる。
注目すべきことは、新宮の徐福祠の建立が、祖元の東渡以前だったということである。無学祖元の詩碑碑文は、「先生採薬未曾回 故国山河幾度埃 今日一香聯遠奇 老僧亦為避秦来」先生薬を採りて未だ曽て回らず 故国の関河幾塵埃、今日一香聊か遠きに寄す 老僧亦た秦を避けて来ると為す。つまり、自分自身を徐福に重ねあわせて詠んでいる詩で、当時の中国では、徐福の上陸地は紀州熊野であったと認識されていたようである。弘安4年(1281)頃作られたもので、確かな文献による熊野での徐福伝承の初見とみられている。
4.秦野宝蓮寺と徐福および無学祖元の関係
秦野市蓑毛・臨済宗宝蓮寺の縁起書には、徐福や秦始皇帝の話が出てくる。
「後秦の始皇帝29年(BC220頃?)、沙門室利ら18人が、印度から辰旦(秦国)に来た。 五大尊、金剛力神などの秘佛をもち来たが、そのとき始皇帝は異俗を嫌って、彼らを殺そうとした。そこで、「徐福」は、「公、仙道を求め欲するなら、殺してはなりません」と上奏し、大悲五大尊の力により宝物は皆大公徐福に遣わされ、18人は皆印度に帰ることができた。その後、秦の始皇帝の裔が彼の五大尊悲像を守護して、80余年にして応神天皇15年甲辰に佛宝物大悲像、五大尊と共に、秦苗裔であると申して本朝に渡来した。
 かの秦の苗裔は、東州に下向して、千手観音像を駿河国の有度山に、五大尊は相模の国、足柄上郡に安置された。」宝蓮寺は鎌倉市の建長寺の末寺で、中興の開山・高峰顕日(1316年)は、後嵯峨天皇の皇子で、無学祖元の法を嗣ぎ、鎌倉の諸寺に住山した。高峰顕日が、蓑毛の大日堂に来所した背景には、無学祖元らの徐福の知識を得た上で、五大尊の寺(薬音寺→宝蓮寺)を復興したことが考えられる。
 

フォーラム

 投稿者:maeda  投稿日:2007年12月14日(金)11時00分0秒
   神奈川県で初めて開催された2日間の「徐福フォーラムin神奈川」では、述べ200人程の参加で盛会のもとに終了することができました。
 神奈川にある徐福伝承が、どのようなものか、参考のために以下に掲げておきます。

神奈川と徐福

1.はじめに
神奈川県には徐福伝承がいくつかある。これらの徐福伝承がなぜこの地に存在するのか、関係する事象を取り上げ、どこまで遡れるのかを調査し、その意義を考察してみたい。
2.神奈川に存在した徐福伝承
 神奈川県藤沢市の妙善寺にある福岡家の墓碑には、同祖先が秦氏を称し、徐福の子孫であることを明記されている。そこで神奈川県に存在する徐福に関連する書物、伝承、記録を探り求めたところ、以下のような諸事実が存在したことが判明した。
1)藤沢市妙善寺の福岡家の墓碑には、徐福の子孫であることが明記され、祖先は秦野から来たとされている。
2)富士山麓に土着した徐福一行の子孫が、延暦19年(800)に富士山の大噴火が起こり、大きな被害を受け、やむなく秦野に移住したとの伝えがある。そのために宝来山や宝来下という地名が伝えられたのだという。
3) 秦野市横野にある唐子神社の御祭神(からこ神)は、富士山から丹沢山系を越えてきた、徐福の子孫であることを伝承していた。
4) 藤野町・栗原家には、徐福持参と伝える木像(昭和39年焼失)と鉄鍬が存在していた。栗原家は、聖武天皇の時代に、奈良から藤野に移住した貴族の子孫という。
5) 寒川町・寒川神社に徐福文献とも称される「宮下文書」が存在した。富士古文献とも呼ばれ、富士山の爆発を逃れて、相模川下流に移動したと記す。
6) 秦野市蓑毛の大日堂を管理する宝蓮寺の縁起書には、大日堂の五大尊が、徐福に関係するものであることを伝えていた。
7) 鎌倉市の円覚寺は、徐福に関する漢詩を新宮に残した禅僧・無学祖元の開山寺であった。つまり、徐福情報は、仏教を通じて神奈川に浸透していた可能性がある。
 

徐福フォーラム

 投稿者:maeda  投稿日:2007年12月10日(月)10時44分44秒
  莽翁 寒岩 様

 徐福フォーラムの懇親会費は、最新のものが適用されます。
 会場選定後に交渉で決まったものですので、ご了解願います。(maeda)
 

いよいよ

 投稿者:莽翁 寒岩  投稿日:2007年12月 7日(金)09時50分59秒
   確認の掲示を一番にしておきたいのだが。素人門外の自分は何も声が出ないでしょうから。
 1. 霊薬のためには、多くの子どもは連れてくる必要はなく、霊薬も目的だったかもしれないが、大きなもう一つの目的があった。それは文化の普遍化、伝播。そして新しい国土と植民地。と私はこのごろ思っています。
 根拠なく、多分、という想像です。だから子どもを連れてきた理由がわかりたい。
 2. 多分わが国の文化の根源的流れを作ったと要素をもたらしていて、溶け込んでいるのではないか。だから摘出するのは困難であり、難しいのではないか。中国本土では、廃れ、変化したことが多分、わが国の文化の底流として残ってきているのではないかと思う。
 3. 焚書坑儒でマイナスのイメージを以って、始皇帝は教えられたが、賢帝だったと思う。教えられた授業、学んだ勉強を反省したい。
 

徐福フォーラムin神奈川

 投稿者:maeda  投稿日:2007年12月 5日(水)19時08分10秒
   徐福フォーラムin神奈川が、間もなく開催されます。
 日時 2007年12月11日(火)~12日(水)
 場所 神奈川県民センター(2F大ホール、1F展示室、402号室など)
 資料費 2000円(2日間通し)

 今から2200年以上前、秦の始皇帝の命令により、「不老不死の霊薬」を探しに東海へと船出した徐福。史記にも書かれている史実と、その後の影響などを、日本、韓国、中国に残る資料や伝承、民間行事に探る。これらの最新の映像を紹介すると同時に、各地の徐福研究者から直接報告を聞きます。徐福関連の写真展示や書籍の販売、映画「徐福さん」の上映会もあります。徐福を通じて、アジアの過去と現在を知り、未来を考えましょう。

 12月11日 10時開幕 基調講演「徐福のアジア的ひろがり」池上正治
        13時   「目で見る徐福たち」青森から九州まで、徐福ゆかりの行事を映像で紹介する。
        18時懇親会(会費6000円)、18時映画「徐福さん」上映
 12月12日 9時徐福up-to-date研究
        9:10  神奈川や静岡の徐福 前田、姫井、中浜
        10:20 日本各地の徐福   山口、中上、笹本、末岡、土橋
        13:00 韓国・中国の徐福  石川、鐘
        14:00 徐福研究の最新動向 木村、逵、鳥居
        15:10 全体討論 講評   河野
            徐福研究の今後のあり方、徐福は本当に日本に渡来していたか。
        16:00 閉会挨拶 田島

 会場:かながわ県民センター(横浜市神奈川区鶴屋町2-42-2、TEL045-312-1121)
 参加申し込み:神奈川県日本中国友好協会気付
        徐福フォーラムin神奈川実行委員会
         Tel045-896-0124、Fax045-896-0125
 

日女命と邪馬台国

 投稿者:maeda  投稿日:2007年11月19日(月)11時14分29秒
   最近、邪馬台国論争は、いささか低調気味ですが、本年9月9日発行の伴とし子著「トヨはアマテラスだった」(明窓出版)に卑弥呼とその孫トヨのことが記載されているので、紹介しておきたい。
 その情報の根拠になっているのは、「海部氏勘注系図」であり、これには「古伝」「秘伝」が含まれているという。
 古事記、日本書紀が正しくて、それに抵触するものは「先代旧事本紀」のように偽書扱いされてきた。しかし、古代の氏族は記紀以前の記録を持っており、迫害を恐れて、極秘に代々伝えられてきた。「海部氏勘注系図」はその一つであり、その系図の中に2人の日女命が載っている。
 日本書紀では、卑弥呼を神功皇后のように書いているが、海外の歴史的記述と年代的に一致しない。
 「海部氏勘注系図」の九世孫「意富那比命」の妹に「日女命」があり、亦の名は「倭トト日百襲姫命」「千々速日女命」「日神」「神大市姫命」であるという。
 また、十一世孫「子登與命」の妹に「日女命」があり、亦の名は「小豊姫命」「豊秋津姫命」「宮ズ姫命」「日神荒魂命」「玉依姫命」とある。
 このことから、九世孫の「日女命」が卑弥呼であり、十一世孫の「日女命」がトヨであると結論付けている。
 本HPでも、同様の見方をしているが、トヨの亦の名を見ていると東海地方とのつながりで面白いことがわかる。
 十一世孫の小登與命は、尾張氏の族長であり、その妹の「日女命」は亦の名「宮ズ姫命」である。つまり熱田神宮付近を拠点としていた人々ではないか。
 熱田神宮の大宮司は、東三河の豊津付近に居住地をもっていたといい、その近くにアマテラス伝承がある。
 邪馬台国の2代目祭祀主のトヨは、尾張や三河に関係があり、トヨの別名「豊秋津姫命」は地名「豊津」との関係で、東三河と邪馬台国の関連を伺わせるものがある。
 

古代神都説の効果

 投稿者:maeda  投稿日:2007年10月30日(火)10時38分10秒
   もみじ さん

 古代神都・東三河説で、お子様が故郷に呼び寄せられたことは、大変結構なことでしたね。
 今までで経験した大きな効果の1つには、古代神都の本を読んで、聖地を訪れたひと(若い男、女)が、意気投合して結婚に到達したと連絡をいただいたことがあります。
その後に、お子さんが生まれたとのこと。
 思いがけない、よい効果が見られており、うれしくなります。
 

ありがとうございました

 投稿者:もみじ  投稿日:2007年10月27日(土)23時48分34秒
  maeda 様
履歴を拝見して、とても専門的、学術的な投稿欄のようだと今気付き、慌ててます。始めから自分のペースで読んで勉強させて頂きます。それにしても前田先生の古代神都説の三冊を回し読みしている県外の娘と息子が最近とみに帰省を口にし、又故郷の山に登りたいと言います。いわれなき自尊心が湧いてきたとのこと。故郷へ我が子らを呼び寄せたい方、これらの本のプレゼント効果大かもしれませんよ(笑)。
 

銅鐸

 投稿者:maeda  投稿日:2007年10月23日(火)14時57分12秒
  もみじ さん

 はじめまして。ようこそ。
 銅鐸は、どのような人たちがつくったのか、どのような目的で使われたのか、諸説がありますが、必ずしも解明されていないと思われます。
 三遠式銅鐸は、銅鐸文化の最盛期~末期に動乱に巻き込まれて埋納されたもののようですね。
 卑弥呼の時代に、邪馬台国と狗奴国が争ったといわれており、時期的にもAD200年過ぎですから、銅鐸文化の消長と関係があるように考えております。いかがでしょうか。
 

三遠式伊奈銅鐸里帰り展示

 投稿者:もみじ  投稿日:2007年10月21日(日)09時30分29秒
  はじめまして。歴史音痴のもみじです。「銅鐸は何を表しているのか?」前田先生の謎掛けに導かれるように大正13年に宝飯郡伊奈で発見された銅鐸三基を豊橋市前芝地区市民館で見てきまた。これがAD200年頃にに?と思うほど精巧な作りで、微かに腐食したそれはずっと神聖視されて来たという故郷のスポットに共鳴してか、さながら掘りたてのような臨場感があり感動的でした。三遠式はどれも埋葬のように埋まっていたと言う説明文があり、また新たな謎掛けとなってわくわくさせてくれそうです。  

「徐福フォーラムin神奈川」のご紹介

 投稿者:maeda  投稿日:2007年 9月28日(金)23時08分48秒
編集済
  「徐福フォーラムin神奈川」のご紹介

 今から2200年以上前、秦の始皇帝の命令により、「不老不死の霊薬」を探しに東海へと船出した「徐福」のことは、司馬遷の「史記」にも書かれている。この史実とその後の影響などを、日本、中国、韓国に残る資料や伝承、民間行事に探り、最新の映像を紹介すると同時に、各地の徐福研究者たちから直接、報告を聞く「徐福フォーラムin神奈川」が2007年12月11日~12日(水)に横浜市(かながわ県民センター、ホール・展示室)で開催されます。
 これは、日中友好35周年を記念するものでもあります。内容は以下の通りですので、徐福に関心をお持ちの方は、是非ご参加ください。

12月11日(火)
 10時開幕 基調講演「徐福のアジア的ひろがり」(講師:池上正治氏)
 13時「目で見る徐福たち」
 17時 映画「徐福さん」上映、開演17:30
 18時 別途懇親会

12月12日(水)
 09時 徐福Up-to-Date研究発表会
     日本の各地や、中国、韓国からの発表を予定
 15時 全体討論と質疑応答
     徐福研究の今後のあり方、徐福は本当に日本に渡来していたか、など
 16時 総括
 16時30分 終了

 参加費:資料費2000円、
     懇親会参加の場合、別途懇親会費5000円
 映画は、フォーラム参加者無料、映画のみ鑑賞の場合、大人500円(中学生以下300円)
 申込連絡先:〒247-0007神奈川県横浜市栄区小菅ケ谷1-2-1
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空海と役行者と徐福

 投稿者:maeda  投稿日:2007年 8月11日(土)14時04分17秒
   役行者は、東三河の鳳来寺山に、利修仙人を求めて来所したと伝えられている。
 鳳来寺山に行者返しというところがあり、役行者が鳳来寺山に行くのに苦労したことが伝えられている。この地にもホウライと徐福の伝説がある。
 また、東三河の吉祥山麓には、空海が根本道場を立てるため、適当な地を求めて探したところがある(長慶寺)。

 他方、相模の丹沢山系にも、役行者の伝説がある(孫仏山)。
 丹沢山系を越えて、富士山麓から、徐福の子孫一行が秦野に下ってきたという伝承がある。また、空海が修行したという弘法山がある。

 役行者と空海の伝説があるところに、徐福伝承もセットでついてまわっているようだ。
 

空海と寛輔そして徐福の関係

 投稿者:maeda  投稿日:2007年 8月11日(土)11時53分44秒
   義楚六帖で「日本の徐福の伝承」を中国に伝えた弘順大師賜紫寛輔は「道賢と同じく真言宗の僧侶であることにまず間違いはなかろう」(王勇、アジア遊学22、p47)と述べられている。王勇氏によれば、金峰山の詳細を知り尽くしている寛輔は「金峰山修行に仲間と思われてもおかしくない」としている。
 また、「寛輔は、京(杭州?)にありユガ大教を弘め、弘順大師号を賜り・・授法灌頂の弟子は三十余人あり。」(在唐記)といわれるが、「ユガ大教」とは真言宗のことで、空海が唐で学んだ密教の流れに属するものである」(王麗平、アジア遊学22,p54)。
 中国では武宗による会昌年間(841-846)の仏教弾圧を経て、真言密教は中国で次第に衰弱の一途をたどり、かえって扶桑(日本)において隆盛を極めた。
 「空海が入唐して長安の青竜寺で恵果より付法されたのは密教、そして帰国して高野山で開宗したのは真言宗、その流れを汲んだ寛輔が京(杭州)で弘めたのが「ユガ大教」と称されている」(王麗平)という。
 寛輔と義楚が出会ったのは「釈氏六帖」によれば、後周の顕徳5年(958)のことで、義楚は、寛輔から、金峰山と富士山の話を聞いている。
 金峰山に関する臨場感あふれる描写から、「寛輔は長く金峰山で修行していた僧であると推定」されている。
 一方、富士山の話に関しては、徐福に関する有名な話である。「また東北千余理に山あり、富士といい、また蓬莱という。その山峻しく、三面これ海あり。一だ上の聳え、頂に火煙あり。日中に上に諸宝あって流れ下り、夜即ち上に却える。常に音楽が聞こゆ。徐福ここに止まって蓬莱という。今に至って子孫みな秦氏という。」

 興味深いことに、寛輔が義楚に伝えた、金峰山と富士山は共に、役小角の伝承をもつところである。役の行者は五色の雲に乗り、仙人と遊ぶなど、神仙的な姿が描かれ、後に、仙人となって天に飛び、不死の生命を得たという。
 弘法大師空海も、高野山で即身仏となり、不死の状態で存在するという。
 寛輔は、このような神仙思想を、役行者や空海から修行を通して身に着けており、そこに徐福の情報が混じっていたことが考えられる。
 

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