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徐福と邪馬台国

 投稿者:秦野北斗  投稿日:2014年11月11日(火)23時17分18秒
  『後漢書』倭人伝に邪馬臺國、秦の始皇帝が夷洲および澶洲に方士の徐福を遣わし・・。

秦野は古代の佐賀を古事記、日本書記で説明し、魏志倭人伝の行程・・。
まあ、原稿が審査を通過するかが問題ですが・・。
九州は邪馬台国ではピリピリしている。気にかかるところです。

『後漢書』倭人伝

 倭在韓東南大海中、依山島為居、凡百餘國。自武帝滅朝鮮、使驛通於漢者三十許國、國皆稱王、世世傳統。其大倭王居邪馬臺國。樂浪郡徼去其國萬二千里、去其西北界拘邪韓國七千餘里。其地大較在會稽東冶之東、與朱崖、儋耳相近、故其法俗多同。

 倭は韓の東南、大海中の山島に拠って暮らす。およそ百余国。前漢の武帝が朝鮮を滅ぼしてより、漢に使訳(使者と通訳)を通じてくるのは三十国ほど。国では皆が王を称することが代々の伝統である。そこの大倭王は邪馬臺国に居する。楽浪郡の境界から、その国までは一万二千里。その西北界の拘邪韓国から七千余里。その地は凡そ会稽郡東冶の東に在り、(海南島の)朱崖や儋耳と相似しており、その法俗も多くが同じである。

會稽海外有東鯷人、分為二十餘國。又有夷洲及澶洲。傳言秦始皇遣方士徐福將童男女數千人入海、求蓬萊神仙不得、徐福畏誅不敢還、遂止此洲、世世相承、有數萬家。人民時至會稽市。會稽東冶縣人有入海行遭風、流移至澶洲者。所在絶遠、不可往來。

会稽の海の外に東鯷人があり、二十余国に分かれている。また、夷洲および澶洲がある。伝承によると、秦の始皇帝が方士の徐福を遣わし、数千人の少年少女を連れて海に入った。蓬萊山の神仙を探し求めたが、出会えず、徐福は誅罰を畏れて敢えて帰らず、遂にこの島に留まった。代々に相伝し、数万家を有した。人民は時に会稽に至り交易する。会稽東冶県の人が海に入って航行し風に遭い、漂流して澶洲に至る者がいる。絶海の遠地に在り、往来すべきではない。

http://members3.jcom.home.ne.jp/sadabe/kanbun/wakoku-kanbun2-gokan.htm
 

論文期待しています

 投稿者:maeda  投稿日:2014年11月11日(火)18時07分16秒
  小生も、東海関東の徐福情報ということで、投稿しました。
いろんな説が出されるでしょうから、楽しみです。
ご検討を期待しています。
 

徐福論文

 投稿者:秦野北斗  投稿日:2014年11月10日(月)06時57分41秒
  先日、NPO法人佐賀県徐福会から手紙が届きました。

徐福東渡2225周記念 徐福長寿館開館20周年記念[徐福論文]募集

秦野も徐福を研究していますので投稿します。

フォーラム開催及び最優秀、優秀作品報告書:平成27年5月予定

論文は掲示板の内容を一部含みます。多くの議論ですな

魏志倭人の佐賀ルート
韓半島の地図(馬韓、弁韓、辰韓、倭国)
佐賀ルートの工程図(帯方群から邪馬台国(奈良))
扶桑木の情景(徐福の佐賀入港情景)創作

問題点があれば教授お願いいたします。
 

琅邪(山東省臨沂市付近)から三万里、君子国 2

 投稿者:秦野北斗  投稿日:2014年11月 4日(火)12時35分17秒
  琅邪から君子国、不死国(奈良)までを実測

『後漢書』東夷伝に琅邪から君子国、不死国(奈良)

琅邪は臨沂市  東方三万里(里単位は秦野距離:1600km)で奈良になる。
君子国:礼儀や徳義の厚い国。古代中国で、東方にあったとされる国。

「山海経」に興味深い記述がある。琅邪(山東省臨沂市付近)から三万里、君子国。
琅邪は臨沂市を意味する。臨沂市から東方三万里(里単位は秦野距離)で奈良になる。
秦野距離は実測に基づく距離、秦野著書、徐福と邪馬台国参照。

 

琅邪(山東省臨沂市付近)から三万里、君子国

 投稿者:秦野北斗  投稿日:2014年11月 3日(月)15時55分19秒
  『後漢書』東夷伝に琅邪から君子国、不死国(奈良)

琅邪は臨沂市  東方三万里(里単位は秦野距離:1600km)で奈良になる。
君子国:礼儀や徳義の厚い国。古代中国で、東方にあったとされる国。

「山海経」に興味深い記述がある。琅邪(山東省臨沂市付近)から三万里、君子国。
琅邪は臨沂市を意味する。臨沂市から東方三万里(里単位は秦野距離)で奈良になる。
秦野距離は実測に基づく距離、秦野著書、徐福と邪馬台国参照。

『後漢書』東夷伝に以下のように記されている
『礼記』王制篇に「東方のことを夷という。夷とは根本の意味である」とあり、その意味は「恵み育て生命を尊重することで、万物は土地に根ざしてできるものである」となる。そのため、東夷諸民族は生まれつきが従順で、道理をもってすれば容易に治められるといい、君子の国や不死の国があるとさえいわれる。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E5%A4%B7

東夷(とうい)
日本では「夷」をえびす、えみし、ころす、たいらげる、と訓読させた。「蝦夷(えぞ)」や「東夷(あずまえびす)」などにその用法が見られる。またみやこから遠くはなれた未開の土地の風俗(田舎ふう)をさす夷曲(ひなぶり)として、上代の歌謡の一種、あるいは田舎風の詩歌、狂歌として表現した。荒々しい武士、情を理解しない荒っぽい人、風情が無く、教養・文化に欠ける人、特に東国の武士を京都の人から見て「あずまえびす」「えびす」と呼称した。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E5%A4%B7

ろうや【琅邪 Láng yá】
中国の古地名。瑯邪,瑯琊,琅?とも書く。春秋時代越王句践(こうせん)が現在の山東省膠南県南西の地に黄海を望む台館を起こし,諸侯と会盟を行ったという。秦の始皇帝はここを治所に琅邪郡を置き,28年(前219)の泰山封禅ののち琅邪台を設け,秦朝の頌徳碑を建てた(琅邪台刻石)。前漢も今の諸城県を治所に琅邪郡を置き,後漢は今の臨沂(りんぎ)県を中心に琅邪国とした。東晋・南朝で第一流の名族とされた王導一族は,琅邪・臨沂の出身である。
https://kotobank.jp/word/%E7%90%85%E9%82%AA-1217566
 

泉州:センシュウ

 投稿者:秦野北斗  投稿日:2014年10月28日(火)22時47分14秒
  >小生は、澶洲を、センシュウと呼び、参州、三河との仮説を立てています。
大阪府堺市は泉州:センシュウになる。

石津の戦い(いしづのたたかい)とは、南北朝時代の延元3年/暦応元年5月22日(1338年6月10日)に和泉国堺浦・石津(現在の大阪府堺市一帯)において、南朝方の北畠顕家と北朝方の高師直が戦った合戦。石津合戦・堺浦合戦・堺浜合戦などの異名がある。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%B3%E6%B4%A5%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84

家原城は、戦国時代に大和信貴山城主松永久秀によって支城として築かれた。 永禄年間以降、久秀は、三好義継を擁する三好三人衆と対立し、家原城には松永方の和泉衆が在城していた。 永禄11年、松永方の寺町左近将監・雀部治兵衛らが守備していたが、三好政康によって攻められ落城した。
永禄(えいろく)は、日本の元号の一つ。弘治の後、元亀の前。1558年から1570年までの期間を指す。
http://www.asahi-net.or.jp/~qb2t-nkns/izumiebara.htm
 

夷洲、澶洲

 投稿者:秦野北斗  投稿日:2014年10月28日(火)13時02分7秒
  『隋書』倭国伝を秦野が訳し説明します。

翌年、倭国へ使者を派遣、百済から=済州島=筑紫国(博多)に至り、秦国(壇洲)の用明天皇に謁見。ルートは百済、竹島(つく島)=済州島、○羅国(タン羅国) を南に望み、都斯麻国(つしま国)= 対馬国、一支)、竹斯国(つくし国)=筑紫国(博多)、東に秦王国=秦国の海岸に達し、夷洲沿いに秦国(壇洲)に入った模様。どうやら隋から船で来たな。これから遣隋使ルートは韓半島の百済から隋に渡ったのがわかるな。秦国から隋は別ルートになる。添付地図参照

多利思比孤=用明天皇で飛鳥が秦国(壇洲)になる。徐福の寄港は現在の伊勢道=茅渟道、
茅渟道は茅渟海から茅渟県(あがた)、奈良までの道。茅渟海は現在埋められ石津川が残る。1500年ぐらいに埋めたようだ。現在の堺市四つ池遺跡の入り江になる。当時は巨大船の100艘の停泊は可能な大きな入り江になっていた模様。

http://www.city.sakai.lg.jp/kanko/rekishi/bunkazai/bunkazai/isekishokai/yotsuike.html

秦国(壇洲):歴史学者は日本を倭国と思っているが大きな間違いで『隋書』倭国伝から秦国(俀国)になる。徐福のヒルメ、アマテラスがBC200年に瑞穂の国を秦国(俀国)に改名した模様。『後漢書』辰韓伝に残る。東三河の民の可能性があるな。また、神武東征は韓半島が終着点ですな。

『隋書』倭国伝

 大業三年、其王多利思比孤遣使朝貢。使者曰:「聞海西菩薩天子重興佛法、故遣朝拜、兼沙門數十人來學佛法。」其國書曰「日出處天子致書日沒處天子無恙」云云。帝覽之不悅、謂鴻臚卿曰:「蠻夷書有無禮者、勿復以聞。」

 大業三年(607年)、その王の多利思比孤が遣使を以て朝貢。
 使者が曰く「海西の菩薩天子、重ねて仏法を興すと聞き、故に遣わして朝拝させ、兼ねて沙門数十人を仏法の修学に来させた」。
 その国書に曰く「日出ずる處の天子、書を日沒する處の天子に致す。恙なきや」云々。帝はこれを見て悦ばず。鴻臚卿が曰く「蛮夷の書に無礼あり。再び聞くことなかれ」と。

 明年、上遣文林郎裴清使於倭國。度百濟、行至竹島、南望○羅國、經都斯麻國、迥在大海中。又東至一支國、又至竹斯國、又東至秦王國。其人同於華夏、以為夷洲、疑不能明也。又經十餘國、達於海岸。自竹斯國以東、皆附庸於倭。

 翌年、上(天子)は文林郎の裴世清を使者として倭国に派遣した。百済を渡り、竹島に行き着き、南に○羅国を望み、都斯麻国を経て、遙か大海中に在り。また東に一支国に至り、また竹斯国に至り、また東に秦王国に至る。そこの人は華夏(中華)と同じ、以て夷洲となす。疑わしいが解明は不能である。また十余国を経て、海岸に達した。竹斯国より以東は、いずれも倭に附庸している。
http://members3.jcom.home.ne.jp/sadabe/kanbun/wakoku-kanbun9-zuisho.htm

『後漢書』辰韓伝

 辰韓、耆老自言秦之亡人、避苦役、適韓國、馬韓割東界地與之。其名國為邦、弓為弧、賊為寇、行酒為行觴、相呼為徒、有似秦語、故或名之為秦韓。有城柵屋室。諸小別邑、各有渠帥、大者名臣智、次有儉側、次有樊秖、次有殺奚、次有邑借。土地肥美、宜五穀。知蠶桑、作縑布。乘駕牛馬。嫁娶以禮。行者讓路。國出鐵、濊、倭、馬韓並從?之。凡諸(貨)〔貿〕易、皆以鐵為貨。俗喜歌舞飲酒鼓瑟。兒生欲令其頭扁、皆押之以石。

 辰韓、古老は秦の逃亡者で、苦役を避けて韓国に往き、馬韓は東界の地を彼らに割譲したのだと自称する。そこでは国を邦、弓を弧、賊を寇、行酒を行觴(酒杯を廻すこと)と称し、互いを徒と呼び、秦語に相似している故に、これを秦韓とも呼んでいる。
 城柵、家屋、宮室がある。諸々の小邑落には各自に渠帥がおり、大長は臣智、次に儉側、次に樊秖、次に殺奚、次に邑借がいる。土地は肥沃、五穀の栽培に適している。養蚕を知っており、縑布を作る。牛馬の車に乗る。嫁は婚礼をして娶る。道で行き合えば道を譲る。
 国内で鉄を産出し、濊、倭、馬韓などが、これを求めに来る。おおよそ諸々の交易では皆、鉄を以て通貨とする。習俗は歌舞、飲酒、鼓を打ち瑟(しつ=弦が25本か16本の琴)を弾くことを好む。幼児はその頭を扁平にするため、皆でこれを石に押し付ける。
http://members3.jcom.home.ne.jp/sadabe/kanbun/sankan-sinkan.htm
 

夷洲、澶洲

 投稿者:maeda  投稿日:2014年10月25日(土)23時20分48秒
編集済
  質問ですが
徐福の文章の夷洲、澶洲は特定しているのでしょうか。


徐福文献といわれる富士古文献では、まだ、夷洲、澶洲 を見つけていません。
一般に、夷州は台湾とされているが、澶洲は不明です。
「邪馬台国は沖縄だった」という本の著者、木村政昭琉球大教授は、澶洲をタンシュウと呼び、種子島と考えています。
 小生は、澶洲を、センシュウと呼び、参州、三河との仮説を立てています。
 というのは、渥美半島は安曇族の根拠地で、蒲郡市には赤彦神社に豊玉彦が祭られ、潮満玉、潮干玉が保管されているという伝承があるのです。

 最近、九州博多の名島神社が安曇族の根拠地で、豊玉彦が来て居たという情報を得ました。しかもこの神社は、徐福上陸伝承をもっているのです。筑紫から来たそうです。
 徐福は、始皇帝の命で、阿蘇山に近い九州高千穂の幣立神宮に来たが、富士山へ行ってしまったという文言を記した立て札が、幣立神宮にあるのを、昨年夏発見しました。

 古代には、海人族は高速船で、日本の周辺を行き来していた可能性があります。
 日本の神社伝承を、素直にまとめると徐福の動きが結構判るものですよ。(maeda)
 

常世の国(済州島)

 投稿者:秦野北斗  投稿日:2014年10月24日(金)22時26分50秒
  大八島国で徐福は碑を残している。

朝鮮における徐福伝説、徐福渡来伝承が残る・・・
惜しみながら西方の日本へ向かったといわれ・・。筑紫島から対馬(津島)に向かう行為。
当時は帆船なので対馬海流に乗るため、西方に向かう必要がある。奄美(裸国)でも同様
の操船を行っている。
.
筑紫國菟狹=筑紫島(つくしこく、うさ):済州島
胴体が1つで、顔が4つある。顔のそれぞれの名は以下の通り。
白日別(しらひわけ)
豊日別(とよひわけ)
建日向日豊久士比泥別(たけひむかひとよじひねわけ)
建日別(たけひわけ)

常世の国(とこよのくに)は、古代日本で信仰された、海の彼方にあるとされる異世界である。一種の理想郷として観想され、永久不変や不老不死、若返りなどと結び付けられた、日本神話の他界観をあらわす代表的な概念で、古事記、日本書紀、万葉集、風土記などの記述にその顕れがある。

常世の国の来訪者
日本神話においては、少彦名神、御毛沼命、田道間守が常世の国に渡ったという記事が存在する。浦島子(浦島太郎)の伝承にも、常世の国が登場する。

御毛沼命(みけぬのみこと)
『古事記』『日本書紀』では、鸕鶿草葺不合尊と、海神の娘である玉依姫の子で、初代天皇・神武天皇の兄であるとする。

『日本書紀』神武即位前紀では、兄弟とともに神武東征に従うが熊野に進んで行くときに暴風に遭い、「母も叔母も海神であるのに、どうして我々は波によって進軍を阻まれなければならないのか」と言って、波頭を踏んで常世に行ったとしている。
『古事記』では、事績は何も記されずに「波頭を踏んで常世の国に渡った」とだけ記されている。
 

夷洲、澶洲

 投稿者:秦野北斗  投稿日:2014年10月24日(金)12時23分6秒
  質問ですが

徐福の文章の夷洲、澶洲は特定しているのでしょうか。

『後漢書』倭人伝

 會稽海外有東鯷人、分為二十餘國。又有夷洲及澶洲。傳言秦始皇遣方士徐福將童男女數千人入海、求蓬萊神仙不得、徐福畏誅不敢還、遂止此洲、世世相承、有數萬家。人民時至會稽市。會稽東冶縣人有入海行遭風、流移至澶洲者。所在絶遠、不可往來。

 会稽の海の外に東鯷人があり、二十余国に分かれている。また、夷洲および澶洲がある。伝承によると、秦の始皇帝が方士の徐福を遣わし、数千人の少年少女を連れて海に入った。蓬萊山の神仙を探し求めたが、出会えず、徐福は誅罰を畏れて敢えて帰らず、遂にこの島に留まった。代々に相伝し、数万家を有した。人民は時に会稽に至り交易する。会稽東冶県の人が海に入って航行し風に遭い、漂流して澶洲に至る者がいる。絶海の遠地に在り、往来すべきではない。

http://members3.jcom.home.ne.jp/sadabe/kanbun/wakoku-kanbun2-gokan.htm
 

宇摩志阿斯訶備比古遅神の翻訳

 投稿者:秦野北斗  投稿日:2014年10月21日(火)19時13分13秒
編集済
  宇摩志阿斯訶備比古遅神の翻訳に間違いがあるな。訂正する。

東三河には宇摩志阿斯訶備比古遅神(ウマシアシカビヒコジノカミ)が該当しそうだ。
宇摩志阿斯訶備比古遅神、
読みは宇志摩阿を叱るよき舅神は間違いで、宇志摩阿で「せめにいにしえからそなえる。」

宇摩志阿斯訶備比古遅神
宇気(伊勢志摩)、愛知=宇摩志阿

訶備比古遅
せめに、いにしえ、から、そなえる。

訶:しか-る、せ-める
備:そな-える、そな-わる
比:なら-ぶ、なら-べる、よそ-える、なぞら-える、たぐ-える、たぐい、ころ
古:ふる-い、いにしえ
遅:おく-れる、おく-らす、おそ-い

2200年の時間差はきついな。天の香具山の情景を添付します。

万葉集に愛知(あゆち)=美し国(うましくに)
全羅北道完州郡白村江(倭国)は韓国クンサン(群山)も うまし国

舒明天皇の歌
「大和には 群山あれど とりよろふ 天の香具山 登り立ち 国見をすれば 国原は 煙り立ち立つ 海原は かまめ立ち立つ うまし国ぞ あきづ島 大和の国は」 (巻1-2)
 

万葉集に愛知(あゆち)

 投稿者:秦野北斗  投稿日:2014年10月20日(月)06時40分37秒
  女王國東渡海千餘里復有國皆倭種

復有國=阿湯地=あゆち になり、復有=阿湯=あゆ

復=阿=あ の関係がつかめない。

万葉集に愛知(あゆち)=美し国(うましくに)

愛知(あゆち)万葉集にも、「あゆち潟」を題材にした歌がいくつかあります。
古事記 第1章 神々の出現に宇摩志阿斯訶備比古遅神は宇気(伊勢志摩)、
愛知=美し国(うましくに)だろう。

あゆち=阿湯地
阿=倭王、姓は阿毎(あめ)
湯=鋳造、材料(主に鉄・アルミ合金・銅・真鍮などの金属)
地=地(チ、ジ、つち)とは、土、陸、場所、下などを指す。

鋳造(ちゅうぞう、英: casting)は、材料(主に鉄・アルミ合金・銅・真鍮などの金属)を融点よりも高い温度で熱して液体にしたあと、型に流し込み、冷やして目的の形状に固める加工方法である。

古事記 第1章 神々の出現
その次に、日本の国がまだ海に浮かぶ脂のごとく、くらげのようにただよっていた時に葦(あし)の芽が萌え上がるように現れたのは、ウマシアシカビヒコジノカミ(宇摩志阿斯訶備比古遅神)とアメノトコタチ(天之常立神)という神様でした。

宇志摩阿:宇志摩=宇気、志摩。阿(あゆち:愛知)あゆち:阿湯地 湯:鉄
=宇気(伊勢志摩)、愛知=美し国(うましくに)
阿(あゆち:愛知)は徐福と渡来した司馬氏が鉄の生産地にした模様。

舒明天皇の歌
「大和には 群山あれど とりよろふ 天の香具山 登り立ち 国見をすれば 国原は 煙り立ち立つ 海原は かまめ立ち立つ うまし国ぞ あきづ島 大和の国は」 (巻1-2) 美し国(うましくに)は万葉集にある。

大和には・・海原は かまめ立ち立つ うまし国ぞ・・。
どうも、かまめ立ち・・は高炉で鉄の国・・?。

古代
愛知郡の最も古い記述は、平城京出土木簡で、尾張国愛知郡と記載されている。 和名抄に、愛智とあり、訓読は阿伊知(あいち)である。
なお、江戸時代末期編纂の尾張志では、あいちは誤りであり、あゆちが正しいという説を唱えており、世間に流布する愛知は古代はあゆち説の元となっているが、木簡の愛知の記述(あゆち阿由知、という記述の木簡が出土せず)、平安時代の和名抄に愛智の訓読は阿伊知(あいち)と明記されていることから、疑問がある。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%84%9B%E7%9F%A5%E9%83%A1_(%E6%84%9B%E7%9F%A5%E7%9C%8C)

万葉集
万葉集にも、「あゆち潟」を題材にした歌がいくつかあります。

「桜田へたず鳴きわたる 年魚市(あゆち)潟潮干にけらしたず鳴きわたる」
「年魚市潟(あゆちがた)、潮干にけらし、知多の浦に、朝漕ぐ舟も、沖に寄る見ゆ」
「小治田の 年魚道(あゆち)の水を 間なくぞ 人は汲むといふ 時じくぞ 人は飲むといふ 汲む人の 間なきがごと 飲む人の 時じきがごと 我妹子に 我が恋ふらくは やむ時もなし」
http://nagoya-sanpo.info/article/388896036.html


 

神武東征の痕跡

 投稿者:秦野北斗  投稿日:2014年10月18日(土)16時48分29秒
  秦野著書:徐福と邪馬台国の地図と比較すると面白いな。

朝鮮半島楽浪土城は位置関係から京師の様だな。
京師は卑弥呼の故郷になる。これで、京師、倭国(任那、白村江)がつながる。
京師の206Pb /204Pb:17.699と弥生後期平形銅剣 17.715がほぼ一致する。
阿毎の存在につながるな。中国史籍では阿残。神武東征だな。

206Pb /204Pbの見直しですな。

韓国金海市が全羅北道完州郡
18.481≒18.314
韓国金海市、朝鮮半島楽浪土城が奈良県
18.481+17.699≒18.044
朝鮮半島楽浪土城の銅は弥生期に朝鮮から奈良に入った銅だな。

朝鮮半島楽浪土城    206Pb /204Pb: 17.699 京師
北朝鮮京幾道    現代206Pb /204Pb: 17.338  開城(楽浪郡)
奈良県        206Pb /204Pb: 18.044  獣形鏡
全羅北道完州郡      206Pb /204Pb:18.314 白村江(倭国)
韓国金海市  1C-2C 206Pb /204Pb:  18.481  釜山広域市(倭国、任那)

交易ルートは卑弥呼の影響が残る。

飛鳥時代
飛鳥時代(あすかじだい)は、日本の歴史の時代区分の一つである。崇峻天皇5年(592年)から和銅3年(710年)の118年間にかけて飛鳥に宮・都が置かれていた時代を指す。草創期は古墳時代の終末期と重なる。
狭義には、推古天皇元年(593年)に聖徳太子が摂政になってから、持統天皇8年(694年)の藤原京への移転までの、約102年間を飛鳥時代と称している。以前は、古墳時代と合わせて大和時代とされていた時期があったが、今日では古墳時代と飛鳥時代に分けて捉えるのが一般的である。推古朝に飛鳥文化、天武・持統朝に白鳳文化が華開いた時代でもある。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A3%9B%E9%B3%A5%E6%99%82%E4%BB%A3

白村江の戦い

白村江の戦い(はくすきのえのたたかい、はくそんこうのたたかい)とは、663年(天智2年)8月に朝鮮半島の白村江(現在の錦江河口付近)で行われた、倭国・百済遺民の連合軍と、唐・新羅連合軍との戦争のことである。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BD%E6%9D%91%E6%B1%9F%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84

日本書紀には「額田姫王(ぬかたのひめみこ)」とある。父は鏡王。天武天皇の妃となり、十市皇女を生む。鏡姫王(鎌足の嫡室)の妹かともいう。
斉明四年(658)十月、斉明天皇の紀温湯行幸に従駕し、歌を詠む(万葉集巻1-9)。斉明七年
http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/nukata.html

ちょっと参考まで
http://members3.jcom.home.ne.jp/arai-hiroshi/lecture/07.11.17.pdf#search='三角縁+鉛同位体比'

 

未央宮(びおうきゅう)高門殿に葬らる。

 投稿者:秦野北斗  投稿日:2014年10月18日(土)09時29分57秒
  徐福伝説の終止符が漢書 卷六十二 司馬遷傳第三十二に記録した模様

昌は毋懌(ぶえき)を生み、毋懌は漢の市長と爲る。 毋懌は喜を生み、喜は五大夫と爲る。 卒するや、みな高門に葬らる。

未央宮(びおうきゅう)高門殿に葬らる。

大館高門 (おおだち-たかかど)何かきになるな?

司馬昌  毋懌(無澤、むえき)

遠い部分の信憑性には疑問があるが、父・司馬談が亡くなる際の遺言によると、司馬遷の家系は堯・舜の時代に功績を挙げ、代々歴史・天文を司る一族であるという。秦の恵文王らに仕えた司馬錯、その孫で白起の部下として長平の戦いに従軍した司馬靳(中国語版)(しばきん)、さらにその孫で始皇帝時代に鉄鉱を管理する役職にあった司馬昌がいる。昌の子は毋懌(無澤、むえき)と言い、漢市の長官に就いた。その子で五大夫の爵位を得た司馬喜は司馬遷の祖父に当たる。
このような家系において、父・司馬談もさまざまな師から天文・易・道論などの教えを受け、漢王朝に仕え、司馬遷3歳の年から元封までの約30年間にわたり太史公の官職を得ていた。談は道家的思想を基礎に、旺盛な批判精神を持ち、先祖が取り組んだ歴史書編纂事業への熱意を常々抱えていた。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%B8%E9%A6%AC%E9%81%B7


司馬昌  毋懌(無澤、むえき)

漢書 卷六十二 司馬遷傳第三十二
 漢之伐楚 卬歸漢 以其地爲河内郡 昌生毋懌 毋懌爲漢市長 毋懌生喜 喜爲五大夫 卒 皆葬高門 喜生談 談爲太史公

 漢の楚を伐つや、卬(こう)は漢に歸し、その地を以って河内郡と爲す。
昌は毋懌(ぶえき)を生み、毋懌は漢の市長と爲る。 毋懌は喜を生み、喜は五大夫と爲る。 卒するや、みな高門に葬らる。 喜は談(たん)を生み、談は太史公と爲る。
http://www010.upp.so-net.ne.jp/tenmei-zehi/kanjo/shibasen/frame.htm

広漢市
広漢市(こうかん-し)は中華人民共和国四川省徳陽市南西部に位置する県級市。四川盆地の中部、成都平原の只中に位置する。市政府は雒城鎮に所在する。

広漢市は全域が、秦代に建設された水利施設・都江堰の灌漑の恩恵を受けている。市内は平野が92.3%、低い丘陵が7.7%を占める。
広漢市は、徳陽市の南西部に位置し成都市と境界を接する。隣接する行政区は、成都市では青白江区・金堂県・彭州市、徳陽市では什邡市、旌陽区、中江県。



河内(かわち、こうち、かだい、ハノイ)
河内郡
河内郡 (大阪府)(かわちぐん) - 大阪府の郡
河内郡(かわちぐん)- 栃木県の郡
南河内郡(みなみかわちぐん) - 大阪府の郡
河内郡 (茨城県)(こうちぐん) - 常陸国の郡
河内郡 (河南省)(かないぐん) - 中国の漢代の郡名

未央宮(びおうきゅう)は、古代中国の前漢の都である長安の南西部にあった宮殿であり、前漢の皇帝の居場所であった。

『三輔黄図』によると宮殿は周囲28里であり、これは現代の発掘調査による未央宮の全長8,800メートルとほぼ符合する。前殿、宣室、温室殿、清涼殿、麒麟殿、金華殿、承明殿、掖庭宮、椒房殿、高門殿、金馬門などのさまざま建物があった。諸侯や大臣と朝会を開く場所である前殿は龍首山の丘陵を利用して建てられており、長安の城壁より高い位置にあった。

広島県庄原市高門町

大館高門 - 本居宣長記念館
www.norinagakinenkan.com/norinaga/kaisetsu/oodachi.html
明和3年(1776)2月17日~天保10年(1839)12月13日。享年74歳。門人(天明4年入門)。尾張海東郡木田村の庄屋木田家の次男。名、大煕、信煕。号瓊主、清蘆、梅の屋等。藤木田左市とも。最初、田中道麿に学び、道麿没後は宣長に師事した。医者をした ...

大館高門(オオダチ・タカカド)

明和3年(1776)2月17日~天保10年(1839)12月13日。享年74歳。門人(天明4年入門)。尾張海東郡木田村の庄屋木田家の次男。名、大煕、信煕。号瓊主、清蘆、梅の屋等。藤木田左市とも。最初、田中道麿に学び、道麿没後は宣長に師事した。医者をしたこともある。また後年は京に住んだ。宣長門人としては、大変熱心で、一族も門人の列に加えさせ、宣長の名古屋来訪時には、道中の宿を提供すること4度(寛政元年、同4、5、6年)に及んだ。その間には自宅で師・宣長の60歳祝賀会(現代のような宴会ではなく、歌会を中心としたのだろうか)を開催。寛政3、4年頃に、春庭が眼病治療のため馬嶋明眼院に入院した際には宣長の手紙を届けるなどその世話をした。木田村と馬島は約5km位しか離れていない。また、宣長の著作では。『仰瞻鹵簿長歌』や『手枕』。その他の本としては『口遊』等を自費で刊行した。
 但し、国学への関心を越えて、好事家的な要素も強かったことは否定できない。

大館高門 おおだち-たかかど

1766-1840* 江戸時代後期の国学者。
明和3年2月17日生まれ。田中道麿,のち本居宣長(もとおり-のりなが)にまなび,吉田玄覚につき医術をおさめる。天保(てんぽう)4年京都にでて一条家の侍医となった。歌集に「清廬集」。天保10年12月13日死去。74歳。尾張(おわり)(愛知県)出身。名は大煕,信煕。通称は左市。別号に瓊主,清廬,梅の屋。

本居 宣長(もとおり のりなが)は、江戸時代の国学者・文献学者・医師。名は栄貞。通称は、はじめ弥四郎、のち健蔵。号は芝蘭、瞬庵、春庵。自宅の鈴屋(すずのや)にて門人を集め講義をしたことから鈴屋大人(すずのやのうし)と呼ばれた。また、荷田春満、賀茂真淵、平田篤胤とともに「国学の四大人(しうし)」の一人とされる

本居宣長は1730年6月伊勢国松坂(現在の三重県松阪市)の木綿商である小津家の次男として生まれた。幼名は富之助。少年時代から習字を習い、漢籍を学び、執筆も行った。寛延元年(1744年)、16歳の時伊勢山田の今井田家の養子となり紙商売を始めるが、3年後に離縁して松坂に帰った。

本居宣長記念館(三重県松阪市)


 

応神天皇(誉田別尊、大鞆和気命)

 投稿者:秦野北斗  投稿日:2014年10月10日(金)08時43分9秒
  応神天皇(誉田別尊、大鞆和気命)

常用漢字表内
誉:ほ-める
田:(た) 主に稲を栽培するための農地。

誉田:塩筒老翁が言った、東の良い土地
『日本書紀』本文の神武東征の記述では、塩筒老翁が東に良い土地があると言ったことから神武天皇は東征を決意したとある。

別:倭国(韓国)

大鞆和気命
大鞆:おおがら
訓読み
和:(ワ)ある集団において、いる様子。
気:雰囲気。
和気:睦まじい
大鞆和気:おおがらで睦まじい



伝承
『日本書紀』の天孫降臨の説話において、日向の高千穂の峰に天降ったニニギが笠狭崎に至った時に事勝国勝長狭神が登場し、ニニギに自分の国を奉っている。一書では、事勝因勝長狭神の別名が塩土老翁で、イザナギの子であるとしている。
海幸山幸の説話においては、ホデリ(海幸彦)の釣針を失くして悲嘆にくれるホオリ(山幸彦)の前に現れる。ホオリから事情を聞くと小舟(または目の詰まった竹籠)を出してホオリを乗せ、そのまま進めば良い潮路に乗って海神の宮に着くから、宮の前の木の上で待っていれば、あとは海神が良いようにしてくれると告げる。
『日本書紀』本文の神武東征の記述では、塩筒老翁が東に良い土地があると言ったことから神武天皇は東征を決意したとある。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B7%E3%82%AA%E3%83%84%E3%83%81%E3%83%8E%E3%82%AA%E3%82%B8
 

イザナギの執念かな

 投稿者:秦野北斗  投稿日:2014年10月 8日(水)23時26分18秒
  波多野市はキリスト教、肥前島原のキリスト教を追いたい。

神武東征に塩土老翁で、イザナギの子が出てくる。日本書紀の神武の年齢、天祖ニニギが天降って179万2470余年は後日、訂正のなる。秦野の計算ではBC150年になる。

元封三年(前108年)、楼船將軍の楊僕は斉から渤海を渡り・・。は衛氏朝鮮と武帝がぶつかる。このときに楽浪に残った阿毎を阿残と呼ぶようだ。開皇二十年(600年)姓は阿毎で紹介される。
姓は阿毎、字は多利思比孤、楽浪人を阿残と呼ぶ。衛氏朝鮮は阿毎になる。

「蓋國在鉅燕南 倭北 倭屬燕」(山海經 第十二 海内北經)
蓋国は鉅燕の南、倭の北にあり。 倭は燕に属す。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%80%AD%E3%83%BB%E5%80%AD%E4%BA%BA%E9%96%A2%E9%80%A3%E3%81%AE%E4%B8%AD%E5%9B%BD%E6%96%87%E7%8C%AE

『三国志魏書』辰韓伝
 辰韓在馬韓之東、其耆老傳世、自言古之亡人避秦役來適韓國、馬韓割其東界地與之。有城柵。其言語不與馬韓同、名國為邦、弓為弧、賊為寇、行酒為行觴。相呼皆為徒、有似秦人、非但燕、齊之名物也。名樂浪人為阿殘;東方人名我為阿、謂樂浪人本其殘餘人。今有名之為秦韓者。始有六國、稍分為十二國。

 辰韓は馬韓の東、そこの古老の伝承では、秦の苦役を避けて韓国にやって来た昔の逃亡者で、馬韓が東界の地を彼らに割譲したのだと自称している。城柵あり。言語は馬韓と同じではない。そこでは国を邦、弓を弧、賊を寇、行酒を行觴(酒杯を廻すこと)、皆のことを徒と呼び合い、秦語に相似しているが、燕や斉の名称ではない。楽浪人を阿残と呼ぶ;東方人は自分を阿と言うが、楽浪人は本来、その残余の人だと言われる。今はこの国の名称を秦韓とする。始めには六国あり、十二国に細分化した。
http://members3.jcom.home.ne.jp/sadabe/kanbun/sankan-sinkan.htm

『隋書』倭国伝

開皇二十年、倭王姓阿毎、字多利思比孤、號阿輩雞彌、遣使詣闕。上令所司訪其風俗。使者言倭王以天為兄、以日為弟、天未明時出聽政、跏趺坐、日出便停理務、云委我弟。高祖曰:「此太無義理。」於是訓令改之。

 開皇二十年(600年)、倭王、姓は阿毎、字は多利思比孤、号は阿輩雞彌、遣使を王宮に詣でさせる。上(天子)は所司に、そこの風俗を尋ねさせた。使者が言うには、倭王は天を以て兄となし、日を以て弟となす、天が未だ明けない時、出でて聴政し、結跏趺坐(けっかふざ=座禅に於ける坐相)し、日が昇れば、すなわち政務を停め、我が弟に委ねるという。高祖が曰く「これはとても道理ではない」。ここに於いて訓令でこれを改めさせる。

http://members3.jcom.home.ne.jp/sadabe/kanbun/wakoku-kanbun9-zuisho.htm


衛氏朝鮮

『通典』邊防
 武帝元封三年、遣樓船將軍楊僕從齊浮渤海、兵五萬、左將軍荀彘出遼東、討之。朝鮮人相與殺 王右渠來降。遂以朝鮮為真蕃、臨屯、樂浪、玄菟四郡。今悉為東夷之地。昭帝時罷臨屯、真蕃以并樂浪、玄菟。

 元封三年(前108年)、楼船將軍の楊僕は斉から渤海を渡り、兵は五万。左將軍の荀彘は遼東から出撃し、右渠を討った。朝鮮人は右渠を殺して降伏してきた。朝鮮を真蕃、臨屯、楽浪、玄菟の四郡となした。今はすべて東夷の地。昭帝の時、臨屯と真蕃を廃して、楽浪と玄菟に併合した。

日本書紀
『日本書紀』では 神日本磐余彦天皇(カムヤマトイワレビコ)は45歳(数え)の時、天祖ニニギが天降って179万2470余年になるが、遠くの地では争い事が多く、塩土老翁(シオツツノオジ)によれば東に美しい国があるそうだから、そこへ行って都を作りたいと言って、東征に出た。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E6%AD%A6%E6%9D%B1%E5%BE%81


伝承
『日本書紀』の天孫降臨の説話において、日向の高千穂の峰に天降ったニニギが笠狭崎に至った時に事勝国勝長狭神が登場し、ニニギに自分の国を奉っている。一書では、事勝因勝長狭神の別名が塩土老翁で、イザナギの子であるとしている。
海幸山幸の説話においては、ホデリ(海幸彦)の釣針を失くして悲嘆にくれるホオリ(山幸彦)の前に現れる。ホオリから事情を聞くと小舟(または目の詰まった竹籠)を出してホオリを乗せ、そのまま進めば良い潮路に乗って海神の宮に着くから、宮の前の木の上で待っていれば、あとは海神が良いようにしてくれると告げる。
『日本書紀』本文の神武東征の記述では、塩筒老翁が東に良い土地があると言ったことから神武天皇は東征を決意したとある。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B7%E3%82%AA%E3%83%84%E3%83%81%E3%83%8E%E3%82%AA%E3%82%B8
 

秦野とキリスト教

 投稿者:maeda  投稿日:2014年10月 7日(火)14時18分58秒
編集済
  秦野北斗様

 下記投稿に、波多野市はキリスト教が盛んなのでしょうか、とありましたので、参考までに記載します。

 秦野市(波多野市ではありません)には、キリスト教教会は結構多いです。
 上智短期大学があり、カトリック教会やプロテスタント教会もあります。
 マリヤ観音像を祠に保有する家もあります。
 仏教のお寺の前に、6地蔵がありますが、地蔵の錫丈の中に十字架が刻まれているものもあります。
 隠れキリシタンの名残もあるようですね。
 相模の大山の麓に、シンケイ塚という塚があり、ヨセフの墓という伝承や武内宿彌の伝承があります。
 竹内文書によれば、大山阿夫利神社はユダヤの祖モセス(ヨセフ)王の墓と書いてあります。
 徐福(シーフー)は、ヨセフの呼称からなまってできたという説もまんざらでもありません。

 尚、波多野氏は、秦野出身の武将が、京都に進出して「秦野」の字を敬遠して「波多野」と称し、藤原秀郷の子孫として藤原氏を名乗っています。
 源義朝の子息朝長は波多野遠義の女・坊門姫を母とする説があります。
 鎌倉幕府3代将軍実朝は、波多野氏との縁で、秦野市に首塚があります。
しかし鎌倉幕府滅亡の後、波多野氏は全国に広がっていき、秦野には残っていません。
 越前や東三河には波多野氏の子孫が残っているようです。

参考文献:徐福王国相模(古代秘史・秦氏の刻む歴史)彩流社(2010.8)
 

瑞穂の国

 投稿者:秦野北斗  投稿日:2014年10月 6日(月)21時23分27秒
  瑞穂の国

古事記 第1章 アメノワカヒコとキジ

さて、アマテラスオオミカミは、
「千五百年も長く続いている、この豊かな葦原の水穂の国(あしはらのみずほのくに=日本の国)は、わたしの息子であるアメノオシホミミノミコト(天忍穂耳命)が治める国です。」

徐福がBC200 古事記「アマテラスオオミカミは、千五百年も長く続いている、・・」から

瑞穂の国はBC200+1500=BC1700年 現在から3700年前になる。

中国では、夏王国の後、殷(いん)にかわる所、紀元前1700年頃です。

殷(いん、ピン音:yīn、紀元前17世紀頃 - 紀元前1046年)は、中国の王朝である。殷代(いんだい、yīn dài)とも。文献には夏を滅ぼして王朝を立てたとされ、考古学的に実在が確認されている中国最古の王朝である。最終的に紀元前11世紀に周に滅ぼされた。商(しょう、shāng)、商朝とも呼ばれる。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AE%B7

歴史の情景はアステカの神話になる。ノアの洪水から記録されている。
文章が断片なので難問である。創世記からになるが興味があるなら説明します。
アトランテス、エデンの園、神代文字・・・・。

ところで堺を家紋で調べると波多野紋が旧堺で目にするのです。キリスト教と関係あり
織田信長の堺攻めはキリスト教の弾圧?。波多野市はキリスト教が盛んなのでしょうか。
 

漢委奴国王印

 投稿者:秦野北斗  投稿日:2014年10月 5日(日)18時30分25秒
  徐福BC200年 アマテラス(ヒルメ)が瑞穂の国を治める。

古事記 第7章 スサノオ

イザナギノミコトは、「わたしは、これまで多くの子を生んだが、一番最後に貴い三人の子どもたちを得た。」とお喜びになられました。そして、ご自分の首にかけていた玉の首かざりをゆらゆらと鳴らせながらアマテラスオオミカミに授け、「あなたは、天を支配しなさい。」とおしゃっいました。次にツクヨミノミコトに「あなたは、夜の国を治めなさい。」といい、スサノオノミコトには、「あなたは、海原を治めなさい。」とおっしゃいました。

http://www15.plala.or.jp/kojiki/izanagi_izanami/izanagi_izanami_07.html

アマテラスオオミカミに授け、「あなたは、天を支配しなさい。」
筑紫城(ツクシジョウ):奈良の天の香久山辺りあった城。

ツクヨミノミコトに「あなたは、夜の国を治めなさい。」
筑紫:九州から済州島までの地域

スサノオノミコトには、「あなたは、海原を治めなさい。」
筑紫海:九州から済州島までの海域(注、対岸、韓国に呉越(春秋)の越国がある。
最大の脅威であった。スサノオノミコトのおろち退治が越にあたる。
漢委奴国王印は越の名残また、持ち手が蛇になり、ヒルコのヒコが記録されている模様。

http://inoues.net/ruins/sikanosima.html

『新唐書』日本伝

 其俗多女少男、有文字、尚浮屠法。其官十有二等。其王姓阿毎氏、自言初主號天御中主、至彦瀲、凡三十二世、皆以「尊」為號、居筑紫城。

 そこの俗は女が多く男が少なく、文字があり、仏教の教えを尊ぶ。その官には十二等級がある。王姓は阿毎氏、自ら言うには、初めの主は天御中主と号し、彦瀲に至り、およそ三十二世、皆が「尊」を号として、筑紫城に居住する。
http://members3.jcom.home.ne.jp/sadabe/kanbun/wakoku-kanbun11-sintosho.htm
 

岩木山

 投稿者:秦野北斗  投稿日:2014年10月 2日(木)23時08分1秒
  古事記では佐渡までの記録がある。徐福は青森県小泊村になる。

白村江の戦い後、行基が東北まで航行している模様。行基図に佐渡辺りに止島がある。止島が蝦夷との境界と思われる。
行基の航路と徐福が重なる、徐福は青森県小泊村:岩木山を目指した様だな。
三内丸山遺跡、砂沢遺跡も徐福がらみのヒルコ、ヒルメ。


三内丸山遺跡
三内丸山遺跡(さんないまるやまいせき)は青森県青森市大字三内字丸山にある、縄文時代前期中頃から中期末葉の大規模集落跡。沖館川右岸の河岸段丘上に立地する。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E5%86%85%E4%B8%B8%E5%B1%B1%E9%81%BA%E8%B7%A1

大八島国では佐度島まで記録あり、徐福には青森県小泊村にそれらしき物がある。
(古事記)佐度島(日本書紀)佐度洲
青森県小泊村:岩木山

行基:弘前市桜庭 行基菩薩

砂沢遺跡
砂沢遺跡(すなざわいせき)は、青森県弘前市に所在する弥生時代前期の本州最北端最古の水田跡遺跡である。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A0%82%E6%B2%A2%E9%81%BA%E8%B7%A1
 

済州島

 投稿者:秦野北斗  投稿日:2014年 9月29日(月)22時10分53秒
  済州島(チェジュド、さいしゅうとう)

国産み(くにうみ)とは日本の国土創世譚を伝える神話である。
イザナギとイザナミの二柱の神は天の橋にたち矛で混沌をかき混ぜ島をつくる。そして、『古事記』などではその後2神で島を産んだのである。

徐福が国産み(くにうみ)で済州島に立寄っている。当時は筑紫洲(日本書紀):筑紫島(古事記)で記録される。倭国名:耽牟羅:たむら、屯羅:屯(たむろ)羅:たむら、になる。
舒明天皇(じょめいてんのう)。諱は田村(たむら)。に残る。
済州島は白日別、豊日別、建日向日豊久士比泥別、建日別の4別になる。

垂仁天皇、景行天皇の子に別が見られるが済州島、韓半島に因むと思われる。
当時、卑弥呼は韓半島奪還のため、済州島を基地に争った。中国史籍、万葉集(天智天皇)を見る限り、倭国の一部を奪還している。済州島は白村江まで日本のものであった。

応神天皇(おうじんてんのう)。諱は誉田別尊(ほむたわけのみこと)、誉田別命(ほんだわけのみこと)。

舒明天皇(じょめいてんのう)
舒明天皇(じょめいてんのう、推古天皇元年(593年)? - 舒明天皇13年10月9日(641年11月17日))は、日本の第34代天皇(在位:舒明天皇元年1月4日(629年2月2日) - 舒明天皇13年10月9日(641年11月17日))。諱は田村(たむら)。 和風諡号は息長足日広額天皇(おきながたらしひひろぬかのすめらみこと)。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%88%92%E6%98%8E%E5%A4%A9%E7%9A%87

耽牟羅:たむら
屯羅:屯(たむろ)羅:たむら
舒明天皇。諱は田村(たむら)

済州島:筑紫洲(日本書紀):筑紫島(古事記)
白日別(しらひわけ)
豊日別(とよひわけ)
建日向日豊久士比泥別(たけひむかひとよじひねわけ)
建日別(たけひわけ)

景行天皇(けいこうてんのう、垂仁天皇17年 - 景行天皇60年11月7日)は、『古事記』『日本書紀』に記される第12代天皇(在位:景行天皇元年7月11日 - 同60年11月7日)。和風諡号は大足彦忍代別天皇(おおたらしひこおしろわけのすめらみこと)・大帯日子淤斯呂和氣天皇(古事記)。

櫛角別王(くしつのわけのみこ)
忍之別皇子(おしのわけのみこ、押別命)忍之別皇子
大酢別皇子(おおすわけのみこ)
武国凝別皇子(たけくにこりわけのみこ) - 伊予御村別・和気公等祖
国乳別皇子(くにちわけのみこ)
国背別皇子(くにせわけのみこ、宮道別皇子)
豊戸別皇子(とよとわけのみこ)
豊国別皇子(とよくにわけのみこ) - 日向国造祖
武国皇別命(たけくにこうわけのみこ) - 武国凝別命と同一人か
石社別命(いわこそわけのみこと)
武押別命(たけおしわけのみこと)- 忍之別命と同一人か
曽能目別命(そのめわけのみこと)
襲小橋別命(そのおはしわけのみこと)
色己焦別命(しここりわけのみこと)
手事別命(たごとわけのみこと)
大我門別命(おおあれとわけのみこと)
豊日別命(とよひわけのみこと)
豊手別命(とよてわけのみこと)
大焦別命(おおこりわけのみこと)


 

木花之咲夜比売

 投稿者:秦野北斗  投稿日:2014年 9月26日(金)07時33分35秒
  雛祭り
雛祭り(ひなまつり)は女子のすこやかな成長を祈る節句の年中行事。ひいなあそびともいう。

コノハナノサクヤヒメ(木花之咲夜比売)はウメ=梅の意味。
梅別名:木の花(このはな)

雛壇に「左近の桜、右近の橘」
もとは梅の樹で桓武天皇の平安京遷都のときに植えられたが、承和年間(834年-847年)に枯死したため、仁明天皇のときに梅の代わりに桜を植えた。貞観16年に暴風雨で吹き倒れている。

ウメ(梅、学名:Prunus mume、英:Japanese apricot)

日本における梅の文化
別名に好文木(こうぶんぼく)、春告草(はるつげぐさ)、木の花(このはな)、初名草(はつなぐさ)、香散見草(かざみぐさ)、風待草(かぜまちぐさ)、匂草(においぐさ)などがある。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A6%E3%83%A1

コノハナノサクヤビメ(ヒメ)は、日本神話に登場する女神。一般的には木花咲耶姫と記される。また『古事記』では木花之佐久夜毘売、『日本書紀』では木花開耶姫と表記する。コノハナサクヤビメ、コノハナサクヤヒメ、または単にサクヤビメと呼ばれることもある。『古事記』では神阿多都比売(カムアタツヒメ)、『日本書紀』では鹿葦津姫または葦津姫(カヤツヒメ)が本名で、コノハナノサクヤビメは別名としている。
天照大神(アマテラス)の孫であるニニギノミコト(瓊瓊杵尊、邇邇芸命)の妻。オオヤマツミ(大山積神、大山津見神、大山祇神)の娘で、姉にイワナガヒメ(石長比売、磐長姫)がいる。ニニギ(瓊瓊杵尊、邇邇芸命)の妻として、ホデリ(海幸彦)・ホスセリ・ホオリ(山幸彦)を生んだ。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B3%E3%83%8E%E3%83%8F%E3%83%8A%E3%83%8E%E3%82%B5%E3%82%AF%E3%83%A4%E3%83%93%E3%83%A1

古事記

第1章 コノハナノサクヤヒメ

ある時、ニニギノミコトは、笠沙の岬で、とても麗(うるわ)しく美しい女の人と出会いました。
「あなたは、だれですか。」
と聞くと、
「わたしは、オオヤマツミノカミ(大山津見神)の娘で、名前をカムアタツヒメと申します。またの名をコノハナノサクヤヒメ(木花之咲夜比売)と申します。」
とその美女は答えました。
「あなたには、兄弟がいますか。」
「わたしには、姉がございます。イワナガヒメ(石長比売)と申します。」
「わたしは、あなたと結婚したいと思いますが、どうでしょうか。」
「わたしからは、お答えできません。わたしの父のオオヤマツミノカミがお答えします。」
 

河内郡

 投稿者:秦野北斗  投稿日:2014年 9月23日(火)23時06分38秒
  古代は常陸と奈良が首都。今の関東、関西ですな。
扶桑国は関東、京都(山城)が関西。注)扶桑の名前がないな。
桜川は確認できるのみ。

古事記
クニノトコタチノカミ(国之常立神)
国之常立神:常立之国の神
常陸:常立:日立
河内郡 (茨城県)(こうちぐん) - 常陸国の郡

アメノミナカヌシノカミ(天之御中主神)
倭王、姓は阿毎、阿毎:天
http://members3.jcom.home.ne.jp/sadabe/kanbun/wakoku-kanbun9-zuisho.htm
河内郡 (大阪府)(かわちぐん) - 大阪府の郡

司馬氏の家系から五大夫は鉄鉱を管理する役職になる。
古代の製鉄、踏鞴製鉄(「鑪(たたら)」では松炭が必須のようだな。
始皇帝は五大夫を製鉄の松炭の意味を込め松と言っているぞ。

河内郡

司馬氏(しばし)は、中国の氏のひとつ。著名な者に晋(西晋・東晋)の国姓となった河内郡温県孝敬里のものがある。
司馬は元々軍事をつかさどる官職のことである。この司馬の職にあった者の子孫が司馬の氏を使うことが多い。

後漢代に至り、司馬卭の末裔と称して、河内郡温県孝敬里の名門として家名を存続した司馬氏では、司馬防の男子8人の評判が高く、全員が字に「達」の字を持っていたため「司馬の八達」と呼ばれた。中でも次子の司馬懿が聡明さを以って知られ、曹操より腹心として迎えたいという要請を受けている。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%B8%E9%A6%AC%E6%B0%8F


河内郡 (大阪府)(かわちぐん) - 大阪府の郡
河内郡(かわちぐん)- 栃木県の郡
南河内郡(みなみかわちぐん) - 大阪府の郡
河内郡 (茨城県)(こうちぐん) - 常陸国の郡
河内郡 (河南省)(かないぐん) - 中国の漢代の郡名
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B2%B3%E5%86%85

 

聖徳太子

 投稿者:秦野北斗  投稿日:2014年 9月23日(火)14時41分55秒
  徐福の痕跡が至る所にありますな。

聖徳太子の名は寄集めだな。人名は前に支配地の前後地名、後に業績、由来がくる。
聖徳太子(伊里(利)、伽耶、多弗利)の場合は官位12等級の小徳太子になる。

用明天皇:「阿毎、多利思、比孤」の比孤=彦。徐福の彦=日子=蛭子の末裔。

用明天皇:「阿毎、多利思、比孤」はアメ、テリシ、ヒコ :天照彦

聖徳太子:為利、歌彌、多弗利=伊里(利)、伽耶、多弗利=イリ、カヤ、テフリ

http://homepage2.nifty.com/watcher/hatano10.htm

裡里:益山市(イクサンし)は大韓民国全羅北道の市。旧名は裡里(イリ)市。

伽耶:伽耶(かや)は加羅(から)の現代韓国に於ける表記。また加羅諸国(からしょこく)は、3世紀から6世紀中頃にかけて朝鮮半島の中南部において、洛東江流域を中心として散在していた小国家群を指す。後述のように、広義の任那に含まれるが狭義の任那とは位置が異なる。以下、本文上は加羅で統一する。

乙弗利:美川王(びせんおう、生年不詳 - 331年)は、高句麗の第15代の王(在位:300年 - 331年)。姓は高、諱は乙弗、または憂弗(『三国遺事』では瀀弗)。好壤王(『三国遺事』では好穣王)とも記される。第13代の西川王の子の咄固(先代の烽上王の弟)の子であり、『魏書』高句麗伝には乙弗利という名で現れる。300年9月に先王が廃されて王位に迎えられた。

実聖尼師今:実聖尼師今(じっせい にしきん、生年不詳 - 417年)は、新羅の第18代の王(在位:402年 - 417年)であり、姓は金氏。『三国史記』に拠れば、父は金閼智の子孫の大西知(だいせいち、テソチ)伊飡(2等官)、母は昔氏の登保阿干の娘の伊利夫人(または企利夫人とも記される)、王妃は13代味鄒尼師今の娘の保反夫人。『三国遺事』王暦では実聖麻立干、あるいは実主王、宝金と記され、父を味鄒尼師今の弟の大西知角干(1等官)とし、母を昔氏の登也阿干の娘の礼生夫人、王妃を向留夫人(父系不明)とする。
高句麗に人質として差し出されていたが帰国後、先代の奈勿尼師今が402年2月に薨去したとき、太子を差し置いて国人が推挙して実聖を王位につけたとされる。訥祇麻立干の殺害を依頼した高句麗人に逆に殺害されたとも、高句麗人から害意を聞いた訥祇が殺害したとも。

『隋書』倭国伝

王妻號雞彌、後宮有女六七百人。名太子為利歌彌多弗利。無城郭。内官有十二等:一曰大德、次小德、次大仁、次小仁、次大義、次小義、次大禮、次小禮、次大智、次小智、次大信、次小信、員無定數。有軍尼一百二十人、猶中國牧宰。八十戸置一伊尼翼、如今里長也。十伊尼翼屬一軍尼。

 王の妻は雞彌と号し、後宮には女が六~七百人いる。太子を利歌彌多弗利と呼ぶ。城郭はない。内官には十二等級あり、初めを大德といい、次に小德、大仁、小仁、大義、小義、大禮、小禮、大智、小智、大信、小信(と続く)、官員には定員がない。
 軍尼が一百二十人おり、中国の牧宰(国守)のごとし。八十戸に一伊尼翼を置き、今の里長のようである。十伊尼翼は一軍尼に属す。

『新唐書』日本伝

仲哀が死に、開化の曾孫娘の神功を王とした。次は應神、次は仁德、次は履中、次は反正、次は允恭、次は安康、次は雄略、次は清寧、次は顕宗、次は仁賢、次は武烈、次は継体、次は安閑、次は宣化、次は欽明。

 欽明之十一年、直梁承聖元年。次海達。「次用明、亦曰目*1多利思比孤、」直隋開皇末、始與中國通。次崇峻。崇峻死、欽明之孫女雄古立。次舒明、次皇極。
 其俗椎髻、無冠帶、跣以行、幅巾蔽後、貴者冒錦;婦人衣純色裙、長腰襦、結髮于後。至煬帝、賜其民錦線冠、飾以金玉、文布為衣、左右佩銀?、長八寸、以多少明貴賤。

*1曰目:僧侶
 

東三河と徐福伝説

 投稿者:秦野北斗  投稿日:2014年 9月23日(火)08時50分39秒
  アマテラスを推測する。

奈良に大神神社(おおみわじんじゃ)がある。神:みわ、の該当なし。
どうも、名前のようだな、秦徐福当時渡来した558人に対応させる。
「み」は対応なし。
「わ」片仮名「ワ」の字形: 「和」の旁の草体、一説に、輪の形(○)から。
若人女:湯「和」女、〈神=秦=ゆわ=みわ〉神=秦=三輪=アマテラス

湯:(ゆ) - 鋳造材料(主に鉄、アルミ合金、銅、真鍮などの金属)を融点よりも高い温度で熱して液体にしたもの。

蛭子
童男 :真彦、〈彦=日子=蛭子=恵比寿=ヒルコ〉
童女 :比売女〈比売=日女=蛭女=ヒルメ〉

東三河と徐福伝説

 当時渡来した558人は、秦徐福、一男福永、二男徐方、三男福寿、一女天正
女、二女寿安女、三女安正安、四女次正女、孫一丸、福正女、自蓮女 以上12

男壱人:徐永、得正、藤光、件光、円光、円方、他 計35名
老人女分:清日女、美目女、目永女、貞流女、他 計45名
妻有人男(夫婦者):利益、忠時、要領、能佐、活梢、経京、済明、天雲、光敬、陸
清、 慶山、金明、銀山、鉄山、鉄人、光宝、光清、伝保、清水、孝徳、田主、国
正、信正  吾作、頼光、明仁、一保、二保、正道、玉志 他 計138名
夫有人女(夫婦者):竜永女、天竜女、明永女、小泉女、阿志女、宇志女 他計11
5人若人男(未婚):元定、信永、福元、徳成、健保、彦古、他 計 41名
若人女:阿根女、貞目女、佐加女、要日女、利佐女、湯和女、他 計43名
童男 :真彦、千丸、大丸、忠子、源太、千丸、豊丸、金根子、銀坊、等計51名
童女 :比売女、比久女、与黒女、玉江女、美比女、等48名
合計588名となっているが、数があわない。(528名)」
ということである。


 

神武東征

 投稿者:秦野北斗  投稿日:2014年 9月22日(月)18時31分26秒
  此云阿斯毘苔徒鞅餓離能濔椰の読取りです。添付訳にない。

阿:阿毎は神武天皇

此 ここ
云 い-う、
阿 阿毎 あ:中国史籍に出てくる。
斯 何らかの行為や動作を行うことを表す。
毘 たす-ける
苔 こけら、 新たに建てられた劇場で初めて行われる催しのことである。
徒 いたずら、あだ かえって害になる
鞅 むながい鞍の位置が変わらないようにするために用いる補助具
餓 求めている
離 はな-れ
能 の
濔 ミ
椰 や

ここに言う、阿毎をたす-ける。新たに建てるが、いたずらに位置が変わら求める
はな-れのミや

B4原文:
行至筑紫國菟狹〈菟狹者地名也。此云宇佐。〉時有菟狹國造祖號曰菟狹津彦。菟狹津媛。乃於菟狹川上。造一柱騰宮。而奉饗焉。〈一柱騰宮。此云阿斯毘苔徒鞅餓離能瀰椰。〉是時、勅以菟狹津媛、賜妻之於侍臣天種子命。天種子命、是中臣氏之遠祖也。
十有一月丙戌朔甲午。天皇至筑紫國崗水門。
十有二月丙辰朔壬午。至安藝國。居于埃宮。

B4釈文:
行きて筑紫國菟狹に至りたまふ。〈菟狹は地名なり。此には宇佐と云ふ。〉時に菟狹國造の祖有り、號けて菟狹津彦・菟狹津媛と曰ふ。乃ち菟狹川の上に一柱騰宮を造りて饗奉る。〈一柱騰宮、此には阿斯毘苔徒鞅餓離能瀰椰と云ふ。〉
是の時に、勅して菟狹津媛を以ちて、侍臣天種子命に賜妻せたまふ。天種子命は是中臣氏が遠祖なり。
十有一月の丙戌の朔にして甲午に、天皇、筑紫國の崗水門に至ります。
十有二月の丙辰の朔にして壬午に、安藝國に至り埃宮に居します。

http://f-kowbow.com/ron/lekishi13/lekishi13.htm

 

読取りは各漢字

 投稿者:秦野北斗  投稿日:2014年 9月20日(土)02時24分20秒
  豊雲野神(トヨクモノカミ)で説明しましょう。

古事記、日本書紀ともに(とよぐもぬのかみ)の表記がある。
古事記:豊雲野神、日本書紀:豊斟渟尊
読取りは各漢字を訓読みに対応させる。名詞、動詞、形容詞が混在するので注意
神の名の場合は日本の古地名、産物、例え、が混ざる。

古事記:豊雲野神(とよぐもぬのかみ)
豊=豊前国、豊後国、雲野=宇野   福岡(豊)から岡山(宇野)

日本書紀:豊斟渟尊(とよぐもぬのみこと)
豊=豊前国、豊後国、斟(酒盛り(斟浅))、渟(留まる)
斟(酒盛り(斟浅))、渟(留まる):出雲は酒の産地に由来:産物で示している。
斟渟=出雲=酒
豊宇野(豊酒)の神=出雲国(とよぐもぬのかみ)
福岡(豊)から岡山(宇野)出雲は酒の産地

古事記:国之常立神(くにのとこたちのかみ)
日本書紀:国常立尊(くにのとこたちのみこと)
常=常国、立=立国は該当なし。日立=日が立つ、日が昇る?
古名、常陸=日立に対応する。常立=常陸=日立=常陸国
日=日本、陸=陸奥。大八島国で大日本豐秋津洲(静岡・八丈島)、陸奥までになる。

地名が残るものと消滅があり文章から読取ることになる。2200年前の話しですから。
秦野著書:徐福と邪馬台国は魏志倭人伝の解説書ですな。最近ですが著書の京師に遺跡
があり、高句麗遺跡に該当する。壁画はキトラ、高松塚とほぼ同一、キトラ、高松塚は
卑弥呼の重臣の墓の様だな。
歴韓国は百済弥勒寺、白村江で倭国の模様。見方により、万葉集からも読み解ける。


古事記 .第1章 神々の出現

その後、クニノトコタチノカミ(国之常立神)とトヨクモノカミ(豊雲野神)の二柱の神様が独身で現れました。その次からは、ご夫婦の神として五組の神々が現れました。そのうちの最後に現れましたのは、イザナギの神と(伊耶那岐命=イザナギノミコト)とイザナミの女神(イザナミノミコト=伊耶那美命)のご夫婦の神様です。(以上、クニノトコタチの神からイザナミの女神までを「神代七代(かみよななよ)」といいます。※ご夫婦の神は、二柱で一代です。)

 

東三河と徐福

 投稿者:maeda  投稿日:2014年 9月19日(金)11時49分29秒
  秦野北斗さんの、首記関連情報は、神名と地域の関連付けという面で、新情報です。
興味深い内容ですが、関連付けの根拠が、いまひとつ理解できません。
どのような文献あるいは法則によっているのでしょうか。
差し支えなければお教えください。
 

東三河

 投稿者:秦野北斗  投稿日:2014年 9月16日(火)21時57分43秒
  徐福の痕跡を追ってみる。疑問があれば知っている読める範囲で答えたい。

早速ですが、東三河から読み解く。古事記の神の名には地名が含まれる。
東三河には宇摩志阿斯訶備比古遅神(ウマシアシカビヒコジノカミ)が該当しそうだ。

宇摩志阿斯訶備比古遅神、読みは宇志摩阿を叱るよき舅神。

宇志摩阿:宇志摩=宇気、志摩。阿(あゆち:愛知)あゆち:阿湯地 湯:鉄
=宇気(伊勢志摩)、愛知=美し国(うましくに)
阿(あゆち:愛知)は徐福と渡来した司馬氏が鉄の生産地にした模様。

美し国(うましくに)は万葉集にある。
大和には・・海原は かまめ立ち立つ うまし国ぞ・・。
どうも、かまめ立ち・・は高炉で鉄の国・・?。

舒明天皇の歌
「大和には 群山あれど とりよろふ 天の香具山 登り立ち 国見をすれば 国原は 煙り立ち立つ 海原は かまめ立ち立つ うまし国ぞ あきづ島 大和の国は」 (巻1-2)

原文「山常庭村山有等取與呂布天乃香具山騰立國見乎為者國原波煙立龍海原波加萬目立多都怜(忄可)國曽蜻嶋八間跡能國者」

伊勢、志摩の古名はうまし国(宇摩志阿国)になる。阿(あゆち:愛知)愛知ので原文には阿らしき字がみられる。

徐福のころは宇摩志阿国である。舒明天皇の頃は伊勢である。
舒明天皇のうまし国は日本にない。あるとすれば倭国(韓半島)になる。

伊勢の古名は宇気で伊勢神宮から伊勢に改名されたと思われる。卑弥呼に由来する模様。
古代ヘブライ語で、「伊勢」は「イーシュ」と発音し、「救い主」という意味をもつそうです。


徐福(じょふく)とは、中国の秦朝(紀元前3世紀頃)の方士。斉国の琅邪の出身。別名は徐?(じょふつ)。子に福永・福万・徐仙・福寿がいるという。

東方の三神山とは、蓬莱・方丈・瀛州(えいしゅう)のことである。蓬莱山についてはのち日本でも広く知られ、『竹取物語』でも「東の海に蓬莱という山あるなり」と記している。「方丈」とは神仙が住む東方絶海の中央にあるとされる島で、「方壷(ほうこ)」とも呼ばれる。瀛州はのちに日本を指す名前となった。「東瀛(とうえい)」ともいう。魏晋南北朝時代の487年、「瀛州」は、行政区分として制定される。

徐福は佐賀の筑後川(菟寸河(とのきがは))に上陸。その後、筑後川を下り宮崎に上陸

古事記 1章 神々の出現
昔むかし、この世界で最初に天に現れましたのは、アメノミナカヌシノカミ(天之御中主神)という神様でした。次に、タカミムスビノカミ(高御産巣日神)とカミムスビノカミ(神産巣日神)という神様が出現なさいました。この三柱(みはしら。※神様の数は、「柱」で数えます。)の神様は、そのお姿を地上には、直接現しませんでした。
その次に、日本の国がまだ海に浮かぶ脂のごとく、くらげのようにただよっていた時に葦(あし)の芽が萌え上がるように現れたのは、ウマシアシカビヒコジノカミ(宇摩志阿斯訶備比古遅神)とアメノトコタチ(天之常立神)という神様でした。これらの五柱の神様は、コトアマツカミ(別天つ神)といって、それぞれ独身(ひとりみ)で現れた天の神様たちです。
その後、クニノトコタチノカミ(国之常立神)とトヨクモノカミ(豊雲野神)の二柱の神様が独身で現れました。その次からは、ご夫婦の神として五組の神々が現れました。そのうちの最後に現れましたのは、イザナギの神と(伊耶那岐命=イザナギノミコト)とイザナミの女神(イザナミノミコト=伊耶那美命)のご夫婦の神様です。(以上、クニノトコタチの神からイザナミの女神までを「神代七代(かみよななよ)」といいます。※ご夫婦の神は、二柱で一代です。)


天之御中主神(アメノミナカヌシノカミ)
高御産巣日神(タカミムスビノカミ)
神産巣日神(カミムスビノカミ)
①宇摩志阿斯訶備比古遅神(ウマシアシカビヒコジノカミ)
②天之常立神(アメノトコタチ)
③豊雲野神(トヨクモノカミ)
④伊弉諾尊、伊耶那岐命(イザナギノミコト)
⑤伊弉冉尊、伊邪那美神(イザナミノミコト)

古代の国名の読み取り。読取りは一部にする。

①国之常立神、常立=常陸=日立=常陸国
②宇志摩阿斯訶備比古遅神:可美葦牙彦舅尊、宇志摩阿を叱るよき舅神
宇志摩=宇気、志摩、阿(あゆち:愛知)あゆち:阿湯地 湯:鉄
=宇気(伊勢志摩)、愛知=美し国(うましくに)
③豊雲野神豊=豊前国、豊後国、雲野=宇野、豊宇野の神=出雲国
④-1伊弉諾尊、伊=意志を伝える聖職者、弉=大きく堂々、諾=よし、承知する。
徐福、聖職者、大きく堂々と承知する。
④-2伊耶那岐命、伊=意志を伝える聖職者邪=瑯邪(ろうや) 、那=ゆったりとして、
岐=わかれる。
徐福、聖職者、瑯邪ゆったりわかれる。黄泉で二手に分かれている。
⑤-1伊弉冉尊、冉=長くたれた髭
司馬氏、聖職者、大きく堂々と長くたれた髭
⑤-2伊邪那美神、美=よいと認める。
司馬氏、聖職者、瑯邪ゆったりよいと認める。


 

ようこそ秦野さん

 投稿者:maeda  投稿日:2014年 9月16日(火)14時40分40秒
  いろいろ、雑音情報が続いていたのですが、
久しぶりに、掲示板をみたところ、貴兄の記載がありました。
興味深いテーマなので、表示させていただきます。
渡来した、人名から何か情報がひきだせるなら、是非投稿してください。
期待しております。
尚、明日9月17日、神奈川徐福研究会で、九州の徐福伝承の講演会があります。
ではまた。
 

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