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徐福王国相模

 投稿者:maeda  投稿日:2010年 8月 8日(日)15時35分30秒
編集済
   神奈川県の徐福伝承をベースにした、相模の古代秘史に関する拙著「徐福王国相模ー秦氏の刻む歴史-」(彩流社、2010年8月15日発行)という本が、刊行されます。
 よろしければ、読んでみてください。
目次は、
第1章 神奈川における徐福伝承
第2章 徐福伝承を伝える人々
第3章 日本における徐福の存在の重要性
 そのほか、秦氏の歴史、日本人のルーツに関する考察や古史古伝と徐福に関する考察も行っています。
(maeda)
 

竹槍さん のコメント抜粋

 投稿者:maeda  投稿日:2010年 8月 8日(日)15時29分5秒
  以下は熱田神宮にゆかりのある神職が酒の席で言ったことという断りで、2chに投稿されていた話です。
神武は何人もいた。だいたい殺したけど最後の一人がべらぼうに強かった。
伊勢神宮は奪われた。熱田神宮も奪われたけど返還された。

奥出雲で走査検索式というアカシックレコードにアクセスしてYesNoで質問の正否を確認する占いをしているアベソウカンさんから聞いたことですが、彼によると徐福は島根県の美保関から上陸したそうです。邪馬台国は大阪府豊中市が本拠地だとか。徐福と卑弥呼の間に血縁関係はないともおっしゃっていました。アイヌの祖先が倭人と日本の覇権を争うにあたって、不利だったので朝鮮半島から北方モンゴロイドを招きいれて、彼らの力を借りて勝利したとも聞きました。
 

(無題)

 投稿者:maeda  投稿日:2010年 8月 4日(水)21時43分37秒
  竹槍 さん

 徐福のことを、記載するのはいいのですが、現在の政治がらみで問題となりそうなことは、この掲示板には掲載しかねます。あまり、いろいろな問題含みの事を、記載されない範囲で掲載させてもらいます。どうぞよろしく。
 

よろしくお願いします

 投稿者:竹槍  投稿日:2010年 7月30日(金)03時45分47秒
  東三河のことはよくわからないんだけど、徐福伝説・物部神道とかかわりが深いようなので、それ関係の投稿をさせていただいております。  

段戸山「壇特山」

 投稿者:米山正美  投稿日:2010年 7月18日(日)01時47分48秒
  聖徳太子が設楽の山から石を投げたという伝説がありますが、それが壇特山だと思います。段戸山の何処から投げたのか?ということをご存知の方ありましたらお教えください。
                                    宜しく。  尚 段戸山がもと壇特山という事です
 

アラハバキ神について

 投稿者:maeda  投稿日:2010年 5月12日(水)14時33分2秒
   愛知県豊川市に住むS.G.さんから、
「郷土の歴史を調べていますが、花祭りと修験道を調べて行く中でアハラバ キがでて来ました。サイト検索で貴殿のサイトを見つけました。よければ、見識をお聞きしたい」とのメールを頂きました。

 小生も次のHPに、アラハバキ神のことを記述していましたので、関心は持っています。
 http://homepage2.nifty.com/kodaishinto/page007.html

 そこで、以下のような、現時点での見解をもって返事としたので、記録のために、添付しておきます。

「アラハバキ神のことですが、アラハバキ神は、東三河の4か所以上の神社に摂社として祀られています。
 地主神として、それぞれの神社の現在の主神より以前からいた神となり、門前に祀られることが多いようです。
 アラハバキ神は、東北で多く祀られているようですが、東三河で祀られていることは、東北と東三河の間に古代の交流があったと考えられます。
 オシラ様とか、立石神の形で祀られたり、履物の神様であったりするようです。
 しかし、祀っている神社などには、イワクラがある場合が多く、東三河では、イワクラ神社、砥鹿神社、二川大岩の麓の神社が祀っていたと思います。
 私は、たぶん石尊神や、イワクラの神(国常立大神)ではないかと考えています。」

 何方か、そのほか、情報があれば教えてください。
 

(無題)

 投稿者:吉村敏彦  投稿日:2010年 4月13日(火)11時42分25秒
  論争にはずみがつきそうです。中古にもプレミアムがつき、なかなか入手困難な書籍の一つだったのですが、このたびミネルヴァ書房より待望の復刻が、「古田武彦・古代史コレクション」と銘打ってスタートしたようです。「初期三部作」と呼ばれている、『「邪馬台国」はなかった』『失われた九州王朝』『盗まれた神話』の三冊がまず復刻されました。次いで『邪馬壹国の論理』『ここに古代王朝ありき』『倭人伝を徹底して読む』の復刻予定とのこと。 特に初期三部作は古田史学のデビュー作と言うだけでなく、その学問の方法を徹底して重視した論証スタイルに古代史学界が受けたインパクトもかなりの強烈なものでした。  

東三河と物部氏

 投稿者:maeda  投稿日:2010年 3月14日(日)14時29分44秒
  東三河の砥鹿神社と物部氏・大木食命の関係

 大木食命のことですが、先代旧事本紀の物部氏の系図には、次の通りと書かれています。

 饒速日尊ー宇摩志痲治命*ー孫味饒田命
            l-弟彦湯支命ー  三世尊大禰命
             (綏靖天皇時大臣)(安寧天皇時侍臣)
                      弟出雲醜大臣命  -四世孫大木食命
                      (懿徳天皇大臣)  (三河国造祖)
                      弟出石心大臣命   弟六見宿禰命
                      (孝昭天皇大臣)  (小治田連祖)
                                弟三見宿禰命
                                (孝安天皇大臣)

 *舅ナガスネヒコの君主であるが天神(神武)を大切にしない彼を布都主神魂刀で討つ。 尚、布都主神魂は、徐市(徐福)を指しているという説がある。

 つまり、大木食命は物部氏の直系第4世孫で、孝安天皇の時代に三河の国造になっていた人です。
 東三河の砥鹿神社のある一宮地区に、大木村がありますが、この地は大木食命に由来します。
 石巻神社の歴代宮司である、大木氏は大木食命の子孫であり、今は砥鹿神社の禰宜をしながら、石巻神社を治めているはずです。
 近年のことですが、大木宮司の親戚の方が、ある会社に勤めていたとき、砥鹿神社の歴代宮司・草鹿砥氏の上司だったことがあるといい、小生はご両人と面識をもつことができました。不思議な因縁です。

 大木食命の父である第3世「出雲醜大臣命」も、豊川市の出雲神社で祀られています。
 物部氏の第六世孫の孫「物部胆喰宿禰」は成務天皇の大臣で、秋田物部の祖であり、三川穂国造の妹(伊佐姫)を妾としています。
 つまり、物部氏の直系は、古代天皇家の大臣を務めながら、東三河と深い関係があります。特に、砥鹿神社、石巻神社は深い関係を持っていたようです。
 その砥鹿神社は、掛川の事任神社とつながりを持っていたとは、面白い話です。
 

【 邪馬壹國 】の比定

 投稿者:wajin  投稿日:2010年 1月24日(日)09時40分51秒
  【 邪馬壹國 】は【 熊本平野 】にに比定しています。

この事を証明するために、当掲示板を利用させていただきます。

ご説明は次の順路に従います。

┏ ┳ ◎. 帯方郡庁 ( ソウル付近 )
┃ ┃ ↓ . ( 七千餘里 ) ( 964km )
┃ ┃ ○. 狗邪韓國 ( 釜山付近 )
┃ ┃ ↓ . ( 千餘里 ) ( 137km )
┃ ┃ ①. 對馬國 ( 対馬・下島 )
自 萬 ↓ . ( 千餘里 ) ( 62km )
郡 七 ②. 一大國 ( 壱岐 )
至 百 ↓ . ( 千餘里 ) ( 36km )
女 餘 ③. 末盧國 ( 伊万里 )
王 里 ↓ . ( 五百里 ) ( 68km )
國 ┃ ④. 伊都國 ( 前原 )
萬 ┃ ↓ . ( 百里 ) ( 14km )
ニ ┃ ⑤. 奴國 ( 博多 )
千 ┃ ↓ . ( 百里 ) ( 14km )
餘 ┗ ⑥. 不彌國 ( 香椎 ) .━┳━┓
里 ∵ ↓. 水行二十日∵∵∵千∵┃
┃ ∵ ⑦. 投馬國 ( 久留米 ) .四∵┃
┃ ∵ ↓. 水行十日∵∵∵∵百 ( 192km )
┃ ∵ ↓. 陸行一月∵∵∵∵里∵┃
┗ ━ ⑧. 邪馬壹國 ( 熊本 ) ┻━┛


~~┃∵∵∵∵楽浪郡∵∵∵∵∵∵┃~~
~~┣━━━━━━━━━━━━━┫~~
~~┃∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵┃~~
~┌◎帯方郡庁∵∵∵∵∵∵∵∵∵┃~~
~↓┗┓∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵┃~~
~└┐┃∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵┃~~
~~↓┃∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵┃~~
~~↓┃∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵┃~~
~~↓┃∵∵∵帯方郡の領土∵∵∵┃~~
~~↓┃∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵┃~~
~~↓┃∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵┃~~
~┌┘┣━━━━━━━━━━━┳┛~~
~↓┏┛∵∵∵∵韓の領土∵∵∵┃~~~
~↓┃∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵┃~~~
~↓┃∵方可四千里∵狗邪┏━━┛~~~
~↓┃∵∵∵∵∵┏━○━┛~~~~~~
~↓┃∵┏━━━┛┌┤~┏┓~~~~~
~↓┗━┛┌→→→┘↓~┃┃~~~~~
~└→→→┘~~~~↓┏┛┃~~~~~
~~~~~~~對馬國├①┏┛~~~~~
~~~~~~~~~~↓┗┛対馬下島~~
~~~~~~~~~~↓┏┓~~~~~~
~~~~~~~一大國├②┛壱岐~~~~
~~~~~~~~~~↓~~~~~~~~
~~~~~~~~~~↓~┏━┓~┏━━
~~~~~~~~┏┓↓┏┛∵┗━┛⑥∵
~~~~┏━━━┛∵↓五百里∵∵/↓∵
~~~┏┛∵∵∵∵∵③→→④→⑤百不∵
┏━━┛∵∵∵∵∵∵末∵∵伊百奴里彌水∵
┛∵∵∵∵倭國∵∵∵盧∵∵都里國∵國行
∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵國∵∵國∵∵∵↓二
∵∵┏━┓∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵南十
∵┏┛~┗┓∵∵∵水行十日∵∵∵∵至日
┏┛~~~┗┓∵∵┌←←投馬國⑦←┘∵
┃~~~~~┃金∵↓∵∵∵∵∵∵∵∵∵
┃~~~~~┃峰∵南∵∵∵∵∵∵∵∵∵
┃~有明海~┃山∵至∵∵∵∵∵∵▲阿蘇
┃~~~~~┃▲∵└→→→→→⑧∵∵∵
┃~~~~~┃∵∵∵陸行一月∵邪馬壹國
┃~~~~~┃∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵
┃~~~~~┃∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵
┃~~~~~┃∵◎狗奴國∵∵∵∵∵∵∵

http://www2.ocn.ne.jp/~wajin/

 

三河とヤマト、相模のつながり

 投稿者:maeda  投稿日:2009年10月31日(土)10時22分53秒
   このたび、思いがけず、ある方から相模四ノ宮の「前鳥神社ものがたり」という書籍が送られてきた。


 それによると、前鳥神社には、応神天皇の皇子・ウジノワキイラツコ命が祀られており、近くにある真土大塚古墳に葬られている可能性を否定していないことが、興味深い。
 この神社の東近く相模川対岸にある一宮・寒川神社は、彼が争った相手兄の大山守命のゆかりがあり、相模川をはさんで対立していた可能性があるからだ。
 寒川神社の南約1kmのところに、応神塚という前方後円墳があり、応神天皇の遺髪が埋められているという話もある。

 奈良で行われたと伝えられる歴史も、もっと広範な地域で展開されていたのかも知れない。

 ウジノワキイラツコ命の兄で大山守命の弟であった大ササギ皇子(仁徳天皇)は、東三河と関係があるようで、奈良、三河、相模は、海上ルートを通じて、古代の王家つながりを持っていたようだ。

 ところで、追加資料として、「大山不動と日向薬師」という本の抜粋文も戴いたが、そこには、日向薬師の御堂の修理を、後円融天皇の綸旨で、参川と遠江両国に依頼したということが記載されている。
 興味深いことに、参川(三河)の鳳来寺山の峰の薬師は、役の行者の作製といわれ、60年に一度のご開帳で、なかなか見られないが、この木像の管理技術が認められたのかも知れないのである。
 いずれにしても、三河・遠州と相模のただならぬ関係があることが、推察される。
 

古代文字と信濃

 投稿者:maeda  投稿日:2009年10月 2日(金)14時09分17秒
  判崎史郎 さま

 古代文字、古史古伝と日本の中部・関東の関係に関心を持っていますが、判崎さまは、このあたりについて、かなり研究をされているようですね。
 また、ご高説を開示して頂ければ、有り難いと思います。
 今後ともよろしくお願いします。
 

三河と信濃の関わり

 投稿者:判崎史郎  投稿日:2009年 9月26日(土)20時03分39秒
  伊那谷に、古代文字で書かれた社伝記が伝わっている大御食神社があります。
私は、なぜそれが伝わっているのか? と思い探ってきましたが、最近ようやく見えてきました。
① 古代文字は、高皇産霊神ファミリーの思兼尊(吾智彦)が関わっていますが、恵那山の東に阿智神社があり、大御食神社は、阿智から別れた神社です。
② 天武天皇の時代、阿智神社と善光寺が、南信濃から北信濃へ移されました。
③ 善光寺の『聖徳太子の書簡の日付』の問題は、これで合点がいきます。
④ 諏訪大社の、建御名方神の出現と、秩父神社の配置も同時代です。
貴HPを最近知ったので、ぶしつけではありますが、とりあえず投稿させていただきました。 今後ともご教授いただきたく、宜しくお願い致します。
ブログ http://utukusinom.exblog.jp/
HP http://homepage3.nifty.com/utukusinomori/newpage1.html

http://homepage3.nifty.com/utukusinomori/newpage1.html

 

邪馬台国の最新情報と東三河(8)

 投稿者:maeda  投稿日:2009年 9月19日(土)14時22分42秒
  11.結論
1)「邪馬台国・東三河」説は、魏誌倭人伝の行程記述とその他記事、隋書倭国伝、記紀の神代史の記載事項をほぼ全て満足する説である。
2)よって、邪馬台国は「東三河」を包含し、卑弥呼の晩年は恵那・三河に来ていたと考える。
  (宗女トヨかもしれない。)

3)邪馬台国「九州説」は、水行、陸行の距離の説明が不能、隋書の記載を満足しない。
4)「奈良説」は、陸行1月の説明不能、「女王国の東、海を渡る千余里」の海がない。
5)更に、隋書倭国伝に述べる「邪摩堆に都す。即ち‘魏史’のいわゆる邪馬台なる者なり。」に続く記載で倭国において祷祭した「阿蘇山」(すなわち富士山)を見ることができない。
 

邪馬台国の最新情報と東三河(7)

 投稿者:maeda  投稿日:2009年 9月19日(土)14時21分23秒
  10.移動する邪馬台国
邪馬台国の伝承は、尾張にも残っていた。 卑弥呼の里と称する私設博物館を所有する源為朝公の直系子孫・西山氏が保管する古文書から得た伝承によれば、卑弥呼は九州北部から、奈良盆地に入り、岐阜県の恵那から東海に展開したという。 従来の「魏志」倭人伝に記された内容をはるかに超える詳しい実像を示すものである。古代女王卑弥呼は為朝公の守護神となっており、卑弥呼の石像と石剣が博物館に存在した。

10.1 卑弥呼の東遷
卑弥呼には戦闘能力はなかったが、戦うことなく、中国の王から受けた権威ある鏡を与えることにより、支配権を拡大することができた。 これにより、勢力範囲を広め、卑弥呼は国家を樹立するため、伊都国を東に遷すことを決心した。そして、紀氏水軍に命運を掛け瀬戸内海を渡海し、大和の大王が居住する地域へと向かった。卑弥呼は、東へ遷る際に立ち寄った地に、神剣模様を裏に彫った卑弥呼尊顔の章を首頭に授け、伊都の地名を残した。天女卑弥呼が、伊都国から通った航路は、皇祖・神武天皇が九州から東へ遷ったと同じ海路である。
卑弥呼は、大和近くの河内国で上陸しようと命じたが、海が荒れ上陸不能となり、紀ノ川を使うこととした。

10.2 卑弥呼はヤマトから岐阜・恵那へ
   卑弥呼は大和へ向かい、大和の国に入ったのち、光武帝から授かった権威の守護銅鏡を活用して、大きな邪馬台国とした。卑弥呼は、国造りと共に稲作りに尽力され、稲を作る太陽神(天照大神)とされ、民に崇められた。 卑弥呼は敵国によりしばしば襲撃を受けた。しかし、襲撃より恐れたものは、天の神・太陽の光が消え、黒い太陽になることであった。天女・卑弥呼は、その年を予知しており、それは、まさに正始九年であった。 その年、太陽神である卑弥呼は、誰よりも早く自分の目で確かめようと、東の地美州(美濃)恵那郷に向かった。卑弥呼は年老いていたが、随行人と共に、敵軍の目を避けて、黒い太陽が現れるまで、恵那に滞在した。 九月五日早朝に太陽が現れたが、間もなく黒い太陽になった。これを見た卑弥呼は、黒い太陽霊が恐ろしいと、気を失って倒れた。随行警護の付き人と共に、自国へと急ぎ運ばれようとしたが、道に迷い尾州(尾張)の原へ出た。そこで小牧山の敵方見張りに見つかり襲撃を受け、曽本近くで斬殺された。 貴人天女尊卑弥呼は、敵方の目を避けて、村人によって一時埋められ、その後更に曽本二光山に墳墓が造られ、後に首級は小牧山頂上に移し埋められたという。

10.3 移動する邪馬台国まとめ
邪馬台国の時代には、伊都国が邪馬台国・狗奴国とともに三大中心であったらしい。卑弥呼は、伊都国の出身で瀬戸内海を経て大和に移動した。さらに、東海・中部地方の恵那まで出かけているが、恵那と三河は繋がっていた。邪馬台国は、これらを含む広範囲の「移動するヤマトの国」であったと思われる。
筆者は、邪馬台国と狗奴国の接点は、東三河にあり、豊川または天竜川、富士川を挟んで東西の戦いが続けられていたと考えている。
 

邪馬台国の最新情報と東三河(6)

 投稿者:maeda  投稿日:2009年 9月19日(土)14時19分51秒
  7. 東三河の古代史地名仮説
7.1 隋書倭国伝による裏付け
隋書では、倭国は「東西5月行、南北3月行にして各々海に至る。邪摩堆に都す。 即ち‘魏史’のいわゆる邪馬台なる者なり。」とあり、その国は表現の示す規模の通り本州を表している。
また、文林郎輩清の来倭行程記事では、「竹斯国に至り、また東して秦王国に至る。また十余国を経て海岸に達す。竹斯国より以東は皆倭に附庸す。」とあり、
倭国は筑紫の東・秦王国(宇佐か周防か)の更に東、十余りの国を通り抜けたところの海岸にあった。東三河御津には、佐脇御所、唐人池、大郡などの地名がある。

7.2 宋書・梁書倭伝による裏付け
宋書倭国伝は、倭の五王のことを語っているが、梁書倭伝によると、これら倭王の居所は後漢代や三国時代と同様、邪馬台国であったという。つまり倭の五王の時代まで、首都は魏史に記された邪馬台国から移動していない。
ところが、倭の五王の一人であるオオハッセ若武王の伝承が、石巻山山麓・三輪川ほとりに現存し、朝倉の宮(朝倉川沿い)にいたという。これはアカイコ伝説であるが、古事記にも載っており、古事記のヤマトの伝説がここから取られていると考えられる。

8.卑弥呼の伝承があった。
新城市一鍬田の海倉橋・ウケイバ近くに卑弥呼の伝承があった。対岸の豊島に、天照大御神伝承があった。 豊川沿い出雲神社に、大天女が祀られていた。
 (2代目卑弥呼「トヨ」かもしれない。物部氏の根拠地で、豊の地名、天照大神誕生伝承があるから。)

9.卑弥呼の居所、墓の比定
天照大神の居所は、豊島に伝承がある。三上(御神を連想させる)に、上鳥見塚、下鳥見塚があった。記紀では、神武天皇が鳥見山に皇祖の祠を作り祀ったと伝えているから、鳥見塚は天照大神(太陽神)の墓の可能性がある。卑弥呼は、何代目かの天照大神と考えられるが、天女尊卑弥呼大神の呼称もあり、大天女伝承のある柑子の出雲神社などが注目される。2重環濠集落を形成していた、石巻玉川御所なども居所としての可能性を秘めている。
 

邪馬台国の最新情報と東三河(5)

 投稿者:maeda  投稿日:2009年 9月19日(土)14時18分13秒
  6.邪馬台国「東三河説」について (歴史研究会‘邪馬台国大論争’(2001.5)から)
東三河・古代東ヤマトと、魏志倭人伝に記された「邪馬台国」の事象は不思議なくらい一致する。
邪馬台国の所在地はどこか、江戸時代から論争されながら決着が付かないのは、従来の比定地が間違っていたからに他ならない。本論者は、従来比定地として取り上げられたことがない秘匿されてきた「東三河」に邪馬台国の本流があったことを提言する。尚、邪馬台国比定地は、全国に160ヵ所ほど存在する。

6.1 地名の由来からみた東三河邪馬台国説
中国の正史「魏志倭人伝」によれば、2ー3世紀の古代日本の政治の中心は、女王卑弥呼が都とする邪馬台国にあったと記されている。
「古代神都・東三河」説では、日本の古代政権の中心は、九州や奈良にあったのではなく、本州のほぼ中央の東海地方の「東ヤマト」にあったとする。
その理由は、西暦紀元前後から、「ヤマト」と呼ばれた地が、東三河を中心とする東海地方にあった推定される。邪馬台国と戦ったとされる狗奴国が、東方・静岡県に、久努国 (くのこく) として存在。関東地方には毛野国があった。その余の旁国が、本州各地に比定される、などが挙げられる。
   倭人伝にその余の傍国としてシマ、ミノなどがあると記載されているが、三河―伊勢湾周辺にこれらの国が存在している。

6.2 魏志倭人伝にいう卑奴母離(ひなもり夷守)
「女王国の以北に一大率を置く」とされ、その官を爾支(にき、稲置)、日呼子(ひここ)、島子(しまこ)等とよび、副官を卑奴母離(ひなもり、夷守)と呼んだことがわかる。この場合、古代中国人の日本地形の把握は、東方を南方と間違えて理解されている。
吉田茂樹氏著「地名の由来」(昭和56年新人物往来社出版)に、夷守(ひなもり)の地が、九州全体、および、岐阜、越後に存在したことがわかる。
夷守はその余の旁国に派遣された邪馬台国の統括地であり、邪馬台国からみて辺境の地に置いた土地である。その地が、九州北部や、日向にあることは、九州全体が2ー3世紀の時代に既に、邪馬台国からみて夷(ひな)の地であったことを意味する。  夷守(ひなもり)の地が、岐阜、越後にあることは、宮都が本州にあったことを示唆するだけでなく、これらの地が女王国の北部にあったということ、つまり、岐阜、越後の南部に女王国があったことを示唆している。

6.3 魏志倭人伝に記された邪馬台国の旁国
その余の旁国に弥奴国、躯臣国があるが、それらは美濃国(みののくに)、越国(こしのくに)と解釈できる。 一方、既述の「地名の由来」には、「出雲」という地名が出張った地形・半島を由来とすること、また「筑紫」という地名が、山塊の尽きるところを意味すると書かれている。 これらは、渥美半島付け根を出雲と比定、筑紫を東三河の作手(つくで)高原の尽きた所にある高峰、つまり本宮山を筑紫の日向の高千穂の峰と比定できる。
「地名の由来」と「魏志倭人伝」を組み合わせた整合性ある論理を活用すれば、古代神都「やまと」は、本州に存在したことが判るだけでなく、更には本州の中央部、岐阜、越後の南部にあったことを、導き出すことができる。

6.4.古代中国の日本列島の配置感覚
邪馬台国は、「三国史・魏誌」東夷伝倭人の章(魏誌倭人伝と略称)に初めて記述される、倭人の女王が都とする国である倭人の国の位置については、倭人伝の記述から、帯方郡から伊都国までがほぼ判明している。 邪馬台国に至るその後の行程については、九州説と奈良説に分かれて各種異論が出され、混乱を極めている。 その主原因は、古代中国では、日本列島が、九州を北端として本州が南方に伸びていると誤解されていたことにある。 その証拠は、混一彌理歴代国之図(1402年成立)や、行基図と呼ばれる国内の古代地図から明らかである。

6.5 魏誌倭人伝の行程の見直し
魏誌倭人伝の著者・陳寿がこの誤解に基づき、伊都国から奴国、不弥国を経て、更に南、水行20日で投馬国に至り、次いで南水行10日と陸行1月で女王の都とする邪馬台国に至ると記載した。しかし、現実には、南は東と理解すべきで、邪馬台国は、日本列島・本州の相当東の方にあたると見なければならない。帯方郡から一万二千里の表現は、遠方を表す常套句であるが、短里(1里=約90m)で1千キロ強となり、帯方郡からの直線距離とすると東海地方が該当する。
古代倭人の国に比定すると、不弥国は北九州(玄海)、投馬国は出雲、または吉備―鞆の可能性がある。更に南水行10日の到着地は丹後ないし摂津であり、ここから南(東)陸行1月の地は、東海地方に行き着く。そこで、東海地方で、古代ヤマトと呼ばれた大国はどこかという事になる。
三河・遠州は、古代には出雲・ヤマトないし東ヤマトと呼ばれていたとの伝承があり、ヤマトの宿彌伝承に基づくヤマトの地(宝飯郡豊津)、若倭部の地(浜松)があった。

6.6 弥生時代の権力機構が存在していた
三河一宮の縄文・弥生遺跡、北九州との関連を示唆する遠賀川式土器出土の環濠集落の白石遺跡や、伊場、土呂遺跡などの環濠集落からなる弥生時代中後期の遺跡が豊富で人口も多かったと思われる。そして、物部氏に統治された、参遠式銅鐸を祭奉する巨大国を形成していた。
倭人伝にいう「女王国の南(後漢書では東)に狗奴国あり。」および「女王国の東、海を渡る千余里、また国あり、皆倭種なり。」については、湖西市東の遠淡海(浜名湖)という一海を渡ると、千里(約80km)の地には、邪馬台国と戦った狗奴国に該当する久努国が磐田地区に存在していた。
三河一宮は、遠の朝廷と言われ、朝廷別命が祀られている。

6.7 東三河は神話伝承の古代神都であった
尾張、恵那に卑弥呼来場との伝承、東三河に天照大神が実在したとの伝承があった。さらに、イザナギ・イザナミ伝承、スサノオ来訪居住伝承、大己貴命・少彦名命が活躍されていたとの記紀神話の伝承をもつ地が、豊橋東北部・石巻山周辺に実在した。 また神々の来訪を伝える老津の伝承がある。地名にも天津、天之池、天橋などがあり、天国と記述された石柱碑などが残っている。
トヨアシハラミズホの国の呼称を伝える地が、三河一宮周辺にあり、神話伝承の古代神都・高天原を形成していたと考えられる。

6.8 東三河は謎の古代支配者の足跡を秘匿していた
東三河には、聖徳太子の足跡と、持統天皇御幸の伝承がある。 さらには、文武天皇の皇居(下条)や草壁皇子の皇居(宮路山)が存在したとの伝承がある。 その他、物部氏の祖、ニギハヤヒ・ウマシマジ・出雲色大臣・大木食命の鎮座伝承(大木・山ノ奥)があるなど、記紀神話の全てがとりそろっている。

6.9 参遠地方の文化
東三河、御津・小坂井には機織をもたらした徐福伝説がある。 皇室に献上するニギタエ用の高級絹織物は赤引き郷で作られ、天照大神のおわす伊勢に奉納する行事がある。つまり、魏志倭人伝にある古代からの倭錦を生産していた。三河一宮のワクグリ神社、服部神社、三河大野・赤引き郷のスサノオ神社、三ケ日の初衣神社なども、絹織物の発祥地と言われ、徐福伝説と関連する。

6.10 遺跡・出土品
奈良巻向遺跡の、初期搬入土器は「東海系の土器」が最多であり、三河一宮発祥の水神平式土器の伝播が基礎になっている。 また、東海系前方後方墳が奈良の発生期古墳に混在している(赤塚次郎氏)。出土品には、三河一宮の大木・山の奥、念仏塚古墳(5世紀?)から、 5尺の太刀が出土しており、豊橋市南部紙田川下流の宮脇古墳(5世紀)から120cm(魏尺で5尺)の儀刀が出土している。
石巻町牛川1号古墳(発生期の方墳)から国宝級ともいえる素環頭の中国将官の両刃の刀剣(後漢代・2世紀)が出土している。石巻神社には宮司・大木氏奉納の剣(5尺刀)と、文武天皇奉納の古鏡があったといわれている。
これらはいずれも倭人伝に述べられている「魏からの贈り物」の記事と符合している。
また、新城市の大宮の「大の木遺跡」からは、良質のヒスイの飾り物が出土している。

6.11 古代の風習
文化的にも、東海地方には、鯨面文身(刺青)の顔面土器が東海地方(白石、知立,伊奈)から出土している。 伊勢湾・三河湾では潜り漁が盛んであった。本宮山では亀トの言い伝え、クガタチに似た湯立てというシャーマニズムの伝承が東三河の各地にある。

6.12 古代の戦力
伊豆には、仁徳天皇時代に枯野船を作ったとの伝承がある。また、天智天皇の時代、白村江の戦いの主戦力が庵原氏という駿河地方の軍であった。 これらのことから、古代東海地方に優秀な海軍力が存在したことは、明らかである。

6.13 動物・植生・鉱物・気候
倭人伝に記された「蚕桑、猿・鹿、黒雉など動物の生息、気候温暖、山に丹」など植生動物を含め、豊橋市の石巻山、宝飯郡の本宮山、北設楽郡の鳳来寺山(3神山)の囲む地に目だって存在し、魏志倭人伝の記述を裏付けている。
 

邪馬台国の最新情報と東三河(4)

 投稿者:maeda  投稿日:2009年 9月19日(土)14時16分40秒
  5.東三河は倭王・聖徳太子・山背大兄皇子の根拠地
加藤謙吉著「秦氏とその民」(白水社2009.6.10新装版)には、東三河と厩戸や上宮王家のつながりを示す根拠の壬生部のことを記載している。
「皇極紀2年11月条に、蘇我入鹿の派遣した討伐軍によって斑鳩を急襲された山背大兄王らは生駒山の山中に逃れた。  この時、三輪文屋君は王に勧めて、”深草屯倉に移向きて、ここより馬に乗りて、東国に至りて、乳部(みぶ)をもって本として、軍を興して還り戦はむ。その勝たむこと必じ。”といった。
 王は、「戦をすれば間違いなく勝てるであろうが、自分一身のために万民に苦労をかけたくない。」と答え、山から帰り斑鳩寺に入り、子弟・妃妾らとともに自尽したという。
尚、乳部とは、上宮乳部のことで、上宮王家の所有する壬生部を指す。
遠山美都男氏や仁藤敦史氏の説では、王位継承資格を有する有力王族を対象に、その王族の経営する皇子宮に付属する経済的・軍事的基盤として付与されたもので、現実には蘇我馬子の意思が強く働き、厩戸皇子と山背大兄王の属する蘇我系の上宮王家以外に壬生部の領有は確認できないとする。
加藤氏は、壬生部と秦系集団の分布がかなりの地域で重複することを理由に、秦氏が壬生部の管理者であった事実を推定した。 その上で、上宮乳部(みぶべ)は、秦氏がそれを管轄する立場にあったと考えざるを得ないとしている。
山背大兄王が窮地を脱するため、東国の乳部を兵として再挙をはかることは、秦氏の軍事援助を当てにしたもので、軍事行動とみるべきである。
では、その乳部=壬生部の本拠地がどこにあったかというと、「常世の虫」信仰を秦河勝が打ち懲らした話と繋がる。 富士川付近で起きたこの事件の「大生部」は、壬生部のことで、「姓氏録」に左京皇別上の御使朝臣の本系に、御室の雑使であった「大壬生」らが逃亡し、御使氏の祖である、気入彦命に、参河国で捕らわれたとある。
大壬生の逃亡先(実際にはその本拠地)と見られる地域として「和名抄」によれば、参河国八名郡に「美夫郷」の郷名があることなどに衣拠すると、「大生部」は「大壬生部」のことである。
三河「美夫郷」の近くに「養父郷」や、三輪山の元山と言われる「石巻山」があり、この地区は三輪郷とよばれたようであり、三輪氏の本貫である可能性が高い。また、石巻神社は、聖徳太子建立との伝承がある。ここに、聖徳太子の御子・山背大兄王の背後に壬生部の本拠地があったのは、東三河ということが導かれたわけである。
 

邪馬台国の最新情報と東三河(3)

 投稿者:maeda  投稿日:2009年 9月19日(土)14時15分34秒
  4.リモートビューイングによる邪馬台国の透視結果
近年、スピリチュアル世界の現象で、現実の社会活動に役立つ技術として、リモートビューイングという技術が確立されてきている。米国FBI超能力捜査官・ジョー・マクモニーグル氏は、そのずば抜けた能力者で、犯罪捜査に協力してテレビで話題になった。この遠隔透視技術で、現在、過去、未来の出来事を見ることができるという。
サイエンス研究サロン「黄トンボ」を立ち上げた権藤正勝氏は、マクモニーグル氏の協力を得て、邪馬台国の透視を行った。詳細:権藤正勝著「邪馬台国発見」(学研2009.8)
結果を要約すると、①女王・卑弥呼の部族は、ヤマトと称し、王国の名前もヤマトとした。 ②邪馬台国は富士山東を境界とした日本列島西部全体を包含した。 ③卑弥呼は、大坂から奈良の鳥見山に「夏の居城」を定めて倭国連合を統治した。 ④卑弥呼の墓は、その部族出身拠点で「冬の居城」のあった山口県長門にあった。 ⑤卑弥呼の部族は南西諸島から、九州北部に入り、朝鮮半島、北九州、山口県を占拠していたという。
   すなわち、邪馬台国は「女王の都するところ」である「夏の居城」のあった奈良の桜井市あたりで、ここが首都であったと透視している。女王国の名前は「ヤマト」であり、「魏志倭人伝」の伝える「邪馬台国」であり、その名前は部族連合体全体を意味するようになった。これが大和朝廷に受け継がれた。卑弥呼が奈良に来たことで、統治が手薄になった北九州と山口の統治を確実にするため、自分の出身部族の直轄地の福岡・伊都国に一大率を設けたということになる。
ここで、東三河は、東国狗奴国との戦闘の前線拠点となっていたと考えられる。
 

邪馬台国の最新情報と東三河(2)

 投稿者:maeda  投稿日:2009年 9月19日(土)14時14分20秒
  3.富士山麓出土の金印
「金印」が山中湖の長生村(徐福一族が住んでいた長寿村と言われている。現在は長池村になっている)の栗林遺跡の近くの畑を羽田正次氏が耕していて発見された。(羽田武栄著「真説徐福伝説」) 最初は「秦」と読まれて秦氏の印鑑と思われていたが、1991年に中国徐州博物館の李氏によって、中国三国志の時代の将軍の印鑑である事がわかった。読み方は「己大方」(みたいほう)と読み、三国時代の「呉」国の「黄巾軍」の大将の呼び名である 。
  三国志の記録によると呉の皇帝孫権は西暦230年に、徐福の子孫が住むという瀛(えい)州(富士北麓)に衞温と諸葛直に一万の兵を与え東海に繰り出し応援依頼に向かわせた。
しかし二人は富士には行きつけず、夷州(台湾)から数千の住民を連れ帰っただけだった。肝心の富士にはいきつけなかったので、命令不履行で二人は殺された。 徐福の子孫を連れ帰ってくるようにと言う事は、徐福渡来から500年もたってからのこと。これは日本に応援を頼んだと同じ事で、徐福はそれ程中国で重要な皇族だったと思われる。(インターネット情報による富士山西麓住まいの橘高啓氏の説)
はたして、呉国の大将軍は富士にいたのか。金印があることから、呉国の大将軍が富士にいたといえる。調べてみると、呉の時代の貴重な宝物が山梨からごっそりと出て来たという。
 山梨県八代町(八代とは神武天皇以降の八代天皇がいた所のため八代といわれている)の狐塚古墳からは呉の国の紀年鏡(西暦238年)の一枚が出土している。この古墳は3世紀頃の天皇の古墳(二重堀構造でこれは天皇の古墳しか採用されていない)と思われ、日本の天皇家と呉国とはただならぬ関係にあった。この事は徐福とは中国斉の国の国王だった可能性もあり、王族が日本に来ていたということになる。
この金印は、AD3世紀のものとなると、卑弥呼の時代と重なるので、その重要性に注目しなければならない。呉の将軍の印であることが公表されれば、魏国と呉国の争いが、邪馬台国と狗奴国の争いに反映したとして、今後、歴史学会でも大変注目されることになると思われる。
 

邪馬台国の最新情報と東三河

 投稿者:maeda  投稿日:2009年 9月19日(土)14時12分56秒
  邪馬台国とはヤマトの国→東三河・邪馬台国説
リモートビューイングによる邪馬台国の透視結果
富士山麓・山中湖畔出土の金印は卑弥呼の時代のもの
倭王・聖徳太子のバックとなる三輪の地は東三河・美夫郷・養父郷・遠の朝廷・朝廷別
移動する邪馬台国
1.邪馬台国問題の論点
「魏志」倭人伝には、3世紀の日本列島は女王国であり、女王卑弥呼が都とするところは「邪馬台
国」と呼ばれたという。「隋書」倭国伝には、倭国は、「魏志」にいう所の「邪馬台」であると記載する。
  しかも、7世紀初め、そこには「アメノタリシヒコ」という倭王が居た。「旧唐書」には、「倭国」と「日本」が別々に登場し、日本は「倭の別種」、或いは倭の地を併せた7世紀の「新興の国」であるという。
即ち、「邪馬台国」は、「倭国(わこく=やまとのくに)」であり、7世紀に「日本国(やまとのくに)」に統一されたと考えられる。古代「倭国」の都はどこか、というのが「邪馬台国」探しの焦点となるが、注目点は、古代の「ヤマト国」が、どの辺りにあったか、統治者の本拠地はどこか、それを裏付ける出土物や伝承があるかがポイントとなる。
ここで、①東ヤマトの浮上、②東三河は古代倭王の本拠地、③富士山麓出土の金印の意味、④リモートビューイングによる邪馬台国の透視結果、⑤東三河邪馬台国説、⑥移動する邪馬台国について紹介する。

2.封印された古代東ヤマトの浮上
奈良三輪山近くの黒塚古墳から大量の三角縁神獣鏡が発掘され、邪馬台 国・奈良大和説が意気盛んである。しかし、邪馬台国・奈良説には、妙な ことにヤマトという国発祥の原点となる小字の地名がないことが欠点になっている。また、「東に一海を渡りまた倭人の国がある」という魏史倭人伝 の記述にも適合しない。
当古代神都・東三河(古代東ヤマト)説では、三遠地方に古代大和があり、 東方の浜名湖(遠淡海)という海を渡れば、磐田・駿河を中心とした古代倭人の国があり、上記同型の鏡 が既に発掘されていた。東三河のヤマトは、徐福伝説と持統天皇の御幸伝説、神社、仏閣、地名、 人名、伝承、万葉集の歌等の検証から、日本神話の舞台そのものを示唆し ていた。
東三河は、物部氏の本貫の地であり、偽書と言われた「真実を述べた文 献・先代旧事本紀、ホツマ伝え」などから導き出せた。しかし、古代「ヤマト国=邪馬台国」は、複雑な現象の絡み合いによってついに 歴史上から抹消されてしまったのであろう。
 

古史古伝と徐福集団5

 投稿者:maeda  投稿日:2009年 8月15日(土)17時14分46秒
  7)物部文書
 「秋田物部文書」は、三河の物部氏が関与しており、ニギハヤヒ命は東北日本海沿岸の「鳥海山」に降臨したことになっている。
 「物部文書」が注目されるのは、物部氏が蘇我氏との戦いで敗れ、「神代の万国史」の写しである「物部文書」をもって、東北地方に逃れたことを、「九鬼文書」に記されていたからである。このとき諏訪に逃れた中臣氏一族が持参した写しの一部が「九鬼文書」で、更に前代の武列天皇の時代に失脚させられた竹内一族(平群真鳥の子孫)が秘匿していた「神代の万国史」の一部(竹内文書)である。
 「物部文書」が公開されたのは昭和59年である。天地創成、物部氏の祖ニギハヤヒ命の降臨神話、東国の国譲り、神武東征、蘇我氏との抗争、物部氏の秋田亡命などが記載されている。 また
「先代旧事本紀大成経」は「物部文書」の一つである。
 物部氏が、徐福一行であることが事実であれば、「物部文書」も当然、徐福一行およびその子孫の伝承が記されているものといえる。



6.まとめ
主要な古史古伝は、全て秦氏、徐福一行が関与していることがわかる。
 徐福一行は、その先祖が日本列島で王朝を築いていたことを知り、その拠点である蓬莱山である富士山麓に至り「富士古文書」を編纂した。また、物部氏が「神代の万国史」を持っていたということから、日本の超古代史を述べる「古史古伝」は、徐福一行がもたらした可能性が大きい。

参考文献
1.佐治芳彦:闇の日本史・古史古伝書;英知出版発行、2006.12.20
2.飛鳥昭雄・三神たける:封印された物部神道・唯一絶対神の信仰を古代日本に持ち込んだ徐福の謎;学研ムー, No.344、pp22-45、(2009.(7))
3.後藤隆:謎の根元聖典・先代旧事本紀大成経、徳間書店発行、2004.10.31
4.安本美典:奇書・先代旧事本紀の謎をさぐる、批評社発行、2007.05.25
 

古史古伝と徐福集団4

 投稿者:maeda  投稿日:2009年 8月15日(土)17時13分46秒
  4)上記(うえつふみ)
 「上記」が成立したのは、鎌倉時代初期で、編纂したのは、源頼朝の側近で、豊後国の守護職になった大友能直と言われる。能直は、当時散逸しかかっていた古文献を全国から集め、その集大成として「上記」を作った。編纂資料には、出雲国造上世紀、伊豆加茂三島伝書、尾張中島逆手記、伊勢度会文、摂津住吉大余座記、豊前後老家文、越白山之舟人文など15種が使われたという。「上記」は神代文字で書かれている。
 「上記」の原本はもともと、大分県臼杵市の大友家に伝わっていたが、1873年の洪水で流失してしまった。ウガヤフキアエズ朝は51代となっている。
 大友氏の本貫は、相模の松田で、秦野の波多野氏の分流である。まさに徐福一行の秦氏の後裔が、秦氏に関連する古記を編纂したものである。

5)先代旧事本紀
 「先代旧事本紀」は、漢文で記されているが、もとの超太古の記録は、神代文字で記されていたという。この書も、ウガヤフキアエズ朝が73代あったと記されている。様々な古史古伝を生みだした源が、実は「先代旧事本紀」であったという説もある。「竹内文書」や「九鬼文書」に登場する神名には、「先代旧事本紀」と近いものが多い。
 産業能率大学教授の安本美典氏によると、「先代旧事本紀」は、編者が物部氏の後裔、興原敏久(別称:物部中原宿祢)であり、823-834年に編集されたと推定されている。4)
 つまり、徐福一行の物部氏が、その一族の歴史を天皇家ではなく、自らの家系からの見方で編纂した家系の文書である。

6)秀真伝(ほつまつたえ)
 「秀真伝」の編者は、前半の22紋を出雲系の大物主櫛甕玉命、後半の18紋をその子大直直根子命が担当したという。この2人が「古事記」に出てくる櫛御方命、意富多々泥子と同一人物であれば、その成立年代は崇神天皇の時期までさかのぼる。
 「秀真伝」は、極めて神道に関わりの深い古伝書である。陰陽2極の原理で、陽は天と太陽、陰は大地と月ができた。 その中間に国常立尊が生まれたという。
 また、「秀真伝」では、天孫降臨が三度あったことになっている。一度目は、忍穂耳尊の第一皇子の奇玉火明饒速日尊が、日高見高天原から常陸の鹿島へ。そこから海路で、浪速の斑鳩峰に降臨した。二度目は、忍穂耳尊の第二皇子の仁仁気根尊が、日高見高天原から筑波山麓の新治の地に降臨した。三度目は、仁仁気根尊が、皇子の火火出見を筑紫親王として、九州に下らせ、自身は蓬莱参山(富士山)麓で第二次政庁を開いた。
 蓬莱山(富士山)を拠点にした政庁は、「富士古文書」と共通するところがあり、編者が出雲族で物部氏と考えられることから、徐福一行が関与したと考えられる。
 

古史古伝と徐福集団3

 投稿者:maeda  投稿日:2009年 8月15日(土)17時12分23秒
編集済
  5.各古史古伝の由来4)
1)竹内文書
 「竹内文書」の原典は、超古代から存在していたとする、皇祖皇太神宮という宮の神宝であり、成立年代は不明の文書である。この宮の神官を務めていた武内宿祢の子孫・平群真鳥という人物が、漢字仮名交じりに書き改めたという。1,3)「天神」「上古」「鵜草葺不合(ウガヤフキアエズ)」「神倭」の4時代に分類され、ウガヤフキアエズ朝は73代の天皇が存在していたとされている。
「竹内文書」が世に出たのは1910年で、皇祖皇太神宮が茨城県磯原で再興されたとき、初代管長の竹内宿祢から数えて第66代の竹内巨麿が神宝を公開したのが始まりである。これが昭和11年に皇室に対する「不敬罪」で告発され、最終的には無罪を勝ち取るが、証拠品の神宝は東京大空襲で焼失してしまった。
 ここで注目すべきは、武内宿祢は、「秦氏の大王」ともいわれる応神天皇の養父(あるいは父親)であることである。つまり秦氏が「竹内文書」を保管してきていたのだ。

2)九鬼文書
 「九鬼文書」は、天児屋根命を祖とする中臣家の末裔であり、熊野の別当を務める九鬼家に伝世されていたものと言われ、原典の成立年代は不明である。正式には公開されておらず、戦前に三浦一郎氏によって記された「九鬼文書の研究」がほぼ唯一の史料といわれる。原本の30巻は、「国体・歴史」が3卷で、残りは「中臣神道の神伝秘法」と「兵法・武教」である。この書にもウガヤフキアエズ朝が73代あったことが記されている。
 この原本は、天児屋根命の時代に神代文字で書かれたものを、藤原不比等によって漢字に書き改めたという。
 天児屋根命は、物部氏が高天原から降臨したときのメンバーであり、徐福一行がもたらした文書ということができる。

3)富士古文書(宮下文書、徐福文献)
 「富士古文書」(宮下文書)には、ずばり徐福が書き写したことが記載されている。すなわち、神皇第7代孝霊天皇の世73年(前213)、秦の方士徐福率いる85隻の大船団が、紀伊熊野に到着し、天皇が派遣した竹内宿祢を案内者として、富士山麓に落ち着いた。徐福は、富士の皇祖皇太神宮の神官から、神代文字で記された古代記録を見せられ、その内容を漢文で書き写したことから「徐福文献」という名が生じた。
 本書は、日本民族の原郷を古代ユーラシア大陸の中央に置き、その原日本人が日本列島に移動定着してきたこと、王朝交替、異国の侵略、大異変を克服して、神武王朝を成立させるまでの民族古代史を語っている。ウガヤフキアエズ朝は51代つづいたことになっている。
 つまり「富士古文書」の初期編纂は、徐福一行によるものであると云える。
 

古史古伝と徐福集団2

 投稿者:maeda  投稿日:2009年 8月15日(土)17時11分23秒
  3.日本の「古史古伝」と徐福をつなぐ秦氏
 秦氏の由来は、様々の説がある。 最も古い説では、徐福一行が、秦氏を称したということが、古史古伝の一つである「富士古文献」で伝えられている。
徐福の先祖は、系図的には秦始皇帝の先祖と同一人物になっている。始皇帝は、その一族も含めて、中国西域の出身であり、生まれ地の秦を姓とし、秦氏を名乗ったと思われる。当時のローマ帝国は大秦であり、中国大陸を統一した始皇帝は、秦を国名とした。
 秦国には、中央アジアの古代国家シュメールやペルシャ、古代イスラエル等の歴史を背負った人々がかなり含まれていたと考えられる。かれらは、徐福集団を構成し、日本列島に到着した。そして、多神教、一神教、仏教、道教、儒教を含む雑多な信仰を持っていたため、それらを統一することは難しかったと思われる。そこで、日本列島では、八百萬の神々が調和して存在する古神道を形成していったものと思われる。

4.日本の古史古伝に共通するもの
 日本の古史古伝としては、「竹内文書」、「富士古文献(宮下文書)」、「九鬼文書」、「物部文書」、「秀真伝」、「三笠紀」、「先代旧事本紀」、「上記(うえつふみ)」、「先代旧事本紀大成経」、「東日流外三郡誌」、「カタカムナ文献」、「契丹古伝」などがある。
 この中、近世に成立したとされる「先代旧事本紀大成経」、「東日流外三郡誌」と近代に満州で発見された「契丹古伝」を除く諸文献は、「古事記」以前の書と呼ばれているが、残りの文献にも、「古事記」以前の内容が含まれている。
 これらの書にほぼ共通しているのは、殆どが古代の政治闘争に敗北した豪族の家系に密かに伝えられた古文書であるということである。記録された文字は、「神代文字」によって書かれている例が多く、後の時代の人々が読めるように、漢文または漢字仮名まじりに書き改められたという。アカデミズムは、神代文字の存在を否定しているため、神代文字で書かれていたというだけで、古史古伝は「偽書」と断じられる大きな決め手になっている。しかし、古い神社や巨石に神代文字で記録された文字やペトログラフが残っており、神代文字の存在を完全に否定することはできないと考えられる。
 また、古史古伝に記されている歴史は、「記紀(古事記・日本書紀)」が伝えるものと大きく異なっている場合がある。そこには、宇宙創成の時代から、神々が地球に降臨する時代、アマテラスやスサノオといった神々が地球全土を統治していた時代、ウガヤフキアエズの50-73代にわたる長い、前天皇の時代の話がある。
 ただ、その古伝の編者を尋ねると、秦氏が関与してくるようである。 賀茂氏は秦氏の分族であるが、最近、月刊ムー2009年7月号p22-57で、飛鳥昭雄氏らが、賀茂氏出身のヤタガラスの長老からの情報を得て、「物部氏は徐福とともに来た」という、驚愕の事実を公開している。2) しかも彼らは、古代イスラエルの一神教信仰をもつ人々であったようである。
つまり、日本の古神道をもたらした物部集団は、徐福一行に含まれていたということが判明した。物部神道は、日本の神道の本流と考えられるので、神道秘伝をもつ「古史古伝」は、物部氏との繋がりが認められれば、徐福一行と関連すると考えられる。
 

古史古伝と徐福集団

 投稿者:maeda  投稿日:2009年 8月15日(土)17時10分10秒
           徐福集団と日本の古史古伝との繋がりに関する考察
                                         1.はじめに
 日本の古代を記述する史書は、西暦8世紀の初期に作られた「古事記」と「日本書紀」が最初だと伝えられている。しかし、両書は、時の天皇家の史書であり、勝者の作成した書物であるため、史実は、政権にとって、都合のよいように変更されたり抹殺されたりして、必ずしも本当の日本の史実を記録しているわけではないとの見解が広まっている。
 一方、それを補い、代わる史書があるかというと、「先代旧事本紀」や「上記(うえつふみ)」の他、「竹内文書」、「富士古文献(宮下文書)」、「九鬼文書」、「秀真伝」、「物部文書」、「先代旧事本紀大成経」、「東日流外三郡誌」などが存在する。1) しかし、アカデミズムの文献批判によって、いずれも偽書との烙印が押され、歴史学会からは、無視ないし、敬遠されているのが実情である。
  ところが、最近の徐福研究の進展によって、富士古文献と徐福の関係が明らかにされてきており、物部氏と徐福の間にも大きな繋がりがあることが判明しつつある。 そこで、「古史古伝」と徐福のつながりに注目して、各古史古伝との関係を洗い出してみると、驚くべき関係がみられることが分かった。 本報告では、日本の古史古伝と徐福の関係について、考察してみる。

2.徐福集団の日本列島での広がり
 徐福一行は、秦始皇帝の命を受けて、不老不死の霊薬を求めて、大船団を組んで渡海し、日本列島に到着したと思われる。徐福一行は、九州に上陸し、佐賀に第一の拠点を築いたあと、本体は人数を絞りながら、瀬戸内海を渡り、 太平洋側にでて、紀伊熊野に上陸した。紀伊半島は、徐福集団の第二の拠点であろう。彼らは紀伊熊野を拠点に探索を進め、三河湾に入り、東三河に第三の拠点を築いたあと、遠州から駿河を経て、富士山麓に最終拠点を築いたと考えられる。彼らの中には、伊豆半島に上陸したり、伊豆諸島の八丈島に拠点を築いた小グループもいたであろう。
 九州からの発進に際して、日本海側に進行したグループもある。彼らは、出雲や丹後半島で上陸し、拠点作りを行った上、秋田男鹿半島や青森の小泊に定着して、それぞれの地で徐福伝承を残した。更に、一部は北海道小樽フゴッペ遺跡などにも足跡を残したものと思われる。
 富士山麓に住みついた、徐福集団の主流は、富士南西麓に拠点を築いたが、当時、日本の古代王朝が存在した北麓に移動したと思われる。ここで、日本の高天原の世を築くが、その子孫は富士山麓での、しばしば噴火する環境を嫌って、西の三河や東の相模に移動して行ったと思われる。そして関東から、東北地方にも広がって行ったことが考えられる。
 神奈川県の丹沢山系や秦野に、徐福一行が霊薬を求めて来訪し、定着帰化したという伝承があり、藤沢市には、徐福の子孫・秦氏が福岡氏を名乗って住んでいたと彫られた墓碑が存在する。
 

東三河と上宮王家のつながり

 投稿者:maeda  投稿日:2009年 8月 6日(木)12時02分14秒
   加藤謙吉著「秦氏とその民」(白水社2009.6.10新装版、1998初版)を読んでいると、東三河と厩戸や上宮王家のつながりを示す根拠として、壬生部のことを記載していたので、記録しておきたい。
「皇極紀2年11月条に、蘇我入鹿の派遣した討伐軍によって斑鳩を急襲された山背大兄王らは生駒山の山中に逃れた。この時、三輪文屋君は王に勧めて、”深草屯倉に移向きて、ここより馬に乗りて、東国に至りて、乳部(みぶ)をもって本として、軍を興して還り戦はむ。その勝たむこと必じ。”といった。
 王は、「戦をすれば間違いなく勝てるであろうが、自分一身のために万民に苦労をかけたくない。」と答え、山から帰り斑鳩寺に入り、子弟・妃妾らとともに自尽したという。

 乳部とは、上宮乳部のことで、上宮王家の所有する壬生部を指す。遠山美都男氏や仁藤敦史氏の説では、王位継承資格を有する有力王族を対象に、その王族の経営する皇子宮に付属する経済的・軍事的基盤として付与されたもので、現実には蘇我馬子の意思が強く働き、厩戸皇子と山背大兄王の属する蘇我系の上宮王家以外に壬生部の領有は確認できないとする。
 加藤氏は、壬生部と秦系集団の分布がかなりの地域で重複することを理由に、秦氏が壬生部の管理者であった事実を推定した。 その上で、上宮乳部(みぶべ)は、秦氏がそれを管轄する立場にあったと考えざるを得ないとしている。

 山背大兄王が窮地を脱するため、東国の乳部を兵として再挙をはかることは、秦氏の軍事援助を当てにしたもので、軍事行動とみるべきである。

 その乳部=壬生部の本拠地がどこにあったかというと、「常世の虫」信仰を秦河勝が打ち懲らした話と繋がる。富士川付近で起きたこの事件の「大生部」は、壬生部のことで、「姓氏録」び左京皇別上の御使朝臣の本系に、御室の雑使であった「大壬生」らが逃亡し、御使氏の祖である、気入彦命に、参河国で捕らわれたとある。

 大壬生の逃亡先(実際にはその本拠地)と見られる地域として「和名抄」によれば、参河国八名郡に「美夫郷」の郷名があることなどに衣拠すると、「大生部」は「大壬生部」のことである。

 三河「美夫郷」の近くに、三輪山の元山と言われる「石巻山」があり、この地区は三輪郷とよばれたようであり、三輪氏の本貫である可能性が高い。聖徳太子の御子・山背大兄王の背後に壬生部の本拠地があったのは、東三河ということが導かれたわけである。
 

本当ですね

 投稿者:莽翁 寒岩(一笠一蓑一杖)  投稿日:2009年 8月 3日(月)13時48分4秒
   “想像”ということもずいぶんと広い幅がありますね。そして“想像しうること”というのも。
 何か資料とか、発掘物とかが歴史を紡ぎ、構成するのであると誤解し、それらに語らせるというのは、人間としてはさびしいなぁという思いで眺めまております。
 事実とされることだけを事実として、生きるという人生歩みをできない素晴らしい人たちがおられますよね。
 徐福の事項とは離れるのですが、存在事実だということ、あるべきだということとの境界を超える心意気がない人は生まれてきた意味があまりないのかも知れません。
 裁判でも出された証拠だけで判断するのでなく、その証拠を超えて見極める見識、人間性が、人生を見る経験がなければならない。
 こと専門にそのことをやるのなら、考古学や歴史学の物象や伝承、通説や記録の紙背を見る眼光に頼り、成長させる真剣な生き方、研究が望まれます。
 要するに私は、眼光とは真剣さ見識であると存じます。人間性です。
 人生を真剣に生きてきた方には、人の嘘と本当が、どんなにつくろわれても透けて見えますでしょう。
 そうやって、人それぞれの人生であり、歴史学なんだと存じております。
 通説と常識をどう出るか。逸脱するか。徐福のことで空想が広がります。
 

実証性について

 投稿者:maeda  投稿日:2009年 8月 3日(月)12時01分44秒
   証明できることは、存在する可能性があるでしょうが、証明できないからといって存在しないとは言えないと思います。
 世の中に証明できることしか、存在しないと考える人は、大変狭い世界に生きているのでしょう。
 想像しうることは、どこかに存在するとみて、探したり対応していく方が面白く生きられると思っています。
 

事柄の実証性ということ

 投稿者:莽翁 寒岩(一笠一蓑一杖)  投稿日:2009年 7月29日(水)16時56分52秒
   日本人の源流というようなことについて、自治体のシニアクラスで受講しました。
 そこで一言、渡来人といったら、そんなのは知らない。そういうことをとやかくいう人も居るらしいが、そんなことをやっていれば無責任で楽しいでしょう。
 歴史学とはそんなものではない。などと学芸員の講師が眉をひそめました。

 オーソライズしてあるもの、考古学的手法などでの物証証拠があるものに立脚していくという、ストイックに身を限っているのですね。
 それに関連するのか、人の実在性を否定したりや、それに疑義を入れることを学問的だと誤解しているようですね。
 久米の仙人や聖徳太子の実在も何かとそんな目で見られているし、なんと昨夕と今朝の新聞では、山本勘助って実在が疑われていたそうですね。
 でも実在を示唆するものが見つかったとの事です。http://www.asahi.com/culture/update/0728/TKY200907280229.html
 学者たちのこの石頭って、私はとても馬鹿らしい思いです。
 芥川にも藪の中とか小説がありますが、まぁ事の本当はとても難しいですね。
 裁判員制度で、事実認定が課せられるのですが、なんでもかでも、歴史学者みたいに存在性の疑義ばかりに捉われていれば、冤罪はなくなるでしょう。
 でも裁判ってのが機能しませんよね。
 歴史学と裁判の立証や実証は性格が違うでしょうが、物証や文書の見比べだけに根拠を求める(大変な作業ですが)ことに限定するなら、そんなのは判断者でも学者でもないと存じます。
 物証があっても、事実はちがうのではないか、というのが判断者としての学者であるべきです。
 物証がなくても、これはこういうことなのだ、というのが見識ある学者というべきです。
 歴史学者では無論ありませんが、そんなふうな資質を徐福会において是非勉強していきたいと存じます。どうかよろしくお願い申しあげます。
 

日ユ同祖論は荒唐無稽か

 投稿者:莽翁 寒岩(一笠一蓑一杖)  投稿日:2009年 7月26日(日)17時00分17秒
   日本に住み着いた、45年来の友人、イギリス人です。よく見ればイギリス人。でも完全に日本人としています。ご存じの方も多いし、関係が深いかたもおりますので名前は伏せます。
 いろんな出自の方々が日本にはおられるのです。でも全く日本人なんです。
 私の居た大学にもヨーロッパの方が居ました。教員。数十年、日本にいただけですが心も話も、表情も全くお隣のお姉さんと同じ。
 数十年ではなく、うまれてから、ずぅっと居る方なんか、もう日本人でしかない。
 ユダヤの方がおいでになって、暮らしていたら、表情や気持ちの動き、言語、そして体格だってもう日本人になっていてもおかしくはありませんでしょう。
 もう区別もつかないどころか、本人も古代からの出自がわからないのでしょう。
 そういう様々な方々がこの、日本列島という女体にも似た水分の多い民族性で同化しているのではないでしょうか。
 痕跡は言語と心性、ちょいとした表情や心情的傾向にそれこそサトル、微妙に察知するしかないのではないでしょうか。
 日本人的とはどういうことか。
 それは独特のあいまい性と受容性に私は感じ取っていますが。
 また、環太平洋的な海洋性も、サンカたちの山岳性とは微妙に異なっていることを生活体験しております。
 私自身は海洋的出自であると痛感しています。体質特徴もそんな感じです。
 生活体験とは、日本人同士として異質感を受ける経験を日々家内から受けていますということです。私事ではありますが。
 

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