投稿者
 メール ※掲示板には表示されません(詳細)
  題名 ※管理者の承認後に掲載されます。
  内容 入力補助画像・ファイル<IMG>タグが利用可能です。(詳細)
    
 URL
[ ケータイで使う ] [ BBSティッカー ] [ 書込み通知 ] [ 検索 ]


投稿論文Ⅱ-4(4)

 投稿者:maeda  投稿日:2013年 3月 6日(水)11時52分58秒
  5.富士古文献(宮下文書)の改定から古事記・日本書紀へ
秦の方士徐福が富士の阿祖山大神宮の神官が語った古代史を聴き、その深さに感嘆するとともに、その貴重な記録の散逸するのをおそれ、改めて漢字で筆録したものが「富士古文献」とされている。
徐福筆録説とは別に、この文書の少なくとも「開闢神代暦代記」と「蘇我氏、栄日子氏、武部氏三家世代記」は、第八代孝元天皇がみずから撰録し、徐福はその勅命で筆録したものという説もある。すなわち岩間本(古代豪族三浦氏の家伝書=富士古文献を集成した古代日本史本)によれば、収録されている「暦代記」他数篇は、孝元天皇がみずから編集した古代実録であり、それを「書き作り記し置」いたのが徐福である旨を、宮下源太夫義仁によって「謹書」されている。
ところで、富士古文献(宮下文書)にとって、きわめて重大な事件が人皇三十六代天智天皇10年(671)の8月に起こった。朝廷から(近江京から)「中臣藤原物部麿」なる人物が富士山麓を訪れて、この文書を読み「作正宇津須」という。つまり徐福筆録とされる文書の文章を正して、これを新たに写し改めたという。問題は「作正」にあり、現代語でいえば「改訂」にほかならない。
その改訂の時期、即ち中臣藤原物部麿が富士山麓を訪れ、そこにある古文書を読み、かつ「作正宇津須」という行為に出たのは、大海人皇子(後の天武)が、病床の天智から皇位継承の意を告げられたときである。大海人皇子は、腹心の中臣藤原物部麿を富士山麓派遣したのである。その目的は古代記録の入手とその変造である。つまり、この時点では古事記や日本書紀の編集はまだ行われていなかった。
皇位を狙う人物なら、その主張の正統(正当)性を訴えるために、新しく史書を作ることが必要となる。そのためには阿祖山太神宮保管の文書を眺めておくことが必要である。もしその文書が白目分の即位にとって不利なものであればそれを改訂すればよい。そして改訂版に基づいて新たに修史作業を開始した。

6.文書を改定した中臣藤原物部麿は藤原不比等!
宮下文書の継承過程でもっとも大きな事件を引き起したこの人物について、三輪義煕も岩間尹も、またこの文書の研究者として著名な渡辺長義、鈴木貞一、吾郎清彦氏は、何もふれていない。つまり現在の中臣氏や藤原氏の系図に、このような人物に該当するものを見出せない。ただし、岩間尹によると、この中臣藤原物部麿とは、大織冠鎌足の「子」であるという。
大化改新で蘇我蝦夷が焼討ちにあったさい、その所蔵していた「国記」「天皇記」が焼失しそうになった。そのとき船史恵尺が火中から「国記」だけを辛うじて取り出した。蘇我蝦夷は「朝帝の宝庫を焼いて自殺した」という。その災害対策会議の席で、この「古記録滅失の崇り」が論議されたとき、田辺武居(甲斐国造)という人物が、その古記録の原典が富士山麓(阿祖山太神宮)にあることを述べたが、それを天皇は不問にしたという。
ただ、鎌足だけが、この田辺武居の話をきいて大いに喜び、自分の子の中臣藤原物部麿にその古記録の筆写を命じた。そこで物部麿は、田辺武居を案内として富士山麓に赴き、その古記録を写した。(天智10年(671))
この謎の人物は、大海人皇子(天武)側が政権(皇位)奪取後に備えて派遣した密使であるという仮定から推理される結論は、藤原不比等である。
藤原不比等はこの後、古事記、日本書紀の編集に携わり、日本の古代史は歪曲されることとなった。

 

投稿論文Ⅱ-4(3)

 投稿者:maeda  投稿日:2013年 3月 6日(水)11時52分7秒
  4.古史古伝と徐福
日本の古代文献の中には、「古事記」以前の書と呼ばれて、内容に古代日本の伝承が含まれている文書があると考えられる。古史古伝としては、「竹内文書」、「富士古文献(宮下文書)」、「九鬼文書」、「物部文書」、「秀真伝」、「三笠紀」、「先代旧事本紀」、「上記(うえつふみ)」、「先代旧事本紀大成経」などがある。
一方、著名作家・飛鳥昭雄氏らが、賀茂氏出身のヤタガラスの長老からの情報を得て、「物部氏は徐福とともに来た」という、驚愕の事実を公開している(月刊ムー2009年7月号p22-57など)。賀茂氏は秦氏の分族であり、彼らは、古代イスラエルの一神教信仰をもつ人々であったようである。筆者の調査によれば、古史古伝の編者には、どうも物部氏や秦氏が関与してくるようである。

4.1,「物部文書」(秋田物部文書)
本文書によれば、ニギハヤヒ命が東北日本海沿岸の「鳥海山」に降臨したことになっている。これには三河の物部氏が関与している。「物部文書」が注目されるのは、物部氏が蘇我氏との戦いで敗れ、「神代の万国史」の写しである「物部文書」をもって、東北地方に逃れたと「九鬼文書」に記されていたからである。このとき諏訪に逃れた中臣氏一族が持参した写しの一部が「九鬼文書」で、更に前代の武烈天皇の時代に失脚させられた竹内一族(平群真鳥の子孫)が秘匿していた「神代の万国史」の一部が「竹内文書」である。
「物部文書」が公開されたのは昭和59年であり、天地創成、物部氏の祖ニギハヤヒ命の降臨神話、東国の国譲り、神武東征、蘇我氏との抗争、物部氏の秋田亡命などが記載されている。「先代旧事本紀大成経」は「物部文書」の一つである。
物部氏が、徐福一行の子孫であることが事実であれば、「物部文書」には当然、徐福一行およびその子孫の伝承が記されているものといえる。

4.2.「富士古文献」(宮下文書)
本文献には、徐福が書き写したことが記載された文献が存在している。すなわち、神皇第7代孝霊天皇の世73年(BC213)、秦の方士徐福率いる85隻の大船団が、紀伊熊野に到着し、天皇が派遣した竹内宿祢を案内者として、富士山麓に落ち着いたという。徐福は、富士の阿祖山太神宮の神官から、神代文字で記された古代記録を見せられ、その内容を漢文で書き写したことから「徐福文献」という名が生じた。三輪義煕は、大正10年に富士古文献を整理集成して、「神皇紀」という書名で、内容を紹介した。これを三輪本と呼ぶ場合がある。
本書は、日本民族の原郷を古代ユーラシア大陸の中央に置き、その原日本人が日本列島に移動定着してきたこと、王朝交替、異国の侵略、大異変を克服して、神武王朝を成立させるまでの民族古代史を語っている。ウガヤフキアエズ朝は51代続いたことになっている。
つまり「富士古文献」の初期編纂は、徐福一行によるものであり、秦氏、物部氏=徐福一行が関与していることがわかる。
 

投稿論文Ⅱ-4(2)

 投稿者:maeda  投稿日:2013年 3月 6日(水)11時51分9秒
  3.徐福集団の日本列島での広がり
徐福集団は、分裂しながらも日本列島各地に到着したと思われる。徐福一行は九州に上陸し、佐賀に第一の拠点を築いたあと、本体は人数を絞りながら、瀬戸内海を渡り、太平洋側にでて、紀伊熊野に上陸した。紀伊半島は、徐福集団の第二の拠点であろう。彼らは紀伊熊野を拠点に探索を進めたのち、三河湾に入り、東三河に第三の拠点を築くと共に、遠州から駿河を経て、蓬莱山と呼ばれた富士山麓に到着した。そして南麓を経て、縄文時代から拓かれていた北東の山麓(現在の富士吉田)に、最終拠点を築いたと考えられる。彼らの中には、伊豆半島や三浦半島に上陸したり、八丈島に流され、拠点を築いた小グループもいたであろう。
九州からの列島各地への発進に際して、日本海側に進行したグループもある。彼らは、出雲や丹後半島から上陸し拠点作りを行ったほか、秋田男鹿半島や青森の小泊に定着して、その地で徐福伝承を残している。更に、一部は北海道小樽フゴッペ遺跡などにも足跡を残したものと思われる。
徐福集団の主流は、富士南西麓に到着後、当時の日本の古代王朝が存在した北麓に移動したと思われる。ここで、日本の高天原の世を築くが、その子孫は富士山麓での、しばしば噴火する環境を嫌って、西の三河や東の相模に移動した可能性も高い。そして関東から、東北地方にも広がって行ったことが考えられる。
神奈川県の丹沢山系や秦野に、徐福一行が霊薬を求めて来訪し、定着帰化したという伝承があり、藤沢市には、徐福の子孫・秦氏が福岡氏を名乗って住んでいたと彫られた墓碑が存在する。

 

徐福フォーラムin神奈川2012投稿論文Ⅱ-4

 投稿者:maeda  投稿日:2013年 3月 6日(水)11時49分31秒
編集済
  Ⅱ-4 徐福関連の歴史
      徐福と大和王権との関わり
神奈川徐福研究会

1.はじめに
 日本の古代を記述する史書は、西暦8世紀の初期に作られた「古事記と日本書紀」(記紀)が最初だといわれている。しかし、両書は、時の天皇家の史書であり、勝者の作成した書物であるため、史実は政権にとって都合のよいように変更されて、必ずしも真の日本史実を記録しているわけではない。
一方、最近の徐福研究の進展によって、日本の古代豪族「物部氏」が徐福集団から発生したとの説が有力になってきている。また、徐福のことが記載された日本の古伝「富士古文献」が、「記紀」の原本であったとの情報もある。
本報告では、日本の古伝で語られる徐福と物部氏の関係に着目し、徐福集団と大和王権の関係について考察してみる。

2.徐福伝説とは
 本年(2012年)を遡ること2222年前、秦始皇帝の命を受けて、「徐福」は中国大陸の東岸から、不老長生の霊薬を求め東海の3神山に向けて船出した。これが方士徐福を長とする百工、童男童女を含む3000人を乗せた85隻の大船団であり、弥生時代の日本を目指していた。


徐福集団が目指したところは、蓬莱、方丈、瀛(えい)州と呼ばれる蓬莱の国、3神山の地であった。その蓬莱の地は、台湾、韓国、日本、はたまたアメリカ大陸ともいわれる。しかし、中国、韓国、日本に徐福伝説をもつ地が多数存在しており、徐福の歴史的実在性は疑えない。日本にも20か所以上の徐福上陸地や伝説が存在する。例えば、佐賀県、紀伊熊野、東三河、富士山北麓吉田などである。
 

投稿論文Ⅰ-1(3)

 投稿者:maeda  投稿日:2013年 3月 6日(水)11時45分42秒
  3.神奈川県鎌倉の円覚寺開山禅僧・無学祖元と徐福
紀伊半島の徐福上陸の伝承地・新宮市には、最初にこの地の徐福の祠に言及した鎌倉時代の禅僧・無学祖元の詠んだ漢詩の碑「徐福祠献晋詩」が保存されている。無学祖元は、鎌倉幕府の執権・北条時宗によって宋から招聘された名僧である。弘安二年(1279)、八代執権・北条時宗の招きで来日。初め建長寺に入り、弘安五年(1282)、円覚寺の開山となる。
注目すべきことは、新宮の徐福祠の建立が、祖元の東渡以前だったということである。無学祖元の詩碑碑文は、「先生採薬未曾回 故国山河幾度埃 今日一香聯遠奇 老僧亦為避秦来」先生薬を採りて未だ曽て回らず 故国の関河幾塵埃、今日一香聊か遠きに寄す 老僧亦た秦を避けて来ると為す。つまり、自分自身を徐福に重ねあわせて詠んでいる詩で、当時の中国では、徐福の上陸地は紀州熊野であったと認識されていたようである。弘安4年(1281)頃作られたもので、確かな文献による熊野での徐福伝承の初見とみられている。

4.秦野宝蓮寺と徐福および無学祖元の関係
秦野市蓑毛・臨済宗宝蓮寺の縁起書には、徐福や秦始皇帝の話が出てくる。
「後秦の始皇帝29年(BC220頃?)、沙門室利ら18人が、印度から辰旦(秦国)に来た。 五大尊、金剛力神などの秘佛をもち来たが、そのとき始皇帝は異俗を嫌って、彼らを殺そうとした。そこで、「徐福」は、「公、仙道を求め欲するなら、殺してはなりません」と上奏し、大悲五大尊の力により宝物は皆大公徐福に遣わされ、18人は皆印度に帰ることができた。その後、秦の始皇帝の裔が彼の五大尊悲像を守護して、80余年にして応神天皇15年甲辰に佛宝物大悲像、五大尊と共に、秦苗裔であると申して本朝に渡来した。
かの秦の苗裔は、東州に下向して、千手観音像を駿河国の有度山に、五大尊は相模の国、足柄上郡に安置された。」宝蓮寺は鎌倉市の建長寺の末寺で、中興の開山・高峰顕日(1316年)は、後嵯峨天皇の皇子で、無学祖元の法を嗣ぎ、鎌倉の諸寺に住山した。高峰顕日が、蓑毛の大日堂に来所した背景には、無学祖元らの徐福の知識を得た上で、五大尊の寺(薬音寺→宝蓮寺)を復興したことが考えられる。

5.日本の徐福情報と仏教そして相模国(神奈川県)
 釈義楚の『義楚六帖』によると、顕徳五年(958)日本僧弘順大師が、「徐福は各五百人の童男童女を連れ、日本の富士山を蓬莱山として永住し、子孫は秦氏を名乗っている」と伝えたとある。当時日本では、徐福の求めた蓬莱山とは富士山を指し、徐福はこの日本に上陸したのだという説が語られている。徐福の得た「平原広沢」が日本であると指摘した中国初の文献である。その「城郭・日本」という部分に、「日本国は別名を倭国ともいい、東海の中にあり。秦の時、徐福は五百の童男と五首の童女を率いて、この国に止まる…東北千里あまりに山あり、富士と名づけ、別名を蓬莱という。三面は海となり、その山は峻険で、一朶として上に聳え、山項に火が燃える。日中には、諸宝が流れくだり、夜には逆に上がる。常に音楽が開こえ、徐福はここに止まる。蓬莱という。今にいたるも、子孫はみな秦氏を名のる…」とある。一方日本国持念弘順大師賜紫寛補は延長五年(927)に寛建の従僧として渡海した真言宗・密教の僧侶だったらしい。

日本人として最初に、真言密教の奥義を究めたのは、弘法大師空海(774-835)で、空海は、15歳の頃、論語・孝経・礼記・春秋左氏伝や、儒教的な「経書」以外の道教的な「緯書」も学び、神仙や陰陽道など雑多な関心をもっていた。華厳経や雑密(ぞうみつ)に関心が深めたが、東大寺の別当となった良弁(ろうべん)がこの雑密の修行者である。
相模国大山寺縁起によると、大山寺の第三世は、真言宗の開祖・弘法大師であるという。大山山頂の本尊を石尊権現と名づけられたのもこの頃と推定されている。
大山阿夫利神社の由緒書によれば、神社創立は、今から2200余年以前(徐福渡来の時期に合致する)の人皇第10代崇神天皇の御代であると伝えられている。古来より大山は山嶽神道の根源地であり、別名に雨降山、古名を「大福山」と呼ばれていた。大山祗神は、またの名を酒解神(サカワケノカミ)と言い、酒造の祖神としてもあがめられている。また、生活の資源、海運・漁獲・農産・商工業に霊験を示されるということは、徐福の特徴をよく反映している。このことから推定すれば、真言宗僧侶の弘順大師寛輔は、弘法大師の教えを受けて、日本の徐福伝承の情報を得た可能性がある。
それも、相模大山寺の住職経験をもつ弘法大師が、秦野において「徐福伝承」を聞き知ったことに、原因がありそうである。特に、大山寺の開山は、良弁僧正である。良弁は秦氏であるとの情報もあり、良弁を通じて秦氏のもつ徐福情報が、弘法―弘順と伝わり、中国の后周の僧・義楚「六帖」に記載されることになったと考えられる。

6.まとめ (日本における徐福伝承の流れ)
秦野には、秦始皇帝に不老長寿の仙薬を勧めた方士徐福が、蓬莱の島を求めて日本の紀伊の熊野に落ち着き帰化し、その子孫が富士山麓に土着し、延暦19年(800)に富士山の大噴火が起こり、大きな被害を受け、やむなく秦野に移住したと伝えられている。
神奈川県の徐福伝承は、これら秦氏の流れ、山岳神道や熊野修験道および弘法大師開創の真言宗や臨済宗を中心とした仏教展開の流れにのって、古代から伝わっていたことが考えられる。
九州(串木野、日向、佐賀諸富町)→瀬戸内海(大三島?)→紀伊熊野・新宮→三河湾(熱田、小坂井)→富士山麓(吉田)→相模(秦野、藤野→藤沢、鎌倉)→(八丈島、
伊豆諸島)→千葉→秋田→青森小泊、北海道

 

投稿論文Ⅰ-1(2)

 投稿者:maeda  投稿日:2013年 3月 6日(水)11時44分31秒
  参考情報2
神奈川県丹沢の前山「シダンゴ山758m」は、古代中国「震旦」に由来する!
丹沢の前山として、手軽に親しまれている「シダンゴ山」は、地元ではシンタンゴ、シンタンゴウ、ジンダンゴ、ジダンゴなどと呼称されている。
江戸期の「新編相模国風土記稿」に震旦郷が登場するが、震旦とは古代中国のことである。渡来人らによって伝播された文化の一端が、山頂の「弥勒さん信仰」に継承されている。丹沢山系には、徐福一行が不老不死の霊薬を探しにきて住みついたという伝承もあり、「シダンゴ山」は、徐福一行の名付けた山の呼称かも知れない。



参考情報3
欧陽脩(1007~1072)の日本刀歌には、「其先徐福詐秦氏 採薬滝留艸童老・・ 徐福行時書未焚 逸書百篇今尚存」というように、中国では、始皇帝の焚書の難によって、古典の書物が絶滅したが、徐福らが、古典を日本に携えていったため、遠く海を隔てた日本に、かえって散逸しないで先王の大典が保存されているとしている。それが富士古文献に含まれているのかも知れない。
 

投稿論文Ⅰ-1(2)

 投稿者:maeda  投稿日:2013年 3月 6日(水)11時43分15秒
  参考情報1
有賀訓、「新説謎の丸石は徐福がもってきた!!
神奈川県横須賀に集中する石球の正体は船のバラストだった!?」
       スーパーミステリーマガジン ムー 2010年9月号No.358 p124-127より抜粋

神奈川県三浦半島の西岸、相模湾に面した横須賀市秋谷(アキヤ)の道路端に、昔から安産祈願の霊石として崇拝されてきた「子産石」が置かれている。
秋谷地区の海岸沿い約200メートルの範囲内を深さ1~2メートルほど掘り起こすと、野球ボール大のものから直径約50センチ以上の大型のものまで、球形の石がごろごろ出てくる。秋谷地区は推定2万年前頃に堆積しはじめた砂泥の地層で覆われている。
逗子市の郷土史研究家の赤埴和晴氏の話では、「秋谷地区の丸石は、この場所で自然にできたものではなく、信仰のために集められたわけでもない。正体は大昔の航海に使われた道具で、木造船の最下層に詰められた“ウェイト”だったと考えられる」とのこと。
木造構造船とは、古代の外洋航海用に建造された大型構造船で、船の重心を下げて荒海を乗り切るために、大量の石材を船底に積み込んだ。また、航海中に発生する船底の水漏れを止めるには、特定の底板にピンポイントで圧力をかける必要があり、その作業を迅速かつ効率的にこなすためにも、球形のウェイト石が不可欠だったという。古代の大型船はドック施設のない渡航先では、砂地の浅瀬に入って干潮を待ち、船体を横倒しにして外装修理を行ったので、その作業の際にも、船体内部で簡単に転がせる大小の丸石は重宝された。
これらの丸石が秋谷地区から集中的に出土するのは、この地区と北側の久留和地区の沖合が、三浦半島周辺海域で最も荒天時に強風が発生しやすいことと関係がある。つまり、丸石の多くは、座礁して壊れた船舶の積載物だった可能性が高い。現在の熊野神社斜面位置までは、2千数百年前には波打ち際だったとみられる。
赤埴氏は、船底に多くのバラスト丸石を積んだ大型構造船で、三浦半島へ上陸した人々は、「徐福伝説」と関係していると推定している。始皇帝の在位期間(BC246~210)や、司馬遷の歴史記述も秋谷地区へ丸石が運び込まれた推定年代と合致する。
八丈島にも徐福伝説が残っており、始皇帝が征服した6国の幼い王族子女たちが復讐を企てることを恐れて、中国本土からなるべく遠い土地へ島流しする目的があったという見方が有力化している。その到着地が八丈島だったという伝承に信憑性が感じられる。昔から八丈島に伝わってきた「玉石垣」も古代唐船のバラスト丸石を利用して築かれたと思われる。
徐福伝説に象徴される古代中国人の日本列島への集団渡来は、縄文時代晩期から南関東と東海地域へ活発に入植したようだ。秦帝国ゆかりの人々=秦氏族は本州内陸部にも入植地域を広げていった。弥生時代初期の甲州地方で「丸石信仰」が大流行し、富士吉田に徐福一行が暮らしたという伝承が残る事実も何よりの証拠である、としている。
 

徐福フォーラムin神奈川2012投稿論文Ⅰ-1

 投稿者:maeda  投稿日:2013年 3月 6日(水)11時41分37秒
編集済
  各地の徐福伝承
神奈川の徐福伝承

  神奈川徐福研究会

1.はじめに
神奈川県には徐福伝承がいくつかある。これらの徐福伝承がなぜこの地に存在するのか、関係する事象を取り上げ、どこまで遡れるのかを調査し、その意義を考察してみたい。

2.神奈川県に存在した徐福伝承
 神奈川県藤沢市の妙善寺にある福岡家の墓碑には、同祖先が秦氏を称し、徐福の子孫であることを明記されている。そこで神奈川県に存在する徐福に関連する書物、伝承、記録を探り求めたところ、以下のような諸事実が存在したことが判明した。
1)藤沢市妙善寺の福岡家の墓碑には、徐福の子孫であることが明記され、祖先は秦野から来たとされている。
2)富士山麓に土着した徐福一行の子孫が、延暦19年(800)に富士山の大噴火が起こり、大きな被害を受け、やむなく秦野に移住したとの伝えがある。そのために宝来山や宝来下という地名が伝えられたのだという。
3)秦野市横野にある唐子神社の御祭神(からこ神)は、富士山から丹沢山系を越えてきた、徐福の子孫であることを伝承していた。
4)藤野町・栗原家には、徐福持参と伝える木像(昭和39年焼失)と鉄鍬が存在していた。
5)相模一宮・寒川神社の存在。寒川の名称は、富士古文献によると富士山麓を流れていた古川の名称であった。寒川町・寒川神社に徐福文献とも称される「宮下文書」が存在し、徐福伝承を伝える宮下宮司らは、延暦年間に起きた、富士山の爆発を逃れて、相模川下流に移動したと記す。
6)秦野市蓑毛の大日堂を管理する宝蓮寺の縁起書には、大日堂の五大尊が、徐福に関係するものであることを伝えていた。
7)鎌倉市の円覚寺は、徐福に関する漢詩を新宮に残した禅僧・無学祖元の開山寺であった。つまり、徐福情報は、仏教を通じて神奈川に浸透していた可能性がある。
8)三浦半島に、丸石が多数発見された。これが、徐福船団が使用した、船の安定化バラストではないかと考えられている。八丈島周辺にも同様の丸石が発見されており、徐福伝説があることから、日本の太平洋岸にたどり着いた一行が難破して各地の海岸に上陸したことが考えられる。(参考情報1)
9)丹沢山系の麓、秦野市の寄木地区に、ジタンゴ山という小山(700m級)がある。
ジタンゴ山の名称は「震旦郷(シンタンゴウ)」から、訛って付けられたものと伝えられている。富士古文献に「支那震丹国皇代暦記」という文献があり、震丹とは、古代中国の名称であったという。つまり、秦野市の山奥には、古代中国から渡来した人々が住みついていたことを、暗示する山名である。(参考情報2)
 

徐福フォーラムin神奈川2012基調講演要旨紹介

 投稿者:maeda  投稿日:2013年 3月 6日(水)11時34分51秒
編集済
  徐福一行と神奈川、ヤマト王権との関わり
       徐福フォーラムin神奈川2012 実行委員長

神奈川県には徐福伝承がいくつかある。これらの徐福伝承がなぜこの地に存在するのか、関係する事象を取り上げ、どこまで遡れるのかを調査し、その意義を考察する。
また、徐福が歴史的実在人物であるとの認識が広がる中、日本列島への渡海が事実であれば、当然日本の弥生時代の歴史と関わりをもつと考えられる。日本の各種文献や神社伝承を基にヤマト王権との関わりについて考察した。

1.神奈川県に存在した徐福伝承
1)藤沢市妙善寺の福岡家の墓碑、
2)秦野市横野にある唐子神社の御祭神(からこ神)、
3)藤野町・栗原家に、徐福持参と伝える木像(昭和39年焼失)と鉄鍬の存在、
4)相模一宮・寒川神社の名称は、富士山麓を流れていた古川の名称であった。
5)徐福に関する漢詩を新宮に残した禅僧・無学祖元の徐福情報は仏教を通じて浸透していた。
6)三浦半島に多数発見された丸石は、徐福船団の船の安定化バラストと考えられる。
7)丹沢山麓の寄木地区のジタンゴ山の名称は震旦郷(古代中国)に由来する、等々。

神奈川県秦野地方には、秦始皇帝に不老長寿の仙薬を勧めた方士徐福が、蓬莱の島を求めて日本の紀伊の熊野に落ち着き帰化し、その子孫が富士山麓に土着し、延暦19年(800)に富士山の大噴火が起こり大きな被害を受け、やむなく秦野に移住したと伝えられている。
神奈川県の徐福伝承は、これら秦氏の流れ、山岳神道や熊野修験道および弘法大師開創の真言宗や臨済宗を中心とした仏教展開の流れにのって、古代から伝わっていたことが考えられる。

2.徐福と大和王権との関わり
日本の古代を記述する史書は、西暦8世紀の初期に作られた「古事記と日本書紀」(記紀)が最初だといわれている。しかし、両書は当時の政権に都合のよいように変更されている。
一方、最近の徐福研究の進展によって、日本の古代豪族「物部氏」が徐福集団から発生したとの説が有力になってきている。また、徐福のことが記載された日本の古伝「富士古文献」が、「記紀」の原本であったとの情報もある。
徐福が歴史的人物と考えられるようになった今日、日本古代史に現れる人物(神々)に比定されている可能性は高い。
近年発表された書籍に開示された徐福の比定例として、
① 天之御中主、②スサノオ命、③神武天皇、④大山津見命、⑤ニギハヤヒ命、
⑥熊野権現、⑦イザナギ神、⑧寒川神、⑨大歳(大年)神、⑩大山くい神、
⑫大酒神、⑬ヒルコ神=恵比寿神 などが挙げられる。

物部氏の祖を祀る大和の石上神宮には、布都(ふつ)、布都斯(ふつし)、布留(ふる)という名で、スサノオの父、スサノオ、スサノオの子というスサノオ3代が祀られている。
徐福の中国大陸在住時の名は、徐市(じょふつ)であり、史記に載る正式名は市(ふつ)と呼ばれていた。石神神宮は、「ふつの神」=「徐市」とその子孫を祀っていたことになる。
記紀によれば、スサノオ神の父神はイザナギ神であるから、スサノオの父が徐福であれば、イザナギ神は徐福ということになる。
(注 奈良徐福研究会長の益田宗児氏は、鳥居貞義編『徐福さん』(2005)の論文に於いて、烱眼にも「徐福=イザナギ神」である事を提言されている。)

イザナギ神は、天照大神とスサノオ神を生んだ。そして天照大神とスサノオ神がうけい(契約)によって皇統となる5男と3女を生んだ。
そして男系の天ノオシホミミ尊の子孫から、ニニギ尊-ヒコホホデミ尊-ウガヤフキアエズ尊を経て、カムヤマトイワレヒコスメラミコト(神武天皇)となる。
また、イザナギ(徐福)とイザナミの子供である大山祇神の子供がコノハナサクヤ姫であり、この姫が天孫ニニギ尊と結婚して、ヒコホホデミ尊を生み、その子孫が神武天皇となる。
従って、大和王権を創った天皇家の男系・女系とも徐福の子孫であったということになる。即ち、ヤマト王権を築いた人々の祖が徐福一行ということになる。
尚、神武天皇の実在性については、日本の歴史学会では様々取りざたされているが、筆者の調査した範囲では、紀元1世紀前半に大和盆地で即位していたと推察している。
 

古代王朝の宿命

 投稿者:ねこ  投稿日:2013年 3月 4日(月)13時24分27秒
  古代王朝の宿命
http://park.geocities.jp/j_con4/0204/p048.html#page315
古代王朝には徹底的な解決できない問題があった。
優秀な遺伝子の継承と遺伝子の劣化が同時に起こることだった。
わかりやすく言うと、「雑種強勢」を克服できなかった。
権力と遺伝子を独占しようとすると、肝心の遺伝子が劣化した。
これを克服するために、「赤ちゃんの交換」、「養子による偽装」が行われた。
しかも、この種の問題は平民・他民族・奴隷に偽装・奨励・強制された。
これが万世一系だった。近親結婚を繰り返しても優秀な子孫が登場することを、
自ら示して、近親結婚を奨励した。
だまされて一族の劣化で滅んだ敵・競争相手も多かった。
「家柄」、「家父長制度」、「家督相続」などは、全て逆転陰謀だった。
(仮説を含む)
( http://book.geocities.jp/japans_conspiracy/01/p004.html )
 

徐福と大和王権の関わり(7)

 投稿者:maeda  投稿日:2012年 8月 1日(水)21時35分1秒
  10.スサノオ=大山祇命は徐福の子孫
「記紀」では、大和王権は初代神武天皇から始まり、皇祖神は天照大神という女性神とされている。しかし、神武天皇が大和に入る前にニギハヤヒ命が大和を治めていたと記載されている。元伊勢籠神社社務所発行の「元伊勢の秘法と国宝海部氏系図」によれば、この神の名称は、彦火明命、 亦名天火明命・天照御魂神・天照国照彦火明命・鐃速日命である。又極秘伝によれば同命は山城の賀茂別雷神と異名同神であり、その御祖の大神(下鴨)も併せ祭られているとも伝えられる。彦火明命は天孫として、天祖から息津鏡・辺津鏡を賜り、大和国及丹後、丹波地方に降臨され、この地方を開発せられ、丹後国造の祖神であるとされる。
別名、天照国照彦火明櫛玉饒速日命(ニギハヤヒ)の名が、海部氏「勘注系図」に見られる。
最近の通論では、このニギハヤヒ命が天照(アマテル)大神で、大和王権の「真の皇祖」であると考えられるようになってきている。
小倉一葉の近著「消された覇王」によれば、ニギハヤヒ命は「天照大神」であり、「皇大神」であったが、ある時期に現在の「大日霊女貴命」に取って代わられたと見ている。
即ちニギハヤヒ命は「皇祖覇王」であり、物部氏の祖であった。
物部氏の祖を祀る大和の石上神宮には、布都(ふつ)、布都斯(ふつし)、布留(ふる)という名で、スサノオの父、スサノオ、スサノオの子(ニギハヤヒ)というスサノオ3代が、祀られている。
物部守屋が、蘇我氏と戦ったとき、「物部府都(ふつ)大神矢」と誓って弓を引いたという記録があったという。
徐福の中国大陸在住時の名は、徐市(じょふつ)であり、史記に載る正式名は市(ふつ)と呼ばれていた。石神神宮は、「ふつの神」=「徐市」とその子孫を祀っていたことになる。
即ち、スサノオ命は徐福の子(ふつし)であり、ニギハヤヒ命は徐福の孫(ふるの大明神)であった。
また、小椋氏は、大山祇神の正体がスサノオであることを、オオヤマツミを祀る大山祇神社(日本総鎮護)や1万11千余の三島神社などの神社の調査によって論証している。即ち、大山祇命=スサノオ神であり、徐福の子供である事が判る。

11.結論
記紀によれば、スサノオ神の父神はイザナギ神であるから、イザナギ神は徐福ということになる。
スサノオ神と大日霊女貴神の契約によって5男3女が生まれた。そして男系の天ノオシホミミ尊の子孫が、ニニギ尊-ヒコホホデミ尊-ウガヤフキアエズ尊を経て、カムヤマトイワレヒコスメラミコト(神武天皇)となるから、天皇家は徐福の子孫であるといえる。
また、大山祇神の子供がコノハナサクヤ姫であり、天孫ニニギ尊と結婚して、ヒコホホデミ尊を生み、その子孫が神武天皇となる。
従って、大和王権を創った天皇家の男系・女系とも徐福の子孫であったということになる。


 

徐福と大和王権の関わり(6)

 投稿者:maeda  投稿日:2012年 8月 1日(水)21時34分28秒
  9.大和王権神話の神々と徐福の関係
①天御中主  インターネット情報で、徐福=天御中主説が展開されている。
②スサノオ  羽田武栄氏「徐福ロマン」スサノオは鮮卑語でsuchunum(雲をつきぬく)という語があり、イズモ・出雲を漢語で速読すると「秦」という音になる。スサノオは中国から来た東夷の英雄の一人であり、徐福の衆徒にかかわるという。素佐男命の異名:スサノオはいろいろの名前で祭られているが、次のようである。大山祇、 速玉男、 八千矛、 牛頭天王、 タカオカミ、 雷、 カグツチ、ホムスビ (高畠麒四郎著、古代天皇系譜の謎、p39  夏目書房)いずれも、徐福伝承との繫がりがある。スサノオ神は、元々秦氏が信奉していた神の名称。
③神武天皇  「神武天皇=徐福」論は、香港、台湾の学者によって唱えられている。九州に上陸滞在のあと、瀬戸内海を通り、紀伊熊野に上陸したという伝承は、共通点が多く、興味深い説では有るが、時期的背景がことなっており、厳密には当てはまらないと思われる。しかし、象徴的な仮託の可能性はある。
④大山津見命(大山祇命)徐福説
    佐賀県金立山金立神社と千葉県沼南町大井福満寺との類似性、 東三河の神山・石巻山
の神社のご祭神に大山祇命が入っているが、この山麓に徐福伝説が多い。大山祇尊は徐福を反映していると思われる。
⑤ニギハヤヒ命徐福説
饒速日命の別名 スサノオの子供で、一番活躍した人物が、三男の饒速日命である。
記紀によれば、ニギハヤヒ命の愛娘・御歳(別名、高照姫、イスケヨリ姫、五十鈴姫)が、大国主の息子武角身(阿遅鋤高日子根)の仲介により、磐余彦と結婚し、大和大王家を継いだとされる。呼び名・フルネームは天照国照彦天火明奇甕玉饒速日尊
別名: 天火明、 大歳、 大物主、 別雷、 金山彦、 少彦名、 事解男
⑥熊野権現
三重県誌では、熊野権現は徐福としている。熊野速玉男神は熊野権現であり、徐福を反映していると思われる。 熊野速玉男神 =熊野権現=徐福、木像
⑦イザナギ神  牛窪記、イザナミ神と徐福を併記
⑧寒川神は徐福と関係する?:「宮下文書」では、大山祇命=寒川神=徐福
⑨徐福は石尊仏を祀ったとすると、過去仏・石尊仏、クルソン仏は、徐福の痕跡を象徴するものかも知れない。クルソン仏は印度から古代中国を経て、秦氏によってもたらされた。
⑩大歳(大年)神
 スサノオ神と神大市姫神(大山祇神の娘)との間の子で、稲荷神社のウカノミタマ神の兄にあたる。
⑪大山くい神(松尾社の神)
 山頂の神、石の神、酒の神、「山末之大主神」、大山祇の孫、賀茂神社の神
小比叡 日吉大社の神、大比叡は大物主=ニギハヤヒ
 大年神と天チルカルミズヒメの子、スサノオの孫、大山祇の曾孫。
⑫大酒神
 「延喜式」神名帳の山城国葛野の条に、「大酒神社、旧名大避神」とあり、太秦の広隆寺の境内に鎮座する。広隆寺縁起では「此神元是所祭石也」とあり。猿田彦。石神。 秦河勝、河勝は神体を石とする「大避大明神」である。
 神名の「酒」は「避」から転じたものである。 「サケ」について、柳田国男は、「サカ、サキ、サク、セキ、ソキ、ソク、ソコ」と同根であるという。
山城国の式内社「酒解(サカトケ)神社」は、元名「山埼社」である。埼が酒になった。
 相州大山の神の別名は、酒解(さかわけ)神であるが、山城の酒解(サカトケ)神と同様、石を神体とする秦氏の祖神と考えられる。 山神=さ神=相模
 木花開耶姫の別名:酒解子神(さかとけのこのかみ)
 梅宮神社の祭神は、酒解神=大山祇神
 松尾大社の祭神は、酒解神=渡来人秦氏の氏神
 大神神社の祭神は、酒神=大物主神=大国主神
 ゆえに、大山祇神=秦氏の氏神(徐福)=大物主=大国主

 

徐福と大和王権の関わり(5)

 投稿者:maeda  投稿日:2012年 8月 1日(水)21時32分53秒
  8.中臣藤原物部麿は藤原不比等か
 中臣藤原物部麿とはだれか? 宮下文書の継承過程でもっとも大きな事件を引き起したこの人物について、三輪義煕も岩間尹も、またこの文書の研究者として著名な渡辺長義、鈴木貞一、吾郎清彦氏は、何もふれていない。つまり現在の中臣氏や藤原氏の系図に、このような人物に該当するものを見出せない。
ただし、岩間尹によると、この中臣藤原物部麿とは、大織冠鎌足の「子」であるという。その間のいきさつは岩間によれば次のとおりである。
まず大化改新で蘇我蝦夷が焼討ちにあったさい、その所蔵していた「国記」「天皇記」が焼失しそうになった。そのとき船史恵尺が火中から「国記」だけを辛うじて取り出したことについて、岩間本によれば、蝦夷は「朝帝の宝庫を焼いて自殺した」という。その災害対策会議の席で、この「古記録滅失の崇り」が論議されたとき、田辺武居(甲斐国造)という人物が、その古記録の原典が富士山麓(阿祖山太神宮)にあることを述べたが、それを天皇は不問にしたという。
ただ、鎌足だけが、この田辺武居の話をきいて大いに喜び、自分の子の中臣藤原物部麿にその古記録の筆写を命じた。そこで物部麿は、田辺武居を案内として富士山麓に赴き、その古記録を写した。(天智10年(671))
この謎の人物は、大海人皇子(天武)側が政権(皇位)奪取後に備えて派遣した密使であるという仮定から推理される結論は、藤原不比等である。
彼は、幼少時より父の鎌足のブレーンの一人である百済系帰化人の田辺史大隅に養育された。彼の「不比等」という名も「史」からのものといわれている。つまり彼は、幼少時から、この史官のもとで育てられていただけに「歴史」に強かった。
 中臣藤原物部麿を案内した田辺武居は田辺史大隅であろう。史官の彼がそのもっとも信頼する弟子である不比等を連れて富士山麓に出掛けたということは十分に可能である。このベテラン史官にとってはその古記録を「作正」し、かつ「宇津須」ことなどいわば朝飯まえの仕事だろう。しかも不比等の父の鎌足には、お世話になっているし、それにまた鎌足だけが、彼が奏した富士山麓の古記録の件について理解してくれたということもある。壬申の乱後の不比等の栄達と、記紀編修の仕掛人としての不比等のイメージから、謎の「中臣藤原物部麿」の正体こそ、この藤原不比等であると結論できる。藤原不比等はこの後、古事記、日本書紀の編集に携わる。
なお、富士古文献の紹介本である岩間本(開闢神代歴代記)も三輪本(神皇紀)も、その底本は同じだが(宮下義仁写本)、それぞれ特徴がある。たとえば三輪本は収録範囲が広いが、戦前の刊行だけに当局の弾圧(発禁)を考慮して、意識的に省略した部分もある。一方、岩間本は戦後の刊行だけに、三輪本が意識的に避けた部分をも取り上げている。ただ、その収録範囲が狭い。その点から、三輪本と岩間本とは相互補充関係をなしているということができる。
 

徐福と大和王権の関わり(4)

 投稿者:maeda  投稿日:2012年 8月 1日(水)21時31分52秒
  6.富士古文献と徐福・孝元天皇の関係
(佐治芳彦著「謎の宮下文書」より引用)
秦の方士徐福が富士の阿祖山大神宮の神官が語った古代史を聴き、その深さに感嘆するとともに、その貴重な記録の散逸するのをおそれ、改めて漢字で筆録したものが「富士古文献」とされている。
ほぼ紀元前200年ころまでに成立したものということになり、日本最古の史書ということになる。しかし膨大な伝承のすべてを徐福一代で筆録したとは考えられない。漢字をよく知る徐福の子孫なり従者がその作業を継承したものと考えられる。
 徐福筆録説とは別に、この文書の少なくとも「開闢神代暦代記」と「蘇我氏、栄日子氏、武部氏三家世代記」は、第八代孝元天皇がみずから撰録し、徐福はその勅命で筆録したものという説もある。すなわち岩間本によれば、収録されている「暦代記」他数篇は、孝元天皇がみずから編集した古代実録であり、それを「書き作り記し置」いたのが徐福である旨を、宮下源太夫義仁によって「謹書」されている。
孝元天皇は、津田左右吉博士の記紀批判以来、仮空の存在とされているが、一部の古史古伝研究者のあいだでは、神武系とは別系の孝昭王朝(孝昭、孝安、孝霊、孝元、開化の各天皇、物部系か?)のいわば後期の天皇であるとみられている。「竹内文書」は孝元天皇の孫の武内宿祢に由来する。

7.富士古文献(宮下文書)の改定から古事記・日本書紀へ
歴代神官を助けて先住民系の人々が護ってきた宮下文書にとって、きわめて重大な事件が人皇三十六代天智天皇十(671)年の8月に起こった。
朝廷から(近江京から)「中臣藤原物部麿」なる人物が富士山麓を訪れて、この文書を読み「作正宇津須、つまり文書(徐福筆録とされるもの)の文章を正して、これを新たに写し改めたという。
ちなみに、この「中臣藤原物部麿」が「作正宇津須」ところの文書は、建久三(1192)年8月、宮下源太夫義仁が「謹書」したときの原本とされている。上質の和紙に上質の筆墨を用いて記した文書なら保存さえよければ、五、六百年はもつ。しかし徐福の時代から天智十年までは九百年近く経過しているから、相当傷んでいたと思われる。ただ、問題は「作正」にあり、「作正」とは現代語でいえば「改訂」にほかならない。
その改訂の時期には、天智天皇は病床にあった。後継者として本命だった大海人皇子(皇太弟)は、天智の本心が大友皇子(天智の実子)にあることを知っていたから、病床の天智から皇位継承の意を告げられたとき、一身上の危機を悟り、天皇病気平癒のための「出家修道」の名目で吉野に去ったのが十月である。中臣藤原物部麿という謎の人物が富士山麓を訪れ、そこにある古文書を読み、かつ「作正宇津須」という行為に出たのは、このようなきわめて微妙な時期であった。
この時点では中巨鎌足こと藤原鎌足はすでにいない(669年死亡)。鎌足を欠いたことによって、天智と皇大弟(大海人皇子)とのあいだの緊張は極度に高まっており、大海人皇子の打った布石の1つが腹心の中臣藤原物部麿の富士山麓派遣だった。そして、その目的は古代記録の入手とその変造である。つまり、この時点では古事記や日本書紀の編集はまだ行われていなかった。 皇位を狙う人物なら、その主張の正統(正当)性を訴えるためにも、新しく史書を作ることが必要となる。そのためには阿祖山太神宮保管の文書を眺めておくことが必要である。もしその文書が白目分の即位にとって不利なものだったらそれを改訂すればよい。そして改訂版に基づいて新たに修史作業を開始したようだ。

 

徐福と大和王権の関わり(3)

 投稿者:maeda  投稿日:2012年 8月 1日(水)21時30分40秒
  5.その他の古史古伝と物部氏の関係
1)竹内文書
「竹内文書」の原典は、超古代から存在していたとする、皇祖皇太神宮という宮の神宝であり、成立年代は不明の文書である。この宮の神官を務めていた武内宿祢の子孫・平群真鳥という人物が、漢字仮名交じりに書き改めたという。「竹内文書」が世に出たのは1910年で、皇祖皇太神宮が茨城県磯原で再興されたとき、初代管長の竹内宿祢から数えて第66代の竹内巨麿が神宝を公開したのが始まりである。これが昭和11年に皇室に対する「不敬罪」で告発され、最終的には無罪を勝ち取るが、証拠品の神宝は東京大空襲で焼失してしまった。
 ここで注目すべきは、武内宿祢は、孝元天皇の子孫といわれ、物部氏を母系の祖にもっている。また、「秦氏の大王」ともいわれる応神天皇の養父(あるいは父親)であることである。つまり秦氏が「竹内文書」を保管してきていたのだ。
2)九鬼文書
「九鬼文書」は、天児屋根命を祖とする中臣家の末裔であり、熊野の別当を務める九鬼家に伝世されていたものと言われ、原典の成立年代は不明である。正式には公開されておらず、戦前に三浦一郎氏によって記された「九鬼文書の研究」がほぼ唯一の史料といわれる。原本の30巻は、「国体・歴史」が3卷で、残りは「中臣神道の神伝秘法」と「兵法・武教」である。この書にもウガヤフキアエズ朝が73代あったことが記されている。
この原本は、天児屋根命の時代に神代文字で書かれたものを、藤原不比等によって漢字に書き改めたという。 天児屋根命は、ニギハヤヒ尊と一緒に、物部氏が高天原から降臨したときのメンバーであり、徐福一行がもたらした文書ということができる。
3)富士古文書(宮下文書、徐福文献)
富士古文書」(宮下文書)には、ずばり徐福が書き写したことが記載されている。すなわち、神皇第7代孝霊天皇の世73年(前213)、秦の方士徐福率いる85隻の大船団が、紀伊熊野に到着し、天皇が派遣した竹内宿祢を案内者として、富士山麓に落ち着いた。徐福は、富士の皇祖皇太神宮の神官から、神代文字で記された古代記録を見せられ、その内容を漢文で書き写したことから「徐福文献」という名が生じた。
 本書は、日本民族の原郷を古代ユーラシア大陸の中央に置き、その原日本人が日本列島に移動定着してきたこと、王朝交替、異国の侵略、大異変を克服して、神武王朝を成立させるまでの民族古代史を語っている。ウガヤフキアエズ朝は51代つづいたことになっている。 つまり「富士古文書」の初期編纂は、徐福一行によるものであると云える。
4)上記(うえつふみ)
「上記」が成立したのは、鎌倉時代初期で、編纂したのは、源頼朝の側近で、豊後国の守護職になった大友能直と言われる。能直は、当時散逸しかかっていた古文献を全国から集め、その集大成として「上記」を作った。編纂資料には、出雲国造上世紀、伊豆加茂三島伝書、尾張中島逆手記、伊勢度会文、摂津住吉大余座記、豊前後老家文、越白山之舟人文など15種が使われたという。「上記」は神代文字で書かれている。
「上記」の原本はもともと、大分県臼杵市の大友家に伝わっていたが、1873年の洪水で流失してしまった。ウガヤフキアエズ朝は51代となっている。
大友氏の本貫は、相模の松田で、秦野の波多野氏の分流である。まさに徐福一行の秦氏の後裔が、秦氏に関連する古記を編纂したものである。
5)先代旧事本紀
「先代旧事本紀」は、漢文で記されているが、もとの超太古の記録は、神代文字で記されていたという。この書も、ウガヤフキアエズ朝が73代あったと記されている。様々な古史古伝を生みだした源が、実は「先代旧事本紀」であったという説もある。「竹内文書」や「九鬼文書」に登場する神名には、「先代旧事本紀」と近いものが多い。
産業能率大学教授の安本美典氏によると、「先代旧事本紀」は、編者が物部氏の後裔、興原敏久(別称:物部中原宿祢)であり、823-834年に編集されたと推定されている。
つまり、徐福一行の物部氏が、その一族の歴史を天皇家ではなく、自らの家系からの見方で編纂した家系の文書である。
6)秀真伝(ほつまつたえ)
「秀真伝」の編者は、前半の22紋を出雲系の大物主櫛甕玉命、後半の18紋をその子大直直根子命が担当したという。この2人が「古事記」に出てくる櫛御方命、意富多々泥子と同一人物であれば、その成立年代は崇神天皇の時期までさかのぼる。
「秀真伝」は、極めて神道に関わりの深い古伝書である。陰陽2極の原理で、陽は天と太陽、陰は大地と月ができた。 その中間に国常立尊が生まれたという。
また、「秀真伝」では、天孫降臨が三度あったことになっている。一度目は、忍穂耳尊の第一皇子の奇玉火明饒速日尊が、日高見高天原から常陸の鹿島へ、そこから海路で、浪速の斑鳩峰に降臨した。二度目は、忍穂耳尊の第二皇子の仁仁気根尊が、日高見高天原から筑波山麓の新治の地に降臨した。三度目は、仁仁気根尊が、皇子の火火出見を筑紫親王として、九州に下らせ、自身は蓬莱参山(富士山)麓で第二次政庁を開いた。
蓬莱山(富士山)を拠点にした政庁は、「富士古文書」と共通するところがあり、編者が出雲族で物部氏と考えられることから、徐福一行が関与したと考えられる。
7)物部文書
「秋田物部文書」は、三河の物部氏が関与しており、ニギハヤヒ命は東北日本海沿岸の「鳥海山」に降臨したことになっている。「物部文書」が注目されるのは、物部氏が蘇我氏との戦いで敗れ、「神代の万国史」の写しである「物部文書」をもって、東北地方に逃れたことを、「九鬼文書」に記されていたからである。このとき諏訪に逃れた中臣氏一族が持参した写しの一部が「九鬼文書」で、更に前代の武列天皇の時代に失脚させられた竹内一族(平群真鳥の子孫)が秘匿していた「神代の万国史」の一部(竹内文書)である。
「物部文書」が公開されたのは昭和59年である。天地創成、物部氏の祖ニギハヤヒ命の降臨神話、東国の国譲り、神武東征、蘇我氏との抗争、物部氏の秋田亡命などが記載されている。 また「先代旧事本紀大成経」は「物部文書」の一つである。
物部氏が、徐福一行であることが事実であれば、「物部文書」も当然、徐福一行およびその子孫の伝承が記されているものといえる。

以上、主要な古史古伝は、全て秦氏、物部氏=徐福一行が関与していることがわかる。
徐福一行は、その先祖が日本列島で王朝を築いていたことを知り、その拠点である蓬莱山である富士山麓に至り「富士古文書」を編纂した。また、物部氏が「神代の万国史」を持っていたということから、日本の超古代史を述べる「古史古伝」は、ユーラシア大陸から渡ってきた、徐福一行がもたらした可能性が大きい。彼らは、古代イスラエルの石工集団を含み、日本列島各地に稲荷神社を設置し、イワクラ祭祀場を整えていったと思われる。
つまり、日本の古神道をもたらした物部集団は、徐福一行に含まれていたということが判明した。物部神道は、日本の神道の本流と考えられる。
徐福の先祖は、系図的には秦始皇帝の先祖と同一人物になっている。始皇帝は、その一族も含めて、中国西域の出身であり、生まれ地の秦を姓とし、秦氏を名乗ったと思われる。当時のローマ帝国は大秦であり、中国大陸を統一した始皇帝は、秦を国名とした。
 秦国には、中央アジアの古代国家シュメールやペルシャ、古代イスラエル等の歴史を背負った人々がかなり含まれていたと考えられる。かれらは、徐福集団を構成し、日本列島に到着した。彼らは弥生時代の渡来人であり、秦氏の第1波であり、多神教、一神教、仏教、道教、儒教を含む雑多な信仰を持っていた。そのため、それらを統一することは難しかったであろうが、日本列島では、八百萬の神々が調和して存在する古神道を形成していったものと思われる。
神道秘伝をもつ富士古文献は徐福文献とも呼ばれ、徐福と物部氏との繋がりから、徐福一行と大和王権が関連をもつことが考えられる。

参考文献
1.佐治芳彦:闇の日本史・古史古伝書;英知出版発行、2006.12.20
2.飛鳥昭雄・三神たける:封印された物部神道・唯一絶対神の信仰を古代日本に持ち込んだ徐福の謎;学研ムー, No.344、pp22-45、(2009.(7))
3.後藤隆:謎の根元聖典・先代旧事本紀大成経、徳間書店発行、2004.10.31
4.安本美典:奇書・先代旧事本紀の謎をさぐる、批評社発行、2007.05.25
 

徐福と大和王権の関わり(2)

 投稿者:maeda  投稿日:2012年 8月 1日(水)21時29分21秒
  3.徐福集団の日本列島での広がり

 徐福一行は、秦始皇帝の命を受けて、不老不死の霊薬を求めて、大船団を組んで渡海し、日本列島に到着したと思われる。徐福一行は、九州に上陸し、佐賀に第一の拠点を築いたあと、本体は人数を絞りながら、瀬戸内海を渡り、 太平洋側にでて、紀伊熊野に上陸した。紀伊半島は、徐福集団の第二の拠点であろう。彼らは紀伊熊野を拠点に探索を進め、三河湾に入り、東三河に第三の拠点を築いたあと、遠州から駿河を経て、富士山麓に最終拠点を築いたと考えられる。彼らの中には、伊豆半島に上陸したり、伊豆諸島の八丈島に拠点を築いた小グループもいたであろう。
九州からの発進に際して、日本海側に進行したグループもある。彼らは、出雲や丹後半島で上陸し、拠点作りを行った上、秋田男鹿半島や青森の小泊に定着して、それぞれの地で徐福伝承を残した。更に、一部は北海道小樽フゴッペ遺跡などにも足跡を残したものと思われる。
富士山麓に住みついた、徐福集団の主流は、富士南西麓に拠点を築いたが、当時、日本の古代王朝が存在した北麓に移動したと思われる。ここで、日本の高天原の世を築くが、その子孫は富士山麓での、しばしば噴火する環境を嫌って、西の三河や東の相模に移動して行ったと思われる。そして関東から、東北地方にも広がって行ったことが考えられる。
 神奈川県の丹沢山系や秦野に、徐福一行が霊薬を求めて来訪し、定着帰化したという伝承があり、藤沢市には、徐福の子孫・秦氏が福岡氏を名乗って住んでいたと彫られた墓碑が存在する。

4.古史古伝と徐福
日本の古史古伝としては、「竹内文書」、「富士古文献(宮下文書)」、「九鬼文書」、「物部文書」、「秀真伝」、「三笠紀」、「先代旧事本紀」、「上記(うえつふみ)」、「先代旧事本紀大成経」、「東日流外三郡誌」、「カタカムナ文献」、「契丹古伝」などがある。1)
 この中、近世に成立したとされる「先代旧事本紀大成経」、「東日流外三郡誌」と近代に満州で発見された「契丹古伝」を除く諸文献は、「古事記」以前の書と呼ばれているが、残りの文献にも、「古事記」以前の内容が含まれている。
古史古伝に記されている歴史は、「記紀(古事記・日本書紀)」が伝えるものと大きく異なっている場合がある。そこには、宇宙創成の時代から、神々が地球に降臨する時代、アマテラスやスサノオといった神々が地球全土を統治していた時代、ウガヤフキアエズの50-73代にわたる長い、前天皇の時代の話がある。
 ただ、その古伝の編者を尋ねると、秦氏が関与してくるようである。 賀茂氏は秦氏の分族であるが、最近、月刊ムー2009年7月号p22-57で、飛鳥昭雄氏らが、賀茂氏出身のヤタガラスの長老からの情報を得て、「物部氏は徐福とともに来た」という、驚愕の事実を公開している。2) しかも彼らは、古代イスラエルの一神教信仰をもつ人々であったようである。
また、「秋田物部文書」は、三河の物部氏が関与しており、ニギハヤヒ命は東北日本海沿岸の「鳥海山」に降臨したことになっている。「物部文書」が注目されるのは、物部氏が蘇我氏との戦いで敗れ、「神代の万国史」の写しである「物部文書」をもって、東北地方に逃れたことを、「九鬼文書」に記されていたからである。このとき諏訪に逃れた中臣氏一族が持参した写しの一部が「九鬼文書」で、更に前代の武列天皇の時代に失脚させられた竹内一族(平群真鳥の子孫)が秘匿していた「神代の万国史」の一部(竹内文書)である。 「物部文書」が公開されたのは昭和59年である。天地創成、物部氏の祖ニギハヤヒ命の降臨神話、東国の国譲り、神武東征、蘇我氏との抗争、物部氏の秋田亡命などが記載されている。 また「先代旧事本紀大成経」は「物部文書」の一つである。
物部氏が、徐福一行であることが事実であれば、「物部文書」も当然、徐福一行およびその子孫の伝承が記されているものといえる。
 

徐福と大和王権との関わり

 投稿者:maeda  投稿日:2012年 8月 1日(水)21時27分44秒
  ここでは、徐福が大和王権とどのような関わりを持つか考察してみたい。

1.はじめに
 日本の古代を記述する史書は、西暦8世紀の初期に作られた「古事記」と「日本書紀」が最初だと伝えられている。しかし、両書は、時の天皇家の史書であり、勝者の作成した書物であるため、史実は、政権にとって、都合のよいように変更されたり抹殺されたりして、必ずしも本当の日本の史実を記録しているわけではないとの見解が広まっている。
一方、最近の徐福研究の進展によって、富士古文献と徐福の関係が明らかにされてきており、物部氏と徐福の間にも大きな繋がりがあることが判明しつつある。
本報告では、日本の「古史古伝」で語られる徐福と物部氏の関係に着目し、徐福集団と大和王権の関係について、考察してみる。

2.徐福伝説とは
 「徐福」は、秦始皇帝の命を受け、不老長生の霊薬を求め東海の3神山に向けて船出した。秦始皇帝の時代、方士徐福を長とする百工、童男童女を含む3000人を乗せた85隻の大船団は、弥生時代の日本を目指した先進文明を伝える福の神の一行であった。
徐福一行が目指したところは、蓬莱、方丈、瀛(えい)州と呼ばれる蓬莱の国・3神山の地であった。その蓬莱の地は、台湾、韓国、日本、はたまたアメリカ大陸というが。中国、韓国、日本には徐福伝説をもつ地が多数散在しており、徐福の歴史的実在性は、疑えない。日本にも20か所以上の徐福上陸地や伝説が存在する。その地は、佐賀県、紀伊半島、熊野、富士山北麓吉田(徐福の墓)などである。

 

穂の国の不思議

 投稿者:maeda  投稿日:2012年 7月 9日(月)10時58分0秒
   ある人から、この掲示板の2004年以前の内容を見たいという連絡を頂きました。
 確かに、掲示板の初期のものは、無料掲示板だったので消えてしまっています。
 手元の、資料を見直したところ、古代神都の発想の原点について記されたものが、2001年4月にありましたので、参考までに転載しておきます。

穂の国が古代神都と言える由来
投稿者:maeda_yutaka  投稿日: 4月13日(土)23時13分57秒

 穂の国について、神学論争が、いろいろ論じられるようになってきているが、私のつかんでいるところを列挙してみたい。これらは、既に小生の著書、新聞の投稿などで、公開しているところですが、21世紀になって再度考え直すきっかけにはなると思い、列挙してみます。

1.穂の国の豊川流域・牛川にスサノオ神が流れ着いたという伝承がある。
2.その上流の豊島・江島に、アマテラス大神が住んでいたという伝承がある。
3.更に上流・赤引郷では、皇室に奉じるニギタエの織物用絹糸を生産している。
  この絹織物は、伊勢神宮に奉納されているが、その昔には、高天原のアマテラス大神  に奉納されていたと言われている。
4.江島の定池近辺は、穂の国の国造から、遠の小狭田と呼ばれていたという。
  高天原のユニワは、天の長田(オサダ)と呼ばれていた、とは日本書記の一書にあ   る。
5.丹波の温泉町の古記には、大己貴命は、当地から三河に遷移したと記載されている。
6.ニギハヤヒ命・ウマシマジとその子孫、出雲色大臣と大木喰命は三河一宮・大木から
  豊川下流の神社に鎮座する。
7.物部文書によれば、鳥海山に降臨した、物部氏の祖は、三河から移ったと記載されて  いる。
8.先史時代の石器の流れは、黒曜石、下呂石、二上山のサヌカイトが、三河・遠州に集  積される形で分布している。
9.根の堅州国は、遠州・浜北に、根堅遺跡・根堅神社として存在する。
  尚、根の国とは、先祖の国、命の源の国という意味らしいが、スサノオ命は、根の国
  に行きたいと言って、イザナギ命に神やらいされたといういきさつがある。
10.徐福伝説、持統天皇来訪、文武天皇の皇居所在の伝承、その他、参遠式銅鐸、
  環濠集落、物部氏の統治、倭のスクネ、朝廷別王、ホムチワケ伝承、先祖の古代丹後  からの遷座、朝鮮式積み石塚、前方後方墳や水神平式土器の大和巻向遺跡への伝播
  など。

  そのほかにもいろいろあるが、今日はこれまでにしておこう。
  これらの伝承の信憑性、位置づけがなされれば、高天原神話の歴史的意義が明らかに
 なると思われるのですが。
 

伊勢津彦の孫

 投稿者:maeda  投稿日:2012年 6月11日(月)11時52分8秒
   伊勢津彦は、その後、関東に現れます。
 下野の国造としての伊勢津彦があり、その第三世が、相模の初代国造となったということが、相模の古代史資料に現れます。
 相模の原点となる山が、相模の「大山」です。この山の頂上「阿夫利神社」近くには4000年前の祭祀遺跡が発見されています。
 その山の麓・伊勢原に「ヨセフの墓」と称される古墳があります。「シンケイ塚」と呼ばれています。
 なぜ、古代イスラエルの伝承があるのかと不思議に思っていましたが、相模の国造が、伊勢津彦の孫であったとすれば、すべて理解できます。
 伊勢原というのも不思議な名前ですね。「イセ(イエス)の原」の意味に取れるのですから。壬申の乱で天武勢に敗れた大友皇子の墓もあります。
 

井祭明神

 投稿者:maeda  投稿日:2012年 6月11日(月)11時32分31秒
   ホルガー・ケルステン著、佐藤充良訳「イエスの復活と東方への旅」(たま出版、2012.3.15発行)によると、イエスは磔から蘇生し、東方へ旅立ったことが論証されている。
 p362-370には、イエスはインドで知られていただけでなく、イスラム教のコーランの中に、「イサ」として、「幸福の渓=カシミール」に住んだと伝えているという。
「イサ」は、当地(インド)でのイエスの呼び方であるが、「イシャ・マシア=主・メシア」を意味している。


 布施泰和著「竹内文書」の謎を解く(2)によると、竹内睦康氏が語る「正統竹内文書」の口伝では伊勢に住んだ「伊勢津彦=イセツヒコ」は、イエスであるという。ついに日本に上陸されことが伝えられていたことが判明した。

 伊勢と東三河は伊勢湾を挟んで互いに対岸にあり、大いに交流があった。
 伊勢津彦は、神武天皇軍に伊勢を渡して、光を放ちながら、東北に向かったと伝えられる。

 東三河豊川西岸の豊津に、「井祭明神」が祭られ、東岸の賀茂の地から、祭りに参加していたという伝承がある。このことから、賀茂氏(秦氏)が井祭明神を祭っていたことが判る。
 「井祭」の読み方が「イサイ」であれば「イサ=イセ=イエス」の神を祭っていたと考えてもよいのではないか。
 (どうやら、飛鳥昭雄著「秦氏の謎」の裏付けが出てきたような感じがします。)
 

井祭明神

 投稿者:maeda  投稿日:2012年 3月29日(木)11時11分53秒
  江口様

 井祭明神の読み方は、古い本に載っていたもので確認していません。「いまつりみょうじん」と呼んでいました。「いさいみょうじん」かも知れません。
 豊川市の豊川西岸の近くに、豊津という地名がありますので、「サイ」が、タミル語で豊(トヨ)という言葉に符号するなら面白いですね。それが鳴り(なり)と符号するなら、いなり(稲荷)明神となります。いなりはINARI→INRIとなり、キリストになります。
 聖書でイエスは、サマリアの女性に、井戸の水を飲ませてくれと頼んだとき、涸れることのない泉のことを話し、それが自分であると示唆しています。
 井明神、井祭明神は、まさにイエスキリストを表しているのではないでしょうか。
 それで、豊津近辺に、「天照大神」の誕生伝説があるのと関係が出てきます。
 

井祭

 投稿者:江口久雄  投稿日:2012年 3月27日(火)21時34分13秒
  前田様
井祭明神の井祭は、イサイと読むのでしょうか。
もしそうならば、タミル語にイサイ(騒音・音)の単語があります。
豊(トヨ)すなわち、鳴りとよむという言葉と符合するのでは? 
 

富士古文献の成立背景(10)

 投稿者:maeda  投稿日:2011年 7月26日(火)18時40分52秒
  12.考察
1.富士古文献では、徐福が富士に渡来したのが、孝霊天皇の世とされているが、これこそ「中臣藤原物部麿」なる人物が、富士山麓を訪れて、この文書を読み「作正宇津須、つまり文書(徐福筆録とされるもの)の文章を正して、これを新たに写し改めたという、改正対象となったのではないだろうか。
また、竹内文書等古史古伝とは切っても切れない関係にある古代の伝説的な英雄・竹内宿弥は孝元天皇(孝霊天皇の子)の曽孫と伝えられている。

2.宮下家は、応神天皇の御子・大山守皇子の子孫であり、富士王朝の再興を願って、ヤマト王朝と対立したこともあるが、ヤマトタケルの妃であったミヤズヒメとその子を守ったため、取り立てられる。
富士山北麓は、古代にはサガミに属していた。相模は東三河からの入植者によって開拓されたとされ、徐福一行の子孫の活躍した地と考えられる。
この状況は、邪馬台国と狗奴国の歴史関係と繋がりがあるように感じられる。

3.富士古文献は、宮下家に保管された古文書である。しかし、大本教の出口王仁三郎が神典として重要視した。
大本数においては、富士は天教山とされ、地教山は皆神山であり、徐福一行の事跡と重なる。霊界物語に現われる大本神話との共通性は明らかであり、とくに『霊界物語』「大祥地瑞」の冒頭は、富士古文書において宇宙初発の神とされる天之峯大神を「主の大神」とし、富士古文書の神統譜を大石凝真素美の言霊学で説明する形になっている。これは日月神示(岡本天明)に示される神と同じで、現代の日本の精神界をリードする指針となっていると考えられる。

13.まとめ
 富士古文献は、紆余曲折を経て、一部改定を受けている可能性があるが、原日本の民の古代史を伝える貴重な文献と考えられる。神皇紀はその大要を世に公開した重要な書籍である。しかし、刊行時の時代的影響を受けて、内容表現に制限が掛けられているところがある。古文書原本全体を再見直しすることは、日本人のルーツを解明する点で大いに意味があると思われる。
                                         以上

 

富士古文献の成立背景(9)

 投稿者:maeda  投稿日:2011年 7月26日(火)18時39分48秒
  11.富士古文献の史料的価値評価
「神傳富士古文献大成」の刊行の八幡書店代表・武田崇元氏は、富士古文献に対し、つぎのように、わが民族にとっての史料としての可能性を強く主張されている。

「本書は、霊峰富士の北麓、山梨県旧南都留郡明見村(現、富士吉田市大明見)の旧家、宮下家に伝来の古記録・古文書のすべてを網羅、これをはじめて公開するものである。
 一般に、「富士古文書」「宮下文書」と呼ばれるこれらの広範な古記録・古文書は、宮下一族によって、「不時に際せば、まずこれを守護すべし。もし濫りにこれを開かば明を失すべし。」と世々戒めて堅く秘蔵されてきたもので、その類本・写本・草案・土代等は他になく、まさに天下の孤本とも祥さるべき貴重な資料である。
 しかし、一方で門外不出の掟や諸般の複雑な事情およびその数量があまりにも膨大なことから、これらの古記録・古文書は宮下家の秘庫にひたすら眠り続け、その実態については、明治、大正の交にこれを調査した三輪義煕による概説書「神皇紀」等の記述から類推するほかなく、名のみ高い幻の文献として、深い霧に包まれたまま今日に至った。
 ところが近年、本文献についてさまざまな方面から深い関心が寄せられ、その史料としての可能性にあらたな期待が寄せられるに至り、原本の完璧な形での公開が要望されるに至った。
 しかも、当社における調査の結果、これらの貴重な古記録・古文書の原本は、伝存過程において幾多の災禍を経ていることから、かなりの汚損があり、その保存状態は必ずしも良好とは言い難く、中には腐朽が甚だしいために、今にも朽ち果てんとするものさえかいま見られ、早急に原本の姿を忠実に記録に留めておく必要がいっそう痛感されたのである。
 もとより本書の出版は、当社にとって大きな負担を要する事業となった。しかし本古文献をあえて今日刊行するに至ったのは、一にこれだけの希観資料の公開は今後再び容易には望みがたく、また一には上記のごとき原本の状態を鑑みるならば、今日これを整理し刊行しなければ、わが民族にとって悔いを千年に残す危惧があったからに他ならない。
 ここに当社は、この未曽有の古記録・古文書のすべてを、今日望みうる最新の技術による影印版として刊行、原本そのままの価値をもった根本史料としてこれを提供し、もって天下の神宝の永遠の価値を万世に伝えることとした次第である。
 本書は、いわゆる神代学研究の不可欠の貴重な史料となることはもちろんであるが、決してそれに留まるものではない。ちなみに、近年の富士周辺の底流をなす富士古代王朝伝承に新たな視座を与え、また大本の出口王仁三郎が本文献の神統譜等の伝承をその教義構造の中に位置付けていることや、本文献の底流をなす富士コスモロジーと富士講教義のパラレルな位相は、宗教史や民俗学にも新たなテーマを提供するであろう。さらに近世史料までを包含するその裾野の広さは、史料に乏しい郡内地方の郷土史研究の方面からの大いに期待されよう。
 この貴重な原本の公開に同意された宮下義孝氏の勇気あるご決断に深く敬意を表するとともに、この未到の成果が、一つの礎石として、長く光のあてられることのなかった民族伝承の深層領域に寄与することはもとより、ひろく巷間有識の士によって迎えられ、永く我が国文化の興隆に役立つことを願ってやまない。
  昭和60年12月25日 八幡書店代表 武田崇元」より。
 

富士古文献の成立背景(8)

 投稿者:maeda  投稿日:2011年 7月26日(火)18時38分51秒
  10.鎌倉写本の成立
 地質学者の調査によれば、富士山は約70万年前の小御岳火山の噴火にはじまる。有史時代では天応元(781)年から宝永四(1707)年までの一千年間に十数回噴火したことが確認されている。
 桓武天皇の延暦十九(800)年の大噴火は被害が激甚だった。日本後紀によれば東海道足柄を通っていた道路が閉塞し、箱根方面に新道を開かなければならなくなったという。
このとき太神宮は七廟のうち四廟まで焼失し、多くの神宝が失われた。翌延暦二十年、二十六代大宮司は、配下の禰宜や祝などをひきつれて、辛うじて災害から守り通した古文書や宝物を持参して、相模国(神奈川県)高座郡早乙郷の大山守皇子の旧領に移った。彼はその地に社祠を建て、七廟のうちから寒川神社を勧請し、その宝蔵に古文書、宝物類を納めた。
 平城天皇の大同元(806)年、勅を奉じて坂上田村麻呂が焼失した4廟を再建、二十七代大宮司をよびもどした。以来、富士山麓の神宮を「山宮」、相模の寒川神社を「里宮」と称することになったという。
 なお、古文書は依然、里宮(寒川神社)に保管されていた。
 二条天皇の永暦二(1161)年、宮下文書保存の最大の功績者ともいうべき宮下源太夫義仁が第四十九代大宮司に就任した。義仁は源頼朝の挙兵以来、彼の創業を援けた相模の豪族三浦氏(三浦党)の嫡流である。彼は人品を見込まれて、大宮司職を嗣いで、自分が居住する山宮から、しばしば里宮に赴き、十数年かかって里宮に保管されている古文書を筆写した。その子の義国もこの筆写を継続した。そして、この写本は山宮に納められ社宝とされた。
 富士山はその後、永正八(1511)年の吉田口の溶岩噴出まで428年間、火山活動を停止している。
 一方、火山には安全なはずの寒川神社(里宮)は、思わぬ災害に見舞われた。弘安五(1282)年5月、馬入川が汎濫して里宮の宝蔵に保存してあった古文書がことごとく流出するという不幸な出来事が起こったのである。そのとき、寒川神社の宮司官下記大夫明吉はこの古文書を濁流から救出しようとして、その父の佐太夫国明とともに溺死する。
 明吉の遺児里吉丸は、母の実家である富士の山吉に引き取られ、大吉司吉下源太夫昭成の嫡男義春に養育されることとなった。そして里吉丸は大宮司職を嗣ぎ、五十六代大宮司義高となった。ここにおいて里宮の古文書継承者と山宮の古文書(複写)継承者とが一つに帰し、以後もっぱらこの義仁父子の筆写した古文書(宮下文書)を継承することとなった。現在の保管者宮下義孝氏は、第七十八代の大宮司にあたる。
 なお、岩間本(開聞神代歴代記)も三輪本(神皇紀)も、その底本は同じだが(宮下義仁写本)、それぞれ特徴がある。たとえば三輪本は収録範囲が広いが、戦前の刊行だけに当局の弾圧(発禁)を考慮して、意識的に省略した部分もある。一方、岩間本は戦後の刊行だけに、三輪本が意識的に避けた部分をも取り上げている。ただ、その収録範囲が狭い。その点から、三輪本と岩間本とは相互補充関係をなしているということができる。

 

富士古文献の成立背景(7)

 投稿者:maeda  投稿日:2011年 7月26日(火)18時37分57秒
  9.謎の人 中臣藤原物部麿
 中臣藤原物部麿とはだれか? この宮下文書の継承過程でもっとも大きな事件を引き起したこの人物について、三輪義煕も岩間尹も、またこの文書の研究者として著名な渡辺長義、鈴木貞一、吾郎清彦氏は、何もふれていない。つまり現在の中臣氏や藤原氏の系図に、このような人物に該当するものを見出せないからであろう。
 ただし、岩間尹によると、この中臣藤原物部麿とは、大織冠鎌足の「子」であるという。その間のいきさつは岩間によれば次のとおりである。
 まず大化改新で蘇我蝦夷が焼討ちにあったさい、その所蔵していた「国記」「天皇記」が焼失しそうになったとき、船史恵尺が火中から「国記」だけを辛うじて取り出したことにっいて、岩間本によれば、蝦夷は「朝帝の宝庫を焼いて自殺した」という。
 その災害対策会議の席で、この「古記録滅失の崇り」が論議されたとき、田辺武居(甲斐国造)なる人物が、その古記録の原典が富士山麓(阿祖山太神宮)にあることを述べたが、それを天皇は不問にしたという。
 ただ、鎌足だけが、この田辺武居の話をきいて大いに喜び、自分の子の中臣藤原物部麿にその古記録の筆写を命じた。そこで物部麿は、田辺武居を案内として富士山麓に赴き、その古記録を写した(天智10年(671))
この謎の人物は、大海人皇子(天武)側が政権(皇位)奪取後に備えて派遣した密使であるという仮定から推理される結論は、藤原不比等である。
 彼は、幼少時より父の鎌足のブレーンの一人である百済系帰化人の田辺史大隅に養育された。彼の「不比等」という名も「史」からのものといわれている。つまり彼は、幼少時から、この史官のもとで育てられていただけに「歴史」に強かった。
 中臣藤原物部麿を案内した田辺武居は田辺史大隅であろう。 史官の彼がそのもっとも信頼する弟子である不比等を連れて富士山麓に出掛けたということは十分に可能である。このベテラン史官にとってはその古記録を「作正」し、かつ「宇津須」ことなど、いわば朝飯まえの仕事だろう。しかも不比等の父の鎌足には、お世話になっているし、それにまた、鎌足だけが、彼が奏した富士山麓の古記録の件について理解してくれたということもある。壬申の乱後の不比等の栄達と、記紀編修の仕掛人としての不比等のイメージから、謎の「中臣藤原物部麿」の正体こそ、この藤原不比等であると結論できる。(佐治)

 

富士古文献の成立背景(6)

 投稿者:maeda  投稿日:2011年 7月26日(火)18時37分12秒
  8.最初の改定
 歴代神官を助けて先住民系の人々が護ってきた宮下文書にとって、きわめて重大な事件が人皇三十六代天智天皇十(671)年の8月に起こった。
 それは朝廷から(近江京から)「中臣藤原物部麿」なる人物が、富士山麓を訪れて、この文書を読み「作正宇津須、つまり文書(徐福筆録とされるもの)の文章を正して、これを新たに写し改めたというのである。ちなみに、この「中臣藤原物部麿」が「作正宇津須」ところの文書は、建久三(1192)年8月、宮下源太夫義仁が「謹書」したときの原本とされている。上質の和紙に上質の筆墨を用いて記した文書なら、保存さえよければ、五、六百年はもつ。だが、徐福の時代から天智十年までは九百年近く経過しているのだから、相当傷んでいただろう。したがって中臣藤原物部麿なる人物が、筆写し直すという行為そのものはよくわかる。ただ、問題は「作正」の二字にある。「作正」とは現代語でいえば「改訂」にほかならない。
 何を規準として改訂したのであろうか? なぜ改訂したのであろうか? この改訂者の素姓も問題である。
 その改訂の時期には、天智天皇は病床にあった。天智の側近たちにとっては、すでに彼の後継者についてのひそかな論議がささやかれていたはずである。後継者として本命だった大海人皇子(皇太弟)は、天智の本心が大友皇子(天智の実子)にあることを知っていたから、病床の天智から皇位継承の意を告げられたとき、一身上の危機を悟り、天皇病気平癒のための「出家修道」の名目で吉野に去ったのは十月のことである。
 中臣藤原物部麿なる謎の人物が富士山麓を訪れ、そこにある古文書を読み、かつ「作正宇摩須」という行為に出たのは、このようなきわめて微妙な時期であったのである。
 ちなみに、この時点では中巨鎌足こと藤原鎌足はすでにいない(669年死亡)。鎌足を欠いたことによって、天智と皇大弟(大海人皇子)とのあいだの緊張は極度に高まっていた。
大海人皇子の打った布石の1つが腹心の中臣藤原物部麿の富士山麓派遺だったのではなかったか。そして、その目的は古代記録の入手とその変造である。つまり、この時点では古事記や日本書紀の編集はまだ行われていなかった。 皇位を狙う人物なら、その主張の正統(正当)性を訴えるためにも、新しく史書を作ることが必要となる。そのためには阿祖山太神宮保管の文書を眺めておくことが必要だ。もし、その文書が白目分の即位にとって不利なものだったらそれを改訂すればよい。そして改訂版に基づいて新たに修史作業を開始する。

 

富士古文献の成立背景(5)

 投稿者:maeda  投稿日:2011年 7月26日(火)18時35分59秒
  6.富士古文献の成立と徐福・孝元天皇
 秦の方士徐福が富士の阿祖山大神宮の神官が語った古代史を聴きその深さに感嘆するとともに、その貴重な記録の散逸するのをおそれ、改めて漢字で筆録したものが「富士古文献」とされている。
ほぼ紀元前200年ころまでに成立したものということになり、日本最古の史書ということになる。しかし膨大な伝承のすべてを徐福一代で筆録したとは考えられない。漢字をよく知る徐福の子孫なり従者がその作業を継承したものと考えられる。
 徐福筆録説とは別に、この文書の少なくとも「開闢神代暦代記」と「蘇我氏、栄日子氏、武部氏三家世代記」は、第八代孝元天皇がみずから撰録し、徐福はその勅命で筆録したものという説もある。すなわち岩間本によれば、岩間本に収録されている「暦代記」他数篇は孝元天皇がみずから編集した古代実録であり、それを「書き作り記し置」いたのが徐福である旨を、宮下源太夫義仁によって「謹書」されている。
孝元天皇というのは、津田左右吉博士の記紀批判以来、仮空の存在とされているが、一部の古史古伝研究者のあいだでは、神武系とは別系の孝昭王朝(孝昭、孝安、孝霊、孝元、開化の各天皇、物部系か?)のいわば後期の天皇であるとみられている。

7.富士古文献を継承したのは「国津神」系
 孝元天皇が即位前から編集しはじめ、秦の徐福およびその後継者が筆録したとされるこの文書を、代々継承してきたのは富士山麓の阿祖山神宮の神官グループである。
 このグループの長、つまり大宮司は、神代においては「守護司長」あるいは「高天原惣司令神」と称されていたが、神皇の世が終り人皇の代になってからは「宮守司長」、のち「大宮司長」、さらに後代に入って「大宮司」とよばれるようになったという。
 これらの漢風の呼称は、古史古伝に似合わないが、この文書の原本が徐福によって筆録されたといわれる全漢字のものである。「惣司令神」など近代的な語が出てくるのは明治-大正期に三輪義煕が現代訳したさいの表現である。
守護司長:大国主命-多真祖命(ヒコホホデミ時代)-神火須勢理命(第1代ウガヤフキアエズ時代)-阿尾弥真男命(オオヤマズミ系)-大山守皇子(応神天皇時代)。
 大国主命以来、阿祖山太神宮の神官職は、ほぼ一貫して国津神系(先住民族系)の人々によって占められてきた。
大山守皇子は阿祖山太神宮でこの文書の保存、継承の任についた。その子孫が「宮下」姓を名乗るようになる。大山守皇子の背後には人口の70%以上を占める先住民族系山の民、海の民が控えていた。

 

富士古文献の成立背景(4)

 投稿者:maeda  投稿日:2011年 7月26日(火)18時34分47秒
  5.富士古文献(宮下文書)の成立史
 以下、佐治芳彦著「謎の宮下文書」の記載を参考に、概略を述べる。
富士古文献はさまざまな「名称」で呼ばれている。宮下文書、富士文書、徐福文献、神皇紀、富士高大原朝史、開闘神代暦代記、寒川文書とよぶ人もいる。それぞれの名称はこの文書の内容、成立、継承、公開の過程を端的に物語っている。
1)「宮下文書」:これは阿祖山太神宮(富士太神宮)の大宮司を代々つとめてきたという富士山麓-富士吉田市大明見の宮下家(当主宮下義孝氏)に保存されている古代文書であることからの名称である。
2)「富士文書」(または富士文献ともいう):この文書の内容、成立、継承について、富士山が大きな役割を占めていることからの名称である。
3)「徐福文献」:もともと木片や竹、石面などに神代文字(古代和字)で記されていたこの文書の内容を、漢字で筆録したのが、秦の始皇帝(前259~前210)に仕え、東方の霊山(蓬莱山)に不老不死の霊薬を求めて渡来した方士徐福であったという伝承からの名称である。
4)「神皇紀」:明治から大正にかけて約三十年にわたり、この文書を研究した三輪義煕(1867~1933)が「精査編集」して大正十(1922)年に出版した書名である。(三輪本ともいう)
文書の研究者で宮下家保存原本の写しを所持されていた渡辺長義(当時山梨県文化財保護委員)の証言によれば、神皇紀は内容の点においてほぼ完璧に原文書の面影を伝えているという。また、現在宮下家に保存されている原本(鎌倉時代写本)が一般に公開されていないことから、ふつう宮下文書といえば、この神皇紀(初版1922年)をさしている。
5)「富士高天原朝史」:古史古伝研究の第一人者である吾郷清彦氏の命名であるが、これは、この文書の内容が太古代、富士山麓に栄えた高天原王朝(富士王朝という人もいる)の興亡史であることにもとづく。
6)「開闢神代歴代記」:富士の阿祖山神宮(富士太神宮)の宮司であった宮下源太夫義仁(鎌倉時代の武将三浦義明の孫にもあたる)の子孫でもある三浦一族会の岩間尹(タダス)が、相模の一ノ宮の寒川神社に保存されていた(富士山噴火のさい焼失をさけるために分散されていたもの)文書を、調査、研究し、戦後、独自に編集、出版された(初版1968年)ときの書名である。
7)「寒川文書」:岩間本を、神皇紀が三輪本というのに対して、「寒川文書」と呼ぶ場合がある。寒川神社神庫に保存されていたと称される文書をもとに記されたものということからの名称である。原本は、大明見の宮下家のものと同一である。ただ内容の配列、史実の選択、現代語訳で、神皇紀と若干相違がある程度である。両書を併せ読むことによって、この文書の全容をより確実に捉えることができる。
 

富士古文献の成立背景(3)

 投稿者:maeda  投稿日:2011年 7月26日(火)18時33分41秒
  参考
*1.富士文庫事件は、すでに当時のマスコミ(朝日、読売、毎日の3大紙をはじめ、都、報知、中央、毎夕、新愛知、山梨などの有力紙、雑誌「日本及び日本人」など)に大々的に取り上げられ、その社会的影響が無視できなくなったため(しかも殆どが文書を肯定的に受け止めていた)、組織的、計画的に偽史化するための、きわめて高度な政治的陰謀(国策捜査的)であったと考えられる。(佐治芳彦、「謎の宮下文書」徳間書店、1986年11月発行)
 かつて上記(うえつぶみ)は、紹介者の吉良義風を個人的に中傷することによって偽書化された。竹内文書は、天津教弾圧と並行して行われた狩野亨吉博士の批判によって偽書化された。九鬼文書も大本教弾圧によって公表のチャンスが大幅に遅らされた。
 しかし、宮下文書の富士文庫事件ほどこまかい細工を弄して、巧妙に偽書化されたケースはない。
*2.富士古文献(宮下文書)は継承過程で改定された疑いがある。 改定の事実を伝える記録がある。天智天皇10年の中臣藤原物部麿の「作正宇津須」とある部分がそれである。当時の体制にとって不都合と思われる部分の改定作業を含む筆写化であったと見られる。
*3.三輪義煕氏は、尾張一宮の真澄田神社の宮司大伴氏の子孫である。大伴氏は、東三河賀茂町にある賀茂神社の摂社、大伴神社の宮司であったが、賀茂神社の宮司になれなかったことから、尾張に移った。大伴氏は、神武東征の際の将軍(天の忍日命)を祖先とする直系子孫であり、三輪義煕氏も古代日本の歴史に特別深い関心を持っていたと思われる。
 

/18