投稿者
 メール ※掲示板には表示されません(詳細)
  題名 ※管理者の承認後に掲載されます。
  内容 入力補助画像・ファイル<IMG>タグが利用可能です。(詳細)
    
 URL
[ ケータイで使う ] [ BBSティッカー ] [ 書込み通知 ] [ 検索 ]


伊勢津彦の孫

 投稿者:maeda  投稿日:2012年 6月11日(月)11時52分8秒
   伊勢津彦は、その後、関東に現れます。
 下野の国造としての伊勢津彦があり、その第三世が、相模の初代国造となったということが、相模の古代史資料に現れます。
 相模の原点となる山が、相模の「大山」です。この山の頂上「阿夫利神社」近くには4000年前の祭祀遺跡が発見されています。
 その山の麓・伊勢原に「ヨセフの墓」と称される古墳があります。「シンケイ塚」と呼ばれています。
 なぜ、古代イスラエルの伝承があるのかと不思議に思っていましたが、相模の国造が、伊勢津彦の孫であったとすれば、すべて理解できます。
 伊勢原というのも不思議な名前ですね。「イセ(イエス)の原」の意味に取れるのですから。壬申の乱で天武勢に敗れた大友皇子の墓もあります。
 

井祭明神

 投稿者:maeda  投稿日:2012年 6月11日(月)11時32分31秒
   ホルガー・ケルステン著、佐藤充良訳「イエスの復活と東方への旅」(たま出版、2012.3.15発行)によると、イエスは磔から蘇生し、東方へ旅立ったことが論証されている。
 p362-370には、イエスはインドで知られていただけでなく、イスラム教のコーランの中に、「イサ」として、「幸福の渓=カシミール」に住んだと伝えているという。
「イサ」は、当地(インド)でのイエスの呼び方であるが、「イシャ・マシア=主・メシア」を意味している。


 布施泰和著「竹内文書」の謎を解く(2)によると、竹内睦康氏が語る「正統竹内文書」の口伝では伊勢に住んだ「伊勢津彦=イセツヒコ」は、イエスであるという。ついに日本に上陸されことが伝えられていたことが判明した。

 伊勢と東三河は伊勢湾を挟んで互いに対岸にあり、大いに交流があった。
 伊勢津彦は、神武天皇軍に伊勢を渡して、光を放ちながら、東北に向かったと伝えられる。

 東三河豊川西岸の豊津に、「井祭明神」が祭られ、東岸の賀茂の地から、祭りに参加していたという伝承がある。このことから、賀茂氏(秦氏)が井祭明神を祭っていたことが判る。
 「井祭」の読み方が「イサイ」であれば「イサ=イセ=イエス」の神を祭っていたと考えてもよいのではないか。
 (どうやら、飛鳥昭雄著「秦氏の謎」の裏付けが出てきたような感じがします。)
 

井祭明神

 投稿者:maeda  投稿日:2012年 3月29日(木)11時11分53秒
  江口様

 井祭明神の読み方は、古い本に載っていたもので確認していません。「いまつりみょうじん」と呼んでいました。「いさいみょうじん」かも知れません。
 豊川市の豊川西岸の近くに、豊津という地名がありますので、「サイ」が、タミル語で豊(トヨ)という言葉に符号するなら面白いですね。それが鳴り(なり)と符号するなら、いなり(稲荷)明神となります。いなりはINARI→INRIとなり、キリストになります。
 聖書でイエスは、サマリアの女性に、井戸の水を飲ませてくれと頼んだとき、涸れることのない泉のことを話し、それが自分であると示唆しています。
 井明神、井祭明神は、まさにイエスキリストを表しているのではないでしょうか。
 それで、豊津近辺に、「天照大神」の誕生伝説があるのと関係が出てきます。
 

井祭

 投稿者:江口久雄  投稿日:2012年 3月27日(火)21時34分13秒
  前田様
井祭明神の井祭は、イサイと読むのでしょうか。
もしそうならば、タミル語にイサイ(騒音・音)の単語があります。
豊(トヨ)すなわち、鳴りとよむという言葉と符合するのでは? 
 

富士古文献の成立背景(10)

 投稿者:maeda  投稿日:2011年 7月26日(火)18時40分52秒
  12.考察
1.富士古文献では、徐福が富士に渡来したのが、孝霊天皇の世とされているが、これこそ「中臣藤原物部麿」なる人物が、富士山麓を訪れて、この文書を読み「作正宇津須、つまり文書(徐福筆録とされるもの)の文章を正して、これを新たに写し改めたという、改正対象となったのではないだろうか。
また、竹内文書等古史古伝とは切っても切れない関係にある古代の伝説的な英雄・竹内宿弥は孝元天皇(孝霊天皇の子)の曽孫と伝えられている。

2.宮下家は、応神天皇の御子・大山守皇子の子孫であり、富士王朝の再興を願って、ヤマト王朝と対立したこともあるが、ヤマトタケルの妃であったミヤズヒメとその子を守ったため、取り立てられる。
富士山北麓は、古代にはサガミに属していた。相模は東三河からの入植者によって開拓されたとされ、徐福一行の子孫の活躍した地と考えられる。
この状況は、邪馬台国と狗奴国の歴史関係と繋がりがあるように感じられる。

3.富士古文献は、宮下家に保管された古文書である。しかし、大本教の出口王仁三郎が神典として重要視した。
大本数においては、富士は天教山とされ、地教山は皆神山であり、徐福一行の事跡と重なる。霊界物語に現われる大本神話との共通性は明らかであり、とくに『霊界物語』「大祥地瑞」の冒頭は、富士古文書において宇宙初発の神とされる天之峯大神を「主の大神」とし、富士古文書の神統譜を大石凝真素美の言霊学で説明する形になっている。これは日月神示(岡本天明)に示される神と同じで、現代の日本の精神界をリードする指針となっていると考えられる。

13.まとめ
 富士古文献は、紆余曲折を経て、一部改定を受けている可能性があるが、原日本の民の古代史を伝える貴重な文献と考えられる。神皇紀はその大要を世に公開した重要な書籍である。しかし、刊行時の時代的影響を受けて、内容表現に制限が掛けられているところがある。古文書原本全体を再見直しすることは、日本人のルーツを解明する点で大いに意味があると思われる。
                                         以上

 

富士古文献の成立背景(9)

 投稿者:maeda  投稿日:2011年 7月26日(火)18時39分48秒
  11.富士古文献の史料的価値評価
「神傳富士古文献大成」の刊行の八幡書店代表・武田崇元氏は、富士古文献に対し、つぎのように、わが民族にとっての史料としての可能性を強く主張されている。

「本書は、霊峰富士の北麓、山梨県旧南都留郡明見村(現、富士吉田市大明見)の旧家、宮下家に伝来の古記録・古文書のすべてを網羅、これをはじめて公開するものである。
 一般に、「富士古文書」「宮下文書」と呼ばれるこれらの広範な古記録・古文書は、宮下一族によって、「不時に際せば、まずこれを守護すべし。もし濫りにこれを開かば明を失すべし。」と世々戒めて堅く秘蔵されてきたもので、その類本・写本・草案・土代等は他になく、まさに天下の孤本とも祥さるべき貴重な資料である。
 しかし、一方で門外不出の掟や諸般の複雑な事情およびその数量があまりにも膨大なことから、これらの古記録・古文書は宮下家の秘庫にひたすら眠り続け、その実態については、明治、大正の交にこれを調査した三輪義煕による概説書「神皇紀」等の記述から類推するほかなく、名のみ高い幻の文献として、深い霧に包まれたまま今日に至った。
 ところが近年、本文献についてさまざまな方面から深い関心が寄せられ、その史料としての可能性にあらたな期待が寄せられるに至り、原本の完璧な形での公開が要望されるに至った。
 しかも、当社における調査の結果、これらの貴重な古記録・古文書の原本は、伝存過程において幾多の災禍を経ていることから、かなりの汚損があり、その保存状態は必ずしも良好とは言い難く、中には腐朽が甚だしいために、今にも朽ち果てんとするものさえかいま見られ、早急に原本の姿を忠実に記録に留めておく必要がいっそう痛感されたのである。
 もとより本書の出版は、当社にとって大きな負担を要する事業となった。しかし本古文献をあえて今日刊行するに至ったのは、一にこれだけの希観資料の公開は今後再び容易には望みがたく、また一には上記のごとき原本の状態を鑑みるならば、今日これを整理し刊行しなければ、わが民族にとって悔いを千年に残す危惧があったからに他ならない。
 ここに当社は、この未曽有の古記録・古文書のすべてを、今日望みうる最新の技術による影印版として刊行、原本そのままの価値をもった根本史料としてこれを提供し、もって天下の神宝の永遠の価値を万世に伝えることとした次第である。
 本書は、いわゆる神代学研究の不可欠の貴重な史料となることはもちろんであるが、決してそれに留まるものではない。ちなみに、近年の富士周辺の底流をなす富士古代王朝伝承に新たな視座を与え、また大本の出口王仁三郎が本文献の神統譜等の伝承をその教義構造の中に位置付けていることや、本文献の底流をなす富士コスモロジーと富士講教義のパラレルな位相は、宗教史や民俗学にも新たなテーマを提供するであろう。さらに近世史料までを包含するその裾野の広さは、史料に乏しい郡内地方の郷土史研究の方面からの大いに期待されよう。
 この貴重な原本の公開に同意された宮下義孝氏の勇気あるご決断に深く敬意を表するとともに、この未到の成果が、一つの礎石として、長く光のあてられることのなかった民族伝承の深層領域に寄与することはもとより、ひろく巷間有識の士によって迎えられ、永く我が国文化の興隆に役立つことを願ってやまない。
  昭和60年12月25日 八幡書店代表 武田崇元」より。
 

富士古文献の成立背景(8)

 投稿者:maeda  投稿日:2011年 7月26日(火)18時38分51秒
  10.鎌倉写本の成立
 地質学者の調査によれば、富士山は約70万年前の小御岳火山の噴火にはじまる。有史時代では天応元(781)年から宝永四(1707)年までの一千年間に十数回噴火したことが確認されている。
 桓武天皇の延暦十九(800)年の大噴火は被害が激甚だった。日本後紀によれば東海道足柄を通っていた道路が閉塞し、箱根方面に新道を開かなければならなくなったという。
このとき太神宮は七廟のうち四廟まで焼失し、多くの神宝が失われた。翌延暦二十年、二十六代大宮司は、配下の禰宜や祝などをひきつれて、辛うじて災害から守り通した古文書や宝物を持参して、相模国(神奈川県)高座郡早乙郷の大山守皇子の旧領に移った。彼はその地に社祠を建て、七廟のうちから寒川神社を勧請し、その宝蔵に古文書、宝物類を納めた。
 平城天皇の大同元(806)年、勅を奉じて坂上田村麻呂が焼失した4廟を再建、二十七代大宮司をよびもどした。以来、富士山麓の神宮を「山宮」、相模の寒川神社を「里宮」と称することになったという。
 なお、古文書は依然、里宮(寒川神社)に保管されていた。
 二条天皇の永暦二(1161)年、宮下文書保存の最大の功績者ともいうべき宮下源太夫義仁が第四十九代大宮司に就任した。義仁は源頼朝の挙兵以来、彼の創業を援けた相模の豪族三浦氏(三浦党)の嫡流である。彼は人品を見込まれて、大宮司職を嗣いで、自分が居住する山宮から、しばしば里宮に赴き、十数年かかって里宮に保管されている古文書を筆写した。その子の義国もこの筆写を継続した。そして、この写本は山宮に納められ社宝とされた。
 富士山はその後、永正八(1511)年の吉田口の溶岩噴出まで428年間、火山活動を停止している。
 一方、火山には安全なはずの寒川神社(里宮)は、思わぬ災害に見舞われた。弘安五(1282)年5月、馬入川が汎濫して里宮の宝蔵に保存してあった古文書がことごとく流出するという不幸な出来事が起こったのである。そのとき、寒川神社の宮司官下記大夫明吉はこの古文書を濁流から救出しようとして、その父の佐太夫国明とともに溺死する。
 明吉の遺児里吉丸は、母の実家である富士の山吉に引き取られ、大吉司吉下源太夫昭成の嫡男義春に養育されることとなった。そして里吉丸は大宮司職を嗣ぎ、五十六代大宮司義高となった。ここにおいて里宮の古文書継承者と山宮の古文書(複写)継承者とが一つに帰し、以後もっぱらこの義仁父子の筆写した古文書(宮下文書)を継承することとなった。現在の保管者宮下義孝氏は、第七十八代の大宮司にあたる。
 なお、岩間本(開聞神代歴代記)も三輪本(神皇紀)も、その底本は同じだが(宮下義仁写本)、それぞれ特徴がある。たとえば三輪本は収録範囲が広いが、戦前の刊行だけに当局の弾圧(発禁)を考慮して、意識的に省略した部分もある。一方、岩間本は戦後の刊行だけに、三輪本が意識的に避けた部分をも取り上げている。ただ、その収録範囲が狭い。その点から、三輪本と岩間本とは相互補充関係をなしているということができる。

 

富士古文献の成立背景(7)

 投稿者:maeda  投稿日:2011年 7月26日(火)18時37分57秒
  9.謎の人 中臣藤原物部麿
 中臣藤原物部麿とはだれか? この宮下文書の継承過程でもっとも大きな事件を引き起したこの人物について、三輪義煕も岩間尹も、またこの文書の研究者として著名な渡辺長義、鈴木貞一、吾郎清彦氏は、何もふれていない。つまり現在の中臣氏や藤原氏の系図に、このような人物に該当するものを見出せないからであろう。
 ただし、岩間尹によると、この中臣藤原物部麿とは、大織冠鎌足の「子」であるという。その間のいきさつは岩間によれば次のとおりである。
 まず大化改新で蘇我蝦夷が焼討ちにあったさい、その所蔵していた「国記」「天皇記」が焼失しそうになったとき、船史恵尺が火中から「国記」だけを辛うじて取り出したことにっいて、岩間本によれば、蝦夷は「朝帝の宝庫を焼いて自殺した」という。
 その災害対策会議の席で、この「古記録滅失の崇り」が論議されたとき、田辺武居(甲斐国造)なる人物が、その古記録の原典が富士山麓(阿祖山太神宮)にあることを述べたが、それを天皇は不問にしたという。
 ただ、鎌足だけが、この田辺武居の話をきいて大いに喜び、自分の子の中臣藤原物部麿にその古記録の筆写を命じた。そこで物部麿は、田辺武居を案内として富士山麓に赴き、その古記録を写した(天智10年(671))
この謎の人物は、大海人皇子(天武)側が政権(皇位)奪取後に備えて派遣した密使であるという仮定から推理される結論は、藤原不比等である。
 彼は、幼少時より父の鎌足のブレーンの一人である百済系帰化人の田辺史大隅に養育された。彼の「不比等」という名も「史」からのものといわれている。つまり彼は、幼少時から、この史官のもとで育てられていただけに「歴史」に強かった。
 中臣藤原物部麿を案内した田辺武居は田辺史大隅であろう。 史官の彼がそのもっとも信頼する弟子である不比等を連れて富士山麓に出掛けたということは十分に可能である。このベテラン史官にとってはその古記録を「作正」し、かつ「宇津須」ことなど、いわば朝飯まえの仕事だろう。しかも不比等の父の鎌足には、お世話になっているし、それにまた、鎌足だけが、彼が奏した富士山麓の古記録の件について理解してくれたということもある。壬申の乱後の不比等の栄達と、記紀編修の仕掛人としての不比等のイメージから、謎の「中臣藤原物部麿」の正体こそ、この藤原不比等であると結論できる。(佐治)

 

富士古文献の成立背景(6)

 投稿者:maeda  投稿日:2011年 7月26日(火)18時37分12秒
  8.最初の改定
 歴代神官を助けて先住民系の人々が護ってきた宮下文書にとって、きわめて重大な事件が人皇三十六代天智天皇十(671)年の8月に起こった。
 それは朝廷から(近江京から)「中臣藤原物部麿」なる人物が、富士山麓を訪れて、この文書を読み「作正宇津須、つまり文書(徐福筆録とされるもの)の文章を正して、これを新たに写し改めたというのである。ちなみに、この「中臣藤原物部麿」が「作正宇津須」ところの文書は、建久三(1192)年8月、宮下源太夫義仁が「謹書」したときの原本とされている。上質の和紙に上質の筆墨を用いて記した文書なら、保存さえよければ、五、六百年はもつ。だが、徐福の時代から天智十年までは九百年近く経過しているのだから、相当傷んでいただろう。したがって中臣藤原物部麿なる人物が、筆写し直すという行為そのものはよくわかる。ただ、問題は「作正」の二字にある。「作正」とは現代語でいえば「改訂」にほかならない。
 何を規準として改訂したのであろうか? なぜ改訂したのであろうか? この改訂者の素姓も問題である。
 その改訂の時期には、天智天皇は病床にあった。天智の側近たちにとっては、すでに彼の後継者についてのひそかな論議がささやかれていたはずである。後継者として本命だった大海人皇子(皇太弟)は、天智の本心が大友皇子(天智の実子)にあることを知っていたから、病床の天智から皇位継承の意を告げられたとき、一身上の危機を悟り、天皇病気平癒のための「出家修道」の名目で吉野に去ったのは十月のことである。
 中臣藤原物部麿なる謎の人物が富士山麓を訪れ、そこにある古文書を読み、かつ「作正宇摩須」という行為に出たのは、このようなきわめて微妙な時期であったのである。
 ちなみに、この時点では中巨鎌足こと藤原鎌足はすでにいない(669年死亡)。鎌足を欠いたことによって、天智と皇大弟(大海人皇子)とのあいだの緊張は極度に高まっていた。
大海人皇子の打った布石の1つが腹心の中臣藤原物部麿の富士山麓派遺だったのではなかったか。そして、その目的は古代記録の入手とその変造である。つまり、この時点では古事記や日本書紀の編集はまだ行われていなかった。 皇位を狙う人物なら、その主張の正統(正当)性を訴えるためにも、新しく史書を作ることが必要となる。そのためには阿祖山太神宮保管の文書を眺めておくことが必要だ。もし、その文書が白目分の即位にとって不利なものだったらそれを改訂すればよい。そして改訂版に基づいて新たに修史作業を開始する。

 

富士古文献の成立背景(5)

 投稿者:maeda  投稿日:2011年 7月26日(火)18時35分59秒
  6.富士古文献の成立と徐福・孝元天皇
 秦の方士徐福が富士の阿祖山大神宮の神官が語った古代史を聴きその深さに感嘆するとともに、その貴重な記録の散逸するのをおそれ、改めて漢字で筆録したものが「富士古文献」とされている。
ほぼ紀元前200年ころまでに成立したものということになり、日本最古の史書ということになる。しかし膨大な伝承のすべてを徐福一代で筆録したとは考えられない。漢字をよく知る徐福の子孫なり従者がその作業を継承したものと考えられる。
 徐福筆録説とは別に、この文書の少なくとも「開闢神代暦代記」と「蘇我氏、栄日子氏、武部氏三家世代記」は、第八代孝元天皇がみずから撰録し、徐福はその勅命で筆録したものという説もある。すなわち岩間本によれば、岩間本に収録されている「暦代記」他数篇は孝元天皇がみずから編集した古代実録であり、それを「書き作り記し置」いたのが徐福である旨を、宮下源太夫義仁によって「謹書」されている。
孝元天皇というのは、津田左右吉博士の記紀批判以来、仮空の存在とされているが、一部の古史古伝研究者のあいだでは、神武系とは別系の孝昭王朝(孝昭、孝安、孝霊、孝元、開化の各天皇、物部系か?)のいわば後期の天皇であるとみられている。

7.富士古文献を継承したのは「国津神」系
 孝元天皇が即位前から編集しはじめ、秦の徐福およびその後継者が筆録したとされるこの文書を、代々継承してきたのは富士山麓の阿祖山神宮の神官グループである。
 このグループの長、つまり大宮司は、神代においては「守護司長」あるいは「高天原惣司令神」と称されていたが、神皇の世が終り人皇の代になってからは「宮守司長」、のち「大宮司長」、さらに後代に入って「大宮司」とよばれるようになったという。
 これらの漢風の呼称は、古史古伝に似合わないが、この文書の原本が徐福によって筆録されたといわれる全漢字のものである。「惣司令神」など近代的な語が出てくるのは明治-大正期に三輪義煕が現代訳したさいの表現である。
守護司長:大国主命-多真祖命(ヒコホホデミ時代)-神火須勢理命(第1代ウガヤフキアエズ時代)-阿尾弥真男命(オオヤマズミ系)-大山守皇子(応神天皇時代)。
 大国主命以来、阿祖山太神宮の神官職は、ほぼ一貫して国津神系(先住民族系)の人々によって占められてきた。
大山守皇子は阿祖山太神宮でこの文書の保存、継承の任についた。その子孫が「宮下」姓を名乗るようになる。大山守皇子の背後には人口の70%以上を占める先住民族系山の民、海の民が控えていた。

 

富士古文献の成立背景(4)

 投稿者:maeda  投稿日:2011年 7月26日(火)18時34分47秒
  5.富士古文献(宮下文書)の成立史
 以下、佐治芳彦著「謎の宮下文書」の記載を参考に、概略を述べる。
富士古文献はさまざまな「名称」で呼ばれている。宮下文書、富士文書、徐福文献、神皇紀、富士高大原朝史、開闘神代暦代記、寒川文書とよぶ人もいる。それぞれの名称はこの文書の内容、成立、継承、公開の過程を端的に物語っている。
1)「宮下文書」:これは阿祖山太神宮(富士太神宮)の大宮司を代々つとめてきたという富士山麓-富士吉田市大明見の宮下家(当主宮下義孝氏)に保存されている古代文書であることからの名称である。
2)「富士文書」(または富士文献ともいう):この文書の内容、成立、継承について、富士山が大きな役割を占めていることからの名称である。
3)「徐福文献」:もともと木片や竹、石面などに神代文字(古代和字)で記されていたこの文書の内容を、漢字で筆録したのが、秦の始皇帝(前259~前210)に仕え、東方の霊山(蓬莱山)に不老不死の霊薬を求めて渡来した方士徐福であったという伝承からの名称である。
4)「神皇紀」:明治から大正にかけて約三十年にわたり、この文書を研究した三輪義煕(1867~1933)が「精査編集」して大正十(1922)年に出版した書名である。(三輪本ともいう)
文書の研究者で宮下家保存原本の写しを所持されていた渡辺長義(当時山梨県文化財保護委員)の証言によれば、神皇紀は内容の点においてほぼ完璧に原文書の面影を伝えているという。また、現在宮下家に保存されている原本(鎌倉時代写本)が一般に公開されていないことから、ふつう宮下文書といえば、この神皇紀(初版1922年)をさしている。
5)「富士高天原朝史」:古史古伝研究の第一人者である吾郷清彦氏の命名であるが、これは、この文書の内容が太古代、富士山麓に栄えた高天原王朝(富士王朝という人もいる)の興亡史であることにもとづく。
6)「開闢神代歴代記」:富士の阿祖山神宮(富士太神宮)の宮司であった宮下源太夫義仁(鎌倉時代の武将三浦義明の孫にもあたる)の子孫でもある三浦一族会の岩間尹(タダス)が、相模の一ノ宮の寒川神社に保存されていた(富士山噴火のさい焼失をさけるために分散されていたもの)文書を、調査、研究し、戦後、独自に編集、出版された(初版1968年)ときの書名である。
7)「寒川文書」:岩間本を、神皇紀が三輪本というのに対して、「寒川文書」と呼ぶ場合がある。寒川神社神庫に保存されていたと称される文書をもとに記されたものということからの名称である。原本は、大明見の宮下家のものと同一である。ただ内容の配列、史実の選択、現代語訳で、神皇紀と若干相違がある程度である。両書を併せ読むことによって、この文書の全容をより確実に捉えることができる。
 

富士古文献の成立背景(3)

 投稿者:maeda  投稿日:2011年 7月26日(火)18時33分41秒
  参考
*1.富士文庫事件は、すでに当時のマスコミ(朝日、読売、毎日の3大紙をはじめ、都、報知、中央、毎夕、新愛知、山梨などの有力紙、雑誌「日本及び日本人」など)に大々的に取り上げられ、その社会的影響が無視できなくなったため(しかも殆どが文書を肯定的に受け止めていた)、組織的、計画的に偽史化するための、きわめて高度な政治的陰謀(国策捜査的)であったと考えられる。(佐治芳彦、「謎の宮下文書」徳間書店、1986年11月発行)
 かつて上記(うえつぶみ)は、紹介者の吉良義風を個人的に中傷することによって偽書化された。竹内文書は、天津教弾圧と並行して行われた狩野亨吉博士の批判によって偽書化された。九鬼文書も大本教弾圧によって公表のチャンスが大幅に遅らされた。
 しかし、宮下文書の富士文庫事件ほどこまかい細工を弄して、巧妙に偽書化されたケースはない。
*2.富士古文献(宮下文書)は継承過程で改定された疑いがある。 改定の事実を伝える記録がある。天智天皇10年の中臣藤原物部麿の「作正宇津須」とある部分がそれである。当時の体制にとって不都合と思われる部分の改定作業を含む筆写化であったと見られる。
*3.三輪義煕氏は、尾張一宮の真澄田神社の宮司大伴氏の子孫である。大伴氏は、東三河賀茂町にある賀茂神社の摂社、大伴神社の宮司であったが、賀茂神社の宮司になれなかったことから、尾張に移った。大伴氏は、神武東征の際の将軍(天の忍日命)を祖先とする直系子孫であり、三輪義煕氏も古代日本の歴史に特別深い関心を持っていたと思われる。
 

富士古文献の成立背景(2)

 投稿者:maeda  投稿日:2011年 7月26日(火)18時31分57秒
  4.富士古文献発見の経緯とその後
 本文献は、寛文8年(1667)宮下家一統の取り決めにより、一古箱に密封、棟梁に結着され、世々戒めて開くことを許さず、これに付属する刀槍半弓などの古器物とともに、“神璽”として伝えられてきた。文久3年(1863)の明見村の大火の折、古箱を搬出しようとした際、同村内の半右衛門というものが奪おうとしたなど種々の経緯はあるが、決して世人の目に触れることなく秘蔵されてきた。
 本文献が世に出たきっかけは、明治16年2月22日、同家の産土神である福地八幡旧社の祭典に際し、時の当主宮下源兵衛義興(同家77代)が、村内の小室浅間神社祠官宮下荘斎重徳とはかり、夜半同家の奥の一間で古箱その他伝来の器物を陳列し、祈祷の後、初めて開封されたことに始まる。
 そして、悠久の太古に富士山北麓一帯の高原盆地に、神都・家基都があり、その中心である明見の里に神祖神宗の宗廟である阿祖山大神宮が、奉祀されるという特異な内容の故に、明治22,23年のころから、子爵・秋元興朝をはじめ名士や一部の有識者、特に地方の名望家の間で関心を呼ぶようになった。
 本文献が、中央に紹介されたのは、同じころ、護良親王の事績調査のために、同地を史料収集に訪れた内務省属・河井庫太郎が東京地学協会で講演をしたことに始まる。世人に広く知られるようになったのは、三輪義煕著「神皇紀」が刊行された大正10年6月10日以降のことである。
 神皇紀刊行を契機として、大正11年1月内大臣斎藤実・朝鮮総督(後首相)をはじめ、宮廷関係の高級官僚、子爵岡部長職、東京地裁所長今井恭太郎、政友会の天野泰造、文学博士小藤文次郎東大教授を含む有識者等当時の著名な人士が多く、本文献の学術的総合研究を目的とする財団法人・富士文庫が結成された。
 しかし、翌12年9月1日の関東大震災により、その事務所とともに、関係書類の大半が灰燼に帰し、その事業がとん挫したころ、それと相前後して「偽書」の烙印のもとに、本文献は次第に世間一般から黙殺されるにいたり、富士文庫そのものも解消に向かっていく。尚、その法人は発足後1年で報告書第1巻(富士文庫第一巻)を刊行しただけで、うやむやのうちに解散したのである。*
 その後は、一部の神道家や神代史関係者の間で、概説書である「神皇紀」に依りながら、幻の古文献として言及されるにとどまり、中央では一般の記憶から失われていく。
 本文献は、明治22、23年のころ、宮下源兵衛を中心とする同家一統による整理を経て、大正11年以降富士文庫の中心メンバーである三輪義煕、神原信一郎の協力のもとに再び整理された。現在は大正12年5月にその永久保存のために同家の庭に建造された蔵の奥深くに収蔵されている。(「神傳富士古文献大成」1巻例言(昭和61年2月、八幡書店発行)
 

富士古文献の成立背景について

 投稿者:maeda  投稿日:2011年 7月26日(火)18時30分37秒
  1.はじめに
 今般神奈川徐福研究会から出版するに至った現代語訳「神皇紀」が、原本である富士古文献とどのような関係にあるか、また古文書としてどのような位置づけがなされているか考察してみたい。
「神皇紀」は、富士山北麓大明日見の宮下家に伝わる謎の古文書「富士古文献」を三輪義煕が整理し、大正10年に発刊した書籍で、日本の超古代~鎌倉時代の歴史、文化を記載する文書の集合体の紹介書である。大正時代に刊行の原本はかつて八幡書店より復刻されたが、ある程度の知識のある方でないと判読には相当の道骨が必要であり、現代語訳の刊行が待ち望まれていたものである。
この現代語訳によって太古の阿祖山大神宮、徐福渡来説や神農伝承など秘められた富士神話の全貌が万人に明らかになることが期待される。

2.富士古文献と神皇紀の関係
富士古文献は、宮下家に保管された古文書である。神皇紀は、三輪義煕氏が明治時代に、赴任地富士吉田において、富士古文献(宮下文書)に出会い、29年の歳月を費やして、研究し読み解き、富士古文献を体系的に整理して、大正時代10年に、書物とし神皇紀として世に発表したものである。
内容は、衝撃的で、神武天皇以前に、日本には膨大な期間にわたる富士王朝が存在していた。特に神々の世界とウガヤフキアエズ朝51代が存在していた。また、孝霊天皇の時代に秦国の徐福が渡来し、日本の古代王朝の祖先と徐福の祖先が同じであったということを知り、日本の超古代史を漢字で書き改め編集したということは、当時の記紀神話中心の皇国史観に微妙な影響を与えた。しかし、当時の政治家、軍部などに注目され、富士文庫が設立されるなどして、一世を風靡した。
ところが、財団法人富士文庫が設立されて1年あまりで、明確な理由なく閉鎖され、富士古文献が偽書であるとの評価だけが残されることになった。

3.富士古文献を紹介する書籍
富士文古文献を紹介する書籍としては、「神皇紀」のほか、最近渡辺長義氏の著書「幻の富士古文献」(2002年12月、今日の話題社発行)、佐治芳彦氏著「謎の宮下文書」(1986年11月徳間書店発行)などがある。明治44年発行の増補寒川神社志には、雑載「宮下文書」という19ページの抜粋紹介文が添付されている。
また、昭和60年には、完全写真版の「神傳富士古文献大成」七巻(昭和61年2月、八幡書店発行)が刊行されている。この書によれば、富士古文献は、世に「富士古文書」「宮下文書」「富士文庫」「徐福文書」「寒川文書」などと称されてきた。しかし、このような名称は、古記録・古文書の相半ばする宮下家伝来の秘書に対するものと言い難く、「富士古文献」と称することにしたと言われる。
 

関東在住の秦氏さま

 投稿者:maeda  投稿日:2011年 2月18日(金)22時10分7秒
  投稿有難うございました。
明治生まれのご祖父さまが、弓月の民の特徴を保持したまま生活をしていたというお話は大変興味が惹かれました。
 また、何か書きこんで戴けると有難いですね。

 なお、今日電車の中で、加治将一著「舞い降りた天皇」という本を読んでおりましたが、「秦氏は、大量の技術集団を引き連れてきたのだ。その数、数千人とも万を超すとも言われているのだが、どちらにせよそれだけの人数をごっそりとボートに乗せるくらいだから、王族だったに違いない。
 秦族の技術者は、製鉄、養蚕、酒造、塩田など広範囲で、渡来後は列島全体に散らばって、あちこちに秦氏の痕跡を残している。
 秦氏は近畿に腰を据えると、あっという間に朝廷に食い込んで、京都の山城、丹波を開拓し、現在映画撮影所のある太秦一体に勢力を広げた。・・近畿で石を投げれば秦一族にぶつかるほどである。」
 などと書いてありました。
 もっと、いろいろ書いてあるのですが、今日のところはこの辺で。
 

関東在住の秦氏です。

 投稿者:秦氏  投稿日:2011年 2月18日(金)01時54分38秒
  こんばんわ。初めてこちらにお邪魔しております。
ざっと拝見してみましたが、かなり濃い内容が多いですね?
特にmaeda様の投稿内容には心惹かれるものが多かったです。
私の祖父(明治生まれです)の代迄は日本書紀にも記載されていた秦氏(弓月国の民)に
ついての特徴を保持したまま生活しておりました。
親の代になってからは秦氏的風習はすっかり陰をひそめて、現代的な生活になった次第です。
 

石巻山が宇宙文明の窓口に?

 投稿者:maeda  投稿日:2010年12月31日(金)12時05分59秒
編集済
   2010年大晦日に不思議な出来事が紹介できます。
古代神都東三河のHp始まって以来の驚愕の出来事が起こっているのです。

 2011年11月9日付けなどの「ふるやの森」というWeblogに記載されているのですが、関連記事のさわりだけ紹介させてもらいます。

「日本宇宙文明の創造へ向かって、新しい大きな時代の幕開けが日本から開始しました。2010年11月7日に、石巻山に輝いたアマテラス大神が新地球の黎明となります。11月7日のイベントの前に送られてきた「88」のサインの謎がすべての問題を解決する重要なカギとなることが判明しました。中略
 私たちのDNAに刻まれた太古の日本に実在した高度な宇宙文明の記憶が今ようやく、長い年月を経て目覚めようとしているのです。
 大和民族はこれから世界に誇る新しい地球文化・文明の創造と普及に向かうように運命づけられている。古神道は他の宗教と対立することがない優れた柔軟性を備える宇宙科学です。」

 実は、豊橋市の石巻山は、11月7日に宇宙人とのファーストコンタクトを企画するグループのオオプンコンタクト会場となっていたのです。石巻山ナツメ別館がその地でした。
 石巻山の入口に掲示されていたシンボルは、上下に対となったピラミッド。下の△は底辺から上に向けて進み、頂点の一点で次元変化が起きる。上の▽の頂点は下の△の頂点と接触し、ミロクの世を表現しているという。
 石巻山の石(イシ)は、一四=五(中心)=隠れ身五神、巻(マキ)は真気=真理の気・宇宙創成の原理、山は川(隠れ身)と横一線(大地・地球)で絶妙なる仕組みを意味しているという。88は天と地をダブルで開く数霊だという。

 11月7日の石巻山オープンコンタクトに参加したSさんは、コンタクトの前に瞑想中次のようなビジョンを見たといいます。
 「夜の11時ごろから祈りと瞑想に入り、いつもの賛美をしていると、魂がどんどん上昇し、天界へと上がっていった。スクリーンのような巨大な幕が、地球の山々や森を思い浮かべる美しい緑の鮮明な彩りで深く、青く、また光が絶えず流れていた。天使たちが数人で号令の音と同時に右と左に別れ、黄金のひもを引っ張った。彼らは強くたくましく、また顔は喜びにあふれていた。宇宙からの開門ーそれは壮大であった。中略 創造主と宇宙の人々たちとの非常に長きにわたった統合のスクリーンが開いて、もはや閉じることはなかったのである。すべての創られたものの愛と愛の統合の時であった」と。

 石巻山は、以前からUFOが現れるという噂が絶えず、筆者自身10年以上前に、赤い光の玉が天から降りてきたり、その翌日には、赤い光の玉が真横に飛び出していくのを見たことがある。そのころ、ある霊能者は、石巻山の中心に神々が籠っているのを霊視している。石巻山の頂上で、瞑想して宇宙へ意識が飛び出したという経験を語る人は多い。
 2009年1月に石巻山を含む東三河の聖地ツアーを行ったことがあるが、その後、有志が石巻山山頂を清掃浄化し、山全体を清掃し続けるボランテイア活動を続けられている。
 2010年はまさに、石巻山が窓口になって、宇宙への扉が開かれた年かも知れない。
 

徐福王国相模

 投稿者:酔石亭主  投稿日:2010年 8月21日(土)04時31分26秒
  「徐福王国相模」を拝読させていただきました。結論的には秦氏が徐福伝承を各地に広め、その幾つかが相模にもあると言うことになるでしょうか。日本各地の徐福伝説がある場所は、ほぼ間違いなく秦氏の痕跡が見られるのがその証拠と思われます。例えば三重県熊野市の波田須にある徐福伝承などが当て嵌まります。相模についても徐福伝承地とされた場所には全て秦氏の痕跡があります。秦氏はまた始皇帝の子孫を名乗り、ミトラ教、弥勒信仰、虚空蔵信仰、陰陽道、聖徳太子信仰、弘法大師信仰をも担っており、妙善寺の碑文は彼らが徐福伝承を担った結果、後代になって徐福が秦氏の祖であるという伝承に転化していったものではないかと推測します。なお、秦川勝が創建した仙福寺(横浜本郷台近くにあり、現在は横浜市栄区神郷町の光明寺となっています)は、徐仙が福山と名乗ったところに由来しているのかもしれません。

http://suisekiteishu.blog41.fc2.com/

 

秦氏について

 投稿者:酔石亭主  投稿日:2010年 8月14日(土)21時34分19秒
  Maeda様

こんばんは。

相模国の秦氏については一般的な内容とがほとんどです。鎌倉の謎を解くで頼朝に対する秦氏の影響を、推測ではありますが書いてみました。

現在、日本人の特殊な性質の発現に秦氏が決定的な影響を及ぼしたことを証明する方向で書き進めており、その上で人類進化の謎と接続させていくつもりです。無謀な試みかもしれませんが二番煎じの議論では面白くないので、何とか完結させようと思っています。

秦氏に関しては良い資料が少ない点が悩みです。あれこれ考える上で基礎資料となるものがもっと欲しいのですが、それがないなら想像や推測で補うしかなさそうです。

ジュンク堂は近くにあるので近々行ってみます。ご連絡有難うございました。

http://suisekiteishu.blog41.fc2.com/

 

ようこそ

 投稿者:maeda  投稿日:2010年 8月14日(土)16時37分3秒
  酔石亭主 さま

 はじめまして、添付のHPを訪問させてもらいました。
相模と秦氏の関係を相当突っ込んで調査されているようですね。
ご高説を伺いたいところです。

 『徐福王国相模』は、既にインターネット書店のAmazonで取り扱われています。また、紀伊国屋やジュンク堂など大手の書店では、取り扱われているはずです。一般の書店でも注文されれば手に入れられると思います。

 ところで、秦氏の事を取り上げた書物、加治将一著「失われたミカドの秘紋」(祥伝社、2010.8.5発行)は、小説ですがなかなか読みごたえのあるものでした。ご参考まで。
 また、旧約聖書の究明に関しては、イオン・アルゲイン著「聖書の暗号は読まれるのを待っている」(徳間書店、2010.7.31発行)は参考になります。どうも前文明「ムー」の知性が反映されているようです。
 

徐福王国相模

 投稿者:酔石亭主  投稿日:2010年 8月14日(土)06時03分22秒
  はじめまして。

私は現在神奈川に在住しているのですが、秦氏に興味があり自分のブログでもその謎をあれこれ追及しています。参考になるので、こちらのホームページにも時々訪問させていただいており、本が出たら読んでみたいと思っています。

http://suisekiteishu.blog41.fc2.com/

 

徐福王国相模

 投稿者:maeda  投稿日:2010年 8月 8日(日)15時35分30秒
編集済
   神奈川県の徐福伝承をベースにした、相模の古代秘史に関する拙著「徐福王国相模ー秦氏の刻む歴史-」(彩流社、2010年8月15日発行)という本が、刊行されます。
 よろしければ、読んでみてください。
目次は、
第1章 神奈川における徐福伝承
第2章 徐福伝承を伝える人々
第3章 日本における徐福の存在の重要性
 そのほか、秦氏の歴史、日本人のルーツに関する考察や古史古伝と徐福に関する考察も行っています。
(maeda)
 

竹槍さん のコメント抜粋

 投稿者:maeda  投稿日:2010年 8月 8日(日)15時29分5秒
  以下は熱田神宮にゆかりのある神職が酒の席で言ったことという断りで、2chに投稿されていた話です。
神武は何人もいた。だいたい殺したけど最後の一人がべらぼうに強かった。
伊勢神宮は奪われた。熱田神宮も奪われたけど返還された。

奥出雲で走査検索式というアカシックレコードにアクセスしてYesNoで質問の正否を確認する占いをしているアベソウカンさんから聞いたことですが、彼によると徐福は島根県の美保関から上陸したそうです。邪馬台国は大阪府豊中市が本拠地だとか。徐福と卑弥呼の間に血縁関係はないともおっしゃっていました。アイヌの祖先が倭人と日本の覇権を争うにあたって、不利だったので朝鮮半島から北方モンゴロイドを招きいれて、彼らの力を借りて勝利したとも聞きました。
 

(無題)

 投稿者:maeda  投稿日:2010年 8月 4日(水)21時43分37秒
  竹槍 さん

 徐福のことを、記載するのはいいのですが、現在の政治がらみで問題となりそうなことは、この掲示板には掲載しかねます。あまり、いろいろな問題含みの事を、記載されない範囲で掲載させてもらいます。どうぞよろしく。
 

よろしくお願いします

 投稿者:竹槍  投稿日:2010年 7月30日(金)03時45分47秒
  東三河のことはよくわからないんだけど、徐福伝説・物部神道とかかわりが深いようなので、それ関係の投稿をさせていただいております。  

段戸山「壇特山」

 投稿者:米山正美  投稿日:2010年 7月18日(日)01時47分48秒
  聖徳太子が設楽の山から石を投げたという伝説がありますが、それが壇特山だと思います。段戸山の何処から投げたのか?ということをご存知の方ありましたらお教えください。
                                    宜しく。  尚 段戸山がもと壇特山という事です
 

アラハバキ神について

 投稿者:maeda  投稿日:2010年 5月12日(水)14時33分2秒
   愛知県豊川市に住むS.G.さんから、
「郷土の歴史を調べていますが、花祭りと修験道を調べて行く中でアハラバ キがでて来ました。サイト検索で貴殿のサイトを見つけました。よければ、見識をお聞きしたい」とのメールを頂きました。

 小生も次のHPに、アラハバキ神のことを記述していましたので、関心は持っています。
 http://homepage2.nifty.com/kodaishinto/page007.html

 そこで、以下のような、現時点での見解をもって返事としたので、記録のために、添付しておきます。

「アラハバキ神のことですが、アラハバキ神は、東三河の4か所以上の神社に摂社として祀られています。
 地主神として、それぞれの神社の現在の主神より以前からいた神となり、門前に祀られることが多いようです。
 アラハバキ神は、東北で多く祀られているようですが、東三河で祀られていることは、東北と東三河の間に古代の交流があったと考えられます。
 オシラ様とか、立石神の形で祀られたり、履物の神様であったりするようです。
 しかし、祀っている神社などには、イワクラがある場合が多く、東三河では、イワクラ神社、砥鹿神社、二川大岩の麓の神社が祀っていたと思います。
 私は、たぶん石尊神や、イワクラの神(国常立大神)ではないかと考えています。」

 何方か、そのほか、情報があれば教えてください。
 

(無題)

 投稿者:吉村敏彦  投稿日:2010年 4月13日(火)11時42分25秒
  論争にはずみがつきそうです。中古にもプレミアムがつき、なかなか入手困難な書籍の一つだったのですが、このたびミネルヴァ書房より待望の復刻が、「古田武彦・古代史コレクション」と銘打ってスタートしたようです。「初期三部作」と呼ばれている、『「邪馬台国」はなかった』『失われた九州王朝』『盗まれた神話』の三冊がまず復刻されました。次いで『邪馬壹国の論理』『ここに古代王朝ありき』『倭人伝を徹底して読む』の復刻予定とのこと。 特に初期三部作は古田史学のデビュー作と言うだけでなく、その学問の方法を徹底して重視した論証スタイルに古代史学界が受けたインパクトもかなりの強烈なものでした。  

東三河と物部氏

 投稿者:maeda  投稿日:2010年 3月14日(日)14時29分44秒
  東三河の砥鹿神社と物部氏・大木食命の関係

 大木食命のことですが、先代旧事本紀の物部氏の系図には、次の通りと書かれています。

 饒速日尊ー宇摩志痲治命*ー孫味饒田命
            l-弟彦湯支命ー  三世尊大禰命
             (綏靖天皇時大臣)(安寧天皇時侍臣)
                      弟出雲醜大臣命  -四世孫大木食命
                      (懿徳天皇大臣)  (三河国造祖)
                      弟出石心大臣命   弟六見宿禰命
                      (孝昭天皇大臣)  (小治田連祖)
                                弟三見宿禰命
                                (孝安天皇大臣)

 *舅ナガスネヒコの君主であるが天神(神武)を大切にしない彼を布都主神魂刀で討つ。 尚、布都主神魂は、徐市(徐福)を指しているという説がある。

 つまり、大木食命は物部氏の直系第4世孫で、孝安天皇の時代に三河の国造になっていた人です。
 東三河の砥鹿神社のある一宮地区に、大木村がありますが、この地は大木食命に由来します。
 石巻神社の歴代宮司である、大木氏は大木食命の子孫であり、今は砥鹿神社の禰宜をしながら、石巻神社を治めているはずです。
 近年のことですが、大木宮司の親戚の方が、ある会社に勤めていたとき、砥鹿神社の歴代宮司・草鹿砥氏の上司だったことがあるといい、小生はご両人と面識をもつことができました。不思議な因縁です。

 大木食命の父である第3世「出雲醜大臣命」も、豊川市の出雲神社で祀られています。
 物部氏の第六世孫の孫「物部胆喰宿禰」は成務天皇の大臣で、秋田物部の祖であり、三川穂国造の妹(伊佐姫)を妾としています。
 つまり、物部氏の直系は、古代天皇家の大臣を務めながら、東三河と深い関係があります。特に、砥鹿神社、石巻神社は深い関係を持っていたようです。
 その砥鹿神社は、掛川の事任神社とつながりを持っていたとは、面白い話です。
 

【 邪馬壹國 】の比定

 投稿者:wajin  投稿日:2010年 1月24日(日)09時40分51秒
  【 邪馬壹國 】は【 熊本平野 】にに比定しています。

この事を証明するために、当掲示板を利用させていただきます。

ご説明は次の順路に従います。

┏ ┳ ◎. 帯方郡庁 ( ソウル付近 )
┃ ┃ ↓ . ( 七千餘里 ) ( 964km )
┃ ┃ ○. 狗邪韓國 ( 釜山付近 )
┃ ┃ ↓ . ( 千餘里 ) ( 137km )
┃ ┃ ①. 對馬國 ( 対馬・下島 )
自 萬 ↓ . ( 千餘里 ) ( 62km )
郡 七 ②. 一大國 ( 壱岐 )
至 百 ↓ . ( 千餘里 ) ( 36km )
女 餘 ③. 末盧國 ( 伊万里 )
王 里 ↓ . ( 五百里 ) ( 68km )
國 ┃ ④. 伊都國 ( 前原 )
萬 ┃ ↓ . ( 百里 ) ( 14km )
ニ ┃ ⑤. 奴國 ( 博多 )
千 ┃ ↓ . ( 百里 ) ( 14km )
餘 ┗ ⑥. 不彌國 ( 香椎 ) .━┳━┓
里 ∵ ↓. 水行二十日∵∵∵千∵┃
┃ ∵ ⑦. 投馬國 ( 久留米 ) .四∵┃
┃ ∵ ↓. 水行十日∵∵∵∵百 ( 192km )
┃ ∵ ↓. 陸行一月∵∵∵∵里∵┃
┗ ━ ⑧. 邪馬壹國 ( 熊本 ) ┻━┛


~~┃∵∵∵∵楽浪郡∵∵∵∵∵∵┃~~
~~┣━━━━━━━━━━━━━┫~~
~~┃∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵┃~~
~┌◎帯方郡庁∵∵∵∵∵∵∵∵∵┃~~
~↓┗┓∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵┃~~
~└┐┃∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵┃~~
~~↓┃∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵┃~~
~~↓┃∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵┃~~
~~↓┃∵∵∵帯方郡の領土∵∵∵┃~~
~~↓┃∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵┃~~
~~↓┃∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵┃~~
~┌┘┣━━━━━━━━━━━┳┛~~
~↓┏┛∵∵∵∵韓の領土∵∵∵┃~~~
~↓┃∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵┃~~~
~↓┃∵方可四千里∵狗邪┏━━┛~~~
~↓┃∵∵∵∵∵┏━○━┛~~~~~~
~↓┃∵┏━━━┛┌┤~┏┓~~~~~
~↓┗━┛┌→→→┘↓~┃┃~~~~~
~└→→→┘~~~~↓┏┛┃~~~~~
~~~~~~~對馬國├①┏┛~~~~~
~~~~~~~~~~↓┗┛対馬下島~~
~~~~~~~~~~↓┏┓~~~~~~
~~~~~~~一大國├②┛壱岐~~~~
~~~~~~~~~~↓~~~~~~~~
~~~~~~~~~~↓~┏━┓~┏━━
~~~~~~~~┏┓↓┏┛∵┗━┛⑥∵
~~~~┏━━━┛∵↓五百里∵∵/↓∵
~~~┏┛∵∵∵∵∵③→→④→⑤百不∵
┏━━┛∵∵∵∵∵∵末∵∵伊百奴里彌水∵
┛∵∵∵∵倭國∵∵∵盧∵∵都里國∵國行
∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵國∵∵國∵∵∵↓二
∵∵┏━┓∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵南十
∵┏┛~┗┓∵∵∵水行十日∵∵∵∵至日
┏┛~~~┗┓∵∵┌←←投馬國⑦←┘∵
┃~~~~~┃金∵↓∵∵∵∵∵∵∵∵∵
┃~~~~~┃峰∵南∵∵∵∵∵∵∵∵∵
┃~有明海~┃山∵至∵∵∵∵∵∵▲阿蘇
┃~~~~~┃▲∵└→→→→→⑧∵∵∵
┃~~~~~┃∵∵∵陸行一月∵邪馬壹國
┃~~~~~┃∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵
┃~~~~~┃∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵
┃~~~~~┃∵◎狗奴國∵∵∵∵∵∵∵

http://www2.ocn.ne.jp/~wajin/

 

/18