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邪馬台国の最新情報と東三河(4)

 投稿者:maeda  投稿日:2009年 9月19日(土)14時16分40秒
  5.東三河は倭王・聖徳太子・山背大兄皇子の根拠地
加藤謙吉著「秦氏とその民」(白水社2009.6.10新装版)には、東三河と厩戸や上宮王家のつながりを示す根拠の壬生部のことを記載している。
「皇極紀2年11月条に、蘇我入鹿の派遣した討伐軍によって斑鳩を急襲された山背大兄王らは生駒山の山中に逃れた。  この時、三輪文屋君は王に勧めて、”深草屯倉に移向きて、ここより馬に乗りて、東国に至りて、乳部(みぶ)をもって本として、軍を興して還り戦はむ。その勝たむこと必じ。”といった。
 王は、「戦をすれば間違いなく勝てるであろうが、自分一身のために万民に苦労をかけたくない。」と答え、山から帰り斑鳩寺に入り、子弟・妃妾らとともに自尽したという。
尚、乳部とは、上宮乳部のことで、上宮王家の所有する壬生部を指す。
遠山美都男氏や仁藤敦史氏の説では、王位継承資格を有する有力王族を対象に、その王族の経営する皇子宮に付属する経済的・軍事的基盤として付与されたもので、現実には蘇我馬子の意思が強く働き、厩戸皇子と山背大兄王の属する蘇我系の上宮王家以外に壬生部の領有は確認できないとする。
加藤氏は、壬生部と秦系集団の分布がかなりの地域で重複することを理由に、秦氏が壬生部の管理者であった事実を推定した。 その上で、上宮乳部(みぶべ)は、秦氏がそれを管轄する立場にあったと考えざるを得ないとしている。
山背大兄王が窮地を脱するため、東国の乳部を兵として再挙をはかることは、秦氏の軍事援助を当てにしたもので、軍事行動とみるべきである。
では、その乳部=壬生部の本拠地がどこにあったかというと、「常世の虫」信仰を秦河勝が打ち懲らした話と繋がる。 富士川付近で起きたこの事件の「大生部」は、壬生部のことで、「姓氏録」に左京皇別上の御使朝臣の本系に、御室の雑使であった「大壬生」らが逃亡し、御使氏の祖である、気入彦命に、参河国で捕らわれたとある。
大壬生の逃亡先(実際にはその本拠地)と見られる地域として「和名抄」によれば、参河国八名郡に「美夫郷」の郷名があることなどに衣拠すると、「大生部」は「大壬生部」のことである。
三河「美夫郷」の近くに「養父郷」や、三輪山の元山と言われる「石巻山」があり、この地区は三輪郷とよばれたようであり、三輪氏の本貫である可能性が高い。また、石巻神社は、聖徳太子建立との伝承がある。ここに、聖徳太子の御子・山背大兄王の背後に壬生部の本拠地があったのは、東三河ということが導かれたわけである。
 

邪馬台国の最新情報と東三河(3)

 投稿者:maeda  投稿日:2009年 9月19日(土)14時15分34秒
  4.リモートビューイングによる邪馬台国の透視結果
近年、スピリチュアル世界の現象で、現実の社会活動に役立つ技術として、リモートビューイングという技術が確立されてきている。米国FBI超能力捜査官・ジョー・マクモニーグル氏は、そのずば抜けた能力者で、犯罪捜査に協力してテレビで話題になった。この遠隔透視技術で、現在、過去、未来の出来事を見ることができるという。
サイエンス研究サロン「黄トンボ」を立ち上げた権藤正勝氏は、マクモニーグル氏の協力を得て、邪馬台国の透視を行った。詳細:権藤正勝著「邪馬台国発見」(学研2009.8)
結果を要約すると、①女王・卑弥呼の部族は、ヤマトと称し、王国の名前もヤマトとした。 ②邪馬台国は富士山東を境界とした日本列島西部全体を包含した。 ③卑弥呼は、大坂から奈良の鳥見山に「夏の居城」を定めて倭国連合を統治した。 ④卑弥呼の墓は、その部族出身拠点で「冬の居城」のあった山口県長門にあった。 ⑤卑弥呼の部族は南西諸島から、九州北部に入り、朝鮮半島、北九州、山口県を占拠していたという。
   すなわち、邪馬台国は「女王の都するところ」である「夏の居城」のあった奈良の桜井市あたりで、ここが首都であったと透視している。女王国の名前は「ヤマト」であり、「魏志倭人伝」の伝える「邪馬台国」であり、その名前は部族連合体全体を意味するようになった。これが大和朝廷に受け継がれた。卑弥呼が奈良に来たことで、統治が手薄になった北九州と山口の統治を確実にするため、自分の出身部族の直轄地の福岡・伊都国に一大率を設けたということになる。
ここで、東三河は、東国狗奴国との戦闘の前線拠点となっていたと考えられる。
 

邪馬台国の最新情報と東三河(2)

 投稿者:maeda  投稿日:2009年 9月19日(土)14時14分20秒
  3.富士山麓出土の金印
「金印」が山中湖の長生村(徐福一族が住んでいた長寿村と言われている。現在は長池村になっている)の栗林遺跡の近くの畑を羽田正次氏が耕していて発見された。(羽田武栄著「真説徐福伝説」) 最初は「秦」と読まれて秦氏の印鑑と思われていたが、1991年に中国徐州博物館の李氏によって、中国三国志の時代の将軍の印鑑である事がわかった。読み方は「己大方」(みたいほう)と読み、三国時代の「呉」国の「黄巾軍」の大将の呼び名である 。
  三国志の記録によると呉の皇帝孫権は西暦230年に、徐福の子孫が住むという瀛(えい)州(富士北麓)に衞温と諸葛直に一万の兵を与え東海に繰り出し応援依頼に向かわせた。
しかし二人は富士には行きつけず、夷州(台湾)から数千の住民を連れ帰っただけだった。肝心の富士にはいきつけなかったので、命令不履行で二人は殺された。 徐福の子孫を連れ帰ってくるようにと言う事は、徐福渡来から500年もたってからのこと。これは日本に応援を頼んだと同じ事で、徐福はそれ程中国で重要な皇族だったと思われる。(インターネット情報による富士山西麓住まいの橘高啓氏の説)
はたして、呉国の大将軍は富士にいたのか。金印があることから、呉国の大将軍が富士にいたといえる。調べてみると、呉の時代の貴重な宝物が山梨からごっそりと出て来たという。
 山梨県八代町(八代とは神武天皇以降の八代天皇がいた所のため八代といわれている)の狐塚古墳からは呉の国の紀年鏡(西暦238年)の一枚が出土している。この古墳は3世紀頃の天皇の古墳(二重堀構造でこれは天皇の古墳しか採用されていない)と思われ、日本の天皇家と呉国とはただならぬ関係にあった。この事は徐福とは中国斉の国の国王だった可能性もあり、王族が日本に来ていたということになる。
この金印は、AD3世紀のものとなると、卑弥呼の時代と重なるので、その重要性に注目しなければならない。呉の将軍の印であることが公表されれば、魏国と呉国の争いが、邪馬台国と狗奴国の争いに反映したとして、今後、歴史学会でも大変注目されることになると思われる。
 

邪馬台国の最新情報と東三河

 投稿者:maeda  投稿日:2009年 9月19日(土)14時12分56秒
  邪馬台国とはヤマトの国→東三河・邪馬台国説
リモートビューイングによる邪馬台国の透視結果
富士山麓・山中湖畔出土の金印は卑弥呼の時代のもの
倭王・聖徳太子のバックとなる三輪の地は東三河・美夫郷・養父郷・遠の朝廷・朝廷別
移動する邪馬台国
1.邪馬台国問題の論点
「魏志」倭人伝には、3世紀の日本列島は女王国であり、女王卑弥呼が都とするところは「邪馬台
国」と呼ばれたという。「隋書」倭国伝には、倭国は、「魏志」にいう所の「邪馬台」であると記載する。
  しかも、7世紀初め、そこには「アメノタリシヒコ」という倭王が居た。「旧唐書」には、「倭国」と「日本」が別々に登場し、日本は「倭の別種」、或いは倭の地を併せた7世紀の「新興の国」であるという。
即ち、「邪馬台国」は、「倭国(わこく=やまとのくに)」であり、7世紀に「日本国(やまとのくに)」に統一されたと考えられる。古代「倭国」の都はどこか、というのが「邪馬台国」探しの焦点となるが、注目点は、古代の「ヤマト国」が、どの辺りにあったか、統治者の本拠地はどこか、それを裏付ける出土物や伝承があるかがポイントとなる。
ここで、①東ヤマトの浮上、②東三河は古代倭王の本拠地、③富士山麓出土の金印の意味、④リモートビューイングによる邪馬台国の透視結果、⑤東三河邪馬台国説、⑥移動する邪馬台国について紹介する。

2.封印された古代東ヤマトの浮上
奈良三輪山近くの黒塚古墳から大量の三角縁神獣鏡が発掘され、邪馬台 国・奈良大和説が意気盛んである。しかし、邪馬台国・奈良説には、妙な ことにヤマトという国発祥の原点となる小字の地名がないことが欠点になっている。また、「東に一海を渡りまた倭人の国がある」という魏史倭人伝 の記述にも適合しない。
当古代神都・東三河(古代東ヤマト)説では、三遠地方に古代大和があり、 東方の浜名湖(遠淡海)という海を渡れば、磐田・駿河を中心とした古代倭人の国があり、上記同型の鏡 が既に発掘されていた。東三河のヤマトは、徐福伝説と持統天皇の御幸伝説、神社、仏閣、地名、 人名、伝承、万葉集の歌等の検証から、日本神話の舞台そのものを示唆し ていた。
東三河は、物部氏の本貫の地であり、偽書と言われた「真実を述べた文 献・先代旧事本紀、ホツマ伝え」などから導き出せた。しかし、古代「ヤマト国=邪馬台国」は、複雑な現象の絡み合いによってついに 歴史上から抹消されてしまったのであろう。
 

古史古伝と徐福集団5

 投稿者:maeda  投稿日:2009年 8月15日(土)17時14分46秒
  7)物部文書
 「秋田物部文書」は、三河の物部氏が関与しており、ニギハヤヒ命は東北日本海沿岸の「鳥海山」に降臨したことになっている。
 「物部文書」が注目されるのは、物部氏が蘇我氏との戦いで敗れ、「神代の万国史」の写しである「物部文書」をもって、東北地方に逃れたことを、「九鬼文書」に記されていたからである。このとき諏訪に逃れた中臣氏一族が持参した写しの一部が「九鬼文書」で、更に前代の武列天皇の時代に失脚させられた竹内一族(平群真鳥の子孫)が秘匿していた「神代の万国史」の一部(竹内文書)である。
 「物部文書」が公開されたのは昭和59年である。天地創成、物部氏の祖ニギハヤヒ命の降臨神話、東国の国譲り、神武東征、蘇我氏との抗争、物部氏の秋田亡命などが記載されている。 また
「先代旧事本紀大成経」は「物部文書」の一つである。
 物部氏が、徐福一行であることが事実であれば、「物部文書」も当然、徐福一行およびその子孫の伝承が記されているものといえる。



6.まとめ
主要な古史古伝は、全て秦氏、徐福一行が関与していることがわかる。
 徐福一行は、その先祖が日本列島で王朝を築いていたことを知り、その拠点である蓬莱山である富士山麓に至り「富士古文書」を編纂した。また、物部氏が「神代の万国史」を持っていたということから、日本の超古代史を述べる「古史古伝」は、徐福一行がもたらした可能性が大きい。

参考文献
1.佐治芳彦:闇の日本史・古史古伝書;英知出版発行、2006.12.20
2.飛鳥昭雄・三神たける:封印された物部神道・唯一絶対神の信仰を古代日本に持ち込んだ徐福の謎;学研ムー, No.344、pp22-45、(2009.(7))
3.後藤隆:謎の根元聖典・先代旧事本紀大成経、徳間書店発行、2004.10.31
4.安本美典:奇書・先代旧事本紀の謎をさぐる、批評社発行、2007.05.25
 

古史古伝と徐福集団4

 投稿者:maeda  投稿日:2009年 8月15日(土)17時13分46秒
  4)上記(うえつふみ)
 「上記」が成立したのは、鎌倉時代初期で、編纂したのは、源頼朝の側近で、豊後国の守護職になった大友能直と言われる。能直は、当時散逸しかかっていた古文献を全国から集め、その集大成として「上記」を作った。編纂資料には、出雲国造上世紀、伊豆加茂三島伝書、尾張中島逆手記、伊勢度会文、摂津住吉大余座記、豊前後老家文、越白山之舟人文など15種が使われたという。「上記」は神代文字で書かれている。
 「上記」の原本はもともと、大分県臼杵市の大友家に伝わっていたが、1873年の洪水で流失してしまった。ウガヤフキアエズ朝は51代となっている。
 大友氏の本貫は、相模の松田で、秦野の波多野氏の分流である。まさに徐福一行の秦氏の後裔が、秦氏に関連する古記を編纂したものである。

5)先代旧事本紀
 「先代旧事本紀」は、漢文で記されているが、もとの超太古の記録は、神代文字で記されていたという。この書も、ウガヤフキアエズ朝が73代あったと記されている。様々な古史古伝を生みだした源が、実は「先代旧事本紀」であったという説もある。「竹内文書」や「九鬼文書」に登場する神名には、「先代旧事本紀」と近いものが多い。
 産業能率大学教授の安本美典氏によると、「先代旧事本紀」は、編者が物部氏の後裔、興原敏久(別称:物部中原宿祢)であり、823-834年に編集されたと推定されている。4)
 つまり、徐福一行の物部氏が、その一族の歴史を天皇家ではなく、自らの家系からの見方で編纂した家系の文書である。

6)秀真伝(ほつまつたえ)
 「秀真伝」の編者は、前半の22紋を出雲系の大物主櫛甕玉命、後半の18紋をその子大直直根子命が担当したという。この2人が「古事記」に出てくる櫛御方命、意富多々泥子と同一人物であれば、その成立年代は崇神天皇の時期までさかのぼる。
 「秀真伝」は、極めて神道に関わりの深い古伝書である。陰陽2極の原理で、陽は天と太陽、陰は大地と月ができた。 その中間に国常立尊が生まれたという。
 また、「秀真伝」では、天孫降臨が三度あったことになっている。一度目は、忍穂耳尊の第一皇子の奇玉火明饒速日尊が、日高見高天原から常陸の鹿島へ。そこから海路で、浪速の斑鳩峰に降臨した。二度目は、忍穂耳尊の第二皇子の仁仁気根尊が、日高見高天原から筑波山麓の新治の地に降臨した。三度目は、仁仁気根尊が、皇子の火火出見を筑紫親王として、九州に下らせ、自身は蓬莱参山(富士山)麓で第二次政庁を開いた。
 蓬莱山(富士山)を拠点にした政庁は、「富士古文書」と共通するところがあり、編者が出雲族で物部氏と考えられることから、徐福一行が関与したと考えられる。
 

古史古伝と徐福集団3

 投稿者:maeda  投稿日:2009年 8月15日(土)17時12分23秒
編集済
  5.各古史古伝の由来4)
1)竹内文書
 「竹内文書」の原典は、超古代から存在していたとする、皇祖皇太神宮という宮の神宝であり、成立年代は不明の文書である。この宮の神官を務めていた武内宿祢の子孫・平群真鳥という人物が、漢字仮名交じりに書き改めたという。1,3)「天神」「上古」「鵜草葺不合(ウガヤフキアエズ)」「神倭」の4時代に分類され、ウガヤフキアエズ朝は73代の天皇が存在していたとされている。
「竹内文書」が世に出たのは1910年で、皇祖皇太神宮が茨城県磯原で再興されたとき、初代管長の竹内宿祢から数えて第66代の竹内巨麿が神宝を公開したのが始まりである。これが昭和11年に皇室に対する「不敬罪」で告発され、最終的には無罪を勝ち取るが、証拠品の神宝は東京大空襲で焼失してしまった。
 ここで注目すべきは、武内宿祢は、「秦氏の大王」ともいわれる応神天皇の養父(あるいは父親)であることである。つまり秦氏が「竹内文書」を保管してきていたのだ。

2)九鬼文書
 「九鬼文書」は、天児屋根命を祖とする中臣家の末裔であり、熊野の別当を務める九鬼家に伝世されていたものと言われ、原典の成立年代は不明である。正式には公開されておらず、戦前に三浦一郎氏によって記された「九鬼文書の研究」がほぼ唯一の史料といわれる。原本の30巻は、「国体・歴史」が3卷で、残りは「中臣神道の神伝秘法」と「兵法・武教」である。この書にもウガヤフキアエズ朝が73代あったことが記されている。
 この原本は、天児屋根命の時代に神代文字で書かれたものを、藤原不比等によって漢字に書き改めたという。
 天児屋根命は、物部氏が高天原から降臨したときのメンバーであり、徐福一行がもたらした文書ということができる。

3)富士古文書(宮下文書、徐福文献)
 「富士古文書」(宮下文書)には、ずばり徐福が書き写したことが記載されている。すなわち、神皇第7代孝霊天皇の世73年(前213)、秦の方士徐福率いる85隻の大船団が、紀伊熊野に到着し、天皇が派遣した竹内宿祢を案内者として、富士山麓に落ち着いた。徐福は、富士の皇祖皇太神宮の神官から、神代文字で記された古代記録を見せられ、その内容を漢文で書き写したことから「徐福文献」という名が生じた。
 本書は、日本民族の原郷を古代ユーラシア大陸の中央に置き、その原日本人が日本列島に移動定着してきたこと、王朝交替、異国の侵略、大異変を克服して、神武王朝を成立させるまでの民族古代史を語っている。ウガヤフキアエズ朝は51代つづいたことになっている。
 つまり「富士古文書」の初期編纂は、徐福一行によるものであると云える。
 

古史古伝と徐福集団2

 投稿者:maeda  投稿日:2009年 8月15日(土)17時11分23秒
  3.日本の「古史古伝」と徐福をつなぐ秦氏
 秦氏の由来は、様々の説がある。 最も古い説では、徐福一行が、秦氏を称したということが、古史古伝の一つである「富士古文献」で伝えられている。
徐福の先祖は、系図的には秦始皇帝の先祖と同一人物になっている。始皇帝は、その一族も含めて、中国西域の出身であり、生まれ地の秦を姓とし、秦氏を名乗ったと思われる。当時のローマ帝国は大秦であり、中国大陸を統一した始皇帝は、秦を国名とした。
 秦国には、中央アジアの古代国家シュメールやペルシャ、古代イスラエル等の歴史を背負った人々がかなり含まれていたと考えられる。かれらは、徐福集団を構成し、日本列島に到着した。そして、多神教、一神教、仏教、道教、儒教を含む雑多な信仰を持っていたため、それらを統一することは難しかったと思われる。そこで、日本列島では、八百萬の神々が調和して存在する古神道を形成していったものと思われる。

4.日本の古史古伝に共通するもの
 日本の古史古伝としては、「竹内文書」、「富士古文献(宮下文書)」、「九鬼文書」、「物部文書」、「秀真伝」、「三笠紀」、「先代旧事本紀」、「上記(うえつふみ)」、「先代旧事本紀大成経」、「東日流外三郡誌」、「カタカムナ文献」、「契丹古伝」などがある。
 この中、近世に成立したとされる「先代旧事本紀大成経」、「東日流外三郡誌」と近代に満州で発見された「契丹古伝」を除く諸文献は、「古事記」以前の書と呼ばれているが、残りの文献にも、「古事記」以前の内容が含まれている。
 これらの書にほぼ共通しているのは、殆どが古代の政治闘争に敗北した豪族の家系に密かに伝えられた古文書であるということである。記録された文字は、「神代文字」によって書かれている例が多く、後の時代の人々が読めるように、漢文または漢字仮名まじりに書き改められたという。アカデミズムは、神代文字の存在を否定しているため、神代文字で書かれていたというだけで、古史古伝は「偽書」と断じられる大きな決め手になっている。しかし、古い神社や巨石に神代文字で記録された文字やペトログラフが残っており、神代文字の存在を完全に否定することはできないと考えられる。
 また、古史古伝に記されている歴史は、「記紀(古事記・日本書紀)」が伝えるものと大きく異なっている場合がある。そこには、宇宙創成の時代から、神々が地球に降臨する時代、アマテラスやスサノオといった神々が地球全土を統治していた時代、ウガヤフキアエズの50-73代にわたる長い、前天皇の時代の話がある。
 ただ、その古伝の編者を尋ねると、秦氏が関与してくるようである。 賀茂氏は秦氏の分族であるが、最近、月刊ムー2009年7月号p22-57で、飛鳥昭雄氏らが、賀茂氏出身のヤタガラスの長老からの情報を得て、「物部氏は徐福とともに来た」という、驚愕の事実を公開している。2) しかも彼らは、古代イスラエルの一神教信仰をもつ人々であったようである。
つまり、日本の古神道をもたらした物部集団は、徐福一行に含まれていたということが判明した。物部神道は、日本の神道の本流と考えられるので、神道秘伝をもつ「古史古伝」は、物部氏との繋がりが認められれば、徐福一行と関連すると考えられる。
 

古史古伝と徐福集団

 投稿者:maeda  投稿日:2009年 8月15日(土)17時10分10秒
           徐福集団と日本の古史古伝との繋がりに関する考察
                                         1.はじめに
 日本の古代を記述する史書は、西暦8世紀の初期に作られた「古事記」と「日本書紀」が最初だと伝えられている。しかし、両書は、時の天皇家の史書であり、勝者の作成した書物であるため、史実は、政権にとって、都合のよいように変更されたり抹殺されたりして、必ずしも本当の日本の史実を記録しているわけではないとの見解が広まっている。
 一方、それを補い、代わる史書があるかというと、「先代旧事本紀」や「上記(うえつふみ)」の他、「竹内文書」、「富士古文献(宮下文書)」、「九鬼文書」、「秀真伝」、「物部文書」、「先代旧事本紀大成経」、「東日流外三郡誌」などが存在する。1) しかし、アカデミズムの文献批判によって、いずれも偽書との烙印が押され、歴史学会からは、無視ないし、敬遠されているのが実情である。
  ところが、最近の徐福研究の進展によって、富士古文献と徐福の関係が明らかにされてきており、物部氏と徐福の間にも大きな繋がりがあることが判明しつつある。 そこで、「古史古伝」と徐福のつながりに注目して、各古史古伝との関係を洗い出してみると、驚くべき関係がみられることが分かった。 本報告では、日本の古史古伝と徐福の関係について、考察してみる。

2.徐福集団の日本列島での広がり
 徐福一行は、秦始皇帝の命を受けて、不老不死の霊薬を求めて、大船団を組んで渡海し、日本列島に到着したと思われる。徐福一行は、九州に上陸し、佐賀に第一の拠点を築いたあと、本体は人数を絞りながら、瀬戸内海を渡り、 太平洋側にでて、紀伊熊野に上陸した。紀伊半島は、徐福集団の第二の拠点であろう。彼らは紀伊熊野を拠点に探索を進め、三河湾に入り、東三河に第三の拠点を築いたあと、遠州から駿河を経て、富士山麓に最終拠点を築いたと考えられる。彼らの中には、伊豆半島に上陸したり、伊豆諸島の八丈島に拠点を築いた小グループもいたであろう。
 九州からの発進に際して、日本海側に進行したグループもある。彼らは、出雲や丹後半島で上陸し、拠点作りを行った上、秋田男鹿半島や青森の小泊に定着して、それぞれの地で徐福伝承を残した。更に、一部は北海道小樽フゴッペ遺跡などにも足跡を残したものと思われる。
 富士山麓に住みついた、徐福集団の主流は、富士南西麓に拠点を築いたが、当時、日本の古代王朝が存在した北麓に移動したと思われる。ここで、日本の高天原の世を築くが、その子孫は富士山麓での、しばしば噴火する環境を嫌って、西の三河や東の相模に移動して行ったと思われる。そして関東から、東北地方にも広がって行ったことが考えられる。
 神奈川県の丹沢山系や秦野に、徐福一行が霊薬を求めて来訪し、定着帰化したという伝承があり、藤沢市には、徐福の子孫・秦氏が福岡氏を名乗って住んでいたと彫られた墓碑が存在する。
 

東三河と上宮王家のつながり

 投稿者:maeda  投稿日:2009年 8月 6日(木)12時02分14秒
   加藤謙吉著「秦氏とその民」(白水社2009.6.10新装版、1998初版)を読んでいると、東三河と厩戸や上宮王家のつながりを示す根拠として、壬生部のことを記載していたので、記録しておきたい。
「皇極紀2年11月条に、蘇我入鹿の派遣した討伐軍によって斑鳩を急襲された山背大兄王らは生駒山の山中に逃れた。この時、三輪文屋君は王に勧めて、”深草屯倉に移向きて、ここより馬に乗りて、東国に至りて、乳部(みぶ)をもって本として、軍を興して還り戦はむ。その勝たむこと必じ。”といった。
 王は、「戦をすれば間違いなく勝てるであろうが、自分一身のために万民に苦労をかけたくない。」と答え、山から帰り斑鳩寺に入り、子弟・妃妾らとともに自尽したという。

 乳部とは、上宮乳部のことで、上宮王家の所有する壬生部を指す。遠山美都男氏や仁藤敦史氏の説では、王位継承資格を有する有力王族を対象に、その王族の経営する皇子宮に付属する経済的・軍事的基盤として付与されたもので、現実には蘇我馬子の意思が強く働き、厩戸皇子と山背大兄王の属する蘇我系の上宮王家以外に壬生部の領有は確認できないとする。
 加藤氏は、壬生部と秦系集団の分布がかなりの地域で重複することを理由に、秦氏が壬生部の管理者であった事実を推定した。 その上で、上宮乳部(みぶべ)は、秦氏がそれを管轄する立場にあったと考えざるを得ないとしている。

 山背大兄王が窮地を脱するため、東国の乳部を兵として再挙をはかることは、秦氏の軍事援助を当てにしたもので、軍事行動とみるべきである。

 その乳部=壬生部の本拠地がどこにあったかというと、「常世の虫」信仰を秦河勝が打ち懲らした話と繋がる。富士川付近で起きたこの事件の「大生部」は、壬生部のことで、「姓氏録」び左京皇別上の御使朝臣の本系に、御室の雑使であった「大壬生」らが逃亡し、御使氏の祖である、気入彦命に、参河国で捕らわれたとある。

 大壬生の逃亡先(実際にはその本拠地)と見られる地域として「和名抄」によれば、参河国八名郡に「美夫郷」の郷名があることなどに衣拠すると、「大生部」は「大壬生部」のことである。

 三河「美夫郷」の近くに、三輪山の元山と言われる「石巻山」があり、この地区は三輪郷とよばれたようであり、三輪氏の本貫である可能性が高い。聖徳太子の御子・山背大兄王の背後に壬生部の本拠地があったのは、東三河ということが導かれたわけである。
 

本当ですね

 投稿者:莽翁 寒岩(一笠一蓑一杖)  投稿日:2009年 8月 3日(月)13時48分4秒
   “想像”ということもずいぶんと広い幅がありますね。そして“想像しうること”というのも。
 何か資料とか、発掘物とかが歴史を紡ぎ、構成するのであると誤解し、それらに語らせるというのは、人間としてはさびしいなぁという思いで眺めまております。
 事実とされることだけを事実として、生きるという人生歩みをできない素晴らしい人たちがおられますよね。
 徐福の事項とは離れるのですが、存在事実だということ、あるべきだということとの境界を超える心意気がない人は生まれてきた意味があまりないのかも知れません。
 裁判でも出された証拠だけで判断するのでなく、その証拠を超えて見極める見識、人間性が、人生を見る経験がなければならない。
 こと専門にそのことをやるのなら、考古学や歴史学の物象や伝承、通説や記録の紙背を見る眼光に頼り、成長させる真剣な生き方、研究が望まれます。
 要するに私は、眼光とは真剣さ見識であると存じます。人間性です。
 人生を真剣に生きてきた方には、人の嘘と本当が、どんなにつくろわれても透けて見えますでしょう。
 そうやって、人それぞれの人生であり、歴史学なんだと存じております。
 通説と常識をどう出るか。逸脱するか。徐福のことで空想が広がります。
 

実証性について

 投稿者:maeda  投稿日:2009年 8月 3日(月)12時01分44秒
   証明できることは、存在する可能性があるでしょうが、証明できないからといって存在しないとは言えないと思います。
 世の中に証明できることしか、存在しないと考える人は、大変狭い世界に生きているのでしょう。
 想像しうることは、どこかに存在するとみて、探したり対応していく方が面白く生きられると思っています。
 

事柄の実証性ということ

 投稿者:莽翁 寒岩(一笠一蓑一杖)  投稿日:2009年 7月29日(水)16時56分52秒
   日本人の源流というようなことについて、自治体のシニアクラスで受講しました。
 そこで一言、渡来人といったら、そんなのは知らない。そういうことをとやかくいう人も居るらしいが、そんなことをやっていれば無責任で楽しいでしょう。
 歴史学とはそんなものではない。などと学芸員の講師が眉をひそめました。

 オーソライズしてあるもの、考古学的手法などでの物証証拠があるものに立脚していくという、ストイックに身を限っているのですね。
 それに関連するのか、人の実在性を否定したりや、それに疑義を入れることを学問的だと誤解しているようですね。
 久米の仙人や聖徳太子の実在も何かとそんな目で見られているし、なんと昨夕と今朝の新聞では、山本勘助って実在が疑われていたそうですね。
 でも実在を示唆するものが見つかったとの事です。http://www.asahi.com/culture/update/0728/TKY200907280229.html
 学者たちのこの石頭って、私はとても馬鹿らしい思いです。
 芥川にも藪の中とか小説がありますが、まぁ事の本当はとても難しいですね。
 裁判員制度で、事実認定が課せられるのですが、なんでもかでも、歴史学者みたいに存在性の疑義ばかりに捉われていれば、冤罪はなくなるでしょう。
 でも裁判ってのが機能しませんよね。
 歴史学と裁判の立証や実証は性格が違うでしょうが、物証や文書の見比べだけに根拠を求める(大変な作業ですが)ことに限定するなら、そんなのは判断者でも学者でもないと存じます。
 物証があっても、事実はちがうのではないか、というのが判断者としての学者であるべきです。
 物証がなくても、これはこういうことなのだ、というのが見識ある学者というべきです。
 歴史学者では無論ありませんが、そんなふうな資質を徐福会において是非勉強していきたいと存じます。どうかよろしくお願い申しあげます。
 

日ユ同祖論は荒唐無稽か

 投稿者:莽翁 寒岩(一笠一蓑一杖)  投稿日:2009年 7月26日(日)17時00分17秒
   日本に住み着いた、45年来の友人、イギリス人です。よく見ればイギリス人。でも完全に日本人としています。ご存じの方も多いし、関係が深いかたもおりますので名前は伏せます。
 いろんな出自の方々が日本にはおられるのです。でも全く日本人なんです。
 私の居た大学にもヨーロッパの方が居ました。教員。数十年、日本にいただけですが心も話も、表情も全くお隣のお姉さんと同じ。
 数十年ではなく、うまれてから、ずぅっと居る方なんか、もう日本人でしかない。
 ユダヤの方がおいでになって、暮らしていたら、表情や気持ちの動き、言語、そして体格だってもう日本人になっていてもおかしくはありませんでしょう。
 もう区別もつかないどころか、本人も古代からの出自がわからないのでしょう。
 そういう様々な方々がこの、日本列島という女体にも似た水分の多い民族性で同化しているのではないでしょうか。
 痕跡は言語と心性、ちょいとした表情や心情的傾向にそれこそサトル、微妙に察知するしかないのではないでしょうか。
 日本人的とはどういうことか。
 それは独特のあいまい性と受容性に私は感じ取っていますが。
 また、環太平洋的な海洋性も、サンカたちの山岳性とは微妙に異なっていることを生活体験しております。
 私自身は海洋的出自であると痛感しています。体質特徴もそんな感じです。
 生活体験とは、日本人同士として異質感を受ける経験を日々家内から受けていますということです。私事ではありますが。
 

日ユ同祖論はありえないか

 投稿者:莽翁 寒岩(一笠一蓑一杖)  投稿日:2009年 7月26日(日)10時17分40秒
   (1)オバマさんがカダフィさんと握手している報道がありました。
 大リビア・アラブ社会主義人民ジャマーヒリーヤ国の指導者、実質代表者ですね。
 この方、アル・サーディ・カダフィ(Al Saadi Gadhafi、1973年5月28日 - )という息子さんがおられるそうで、 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%82%B5%E3%83%BC%E3%83%87%E3%82%A3%E3%83%BB%E3%82%AB%E3%83%80%E3%83%95%E3%82%A3 には写真がありました。
 これを見た瞬間、なんだ彼だ、と思いました。彼とは50年間、変わらずに友人である男です。無論今は私と同じに年齢を重ねています。50年年前の彼です。
 リビアの方がどういう言語と族性か存じません。
 ユダヤと共通するかどうかもわかりません。

(2)同じオバマさんなんですが、全く別の写真でしたが。向かって右(彼からは左上)上からの写真がありました。新聞です。
 あぁ、大和屋竺だ。とわかったのですが、オバマさんでした。
 高校で大体同じでしたが、北海道からの転校です。映画監督で、一応その道では著名55だたかなく為りました。もう32年頃入党してたのではないかな。
 家にも何度かきました。独特の奴でした。

 彼ら二人のなんとまったく同じ相貌に接して、ユダヤの方が住み着いて、日本に全く同化していても、誰もそうだとはわからないのではないでしょうか、という思いに打たれています。
 カダフィさんと全く同じ奴は、太平洋岸東北。我が列島の南方から海伝いに江戸期まえにきたそうです。網元です。
 まだ元気なんで、パソコンに触らない彼にプリントアウトして、今度わたしてやるつもりです。
 つまらぬ経験談と感想ですが、今まで荒唐無稽としか思わなかった、日ユ同祖論も或いは在りうることではないかと思い始めています。
 ならば日本人の古代心性や言語でそういう痕跡を探索したいと存じます。
 少しでも参考になることをお教えください。
 

物部氏は徐福一行に加わっていた

 投稿者:maeda  投稿日:2009年 6月14日(日)13時57分35秒
  「月刊ムー」の7月号に、ついに日本の神道の由来が開かされました。
 総力特集「封印された物部神道 秦始皇帝とユダヤの秘義ー唯一絶対神の信仰を古代日本に持ち込んだ徐福の謎」
 これは飛鳥昭雄さんの、まれにみる日本の秘史解明の総合的論文です。ぜひお読みください。

 2009年1月のヤタガラスとの会見で、物部氏の正体に関する重大な秘密が告げられます。
 ヤタガラスといわれる老紳士が語った言葉は
「物部氏は徐福とともに来たり!!」
 ということでした。

 物部集団は、徐福一行から生まれた集団です。その呪文は死人をも生き返らせるというのは、不老不死の霊薬を求めた徐福一行だからこそ可能だったのでしょう。
 それも、遡れば古代イスラエルの失われた10部族と繋がってくるのです。
 いよいよ日本の歴史の真実が明かされる時代になりました。
 東三河、富士山麓、相模には徐福伝承が明らかにのこっています。
 東三河は、物部の祖神ニギハヤヒ尊をまつる、物部王国でした。

 日本の古代史の真相が、だんだん明らかにされていきます。
 

額田王は消された古代ヤマトの最後のキーパーソンか(2)

 投稿者:maeda  投稿日:2009年 4月 5日(日)15時14分29秒
編集済
  額田王は倭姫王だった!?

 ぬかた会館で額田王の実物大人形を見て帰宅したあと、どうも気になり、本棚を探してみたら、梅澤恵美子さんの著書「額田王の謎」を、2冊見つけました。
 走り読みしていますと、驚くべきことが書かれていました。

 「額田王は、物部氏の血を引く巫女であり、皇族に属する女人で、天智天皇の皇后”倭姫王(やまとひめのおおきみ)であった。」というのです。
 しかも、孝徳天皇と間人皇后の娘だったと推定しています。

 照山の麓にある賀茂神社の創建には、孝徳天皇が関係されていると、神社誌に書かれています。本宮山は、物部氏の祖、ニギハヤヒ尊を祀っているし、ぬかたに額田王が居たとすると、天智天皇、天武天皇は、三河と強い関係を持っていたことが分かります。

 天智天皇の皇后が倭姫王であったとすれば、天武天皇が、病に倒れた天智天皇の枕元で、自分は出家するからと言って、ヤマトに逃れる前、倭姫王を天皇にするように勧めた意味がよくわかります。
 消された東ヤマトを、消したのはこのあたりの歴史を調べれば分かるかも知れません。

 ところで、額田王が物部氏の巫女だったとして、ライバル関係であった持統天皇は、どの血脈につながるのでしょうか。
 持統天皇の母親の系図をたどると、次のようになっています。

 蘇我稲目ー馬子ー倉麻呂ー石川麻呂ー遠智娘ー
                       lー持統天皇
             斉明天皇ー天智天皇ー

 従って、持統天皇は蘇我氏の血脈で、その祖父の石川麻呂が天智天皇に殺害されているので、歪んだ魂を担った可能性があります。
 斉明天皇と額田王は、よく似た運命をたどっているようですが、物部氏の巫女だったからだと、梅澤氏は書いています。
 一方、物部氏も蘇我氏と同じ血縁関係にあるようです。

 三河は物部氏も蘇我氏とも関係があり、彼らの御名代になっていたと考えられます。斉明天皇が東三河の 石巻神社に圭田を奉納したのも、その関係からかも知れません。
 持統天皇は、自ら天照大神とならんとして、自分の出自に関係する事実を消すため、日本書紀は、三河のことを書かなかったのかも知れません。
 

額田王は消された古代ヤマトの最後のキーマンか(1)

 投稿者:maeda  投稿日:2009年 4月 5日(日)15時08分5秒
編集済
   3月29日に岡崎市のぬかた会館で、還源の会が開かれましたが、ぬかた会館には、等身大の額田王が飾られていたのです。
 これを見て、なるほど、額田王は額田郡の出身だったんだなと直観しました。
 額田王が、蒲生野で読んだと言われる万葉集「あかねさす むらさきのゆき しめのゆき のもりはみずや きみがそでふる」という歌は、大変有名ですが、紫川が近くの蒲郡にあるのも、関係があるように思えたからです。
 後で、梅澤恵美子氏著「額田王の謎」を読み返しますと、額田王は、日本国家誕生の真相を握っていたということが分かりました。

額田王と持統天皇の確執
 額田王が、天武天皇から天智天皇に移ってから、万葉集では記録が残っているのに、記紀に書かれることなくうずもれてしまったのは、背景に持統天皇の謀略があるためと、梅澤さんは推定しています。
 額田王が、額田町に関係があるとすれば、持統天皇が三河行幸したとき、何らかの対策(歴史消し)が行われた可能性があります。
 持統天皇と藤原不比等が、日本の古代史を曲げた張本人だという可能性は大きい。
 それにしても、ぬかた会館2階の額田王の実物大人形は、迫力がありました。また少し、イメージが膨らみそうです。
 

「探究幻の富士古文献」を読む会

 投稿者:maeda  投稿日:2009年 3月12日(木)13時42分35秒
  神奈川県徐福研究会では、「探究幻の富士古文献」を読む会を開催しております。
 第5回目は、次の要領で開催しますので、ご都合のつく方はご参加ください。
1.日時 3月18日(水)15:00~17:00
2.場所 神奈川県県民センター (705号室?)
3.発表者 中浜勝也氏
4.テーマ 富探究幻の士古文献
      第5章「富士文献の概要」日本国創建時代
5.参加費 1000円
6.その他 富士山麓の情報や徐福と神奈川の伝承について討論されます。
  茂在寅男先生も参加される予定です。
  奮ってご参加ください。
 問合せ先:神奈川県日中友好協会 Tel045-896-0124
                 Fax045-896-0125
 

イワクラと徐福4

 投稿者:maeda  投稿日:2009年 2月26日(木)10時08分6秒
  相模大山阿夫利神社は、ご祭神が大山祇命であるが、そのご正体は秦氏の祖である「徐福」である可能性が高いことを記録しておこう。 大山阿夫利神社は、関東総鎮護の本山として崇敬を集め、江戸時代に大山講を通じて大いに賑わった。その基点になったのが伊勢原町であるが、「伊勢原町勢誌」p132には、次のような記載があった。
「大山の山岳信仰に関連して、山梨県の道志村に残る伝説で、秦の徐福が蓬莱山なる富士に不老不死の仙薬があると聞き及び、五百人の童男童女を使わして求めたけれども得ること難く、たとえ幾年ついやそうともこの秘薬を手に入れぬ内は、帰国を許さずと厳命した。やむなく五百人の使者は土着して、相州大山までの連山を訪ね探して秦野に移住し、御正体山・地蔵ヶ岳・薬師ヶ岳・丹沢山から大山を、神仏に祈り探して、この地を蓬莱山と呼んだ。しかしめざす仙薬は遂に見当たらず、五百人の男女はここに帰化してしまった。」
 つまり、徐福一行は、リーダー徐福の厳命で、不老長寿の仙薬を求めて、秦野に移住し、蓬莱山と呼んで帰化してしまったというのだ。その祖神「徐福」は、大山の奥社に祭られているはずで、阿夫利神社のご祭神「大山祇命」は、徐福を反映しているものと思われる。一方奥社「石尊社」のご神体は、立石状に突出した自然石と考えられており、秦氏が聖石を尊び、祖神の寄り代としたのであろう。
 

イワクラと徐福3

 投稿者:maeda  投稿日:2009年 2月26日(木)10時06分53秒
  「伽羅子神社」旧社地を中心として、真西に富士山山頂があり、真東に相模一宮・寒川神社が位置する。真北にヤビツ峠があり、南に五所神社が配置していることから、「伽羅子神社」が中心となった方位線が形成される(向井毬夫、石川邦夫共著「古代相模の方位線」(昭和59年10月、野麦書房発行)。 秦氏が各地で都を作るときに、聖地に対する方位を重視したことがここでも表現されているようである。
 仏教が盛んになる奈良時代になって、大山を開き大山寺を創設したのは良弁僧正である。彼は大山中腹に49の草堂を建て、弥勒の兜率天を再現しようとしたと言われるが、もともと東大寺の初代僧正となった高僧であり、東大寺要録などの記載事項から、秦野漆窪の出身と論証されている(秦野市史研究2号,1982,p15-29、松本信道、漆部直伊波と染屋時忠、秦野市史研究3号1983,p30-45)。
ただ、前半生が不明で伝説的なことが多く、秦氏系の近江商人が出た近江地方にも関係を持ち、「ヤホエ(ヤーベ)神事」など、ユダヤ的儀式の残る京都府相楽郡の笠置山で修業していることから、秦氏系渡来人である可能性が高い。
 東大寺二月堂の構造は、メッカの拝火神殿(カアバ)に似ているといい、二月堂では観音像が本尊になっているが、カアバでは、マリア像やイエス像があるという。ゾロアスター教のアフラ・マズダの教えと火と水への信仰が、ユダヤ教、景教にも影響を与え、東大寺の儀式にも取り入れられたのであろう。その東大寺の第一人者・良弁僧正が秦氏であり、大山を開いたことは、大山周辺に古代イスラエルの事跡が多く残されていたことが配慮された可能性も考えられる。
 

イワクラと徐福2

 投稿者:maeda  投稿日:2009年 2月26日(木)10時05分2秒
   彼らは、信仰的には、古来縄文人が持っていた磐座信仰を習合して、巨石や聖石信仰をベースにした古神道(ヤーヴェ信仰、一神教的多神教)に発展させたものと考える。そして、稲荷神社を建て、ご神体を磐座や聖石とし、更には、鏡や剣をご神体とするに至ったのであろう。
 また、徐福一行は不老不死の仙道を求め、陰陽石(聖石)を設置し祀る傾向があったようだ。中国連雲港市に徐福村が発見され、2005年に筆者もその地を訪問したが、記念館の庭に陽石(ファロスストーン)を発見して、大いに感激したものだった。
「富士古文献」には、徐福一行はその出身国の呼称をとって、秦氏を名乗ったことが記されている。後に中国名を嫌って、福岡、福田、福井など福のつく名に変えたり、波多や羽田、畑など、別字の名称に変えたというが、筆者は、基本は、古代イスラエル(ユダヤ)の呼称、「イエフダー」がハダ、ハタに変化し、漢字を当てはめたものと考えている。
興味深いことには、神奈川県の大山山麓の伊勢原には、「竹内文書」に記された古代イスラエル人ヨセフの墓と呼ばれる古塚(真磬塚または心敬塚)や、秦氏の大王とも言われる応神天皇の大臣であった、武内宿禰の伯母に由来すると伝える「伯母様」という地名が存在する。
近くの伊勢原日向地区には、秦氏に係る白髭神社と日向薬師が存在する。日向山の東側には「亀石」という巨石が存在し、その上に巨石群が存在する。中腹には東へ向いた巨大な鏡石や環状列石がある。 日向山の真南にある三宮比々多神社には、周辺の高速道路建設現場から移設されたストーンサークルが境内に存在している。この神社は神武6年創建という古社であり、真磬塚のほぼ真南に位置することから本来は塚を祀るために造られた社である可能性が高い。(超歴史研究会著「ヨセフの墓日本で発見」月刊ムー2006年6月号,p128-133、学習研究社発行; 皆神隆「神奈川の巨石信仰」、イワクラ会報6号)
 大山山頂の真南に位置する秦野は、秦川勝の開拓による土地であるとの由来が記された石碑を蓑毛大日堂の境内に有しており、秦野市内の旧乳牛「伽羅子神社」は、「からこ神」という中国系渡来人をご祭神としていたが、徐福一行が反映されているものと思われる。
 

イワクラと徐福

 投稿者:maeda  投稿日:2009年 2月26日(木)10時03分29秒
  一方、徐福一行は紀元前3世紀(BC219-210)に、シュメール系海人族の情報を得て、秦始皇帝に不老不死の霊薬がある、日本列島への渡航を申しでたのであろう。始皇帝と徐福の祖先は系図的に同一であったとも言われている。そもそも、中国の西域に位置する秦帝国は、漢民族の最初の統一王朝と考えられているが、実際には、紀元前3世紀にアレキサンダー大王の東征によって敗れた、アケメネス朝ペルシャのバクトリア(大秦国)からの亡命勢力が建国したものと言われる(鹿島昇説)。バクトリア勢力は、シルクロードの要衝を支配し、経済力、政治力、軍事力も保持していたので、ペルシャから独立して、秦帝国を建国することができたのである。始皇帝はギリシャ系イスラエル人の呂不韋の子であるとも言われている。 そして、徐福一行は、始皇帝の独裁政治に嫌気をさした秦帝国の有力者・古代イスラエル系秦氏を大量に含む人々の植民活動であったと推定される。
かれらは、青銅の銅鐸や鉄製の農具や武器、金銀財宝、穀物の種子を積み、船団を組んで出港した。乗員の中には、採鉱、鍛冶、織物、土木、酒造、建築、造船、などの技術者や医者、樂人や水夫、農夫もいた。その指導者が方士徐福である。彼らを支援したのは、秦帝国を支えた呂不韋などの秦氏(イスラエル財閥)であろう(久慈説)。
「漢書」には、「徐福は平原広沢を得て、王として止まり来たらず」と記しており、日本列島で植民活動を行い、小王国を築いた。それが、富士古文献に記された富士王朝や、丹後王朝、出雲王朝などと考えられる。 その他、北九州、日向、吉備、四国、大和などの小王国も形成され、連合国としての倭国が形成されたのであろう。その指導者層は古代イスラエル支配勢力である秦氏であり、 農耕・金属技術による弥生文化の深化が、彼らによってなされたものと考えられる。
 

イワクラ信仰に関する徐福と秦氏の役割

 投稿者:maeda  投稿日:2009年 2月26日(木)09時59分7秒
編集済
  愛知県の東三河地方に居住する機会を持ったが、そのとき、当地に石巻山、本宮山、鳳来寺山という3神山があり、それぞれの山頂付近には巨大な磐座と天狗や鬼伝説があることを見出していた。この中、石巻山については、秋田県の大湯にあるピラミッド型の黒又山(クロマンタ)と同じく、周囲から遥拝の対象となった古代ピラミッド山であることを論証し、イワクラ学会論文集「イワクラ」(2005年6月、遊糸社発行)に掲載されている。
そして、この地域には、秦始皇帝の時代に不老不死の霊薬をもとめて、童男童女を含む技術者集団が大挙して、蓬莱国に渡ったという徐福伝承をもつ秦氏の末裔の存在が確認された。これらのことは、拙著・古代神都東三河(1996年4月彩流社発行)に記載されている。
 その後、神奈川県秦野市に住む機会を得たが、この地域にも相州大山を含む「蓬莱山」呼ばれた丹沢山系と徐福伝承をもつ秦氏の存在が確認された。しかも、大山や丹沢山系には、石尊神や、クルソン仏という石神信仰が存在していた。 また、大山山頂には、4千年前の祭祀遺跡が存在したことが、考古学者の発掘により判明している。大山中腹には、阿夫利神社から出土した古拙シュメール文字が記されたのではないかと言われる目型石が存在する。ペトログラフ岩ともよばれ、記された文字の中で、Ψ型の文字はゾロアスター教の聖なる動物である牡牛(ミトラ神)を表していると見られている。 目形石にはその他、歴史言語学者の川崎真治氏の解読によって、古代中国甲骨文字(父)やインドのアショカ王に関係するアヒルクサ文字、エジプトの象形文字(ラー:日神)が混在していることが判明している。 これは、現代風に表現すれば4カ国語の文字が記録されているのである(鈴木旭著「超古代文明の秘密」(1994年8月、㈱日本文芸社発行))。 即ち、シュメール系海人族が、地中海や中近東の周辺文化を携えて渡来して残した遺跡と考えられるのである。
 

秦氏

 投稿者:莽翁 寒岩(一笠一蓑一杖)  投稿日:2009年 1月28日(水)15時50分23秒
   ご存じな事をまた一件。
 http://www7a.biglobe.ne.jp/~mkun/nazo/nazo.htm の日ユ同祖論のところに秦氏のことが書いてありますが、私個人は、この説は荒唐無稽ではないかと存じております。
 メソニック協会は良く知っており、決して秘密でもなんでもない、古い歴史のある団体です。インターナショナルで、いろんな国をまたいでいますので、そういう誤解もありますが、宗教の信仰のある方々の自由な団体です。勧誘はしておりません。
 日本の社会事業の草分けの一つである、戦前からの団体を引き継いでいる、日本社会事業大学の図書館には、社会福祉に関する文献の自由な閲覧に供する、メソニック文庫があります。メソニックというのは、フリーメイソンのことです。石工(メイソン)さんの古い職能団体を基盤にしております。
 日本でも橋やお城、或いは石灯篭の建築にはそういう古い職能者たちの横のつながりがあり、秘密厳守です。お城の建築ですからね。
 

(無題)

 投稿者:莽翁 寒岩(一笠一蓑一杖)  投稿日:2009年 1月28日(水)15時38分11秒
   前田先生の論文とご紀行を拝読。ありがとう御座いました。
 もうご存じかとぞんじますが、同時に、http://kikitai.teacup.com/qa4662964.html に聖徳太子に関する記述がありました。関連するかと存じまして、一応記録のためにここにご報告申し上げます。
 

東三河の聖地探訪

 投稿者:maeda  投稿日:2009年 1月27日(火)10時58分24秒
   東三河の古代史を見直すグループができて、先日(1月25日)車を連ねて12名ほどで石巻山と本宮山を探訪するチャンスに恵まれました。
 石巻山では、石巻神社下社と中腹の上社に参拝し、不動院・コノシロ池などを巡りました。
 途中、賀茂町の照山北麓に移された「天地主大神璽」と彫られた石碑を訪問し、神霊を感じ、大坂神社に回ったところ、偶然にも地元神社の総代が現れ、神社の御祭神の説明をしてくれました。大坂神社は、天照大神の親が祭られているということで、「イザナギ、イザナミ神」が祭られていることが分かりました。その隣の社は「天王社」だそうですが、神武天皇を隠し祭るところのように思えました。
 次に、八名井・一鍬田に架かる橋の欄干に建てられた天照像を拝観しましたが、この像は、瀬戸市の西山自然博物館「卑弥呼の里」で祀られている邪馬台国女王「卑弥呼」の絵と同じものでした。
 そして、三河一宮砥鹿神社奥の院のある本宮山へ。
 本宮山山頂では、まず、岩戸神社を参拝。と言っても、大きなイワクラの下方部に降りて、岩陰の岩戸に祭られた神を拝むわけです。女坂を下りたあと、男坂を登るのですが、鎖を張った岩壁をよじ登る極めて危険なコースでしたが、全員無事通過でした。
この岩戸の上に巨大な磐座があり、国見磐と名づけられていました。現在は、天の磐座と表示され、大己貴命が、眼下の平野を見まわして穂の国を治めたと記載されています。豊葦原瑞穂の国は、この地にあったことが分かるわけです。
 最後に、砥鹿神社奥の院の参拝です。途中、富士山遥拝所というところがあり、丁度快晴のこの日、白雪を被った富士山が見事に眺められました。東三河と富士が繋がったこの日でした。
 砥鹿神社のトガの名の由来はいろいろ説があります。豊川説、平原説などがありますが、「神の始めの神」が現れたという伝説があることからすれば、トオカミエヒタメのト神のことを指すのではないでしょうか。或いは岩戸神社の「戸」の神ではないかと思う次第です。
 いずれにしろ、古代神都・東三河の岩戸が開かれた一日だったと思われます。
 

東三河地方と聖徳太子(6)

 投稿者:maeda  投稿日:2008年 8月14日(木)10時57分52秒
  5)勝鬘経について
  法王帝説に、戌午の年(598、推古6年)小治田天皇、上宮王に請はせて、勝鬘経を講かしむ、とある。  三河多米郷の徳合長者が、聖徳太子の説教を聴きに行ったという伝承があることから、598年の勝鬘経は多米王・聖徳太子が東三河で講じたものであろう。
6)桐生山(鳳来寺山)のこと
  推古10年(AD602)三河の国桐生山(鳳来寺山)に巨大な異鳥がおり、偶々3尾捕まり、(天皇に)奉じられた。豊聡皇子31才は、これは鳳凰である、と奏上した。(尾参郷土史)。聖徳太子が、黒ぶちの駒に乗り、桐生山に飛び来たった(鳳来寺山縁起)。
  これらのことは、いずれも三河の出来事である。

7)秦氏とのつながりについて
  聖徳太子と強い関係のあった秦氏は、秦の始皇帝や徐福の後裔と考えられる。豊橋駅西は羽田町と呼ばれ、羽田氏の勢力の強いところである。聖徳太子から弥禄菩薩像を譲り受け、京都の広隆寺に安置した秦河勝も信州や関東に活躍地があり、東三河にも拠点を持っていた可能性がある。小坂井の菟足神社には、河勝の長男・石勝が天武朝に逗留したことが伝えられている。平井から現菟足神社に遷宮した地元の豪族ともつたえられている。

9.聖徳太子の思想
豊橋には、神社が多いこともさることながら、仏教の寺院が異常とも云えるほどに多い。
  八名郡には、150程の寺院があったが、60は廃寺となって消滅したと八名郡誌に書かれている。中には、太陽寺とか大知波廃寺など大型寺院群が廃寺になっている。
いわば、東三河は奈良、京都に負けない位の寺院をもつ、仏教王国になっていたのである。
  聖徳太子の思想は、「和を以て貴しとする」十七条憲法の外に、神道・仏教・道教・原始キリスト教、神仙思想など日本の精神性を形成する原点となったと思われる。

10.東三河の古代史の見直し
 東三河の資料を見直すと、鳳来寺が、推古天皇の勧請によるものであること、また、聖徳太子が来訪したとの伝承があることが判明した。一方、聖徳太子ゆかりの寺院、地名が多い土地について、奈良、京都のほかに播磨、滋賀、東三河に濃い分布があることを確認できた。聖徳太子の御児・山背大兄皇子が、蘇我入鹿に襲撃されたとき、家臣の三輪氏が、東国の乳部(みぶ)で、軍を整えて戦ってはどうかと進言したところ、山背皇子は、そうすれば勝つであろうが、自分のために人を死なせたくないとして、一族全員が自決されている。 東国の乳部とはどこかということであるが、筆者は、東三河の新城・千郷の壬生または、八名郡の美扶、石巻地域を想定している。
 そこで、東三河にある推古朝以前創立の仏教寺院と、聖徳太子自彫の像を持っていたと伝える寺を探ったところ、多数存在することが判明した。
推古朝以前につながりをもつ可能性がある仏教寺院が多数存在し、東三河で初期仏教王国を構成していたことが考えられる。

11.おわりに
聖徳太子を慕って、仏教の振興を図るために、日本に渡来した鑑真和上が、豊橋市多米町に有ったといわれる「萬象寺」に掛錫されていたことは、多米の地が、聖徳太子ゆかりの地であったことを示唆している。「隋書倭国伝」の記事に該当する「日本書紀」の記事では、輩世清は大唐の使人となっており、到着した海岸は、難波で都に近く、大郡というところである。そこに新居館を造り止宿し饗応を受けたことになっている。東三河の御津町の佐脇御所の南には、唐人池、都、大郡、などの地名が残っている。
 東三河の古墳、遺跡には、5-7世紀金銅製の金ぴか製品が多数出土するのも、これらの反映するものであろう。
 聖徳太子は、和を以て尊としとする21世紀の弥勒の世の到来を預言した、救世観音の顕現とみることができる。
 

東三河地方と聖徳太子(5)

 投稿者:maeda  投稿日:2008年 8月14日(木)10時56分9秒
  聖徳太子に対する新仮説
 厩戸の皇子・上宮聖徳太子の腹違いの兄は、多米王といわれた。真の聖徳太子は「多米王=アメノタリシヒコ」であったと考えられる。
1)倭王タリシヒコとは
「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す、つつがなきや、云々」   これは、隋書倭国伝に記された、倭王の隋帝に宛てた国書の挨拶文である。大業三年(推古15年、AD607年)のこと、倭王多利思比孤タリシヒコ が、使い小野妹子を遣わして、隋に朝貢したときのことである。日本国が隋( 中国) と対等の国交を始めた象徴的文言として、日本では国威を発揚するに大なる効果があった。  しかし、陽帝はこれをみて悦ヨロコ ばず、外相の鴻櫨卿 に命じた。「蛮夷の書は、無礼なところがある。再び以聞( 天子に申し上げる) するな」と。 それにも拘らず、陽帝は翌年(AD608) 文林郎輩清( 輩世清ハイセイセイ) を倭国に遣わした。このとき大臣・小野妹子が同道した。(㈱オノコムと関係?石巻小野田?)
尚、アメノタリシヒコは、天つ国を治める葛城系大王・首領を意味するのであろう。
2)並立する倭と日本
  唐の正史である「旧唐書」には「倭国」と「日本」が別々に登場し、後漢以来の歴代の王朝と交流があったのは「倭国」であり、日本とは倭の別種、或いは倭の地を併せた新興の国であると明記した。
旧唐書の倭国の条と日本の条の要点を拾いだしてみると次のようになる。
倭国の条
① 倭国は古の倭奴国(ワノクニ)
② その王の姓は阿毎氏
③ 貞観5年使いを遣わし方物を献ず。
日本の条
① 日本国は倭の別種。
② その国、日辺にある故をもって名となす。
③ 或いはいう、倭国自らその名の雅ならざるを悪み、改めて日本となすと。
④ 或いはいう、日本、旧小国、倭国の地を併せたりと。
  以上で重要なことは、「旧唐書」では、日本国は倭の別種すなわち、倭の分かれであると記してあることである。また日本は元は小国であったが、倭国の地を併合したともある。 とりわけ、倭国の領土と日本国の領土は違った所にあり、2つの国が並立していたといっている。
3)2人(3人)の役割を合わせた聖徳太子
聖徳太子は謎が多く、いろいろな説が出されており、そもそも、聖徳太子などは居なかったなど、百花繚乱である。「ふたりの聖徳太子」(関口昌春著)によると、「聖徳太子に多米王という兄がいた・・」とあり、さらに日子人太子が推古の末娘「ユミハリ王」を娶り、2人の子をもうけている、とある。  東三河豊橋には、多米郷があり、その東には、浜名湖との境界をなす、弓張ユミハリ山系があるのである。
「ふたりの聖徳太子」の要点は、通常知られる聖徳太子は、多米王といわれる兄の太子と上宮の太子といわれる弟の太子の二人がいて、聖徳太子の伝承の数々をつくってきたというところにある。
開皇20年(推古8年、AD600)、倭王が隋の文帝に使者を遣わしたとき、文帝の役人が倭国の風俗を訪ねた。  使者がいうには「倭王は天を兄とし、日を弟としている。天がまだ明けないとき、出掛けて政を聴き、あぐらをかいて坐り、日が出れば、すなわち理務をとどめ、わが弟に委せよう、という」と答えた。
これを解明すれば、兄は天帯日子(アメノタラシヒコ) で天子であり、弟は日子人(ヒコヒト)太子で日子であったのであろう。  兄は東三河にいた本家倭国の倭王である。一方弟・上宮の太子は蘇我の馬子や推古天皇と共に、本当に奈良の上宮に居られたのかも知れない。
4)倭王アメノタリシヒコたる聖徳太子
聖徳太子・多米王は本当に東三河に居たのだろうか。  多米王は豊浦トユラノ皇子ともいう。即ち、海隅に居られた方である。 多米は豊橋市の中央東部はずれにある。古代には多米郷はもっと広く、東田神明社も多米に含まれていたという。
東三河は豊の国であったと思われる。つまり豊浦は豊川に面した海岸、石巻町高井・玉川から神ケ谷・金田の地にあったと推定される。金田町に上浦、西浦の地名がある。国隠という地名もある。
多米には、由緒ある寺社が多く、徳合長者が居たという伝承がある。徳合長者は聖徳太子の勝鬘経の講を聞きにいったと伝えられている。
多米王は多米を地盤とする母の子と考えられ、多米王の母は蘇我馬子の兄弟で稲目の子石寸名郎女、多米王はこの母と橘豊日皇子( 用明天皇) の子である。 新撰姓氏録には、蘇我稲目の氏族に、石川、矢口、久米、川辺などがあり、東三河に多く分布している。
 

東三河地方と聖徳太子(4)

 投稿者:maeda  投稿日:2008年 8月 9日(土)11時31分53秒
  7)石巻村=神々村と呼ばれた根拠
  この古文書には、神代の神々、古代天皇、法王様が石巻村=神々村におられたことを記しており、その証拠能力は高い。 齊明天皇が来られていたことは、天武天皇の出自にも関係し重大事である。別資料によれば、齊明天皇は石巻神社に佳田50束を奉じたとされている。
8)鞍作鳥関連地
 聖徳太子の彫像を彫った、鳥仏師は、千郷・野田市場に在住し、彫像作りを行ったといわれ、その跡が、鐘鋳場という地名として残っている。 鳥仏師(地名):字野田市場89番地、氏は鞍作、鳥は名である。仏師なる故、世に鳥仏師と称した。梁の帰化人で推古天皇の御代大和に住した一族が鍛冶匠と共に来住して仏像を造ったのである。永正の頃鍛冶工の退出に際し、残って田畑の鳥追い役を命ぜられた。奈良・法隆寺内の中宮寺に白布で捲かれて封印されていた救世観音像は、鳥仏師作とされる。
9)山背の大兄皇子の東国壬生関連:千郷村の稲置壬生公
 成務天皇5年、県・邑を定め、国造を置いた。麻野県主は、土居氏で紀の国の人で、稲置壬生公である。垂仁天皇の皇子・鐸石別(ぬてしわけ)命の孫が稲置壬生公であり、日本武尊の従兄弟ということになる。壬生は、聖徳太子の子・山背の大兄皇子が、蘇我いるかに攻められたとき、生駒山に逃れて、挽回するならとの、家臣の三輪公との会話で、「もし東国壬生の国に戻り、兵を集めて戦えばきっと勝つだろう。しかし、自分の保身のために、殺生を起こしたくない。」といって、斑鳩寺で自ら一族もろとも火の中で滅びていった。
10)多米町の萬象寺:鑑真渡航と聖徳太子の謎に関連して
東大寺を建立の時、聖武天皇に戒位を授けるために、唐の高僧「鑑真」は、5度の渡航失敗、果ては両目失明にも屈せず、12年目にして、ついに渡海に成功した。その鑑真が、掛錫(かしゃく=禅僧などが修業のために寺に逗留すること)したといわれる寺が、豊橋市多米町の萬象寺であったと三河国総国風土記に載っている。
 「東征伝」(鑑真伝)によると、鑑真の日本渡航の真の理由は聖徳太子の国だからという。
唐大和上「東征伝」は、鑑真の弟子「淡海三船」の書とされるが、その詳細な著述は、山陰道使・三河守を歴任して都にいなかった三船によるものである。鑑真が三河・多米の萬象寺に、掛錫したということも、まんざら根も葉もないものとはいえない。多米の徳合長者が、聖徳太子の勝蔓経の講義を聴きにいったという伝承もある。鑑真は、その真の聖徳太子を偲んで日本渡航をされたのが真相のようだ。
 

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