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富士古文献の成立背景(7)

 投稿者:maeda  投稿日:2011年 7月26日(火)18時37分57秒
  9.謎の人 中臣藤原物部麿
 中臣藤原物部麿とはだれか? この宮下文書の継承過程でもっとも大きな事件を引き起したこの人物について、三輪義煕も岩間尹も、またこの文書の研究者として著名な渡辺長義、鈴木貞一、吾郎清彦氏は、何もふれていない。つまり現在の中臣氏や藤原氏の系図に、このような人物に該当するものを見出せないからであろう。
 ただし、岩間尹によると、この中臣藤原物部麿とは、大織冠鎌足の「子」であるという。その間のいきさつは岩間によれば次のとおりである。
 まず大化改新で蘇我蝦夷が焼討ちにあったさい、その所蔵していた「国記」「天皇記」が焼失しそうになったとき、船史恵尺が火中から「国記」だけを辛うじて取り出したことにっいて、岩間本によれば、蝦夷は「朝帝の宝庫を焼いて自殺した」という。
 その災害対策会議の席で、この「古記録滅失の崇り」が論議されたとき、田辺武居(甲斐国造)なる人物が、その古記録の原典が富士山麓(阿祖山太神宮)にあることを述べたが、それを天皇は不問にしたという。
 ただ、鎌足だけが、この田辺武居の話をきいて大いに喜び、自分の子の中臣藤原物部麿にその古記録の筆写を命じた。そこで物部麿は、田辺武居を案内として富士山麓に赴き、その古記録を写した(天智10年(671))
この謎の人物は、大海人皇子(天武)側が政権(皇位)奪取後に備えて派遣した密使であるという仮定から推理される結論は、藤原不比等である。
 彼は、幼少時より父の鎌足のブレーンの一人である百済系帰化人の田辺史大隅に養育された。彼の「不比等」という名も「史」からのものといわれている。つまり彼は、幼少時から、この史官のもとで育てられていただけに「歴史」に強かった。
 中臣藤原物部麿を案内した田辺武居は田辺史大隅であろう。 史官の彼がそのもっとも信頼する弟子である不比等を連れて富士山麓に出掛けたということは十分に可能である。このベテラン史官にとってはその古記録を「作正」し、かつ「宇津須」ことなど、いわば朝飯まえの仕事だろう。しかも不比等の父の鎌足には、お世話になっているし、それにまた、鎌足だけが、彼が奏した富士山麓の古記録の件について理解してくれたということもある。壬申の乱後の不比等の栄達と、記紀編修の仕掛人としての不比等のイメージから、謎の「中臣藤原物部麿」の正体こそ、この藤原不比等であると結論できる。(佐治)

 

富士古文献の成立背景(6)

 投稿者:maeda  投稿日:2011年 7月26日(火)18時37分12秒
  8.最初の改定
 歴代神官を助けて先住民系の人々が護ってきた宮下文書にとって、きわめて重大な事件が人皇三十六代天智天皇十(671)年の8月に起こった。
 それは朝廷から(近江京から)「中臣藤原物部麿」なる人物が、富士山麓を訪れて、この文書を読み「作正宇津須、つまり文書(徐福筆録とされるもの)の文章を正して、これを新たに写し改めたというのである。ちなみに、この「中臣藤原物部麿」が「作正宇津須」ところの文書は、建久三(1192)年8月、宮下源太夫義仁が「謹書」したときの原本とされている。上質の和紙に上質の筆墨を用いて記した文書なら、保存さえよければ、五、六百年はもつ。だが、徐福の時代から天智十年までは九百年近く経過しているのだから、相当傷んでいただろう。したがって中臣藤原物部麿なる人物が、筆写し直すという行為そのものはよくわかる。ただ、問題は「作正」の二字にある。「作正」とは現代語でいえば「改訂」にほかならない。
 何を規準として改訂したのであろうか? なぜ改訂したのであろうか? この改訂者の素姓も問題である。
 その改訂の時期には、天智天皇は病床にあった。天智の側近たちにとっては、すでに彼の後継者についてのひそかな論議がささやかれていたはずである。後継者として本命だった大海人皇子(皇太弟)は、天智の本心が大友皇子(天智の実子)にあることを知っていたから、病床の天智から皇位継承の意を告げられたとき、一身上の危機を悟り、天皇病気平癒のための「出家修道」の名目で吉野に去ったのは十月のことである。
 中臣藤原物部麿なる謎の人物が富士山麓を訪れ、そこにある古文書を読み、かつ「作正宇摩須」という行為に出たのは、このようなきわめて微妙な時期であったのである。
 ちなみに、この時点では中巨鎌足こと藤原鎌足はすでにいない(669年死亡)。鎌足を欠いたことによって、天智と皇大弟(大海人皇子)とのあいだの緊張は極度に高まっていた。
大海人皇子の打った布石の1つが腹心の中臣藤原物部麿の富士山麓派遺だったのではなかったか。そして、その目的は古代記録の入手とその変造である。つまり、この時点では古事記や日本書紀の編集はまだ行われていなかった。 皇位を狙う人物なら、その主張の正統(正当)性を訴えるためにも、新しく史書を作ることが必要となる。そのためには阿祖山太神宮保管の文書を眺めておくことが必要だ。もし、その文書が白目分の即位にとって不利なものだったらそれを改訂すればよい。そして改訂版に基づいて新たに修史作業を開始する。

 

富士古文献の成立背景(5)

 投稿者:maeda  投稿日:2011年 7月26日(火)18時35分59秒
  6.富士古文献の成立と徐福・孝元天皇
 秦の方士徐福が富士の阿祖山大神宮の神官が語った古代史を聴きその深さに感嘆するとともに、その貴重な記録の散逸するのをおそれ、改めて漢字で筆録したものが「富士古文献」とされている。
ほぼ紀元前200年ころまでに成立したものということになり、日本最古の史書ということになる。しかし膨大な伝承のすべてを徐福一代で筆録したとは考えられない。漢字をよく知る徐福の子孫なり従者がその作業を継承したものと考えられる。
 徐福筆録説とは別に、この文書の少なくとも「開闢神代暦代記」と「蘇我氏、栄日子氏、武部氏三家世代記」は、第八代孝元天皇がみずから撰録し、徐福はその勅命で筆録したものという説もある。すなわち岩間本によれば、岩間本に収録されている「暦代記」他数篇は孝元天皇がみずから編集した古代実録であり、それを「書き作り記し置」いたのが徐福である旨を、宮下源太夫義仁によって「謹書」されている。
孝元天皇というのは、津田左右吉博士の記紀批判以来、仮空の存在とされているが、一部の古史古伝研究者のあいだでは、神武系とは別系の孝昭王朝(孝昭、孝安、孝霊、孝元、開化の各天皇、物部系か?)のいわば後期の天皇であるとみられている。

7.富士古文献を継承したのは「国津神」系
 孝元天皇が即位前から編集しはじめ、秦の徐福およびその後継者が筆録したとされるこの文書を、代々継承してきたのは富士山麓の阿祖山神宮の神官グループである。
 このグループの長、つまり大宮司は、神代においては「守護司長」あるいは「高天原惣司令神」と称されていたが、神皇の世が終り人皇の代になってからは「宮守司長」、のち「大宮司長」、さらに後代に入って「大宮司」とよばれるようになったという。
 これらの漢風の呼称は、古史古伝に似合わないが、この文書の原本が徐福によって筆録されたといわれる全漢字のものである。「惣司令神」など近代的な語が出てくるのは明治-大正期に三輪義煕が現代訳したさいの表現である。
守護司長:大国主命-多真祖命(ヒコホホデミ時代)-神火須勢理命(第1代ウガヤフキアエズ時代)-阿尾弥真男命(オオヤマズミ系)-大山守皇子(応神天皇時代)。
 大国主命以来、阿祖山太神宮の神官職は、ほぼ一貫して国津神系(先住民族系)の人々によって占められてきた。
大山守皇子は阿祖山太神宮でこの文書の保存、継承の任についた。その子孫が「宮下」姓を名乗るようになる。大山守皇子の背後には人口の70%以上を占める先住民族系山の民、海の民が控えていた。

 

富士古文献の成立背景(4)

 投稿者:maeda  投稿日:2011年 7月26日(火)18時34分47秒
  5.富士古文献(宮下文書)の成立史
 以下、佐治芳彦著「謎の宮下文書」の記載を参考に、概略を述べる。
富士古文献はさまざまな「名称」で呼ばれている。宮下文書、富士文書、徐福文献、神皇紀、富士高大原朝史、開闘神代暦代記、寒川文書とよぶ人もいる。それぞれの名称はこの文書の内容、成立、継承、公開の過程を端的に物語っている。
1)「宮下文書」:これは阿祖山太神宮(富士太神宮)の大宮司を代々つとめてきたという富士山麓-富士吉田市大明見の宮下家(当主宮下義孝氏)に保存されている古代文書であることからの名称である。
2)「富士文書」(または富士文献ともいう):この文書の内容、成立、継承について、富士山が大きな役割を占めていることからの名称である。
3)「徐福文献」:もともと木片や竹、石面などに神代文字(古代和字)で記されていたこの文書の内容を、漢字で筆録したのが、秦の始皇帝(前259~前210)に仕え、東方の霊山(蓬莱山)に不老不死の霊薬を求めて渡来した方士徐福であったという伝承からの名称である。
4)「神皇紀」:明治から大正にかけて約三十年にわたり、この文書を研究した三輪義煕(1867~1933)が「精査編集」して大正十(1922)年に出版した書名である。(三輪本ともいう)
文書の研究者で宮下家保存原本の写しを所持されていた渡辺長義(当時山梨県文化財保護委員)の証言によれば、神皇紀は内容の点においてほぼ完璧に原文書の面影を伝えているという。また、現在宮下家に保存されている原本(鎌倉時代写本)が一般に公開されていないことから、ふつう宮下文書といえば、この神皇紀(初版1922年)をさしている。
5)「富士高天原朝史」:古史古伝研究の第一人者である吾郷清彦氏の命名であるが、これは、この文書の内容が太古代、富士山麓に栄えた高天原王朝(富士王朝という人もいる)の興亡史であることにもとづく。
6)「開闢神代歴代記」:富士の阿祖山神宮(富士太神宮)の宮司であった宮下源太夫義仁(鎌倉時代の武将三浦義明の孫にもあたる)の子孫でもある三浦一族会の岩間尹(タダス)が、相模の一ノ宮の寒川神社に保存されていた(富士山噴火のさい焼失をさけるために分散されていたもの)文書を、調査、研究し、戦後、独自に編集、出版された(初版1968年)ときの書名である。
7)「寒川文書」:岩間本を、神皇紀が三輪本というのに対して、「寒川文書」と呼ぶ場合がある。寒川神社神庫に保存されていたと称される文書をもとに記されたものということからの名称である。原本は、大明見の宮下家のものと同一である。ただ内容の配列、史実の選択、現代語訳で、神皇紀と若干相違がある程度である。両書を併せ読むことによって、この文書の全容をより確実に捉えることができる。
 

富士古文献の成立背景(3)

 投稿者:maeda  投稿日:2011年 7月26日(火)18時33分41秒
  参考
*1.富士文庫事件は、すでに当時のマスコミ(朝日、読売、毎日の3大紙をはじめ、都、報知、中央、毎夕、新愛知、山梨などの有力紙、雑誌「日本及び日本人」など)に大々的に取り上げられ、その社会的影響が無視できなくなったため(しかも殆どが文書を肯定的に受け止めていた)、組織的、計画的に偽史化するための、きわめて高度な政治的陰謀(国策捜査的)であったと考えられる。(佐治芳彦、「謎の宮下文書」徳間書店、1986年11月発行)
 かつて上記(うえつぶみ)は、紹介者の吉良義風を個人的に中傷することによって偽書化された。竹内文書は、天津教弾圧と並行して行われた狩野亨吉博士の批判によって偽書化された。九鬼文書も大本教弾圧によって公表のチャンスが大幅に遅らされた。
 しかし、宮下文書の富士文庫事件ほどこまかい細工を弄して、巧妙に偽書化されたケースはない。
*2.富士古文献(宮下文書)は継承過程で改定された疑いがある。 改定の事実を伝える記録がある。天智天皇10年の中臣藤原物部麿の「作正宇津須」とある部分がそれである。当時の体制にとって不都合と思われる部分の改定作業を含む筆写化であったと見られる。
*3.三輪義煕氏は、尾張一宮の真澄田神社の宮司大伴氏の子孫である。大伴氏は、東三河賀茂町にある賀茂神社の摂社、大伴神社の宮司であったが、賀茂神社の宮司になれなかったことから、尾張に移った。大伴氏は、神武東征の際の将軍(天の忍日命)を祖先とする直系子孫であり、三輪義煕氏も古代日本の歴史に特別深い関心を持っていたと思われる。
 

富士古文献の成立背景(2)

 投稿者:maeda  投稿日:2011年 7月26日(火)18時31分57秒
  4.富士古文献発見の経緯とその後
 本文献は、寛文8年(1667)宮下家一統の取り決めにより、一古箱に密封、棟梁に結着され、世々戒めて開くことを許さず、これに付属する刀槍半弓などの古器物とともに、“神璽”として伝えられてきた。文久3年(1863)の明見村の大火の折、古箱を搬出しようとした際、同村内の半右衛門というものが奪おうとしたなど種々の経緯はあるが、決して世人の目に触れることなく秘蔵されてきた。
 本文献が世に出たきっかけは、明治16年2月22日、同家の産土神である福地八幡旧社の祭典に際し、時の当主宮下源兵衛義興(同家77代)が、村内の小室浅間神社祠官宮下荘斎重徳とはかり、夜半同家の奥の一間で古箱その他伝来の器物を陳列し、祈祷の後、初めて開封されたことに始まる。
 そして、悠久の太古に富士山北麓一帯の高原盆地に、神都・家基都があり、その中心である明見の里に神祖神宗の宗廟である阿祖山大神宮が、奉祀されるという特異な内容の故に、明治22,23年のころから、子爵・秋元興朝をはじめ名士や一部の有識者、特に地方の名望家の間で関心を呼ぶようになった。
 本文献が、中央に紹介されたのは、同じころ、護良親王の事績調査のために、同地を史料収集に訪れた内務省属・河井庫太郎が東京地学協会で講演をしたことに始まる。世人に広く知られるようになったのは、三輪義煕著「神皇紀」が刊行された大正10年6月10日以降のことである。
 神皇紀刊行を契機として、大正11年1月内大臣斎藤実・朝鮮総督(後首相)をはじめ、宮廷関係の高級官僚、子爵岡部長職、東京地裁所長今井恭太郎、政友会の天野泰造、文学博士小藤文次郎東大教授を含む有識者等当時の著名な人士が多く、本文献の学術的総合研究を目的とする財団法人・富士文庫が結成された。
 しかし、翌12年9月1日の関東大震災により、その事務所とともに、関係書類の大半が灰燼に帰し、その事業がとん挫したころ、それと相前後して「偽書」の烙印のもとに、本文献は次第に世間一般から黙殺されるにいたり、富士文庫そのものも解消に向かっていく。尚、その法人は発足後1年で報告書第1巻(富士文庫第一巻)を刊行しただけで、うやむやのうちに解散したのである。*
 その後は、一部の神道家や神代史関係者の間で、概説書である「神皇紀」に依りながら、幻の古文献として言及されるにとどまり、中央では一般の記憶から失われていく。
 本文献は、明治22、23年のころ、宮下源兵衛を中心とする同家一統による整理を経て、大正11年以降富士文庫の中心メンバーである三輪義煕、神原信一郎の協力のもとに再び整理された。現在は大正12年5月にその永久保存のために同家の庭に建造された蔵の奥深くに収蔵されている。(「神傳富士古文献大成」1巻例言(昭和61年2月、八幡書店発行)
 

富士古文献の成立背景について

 投稿者:maeda  投稿日:2011年 7月26日(火)18時30分37秒
  1.はじめに
 今般神奈川徐福研究会から出版するに至った現代語訳「神皇紀」が、原本である富士古文献とどのような関係にあるか、また古文書としてどのような位置づけがなされているか考察してみたい。
「神皇紀」は、富士山北麓大明日見の宮下家に伝わる謎の古文書「富士古文献」を三輪義煕が整理し、大正10年に発刊した書籍で、日本の超古代~鎌倉時代の歴史、文化を記載する文書の集合体の紹介書である。大正時代に刊行の原本はかつて八幡書店より復刻されたが、ある程度の知識のある方でないと判読には相当の道骨が必要であり、現代語訳の刊行が待ち望まれていたものである。
この現代語訳によって太古の阿祖山大神宮、徐福渡来説や神農伝承など秘められた富士神話の全貌が万人に明らかになることが期待される。

2.富士古文献と神皇紀の関係
富士古文献は、宮下家に保管された古文書である。神皇紀は、三輪義煕氏が明治時代に、赴任地富士吉田において、富士古文献(宮下文書)に出会い、29年の歳月を費やして、研究し読み解き、富士古文献を体系的に整理して、大正時代10年に、書物とし神皇紀として世に発表したものである。
内容は、衝撃的で、神武天皇以前に、日本には膨大な期間にわたる富士王朝が存在していた。特に神々の世界とウガヤフキアエズ朝51代が存在していた。また、孝霊天皇の時代に秦国の徐福が渡来し、日本の古代王朝の祖先と徐福の祖先が同じであったということを知り、日本の超古代史を漢字で書き改め編集したということは、当時の記紀神話中心の皇国史観に微妙な影響を与えた。しかし、当時の政治家、軍部などに注目され、富士文庫が設立されるなどして、一世を風靡した。
ところが、財団法人富士文庫が設立されて1年あまりで、明確な理由なく閉鎖され、富士古文献が偽書であるとの評価だけが残されることになった。

3.富士古文献を紹介する書籍
富士文古文献を紹介する書籍としては、「神皇紀」のほか、最近渡辺長義氏の著書「幻の富士古文献」(2002年12月、今日の話題社発行)、佐治芳彦氏著「謎の宮下文書」(1986年11月徳間書店発行)などがある。明治44年発行の増補寒川神社志には、雑載「宮下文書」という19ページの抜粋紹介文が添付されている。
また、昭和60年には、完全写真版の「神傳富士古文献大成」七巻(昭和61年2月、八幡書店発行)が刊行されている。この書によれば、富士古文献は、世に「富士古文書」「宮下文書」「富士文庫」「徐福文書」「寒川文書」などと称されてきた。しかし、このような名称は、古記録・古文書の相半ばする宮下家伝来の秘書に対するものと言い難く、「富士古文献」と称することにしたと言われる。
 

関東在住の秦氏さま

 投稿者:maeda  投稿日:2011年 2月18日(金)22時10分7秒
  投稿有難うございました。
明治生まれのご祖父さまが、弓月の民の特徴を保持したまま生活をしていたというお話は大変興味が惹かれました。
 また、何か書きこんで戴けると有難いですね。

 なお、今日電車の中で、加治将一著「舞い降りた天皇」という本を読んでおりましたが、「秦氏は、大量の技術集団を引き連れてきたのだ。その数、数千人とも万を超すとも言われているのだが、どちらにせよそれだけの人数をごっそりとボートに乗せるくらいだから、王族だったに違いない。
 秦族の技術者は、製鉄、養蚕、酒造、塩田など広範囲で、渡来後は列島全体に散らばって、あちこちに秦氏の痕跡を残している。
 秦氏は近畿に腰を据えると、あっという間に朝廷に食い込んで、京都の山城、丹波を開拓し、現在映画撮影所のある太秦一体に勢力を広げた。・・近畿で石を投げれば秦一族にぶつかるほどである。」
 などと書いてありました。
 もっと、いろいろ書いてあるのですが、今日のところはこの辺で。
 

関東在住の秦氏です。

 投稿者:秦氏  投稿日:2011年 2月18日(金)01時54分38秒
  こんばんわ。初めてこちらにお邪魔しております。
ざっと拝見してみましたが、かなり濃い内容が多いですね?
特にmaeda様の投稿内容には心惹かれるものが多かったです。
私の祖父(明治生まれです)の代迄は日本書紀にも記載されていた秦氏(弓月国の民)に
ついての特徴を保持したまま生活しておりました。
親の代になってからは秦氏的風習はすっかり陰をひそめて、現代的な生活になった次第です。
 

石巻山が宇宙文明の窓口に?

 投稿者:maeda  投稿日:2010年12月31日(金)12時05分59秒
編集済
   2010年大晦日に不思議な出来事が紹介できます。
古代神都東三河のHp始まって以来の驚愕の出来事が起こっているのです。

 2011年11月9日付けなどの「ふるやの森」というWeblogに記載されているのですが、関連記事のさわりだけ紹介させてもらいます。

「日本宇宙文明の創造へ向かって、新しい大きな時代の幕開けが日本から開始しました。2010年11月7日に、石巻山に輝いたアマテラス大神が新地球の黎明となります。11月7日のイベントの前に送られてきた「88」のサインの謎がすべての問題を解決する重要なカギとなることが判明しました。中略
 私たちのDNAに刻まれた太古の日本に実在した高度な宇宙文明の記憶が今ようやく、長い年月を経て目覚めようとしているのです。
 大和民族はこれから世界に誇る新しい地球文化・文明の創造と普及に向かうように運命づけられている。古神道は他の宗教と対立することがない優れた柔軟性を備える宇宙科学です。」

 実は、豊橋市の石巻山は、11月7日に宇宙人とのファーストコンタクトを企画するグループのオオプンコンタクト会場となっていたのです。石巻山ナツメ別館がその地でした。
 石巻山の入口に掲示されていたシンボルは、上下に対となったピラミッド。下の△は底辺から上に向けて進み、頂点の一点で次元変化が起きる。上の▽の頂点は下の△の頂点と接触し、ミロクの世を表現しているという。
 石巻山の石(イシ)は、一四=五(中心)=隠れ身五神、巻(マキ)は真気=真理の気・宇宙創成の原理、山は川(隠れ身)と横一線(大地・地球)で絶妙なる仕組みを意味しているという。88は天と地をダブルで開く数霊だという。

 11月7日の石巻山オープンコンタクトに参加したSさんは、コンタクトの前に瞑想中次のようなビジョンを見たといいます。
 「夜の11時ごろから祈りと瞑想に入り、いつもの賛美をしていると、魂がどんどん上昇し、天界へと上がっていった。スクリーンのような巨大な幕が、地球の山々や森を思い浮かべる美しい緑の鮮明な彩りで深く、青く、また光が絶えず流れていた。天使たちが数人で号令の音と同時に右と左に別れ、黄金のひもを引っ張った。彼らは強くたくましく、また顔は喜びにあふれていた。宇宙からの開門ーそれは壮大であった。中略 創造主と宇宙の人々たちとの非常に長きにわたった統合のスクリーンが開いて、もはや閉じることはなかったのである。すべての創られたものの愛と愛の統合の時であった」と。

 石巻山は、以前からUFOが現れるという噂が絶えず、筆者自身10年以上前に、赤い光の玉が天から降りてきたり、その翌日には、赤い光の玉が真横に飛び出していくのを見たことがある。そのころ、ある霊能者は、石巻山の中心に神々が籠っているのを霊視している。石巻山の頂上で、瞑想して宇宙へ意識が飛び出したという経験を語る人は多い。
 2009年1月に石巻山を含む東三河の聖地ツアーを行ったことがあるが、その後、有志が石巻山山頂を清掃浄化し、山全体を清掃し続けるボランテイア活動を続けられている。
 2010年はまさに、石巻山が窓口になって、宇宙への扉が開かれた年かも知れない。
 

徐福王国相模

 投稿者:酔石亭主  投稿日:2010年 8月21日(土)04時31分26秒
  「徐福王国相模」を拝読させていただきました。結論的には秦氏が徐福伝承を各地に広め、その幾つかが相模にもあると言うことになるでしょうか。日本各地の徐福伝説がある場所は、ほぼ間違いなく秦氏の痕跡が見られるのがその証拠と思われます。例えば三重県熊野市の波田須にある徐福伝承などが当て嵌まります。相模についても徐福伝承地とされた場所には全て秦氏の痕跡があります。秦氏はまた始皇帝の子孫を名乗り、ミトラ教、弥勒信仰、虚空蔵信仰、陰陽道、聖徳太子信仰、弘法大師信仰をも担っており、妙善寺の碑文は彼らが徐福伝承を担った結果、後代になって徐福が秦氏の祖であるという伝承に転化していったものではないかと推測します。なお、秦川勝が創建した仙福寺(横浜本郷台近くにあり、現在は横浜市栄区神郷町の光明寺となっています)は、徐仙が福山と名乗ったところに由来しているのかもしれません。

http://suisekiteishu.blog41.fc2.com/

 

秦氏について

 投稿者:酔石亭主  投稿日:2010年 8月14日(土)21時34分19秒
  Maeda様

こんばんは。

相模国の秦氏については一般的な内容とがほとんどです。鎌倉の謎を解くで頼朝に対する秦氏の影響を、推測ではありますが書いてみました。

現在、日本人の特殊な性質の発現に秦氏が決定的な影響を及ぼしたことを証明する方向で書き進めており、その上で人類進化の謎と接続させていくつもりです。無謀な試みかもしれませんが二番煎じの議論では面白くないので、何とか完結させようと思っています。

秦氏に関しては良い資料が少ない点が悩みです。あれこれ考える上で基礎資料となるものがもっと欲しいのですが、それがないなら想像や推測で補うしかなさそうです。

ジュンク堂は近くにあるので近々行ってみます。ご連絡有難うございました。

http://suisekiteishu.blog41.fc2.com/

 

ようこそ

 投稿者:maeda  投稿日:2010年 8月14日(土)16時37分3秒
  酔石亭主 さま

 はじめまして、添付のHPを訪問させてもらいました。
相模と秦氏の関係を相当突っ込んで調査されているようですね。
ご高説を伺いたいところです。

 『徐福王国相模』は、既にインターネット書店のAmazonで取り扱われています。また、紀伊国屋やジュンク堂など大手の書店では、取り扱われているはずです。一般の書店でも注文されれば手に入れられると思います。

 ところで、秦氏の事を取り上げた書物、加治将一著「失われたミカドの秘紋」(祥伝社、2010.8.5発行)は、小説ですがなかなか読みごたえのあるものでした。ご参考まで。
 また、旧約聖書の究明に関しては、イオン・アルゲイン著「聖書の暗号は読まれるのを待っている」(徳間書店、2010.7.31発行)は参考になります。どうも前文明「ムー」の知性が反映されているようです。
 

徐福王国相模

 投稿者:酔石亭主  投稿日:2010年 8月14日(土)06時03分22秒
  はじめまして。

私は現在神奈川に在住しているのですが、秦氏に興味があり自分のブログでもその謎をあれこれ追及しています。参考になるので、こちらのホームページにも時々訪問させていただいており、本が出たら読んでみたいと思っています。

http://suisekiteishu.blog41.fc2.com/

 

徐福王国相模

 投稿者:maeda  投稿日:2010年 8月 8日(日)15時35分30秒
編集済
   神奈川県の徐福伝承をベースにした、相模の古代秘史に関する拙著「徐福王国相模ー秦氏の刻む歴史-」(彩流社、2010年8月15日発行)という本が、刊行されます。
 よろしければ、読んでみてください。
目次は、
第1章 神奈川における徐福伝承
第2章 徐福伝承を伝える人々
第3章 日本における徐福の存在の重要性
 そのほか、秦氏の歴史、日本人のルーツに関する考察や古史古伝と徐福に関する考察も行っています。
(maeda)
 

竹槍さん のコメント抜粋

 投稿者:maeda  投稿日:2010年 8月 8日(日)15時29分5秒
  以下は熱田神宮にゆかりのある神職が酒の席で言ったことという断りで、2chに投稿されていた話です。
神武は何人もいた。だいたい殺したけど最後の一人がべらぼうに強かった。
伊勢神宮は奪われた。熱田神宮も奪われたけど返還された。

奥出雲で走査検索式というアカシックレコードにアクセスしてYesNoで質問の正否を確認する占いをしているアベソウカンさんから聞いたことですが、彼によると徐福は島根県の美保関から上陸したそうです。邪馬台国は大阪府豊中市が本拠地だとか。徐福と卑弥呼の間に血縁関係はないともおっしゃっていました。アイヌの祖先が倭人と日本の覇権を争うにあたって、不利だったので朝鮮半島から北方モンゴロイドを招きいれて、彼らの力を借りて勝利したとも聞きました。
 

(無題)

 投稿者:maeda  投稿日:2010年 8月 4日(水)21時43分37秒
  竹槍 さん

 徐福のことを、記載するのはいいのですが、現在の政治がらみで問題となりそうなことは、この掲示板には掲載しかねます。あまり、いろいろな問題含みの事を、記載されない範囲で掲載させてもらいます。どうぞよろしく。
 

よろしくお願いします

 投稿者:竹槍  投稿日:2010年 7月30日(金)03時45分47秒
  東三河のことはよくわからないんだけど、徐福伝説・物部神道とかかわりが深いようなので、それ関係の投稿をさせていただいております。  

段戸山「壇特山」

 投稿者:米山正美  投稿日:2010年 7月18日(日)01時47分48秒
  聖徳太子が設楽の山から石を投げたという伝説がありますが、それが壇特山だと思います。段戸山の何処から投げたのか?ということをご存知の方ありましたらお教えください。
                                    宜しく。  尚 段戸山がもと壇特山という事です
 

アラハバキ神について

 投稿者:maeda  投稿日:2010年 5月12日(水)14時33分2秒
   愛知県豊川市に住むS.G.さんから、
「郷土の歴史を調べていますが、花祭りと修験道を調べて行く中でアハラバ キがでて来ました。サイト検索で貴殿のサイトを見つけました。よければ、見識をお聞きしたい」とのメールを頂きました。

 小生も次のHPに、アラハバキ神のことを記述していましたので、関心は持っています。
 http://homepage2.nifty.com/kodaishinto/page007.html

 そこで、以下のような、現時点での見解をもって返事としたので、記録のために、添付しておきます。

「アラハバキ神のことですが、アラハバキ神は、東三河の4か所以上の神社に摂社として祀られています。
 地主神として、それぞれの神社の現在の主神より以前からいた神となり、門前に祀られることが多いようです。
 アラハバキ神は、東北で多く祀られているようですが、東三河で祀られていることは、東北と東三河の間に古代の交流があったと考えられます。
 オシラ様とか、立石神の形で祀られたり、履物の神様であったりするようです。
 しかし、祀っている神社などには、イワクラがある場合が多く、東三河では、イワクラ神社、砥鹿神社、二川大岩の麓の神社が祀っていたと思います。
 私は、たぶん石尊神や、イワクラの神(国常立大神)ではないかと考えています。」

 何方か、そのほか、情報があれば教えてください。
 

(無題)

 投稿者:吉村敏彦  投稿日:2010年 4月13日(火)11時42分25秒
  論争にはずみがつきそうです。中古にもプレミアムがつき、なかなか入手困難な書籍の一つだったのですが、このたびミネルヴァ書房より待望の復刻が、「古田武彦・古代史コレクション」と銘打ってスタートしたようです。「初期三部作」と呼ばれている、『「邪馬台国」はなかった』『失われた九州王朝』『盗まれた神話』の三冊がまず復刻されました。次いで『邪馬壹国の論理』『ここに古代王朝ありき』『倭人伝を徹底して読む』の復刻予定とのこと。 特に初期三部作は古田史学のデビュー作と言うだけでなく、その学問の方法を徹底して重視した論証スタイルに古代史学界が受けたインパクトもかなりの強烈なものでした。  

東三河と物部氏

 投稿者:maeda  投稿日:2010年 3月14日(日)14時29分44秒
  東三河の砥鹿神社と物部氏・大木食命の関係

 大木食命のことですが、先代旧事本紀の物部氏の系図には、次の通りと書かれています。

 饒速日尊ー宇摩志痲治命*ー孫味饒田命
            l-弟彦湯支命ー  三世尊大禰命
             (綏靖天皇時大臣)(安寧天皇時侍臣)
                      弟出雲醜大臣命  -四世孫大木食命
                      (懿徳天皇大臣)  (三河国造祖)
                      弟出石心大臣命   弟六見宿禰命
                      (孝昭天皇大臣)  (小治田連祖)
                                弟三見宿禰命
                                (孝安天皇大臣)

 *舅ナガスネヒコの君主であるが天神(神武)を大切にしない彼を布都主神魂刀で討つ。 尚、布都主神魂は、徐市(徐福)を指しているという説がある。

 つまり、大木食命は物部氏の直系第4世孫で、孝安天皇の時代に三河の国造になっていた人です。
 東三河の砥鹿神社のある一宮地区に、大木村がありますが、この地は大木食命に由来します。
 石巻神社の歴代宮司である、大木氏は大木食命の子孫であり、今は砥鹿神社の禰宜をしながら、石巻神社を治めているはずです。
 近年のことですが、大木宮司の親戚の方が、ある会社に勤めていたとき、砥鹿神社の歴代宮司・草鹿砥氏の上司だったことがあるといい、小生はご両人と面識をもつことができました。不思議な因縁です。

 大木食命の父である第3世「出雲醜大臣命」も、豊川市の出雲神社で祀られています。
 物部氏の第六世孫の孫「物部胆喰宿禰」は成務天皇の大臣で、秋田物部の祖であり、三川穂国造の妹(伊佐姫)を妾としています。
 つまり、物部氏の直系は、古代天皇家の大臣を務めながら、東三河と深い関係があります。特に、砥鹿神社、石巻神社は深い関係を持っていたようです。
 その砥鹿神社は、掛川の事任神社とつながりを持っていたとは、面白い話です。
 

【 邪馬壹國 】の比定

 投稿者:wajin  投稿日:2010年 1月24日(日)09時40分51秒
  【 邪馬壹國 】は【 熊本平野 】にに比定しています。

この事を証明するために、当掲示板を利用させていただきます。

ご説明は次の順路に従います。

┏ ┳ ◎. 帯方郡庁 ( ソウル付近 )
┃ ┃ ↓ . ( 七千餘里 ) ( 964km )
┃ ┃ ○. 狗邪韓國 ( 釜山付近 )
┃ ┃ ↓ . ( 千餘里 ) ( 137km )
┃ ┃ ①. 對馬國 ( 対馬・下島 )
自 萬 ↓ . ( 千餘里 ) ( 62km )
郡 七 ②. 一大國 ( 壱岐 )
至 百 ↓ . ( 千餘里 ) ( 36km )
女 餘 ③. 末盧國 ( 伊万里 )
王 里 ↓ . ( 五百里 ) ( 68km )
國 ┃ ④. 伊都國 ( 前原 )
萬 ┃ ↓ . ( 百里 ) ( 14km )
ニ ┃ ⑤. 奴國 ( 博多 )
千 ┃ ↓ . ( 百里 ) ( 14km )
餘 ┗ ⑥. 不彌國 ( 香椎 ) .━┳━┓
里 ∵ ↓. 水行二十日∵∵∵千∵┃
┃ ∵ ⑦. 投馬國 ( 久留米 ) .四∵┃
┃ ∵ ↓. 水行十日∵∵∵∵百 ( 192km )
┃ ∵ ↓. 陸行一月∵∵∵∵里∵┃
┗ ━ ⑧. 邪馬壹國 ( 熊本 ) ┻━┛


~~┃∵∵∵∵楽浪郡∵∵∵∵∵∵┃~~
~~┣━━━━━━━━━━━━━┫~~
~~┃∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵┃~~
~┌◎帯方郡庁∵∵∵∵∵∵∵∵∵┃~~
~↓┗┓∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵┃~~
~└┐┃∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵┃~~
~~↓┃∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵┃~~
~~↓┃∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵┃~~
~~↓┃∵∵∵帯方郡の領土∵∵∵┃~~
~~↓┃∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵┃~~
~~↓┃∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵┃~~
~┌┘┣━━━━━━━━━━━┳┛~~
~↓┏┛∵∵∵∵韓の領土∵∵∵┃~~~
~↓┃∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵┃~~~
~↓┃∵方可四千里∵狗邪┏━━┛~~~
~↓┃∵∵∵∵∵┏━○━┛~~~~~~
~↓┃∵┏━━━┛┌┤~┏┓~~~~~
~↓┗━┛┌→→→┘↓~┃┃~~~~~
~└→→→┘~~~~↓┏┛┃~~~~~
~~~~~~~對馬國├①┏┛~~~~~
~~~~~~~~~~↓┗┛対馬下島~~
~~~~~~~~~~↓┏┓~~~~~~
~~~~~~~一大國├②┛壱岐~~~~
~~~~~~~~~~↓~~~~~~~~
~~~~~~~~~~↓~┏━┓~┏━━
~~~~~~~~┏┓↓┏┛∵┗━┛⑥∵
~~~~┏━━━┛∵↓五百里∵∵/↓∵
~~~┏┛∵∵∵∵∵③→→④→⑤百不∵
┏━━┛∵∵∵∵∵∵末∵∵伊百奴里彌水∵
┛∵∵∵∵倭國∵∵∵盧∵∵都里國∵國行
∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵國∵∵國∵∵∵↓二
∵∵┏━┓∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵南十
∵┏┛~┗┓∵∵∵水行十日∵∵∵∵至日
┏┛~~~┗┓∵∵┌←←投馬國⑦←┘∵
┃~~~~~┃金∵↓∵∵∵∵∵∵∵∵∵
┃~~~~~┃峰∵南∵∵∵∵∵∵∵∵∵
┃~有明海~┃山∵至∵∵∵∵∵∵▲阿蘇
┃~~~~~┃▲∵└→→→→→⑧∵∵∵
┃~~~~~┃∵∵∵陸行一月∵邪馬壹國
┃~~~~~┃∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵
┃~~~~~┃∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵
┃~~~~~┃∵◎狗奴國∵∵∵∵∵∵∵

http://www2.ocn.ne.jp/~wajin/

 

三河とヤマト、相模のつながり

 投稿者:maeda  投稿日:2009年10月31日(土)10時22分53秒
   このたび、思いがけず、ある方から相模四ノ宮の「前鳥神社ものがたり」という書籍が送られてきた。


 それによると、前鳥神社には、応神天皇の皇子・ウジノワキイラツコ命が祀られており、近くにある真土大塚古墳に葬られている可能性を否定していないことが、興味深い。
 この神社の東近く相模川対岸にある一宮・寒川神社は、彼が争った相手兄の大山守命のゆかりがあり、相模川をはさんで対立していた可能性があるからだ。
 寒川神社の南約1kmのところに、応神塚という前方後円墳があり、応神天皇の遺髪が埋められているという話もある。

 奈良で行われたと伝えられる歴史も、もっと広範な地域で展開されていたのかも知れない。

 ウジノワキイラツコ命の兄で大山守命の弟であった大ササギ皇子(仁徳天皇)は、東三河と関係があるようで、奈良、三河、相模は、海上ルートを通じて、古代の王家つながりを持っていたようだ。

 ところで、追加資料として、「大山不動と日向薬師」という本の抜粋文も戴いたが、そこには、日向薬師の御堂の修理を、後円融天皇の綸旨で、参川と遠江両国に依頼したということが記載されている。
 興味深いことに、参川(三河)の鳳来寺山の峰の薬師は、役の行者の作製といわれ、60年に一度のご開帳で、なかなか見られないが、この木像の管理技術が認められたのかも知れないのである。
 いずれにしても、三河・遠州と相模のただならぬ関係があることが、推察される。
 

古代文字と信濃

 投稿者:maeda  投稿日:2009年10月 2日(金)14時09分17秒
  判崎史郎 さま

 古代文字、古史古伝と日本の中部・関東の関係に関心を持っていますが、判崎さまは、このあたりについて、かなり研究をされているようですね。
 また、ご高説を開示して頂ければ、有り難いと思います。
 今後ともよろしくお願いします。
 

三河と信濃の関わり

 投稿者:判崎史郎  投稿日:2009年 9月26日(土)20時03分39秒
  伊那谷に、古代文字で書かれた社伝記が伝わっている大御食神社があります。
私は、なぜそれが伝わっているのか? と思い探ってきましたが、最近ようやく見えてきました。
① 古代文字は、高皇産霊神ファミリーの思兼尊(吾智彦)が関わっていますが、恵那山の東に阿智神社があり、大御食神社は、阿智から別れた神社です。
② 天武天皇の時代、阿智神社と善光寺が、南信濃から北信濃へ移されました。
③ 善光寺の『聖徳太子の書簡の日付』の問題は、これで合点がいきます。
④ 諏訪大社の、建御名方神の出現と、秩父神社の配置も同時代です。
貴HPを最近知ったので、ぶしつけではありますが、とりあえず投稿させていただきました。 今後ともご教授いただきたく、宜しくお願い致します。
ブログ http://utukusinom.exblog.jp/
HP http://homepage3.nifty.com/utukusinomori/newpage1.html

http://homepage3.nifty.com/utukusinomori/newpage1.html

 

邪馬台国の最新情報と東三河(8)

 投稿者:maeda  投稿日:2009年 9月19日(土)14時22分42秒
  11.結論
1)「邪馬台国・東三河」説は、魏誌倭人伝の行程記述とその他記事、隋書倭国伝、記紀の神代史の記載事項をほぼ全て満足する説である。
2)よって、邪馬台国は「東三河」を包含し、卑弥呼の晩年は恵那・三河に来ていたと考える。
  (宗女トヨかもしれない。)

3)邪馬台国「九州説」は、水行、陸行の距離の説明が不能、隋書の記載を満足しない。
4)「奈良説」は、陸行1月の説明不能、「女王国の東、海を渡る千余里」の海がない。
5)更に、隋書倭国伝に述べる「邪摩堆に都す。即ち‘魏史’のいわゆる邪馬台なる者なり。」に続く記載で倭国において祷祭した「阿蘇山」(すなわち富士山)を見ることができない。
 

邪馬台国の最新情報と東三河(7)

 投稿者:maeda  投稿日:2009年 9月19日(土)14時21分23秒
  10.移動する邪馬台国
邪馬台国の伝承は、尾張にも残っていた。 卑弥呼の里と称する私設博物館を所有する源為朝公の直系子孫・西山氏が保管する古文書から得た伝承によれば、卑弥呼は九州北部から、奈良盆地に入り、岐阜県の恵那から東海に展開したという。 従来の「魏志」倭人伝に記された内容をはるかに超える詳しい実像を示すものである。古代女王卑弥呼は為朝公の守護神となっており、卑弥呼の石像と石剣が博物館に存在した。

10.1 卑弥呼の東遷
卑弥呼には戦闘能力はなかったが、戦うことなく、中国の王から受けた権威ある鏡を与えることにより、支配権を拡大することができた。 これにより、勢力範囲を広め、卑弥呼は国家を樹立するため、伊都国を東に遷すことを決心した。そして、紀氏水軍に命運を掛け瀬戸内海を渡海し、大和の大王が居住する地域へと向かった。卑弥呼は、東へ遷る際に立ち寄った地に、神剣模様を裏に彫った卑弥呼尊顔の章を首頭に授け、伊都の地名を残した。天女卑弥呼が、伊都国から通った航路は、皇祖・神武天皇が九州から東へ遷ったと同じ海路である。
卑弥呼は、大和近くの河内国で上陸しようと命じたが、海が荒れ上陸不能となり、紀ノ川を使うこととした。

10.2 卑弥呼はヤマトから岐阜・恵那へ
   卑弥呼は大和へ向かい、大和の国に入ったのち、光武帝から授かった権威の守護銅鏡を活用して、大きな邪馬台国とした。卑弥呼は、国造りと共に稲作りに尽力され、稲を作る太陽神(天照大神)とされ、民に崇められた。 卑弥呼は敵国によりしばしば襲撃を受けた。しかし、襲撃より恐れたものは、天の神・太陽の光が消え、黒い太陽になることであった。天女・卑弥呼は、その年を予知しており、それは、まさに正始九年であった。 その年、太陽神である卑弥呼は、誰よりも早く自分の目で確かめようと、東の地美州(美濃)恵那郷に向かった。卑弥呼は年老いていたが、随行人と共に、敵軍の目を避けて、黒い太陽が現れるまで、恵那に滞在した。 九月五日早朝に太陽が現れたが、間もなく黒い太陽になった。これを見た卑弥呼は、黒い太陽霊が恐ろしいと、気を失って倒れた。随行警護の付き人と共に、自国へと急ぎ運ばれようとしたが、道に迷い尾州(尾張)の原へ出た。そこで小牧山の敵方見張りに見つかり襲撃を受け、曽本近くで斬殺された。 貴人天女尊卑弥呼は、敵方の目を避けて、村人によって一時埋められ、その後更に曽本二光山に墳墓が造られ、後に首級は小牧山頂上に移し埋められたという。

10.3 移動する邪馬台国まとめ
邪馬台国の時代には、伊都国が邪馬台国・狗奴国とともに三大中心であったらしい。卑弥呼は、伊都国の出身で瀬戸内海を経て大和に移動した。さらに、東海・中部地方の恵那まで出かけているが、恵那と三河は繋がっていた。邪馬台国は、これらを含む広範囲の「移動するヤマトの国」であったと思われる。
筆者は、邪馬台国と狗奴国の接点は、東三河にあり、豊川または天竜川、富士川を挟んで東西の戦いが続けられていたと考えている。
 

邪馬台国の最新情報と東三河(6)

 投稿者:maeda  投稿日:2009年 9月19日(土)14時19分51秒
  7. 東三河の古代史地名仮説
7.1 隋書倭国伝による裏付け
隋書では、倭国は「東西5月行、南北3月行にして各々海に至る。邪摩堆に都す。 即ち‘魏史’のいわゆる邪馬台なる者なり。」とあり、その国は表現の示す規模の通り本州を表している。
また、文林郎輩清の来倭行程記事では、「竹斯国に至り、また東して秦王国に至る。また十余国を経て海岸に達す。竹斯国より以東は皆倭に附庸す。」とあり、
倭国は筑紫の東・秦王国(宇佐か周防か)の更に東、十余りの国を通り抜けたところの海岸にあった。東三河御津には、佐脇御所、唐人池、大郡などの地名がある。

7.2 宋書・梁書倭伝による裏付け
宋書倭国伝は、倭の五王のことを語っているが、梁書倭伝によると、これら倭王の居所は後漢代や三国時代と同様、邪馬台国であったという。つまり倭の五王の時代まで、首都は魏史に記された邪馬台国から移動していない。
ところが、倭の五王の一人であるオオハッセ若武王の伝承が、石巻山山麓・三輪川ほとりに現存し、朝倉の宮(朝倉川沿い)にいたという。これはアカイコ伝説であるが、古事記にも載っており、古事記のヤマトの伝説がここから取られていると考えられる。

8.卑弥呼の伝承があった。
新城市一鍬田の海倉橋・ウケイバ近くに卑弥呼の伝承があった。対岸の豊島に、天照大御神伝承があった。 豊川沿い出雲神社に、大天女が祀られていた。
 (2代目卑弥呼「トヨ」かもしれない。物部氏の根拠地で、豊の地名、天照大神誕生伝承があるから。)

9.卑弥呼の居所、墓の比定
天照大神の居所は、豊島に伝承がある。三上(御神を連想させる)に、上鳥見塚、下鳥見塚があった。記紀では、神武天皇が鳥見山に皇祖の祠を作り祀ったと伝えているから、鳥見塚は天照大神(太陽神)の墓の可能性がある。卑弥呼は、何代目かの天照大神と考えられるが、天女尊卑弥呼大神の呼称もあり、大天女伝承のある柑子の出雲神社などが注目される。2重環濠集落を形成していた、石巻玉川御所なども居所としての可能性を秘めている。
 

邪馬台国の最新情報と東三河(5)

 投稿者:maeda  投稿日:2009年 9月19日(土)14時18分13秒
  6.邪馬台国「東三河説」について (歴史研究会‘邪馬台国大論争’(2001.5)から)
東三河・古代東ヤマトと、魏志倭人伝に記された「邪馬台国」の事象は不思議なくらい一致する。
邪馬台国の所在地はどこか、江戸時代から論争されながら決着が付かないのは、従来の比定地が間違っていたからに他ならない。本論者は、従来比定地として取り上げられたことがない秘匿されてきた「東三河」に邪馬台国の本流があったことを提言する。尚、邪馬台国比定地は、全国に160ヵ所ほど存在する。

6.1 地名の由来からみた東三河邪馬台国説
中国の正史「魏志倭人伝」によれば、2ー3世紀の古代日本の政治の中心は、女王卑弥呼が都とする邪馬台国にあったと記されている。
「古代神都・東三河」説では、日本の古代政権の中心は、九州や奈良にあったのではなく、本州のほぼ中央の東海地方の「東ヤマト」にあったとする。
その理由は、西暦紀元前後から、「ヤマト」と呼ばれた地が、東三河を中心とする東海地方にあった推定される。邪馬台国と戦ったとされる狗奴国が、東方・静岡県に、久努国 (くのこく) として存在。関東地方には毛野国があった。その余の旁国が、本州各地に比定される、などが挙げられる。
   倭人伝にその余の傍国としてシマ、ミノなどがあると記載されているが、三河―伊勢湾周辺にこれらの国が存在している。

6.2 魏志倭人伝にいう卑奴母離(ひなもり夷守)
「女王国の以北に一大率を置く」とされ、その官を爾支(にき、稲置)、日呼子(ひここ)、島子(しまこ)等とよび、副官を卑奴母離(ひなもり、夷守)と呼んだことがわかる。この場合、古代中国人の日本地形の把握は、東方を南方と間違えて理解されている。
吉田茂樹氏著「地名の由来」(昭和56年新人物往来社出版)に、夷守(ひなもり)の地が、九州全体、および、岐阜、越後に存在したことがわかる。
夷守はその余の旁国に派遣された邪馬台国の統括地であり、邪馬台国からみて辺境の地に置いた土地である。その地が、九州北部や、日向にあることは、九州全体が2ー3世紀の時代に既に、邪馬台国からみて夷(ひな)の地であったことを意味する。  夷守(ひなもり)の地が、岐阜、越後にあることは、宮都が本州にあったことを示唆するだけでなく、これらの地が女王国の北部にあったということ、つまり、岐阜、越後の南部に女王国があったことを示唆している。

6.3 魏志倭人伝に記された邪馬台国の旁国
その余の旁国に弥奴国、躯臣国があるが、それらは美濃国(みののくに)、越国(こしのくに)と解釈できる。 一方、既述の「地名の由来」には、「出雲」という地名が出張った地形・半島を由来とすること、また「筑紫」という地名が、山塊の尽きるところを意味すると書かれている。 これらは、渥美半島付け根を出雲と比定、筑紫を東三河の作手(つくで)高原の尽きた所にある高峰、つまり本宮山を筑紫の日向の高千穂の峰と比定できる。
「地名の由来」と「魏志倭人伝」を組み合わせた整合性ある論理を活用すれば、古代神都「やまと」は、本州に存在したことが判るだけでなく、更には本州の中央部、岐阜、越後の南部にあったことを、導き出すことができる。

6.4.古代中国の日本列島の配置感覚
邪馬台国は、「三国史・魏誌」東夷伝倭人の章(魏誌倭人伝と略称)に初めて記述される、倭人の女王が都とする国である倭人の国の位置については、倭人伝の記述から、帯方郡から伊都国までがほぼ判明している。 邪馬台国に至るその後の行程については、九州説と奈良説に分かれて各種異論が出され、混乱を極めている。 その主原因は、古代中国では、日本列島が、九州を北端として本州が南方に伸びていると誤解されていたことにある。 その証拠は、混一彌理歴代国之図(1402年成立)や、行基図と呼ばれる国内の古代地図から明らかである。

6.5 魏誌倭人伝の行程の見直し
魏誌倭人伝の著者・陳寿がこの誤解に基づき、伊都国から奴国、不弥国を経て、更に南、水行20日で投馬国に至り、次いで南水行10日と陸行1月で女王の都とする邪馬台国に至ると記載した。しかし、現実には、南は東と理解すべきで、邪馬台国は、日本列島・本州の相当東の方にあたると見なければならない。帯方郡から一万二千里の表現は、遠方を表す常套句であるが、短里(1里=約90m)で1千キロ強となり、帯方郡からの直線距離とすると東海地方が該当する。
古代倭人の国に比定すると、不弥国は北九州(玄海)、投馬国は出雲、または吉備―鞆の可能性がある。更に南水行10日の到着地は丹後ないし摂津であり、ここから南(東)陸行1月の地は、東海地方に行き着く。そこで、東海地方で、古代ヤマトと呼ばれた大国はどこかという事になる。
三河・遠州は、古代には出雲・ヤマトないし東ヤマトと呼ばれていたとの伝承があり、ヤマトの宿彌伝承に基づくヤマトの地(宝飯郡豊津)、若倭部の地(浜松)があった。

6.6 弥生時代の権力機構が存在していた
三河一宮の縄文・弥生遺跡、北九州との関連を示唆する遠賀川式土器出土の環濠集落の白石遺跡や、伊場、土呂遺跡などの環濠集落からなる弥生時代中後期の遺跡が豊富で人口も多かったと思われる。そして、物部氏に統治された、参遠式銅鐸を祭奉する巨大国を形成していた。
倭人伝にいう「女王国の南(後漢書では東)に狗奴国あり。」および「女王国の東、海を渡る千余里、また国あり、皆倭種なり。」については、湖西市東の遠淡海(浜名湖)という一海を渡ると、千里(約80km)の地には、邪馬台国と戦った狗奴国に該当する久努国が磐田地区に存在していた。
三河一宮は、遠の朝廷と言われ、朝廷別命が祀られている。

6.7 東三河は神話伝承の古代神都であった
尾張、恵那に卑弥呼来場との伝承、東三河に天照大神が実在したとの伝承があった。さらに、イザナギ・イザナミ伝承、スサノオ来訪居住伝承、大己貴命・少彦名命が活躍されていたとの記紀神話の伝承をもつ地が、豊橋東北部・石巻山周辺に実在した。 また神々の来訪を伝える老津の伝承がある。地名にも天津、天之池、天橋などがあり、天国と記述された石柱碑などが残っている。
トヨアシハラミズホの国の呼称を伝える地が、三河一宮周辺にあり、神話伝承の古代神都・高天原を形成していたと考えられる。

6.8 東三河は謎の古代支配者の足跡を秘匿していた
東三河には、聖徳太子の足跡と、持統天皇御幸の伝承がある。 さらには、文武天皇の皇居(下条)や草壁皇子の皇居(宮路山)が存在したとの伝承がある。 その他、物部氏の祖、ニギハヤヒ・ウマシマジ・出雲色大臣・大木食命の鎮座伝承(大木・山ノ奥)があるなど、記紀神話の全てがとりそろっている。

6.9 参遠地方の文化
東三河、御津・小坂井には機織をもたらした徐福伝説がある。 皇室に献上するニギタエ用の高級絹織物は赤引き郷で作られ、天照大神のおわす伊勢に奉納する行事がある。つまり、魏志倭人伝にある古代からの倭錦を生産していた。三河一宮のワクグリ神社、服部神社、三河大野・赤引き郷のスサノオ神社、三ケ日の初衣神社なども、絹織物の発祥地と言われ、徐福伝説と関連する。

6.10 遺跡・出土品
奈良巻向遺跡の、初期搬入土器は「東海系の土器」が最多であり、三河一宮発祥の水神平式土器の伝播が基礎になっている。 また、東海系前方後方墳が奈良の発生期古墳に混在している(赤塚次郎氏)。出土品には、三河一宮の大木・山の奥、念仏塚古墳(5世紀?)から、 5尺の太刀が出土しており、豊橋市南部紙田川下流の宮脇古墳(5世紀)から120cm(魏尺で5尺)の儀刀が出土している。
石巻町牛川1号古墳(発生期の方墳)から国宝級ともいえる素環頭の中国将官の両刃の刀剣(後漢代・2世紀)が出土している。石巻神社には宮司・大木氏奉納の剣(5尺刀)と、文武天皇奉納の古鏡があったといわれている。
これらはいずれも倭人伝に述べられている「魏からの贈り物」の記事と符合している。
また、新城市の大宮の「大の木遺跡」からは、良質のヒスイの飾り物が出土している。

6.11 古代の風習
文化的にも、東海地方には、鯨面文身(刺青)の顔面土器が東海地方(白石、知立,伊奈)から出土している。 伊勢湾・三河湾では潜り漁が盛んであった。本宮山では亀トの言い伝え、クガタチに似た湯立てというシャーマニズムの伝承が東三河の各地にある。

6.12 古代の戦力
伊豆には、仁徳天皇時代に枯野船を作ったとの伝承がある。また、天智天皇の時代、白村江の戦いの主戦力が庵原氏という駿河地方の軍であった。 これらのことから、古代東海地方に優秀な海軍力が存在したことは、明らかである。

6.13 動物・植生・鉱物・気候
倭人伝に記された「蚕桑、猿・鹿、黒雉など動物の生息、気候温暖、山に丹」など植生動物を含め、豊橋市の石巻山、宝飯郡の本宮山、北設楽郡の鳳来寺山(3神山)の囲む地に目だって存在し、魏志倭人伝の記述を裏付けている。
 

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