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澶洲

 投稿者:秦野北斗  投稿日:2015年 6月 8日(月)17時24分58秒
  澶洲の港名は茅渟(ちぬ)の海

モンタヌスの絵は南蛮屏風と比較するかぎり、ほぼ情景を模写している。

アルノルドゥス・モンタヌス(Arnoldus Montanus、1625年 - 1683年)は、オランダの宣教師、歴史学者。
世界中の地理歴史についての書物を多数著した。日本に関しては、1669年著の『東インド会社遣日使節紀行』(通称「日本誌」 独:Gedenkwaerdige Gesantschappen der Oost-Indische Maetschappy aen de Kaisaren van Japan)がある。ただし、自身は一度も来日しておらず、イエズス会士の報告書や、使節の江戸参府紀行に基づいて著したとされる。

南蛮屏風
安土桃山時代 16世紀末期~17世紀初期 狩野内膳筆
 

澶洲の港名は茅渟(ちぬ)の海

 投稿者:秦野北斗  投稿日:2015年 6月 8日(月)17時22分8秒
  澶洲の港名は茅渟(ちぬ)の海

モンタヌスの絵は南蛮屏風と比較するかぎり、ほぼ情景を模写している。

アルノルドゥス・モンタヌス(Arnoldus Montanus、1625年 - 1683年)は、オランダの宣教師、歴史学者。
世界中の地理歴史についての書物を多数著した。日本に関しては、1669年著の『東インド会社遣日使節紀行』(通称「日本誌」 独:Gedenkwaerdige Gesantschappen der Oost-Indische Maetschappy aen de Kaisaren van Japan)がある。ただし、自身は一度も来日しておらず、イエズス会士の報告書や、使節の江戸参府紀行に基づいて著したとされる。

南蛮屏風
安土桃山時代 16世紀末期~17世紀初期 狩野内膳筆
 

浮盃

 投稿者:秦野北斗  投稿日:2015年 5月29日(金)23時38分0秒
  徐福は扶木を目印に有明海に入り、筑後川の浮盃(ぶばい)に上陸。
尚、扶木は浮盃の東対岸にあり、盃は1km流れている。

浮盃は古代の港で日本名は寺井津のようです。
「浮盃」佐賀県佐賀市諸富町大字寺井津

山海経
大荒之中 有山名曰孽搖頵羝 上有扶木 柱三百里 其葉如芥 有谷曰?源谷 湯谷上有扶木 一日方至 一日方出 皆載於烏
『山海経』海経巻9 第14 大荒東經
秦野訳
大荒(辺境)の中に孽搖頵羝(げつよういんてい)という山があり、山の上に扶木がある。
柱:柱型日時計300里(16km)その葉はカラシナに似る。温源谷(雲仙)という谷があり、湯谷(徳富(諸富))の上に扶木がある。どうして、日の入り、日の出を巡らす。半径16kmの日時計になっている。
温源wēnyuánウンエン:雲仙
湯谷tānggǔタゥクゥ:徳富トクフ(諸富)

史記正義
張守節『史記正義』では、
海外經云 湯谷在黑齒北 上有扶桑木 水中十日所浴 張揖云 日所出也 許慎云 熱如湯『史記』巻114司馬相如列傳 第57 「湯谷」の注
秦野訳
海外經云 黑齒国の北に湯谷(徳富(諸富))あり。その上、浴む(あむ)ところ、水のなか十日に扶桑木あり。張揖によると日の出の場所なり、許慎によると熱き湯のようである。
黑齒国は浮盃から雲仙谷の延長線上の沖縄になる。魏志倭人伝も同様の位置になる。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%89%B6%E6%A1%91

 

徐福が上陸した港

 投稿者:秦野北斗  投稿日:2015年 5月10日(日)20時28分27秒
  徐福東渡2225周記念 徐福長寿館開館20周年記念[徐福論文
手違いで紛失した模様、発表は未定

『後漢書』倭人伝に徐福

 會稽海外有東鯷人、分為二十餘國。又有夷洲及澶洲。傳言秦始皇遣方士徐福將童男女數千人、入海求蓬萊神仙不得、徐福畏誅不敢還、遂止此洲。世世相承有數萬家、人民時至會稽市。會稽東冶縣人有入海行遭風、流移至澶洲者。所在絶遠、不可往來。

澶洲を発見しました。

澶洲の港名は茅渟(ちぬ)の海で堺に存在する。大阪湾ではない。
徐福が上陸した港になる。
http://dictionary.goo.ne.jp/leaf/jn2/142121/m0u/
 

銅鐸(どうたく)紀元前2世紀

 投稿者:秦野北斗  投稿日:2015年 3月31日(火)19時59分18秒
  銅鐸(どうたく)は、弥生時代に製造された釣鐘型の青銅器である。紀元前2世紀から2世紀の約400年間にわたって製作、使用された。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%8A%85%E9%90%B8

銅鐸は、秦の始皇帝からその命を受けた「徐福」に始まり、卑彌呼で終わったな。
終止符は日本書記に「禮祭神祇、剋己勤躬、日愼一日。是以、人民富足、天下太平也」

銅鐸行事が祭りに変化した様だな。注意することは、古墳と重なることは無い。

「徐福伝説」
その伝説とは、 紀元前219年、秦の始皇帝の時代に童男童女500人を含め総勢3000人の集団を引き連れ、仙人と不老不死の仙薬を求めて中国大陸から東方の桃源郷日本へ旅立った一団がいた。それを先導したのが秦の始皇帝からその命を受けた「徐福」である。というものだ。
http://inoues.net/mystery/jyofuku.html

卑彌呼
其國本亦以男子為王、住七八十年、倭國亂、相攻伐歴年、乃共立一女子為王、名曰卑彌呼、事鬼道、能惑衆、年已長大、無夫婿、有男弟佐治國。自為王以來、少有見者。以婢千人自侍、唯有男子一人給飲食、傳辭出入。居處宮室樓觀、城柵嚴設、常有人持兵守衛。
________________________________________
 その国、本は男性を王としたが、七、八十年で中断し、倭国は擾乱、互いの攻伐が何年も続くに及んで一人の女性を王として共立した。名を卑彌呼といい、鬼道(五斗米道の教え)に従い、(呪術で)よく衆を惑わす。年齢は既に高齢で夫はなく、弟がいて国の統治を補佐した。王位に就いて以来、会えるものは少なく。婢(下女)が千人、その側に侍り、ただ一人の男性が食事を給仕し、伝辞のため出入する。居住する宮殿や楼観、城柵は厳重に設けられ、常に武器を持った守衛がいる。
http://yamatonokuni.seesaa.net/article/32582582.html

活目入?五十狹茅天皇 垂仁天皇
廿五年春二月丁巳朔甲子、詔阿倍臣遠?武渟川別・和珥臣遠??國葺・中臣連遠?大鹿嶋・物部連遠?十千根・大伴連遠?武日、五大夫曰「我先皇御間城入?五十瓊殖天皇、惟叡作聖、欽明聰達、深執謙損、志懷沖退、綢繆機衡、禮祭神祇、剋己勤躬、日愼一日。是以、人民富足、天下太平也。今當朕世、祭祀神祇、豈得有怠乎。」
http://www.seisaku.bz/nihonshoki/shoki_06.html
 

徐福と日本Ⅱ

 投稿者:maeda  投稿日:2015年 2月24日(火)14時11分11秒
  「徐福と日本Ⅱ~各種資料が語り始めた徐福の実像~」がアマゾン電子書籍「Kindle」版で発刊(2015.02.20)されました。
「徐福と日本~日本列島の徐福伝承を徹底検証~」と合わせて読むと、日本の歴史において徐福は隠されてきたが、その存在が、如何に重要であるか判ると思われます。
 

三角縁神獣車馬鏡

 投稿者:秦野北斗  投稿日:2015年 2月21日(土)21時10分53秒
  どうも訳がまとまらないでうな。お手数ですが、適切と主割れすものを採用してください。

銘文の高官は卑弥呼の高官だろう。

陳氏作鏡用青同 上有仙人不知老 君冝高官 保子冝孫長壽
http://www.ne.jp/asahi/isshun/original/mater10.html

秦野訳

陳寿、青銅を用い鏡を造る。神、仙人在り、君(卑弥呼)の宜しき高官、おい (老)を知らず。
保子(開花天皇)の宜しき孫(卑弥呼)は長寿なり。
 

三角縁神獣車馬鏡

 投稿者:秦野北斗  投稿日:2015年 2月21日(土)20時45分23秒
  いきなり訂正です。

陳寿、青銅を用い鏡を造る。神在り、君(卑弥呼)の宜しき高官、仙人不老を知らず。
保子(開花天皇)の宜しき孫(卑弥呼)は長寿なり。



三角縁神獣車馬鏡を訳すと徐福の仙人、長壽が見られる。

陳氏作鏡(用青同) 三角縁神獣車馬鏡

出土場所
岡山県岡山市湯迫 車塚古墳
群馬県藤岡市三本木 古墳
山梨県東八代郡中道町下曽根 銚子塚古墳
福岡県福岡市 藤崎遺跡6号方形周溝墓
琵琶湖文化館蔵

銘文の高官は卑弥呼の高官だろう。

陳氏作鏡用青同 上有仙人不知老 君冝高官 保子冝孫長壽
http://www.ne.jp/asahi/isshun/original/mater10.html

秦野訳

陳寿、青銅を用い鏡を造る。神在り、君(卑弥呼)の宜しき高官、仙人不老を知らず。
保子(開花天皇)の宜しき孫(卑弥呼)は長寿なり。
 

三角縁神獣車馬鏡

 投稿者:秦野北斗  投稿日:2015年 2月21日(土)20時30分18秒
  三角縁神獣車馬鏡を訳すと徐福の仙人、長壽が見られる。

陳氏作鏡(用青同) 三角縁神獣車馬鏡

出土場所
岡山県岡山市湯迫 車塚古墳
群馬県藤岡市三本木 古墳
山梨県東八代郡中道町下曽根 銚子塚古墳
福岡県福岡市 藤崎遺跡6号方形周溝墓
琵琶湖文化館蔵

銘文の高官は卑弥呼の高官だろう

陳氏作鏡用青同 上有仙人不知老 君冝高官 保子冝孫長壽
http://www.ne.jp/asahi/isshun/original/mater10.html

秦野訳

陳寿、青銅を用い鏡を造る。神在り、君(卑弥呼)の宜しき高官 (老)、仙人を知らず。
保子(開花天皇)の宜しき孫(卑弥呼)は長寿なり。

 

徐福と日本

 投稿者:maeda  投稿日:2015年 2月 8日(日)14時52分46秒
  「徐福と日本」_日本列島の徐福伝承を徹底検証 が電子書籍「Kindle」版で発刊(2015.01.19)されました。

 カストマーレポートでは以下のとおりですので、ご参照ください。

 日本の弥生時代が、どのような人々によって開拓されていったか、日本各地の徐福伝承をレビューする、貴重な情報提供書籍である。
 この本は、日本人のルーツを探る著者の探究心から、日本列島に存在するかすかな徐福情報を発見し、整理されており、徐福研究者はもとより、一般の歴史研究者にも役立つ情報が満載されている。
 徐福が、何故「蓬莱の国日本を目指したか」という根拠が、東三河の3神山に隠されていることが分かる。
 邪馬台国の時代を400年、さかのぼる初期の弥生時代の日本を解明する必読の書であろう。
 

古事記

 投稿者:秦野北斗  投稿日:2015年 1月 3日(土)10時22分45秒
  2015年は古代史の転機ですな。

この文章が古事記の冒頭になるとは、誰も信じないだろうな。

遂止此洲:遂にこの島に留まった。秦野訳:この島に留まり遂げる。
「この島」は何処の島かが最大の問題ですな。
伊都岐島(いつくしま)なんですな。伊都岐島神社:厳島神社

『後漢書』倭人伝

 會稽海外有東鯷人、分為二十餘國。又有夷洲及澶洲。傳言秦始皇遣方士徐福將童男女數千人入海、求蓬萊神仙不得、徐福畏誅不敢還、「遂止此洲」、世世相承、有數萬家。人民時至會稽市。會稽東冶縣人有入海行遭風、流移至澶洲者。所在絶遠、不可往來。

 会稽の海の外に東鯷人があり、二十余国に分かれている。また、夷洲および澶洲がある。伝承によると、秦の始皇帝が方士の徐福を遣わし、数千人の少年少女を連れて海に入った。蓬萊山の神仙を探し求めたが、出会えず、徐福は誅罰を畏れて敢えて帰らず、遂にこの島に留まった。代々に相伝し、数万家を有した。人民は時に会稽に至り交易する。会稽東冶県の人が海に入って航行し風に遭い、漂流して澶洲に至る者がいる。絶海の遠地に在り、往来すべきではない。
http://members3.jcom.home.ne.jp/sadabe/kanbun/wakoku-kanbun2-gokan.htm
 

迎春

 投稿者:maeda  投稿日:2015年 1月 2日(金)14時06分18秒
  新年明けましておめでとうございます。
新年早々の積雪を体験し、驚いているところです。
今年もいろいろなことが起こるでしょうが、体験することに意義を見つけたいと思っています。
邪馬台国、徐福、それ以前の歴史から、現代の人類の行く末を見通すことが、ひとつの楽しみです。
昨年は、妙な行きがかりから、先古代史の運営を引き受けることになりました。
また、電子出版という広報手段があることに気付きました。
今年も、元気で活動していきたいと思います。
では、お元気でスタートしましょう。
 

済州島

 投稿者:秦野北斗  投稿日:2014年12月29日(月)13時34分15秒
  済州島は徐福の頃は4つの別に分かれていた。

隋書では2国で耽牟羅国、貊国なのですな・・。

『隋書』百済伝

其南、海行三月有耽牟羅國、南北千餘里、東西數百里、土多獐鹿、附庸於百濟。西行三日、至貊國千餘里云。

 その南、海行三カ月に耽牟羅国(済州島)があり、南北に千余里、東西に数百里、土地は獐鹿(ヘラ鹿の一種)が多く、百済に従属している。西に行くこと三日、貊国に到るに千余里という。

http://members3.jcom.home.ne.jp/sadabe/kanbun/kudara-kanbun7-zuisho.htm
 

『古事記』帝紀

 投稿者:秦野北斗  投稿日:2014年12月23日(火)21時12分26秒
  『古事記』帝紀

帝は殷代に起源を有する王号・・。紀元前17世紀になる。
古事記は紀元前17世紀からの記録。

古事記の1500年の意味
アマテラスオオミカミは「千五百年も長く続いている、・・・」
殷代の紀元前17世紀、から千五百年を引くと紀元前2世紀になる。
アマテラスオオミカミは紀元前2世紀の人になるな。

徐福の童男童女
『古事記』においては天照大御神(あまてらすおおみかみ)、『日本書紀』においては天照大神(あまてらすおおかみ、あまてらすおおみかみ)と表記される。別名、大日孁貴神(おおひるめのむちのかみ)。神社によっては大日女尊(おおひるめのみこと)、大日霊(おおひるめ)、大日女(おおひめ)とされている。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E7%85%A7%E5%A4%A7%E7%A5%9E

古事記
第1章 アメノワカヒコとキジ
さて、アマテラスオオミカミは、
「千五百年も長く続いている、この豊かな葦原の水穂の国(あしはらのみずほのくに=日本の国)は、わたしの息子であるアメノオシホミミノミコト(天忍穂耳命)が治める国です。」
http://www15.plala.or.jp/kojiki/kuniyuzuri/kuniyuzuri_01.html

帝紀と旧辞
『古事記』は帝紀的部分と旧辞的部分とから成る。
『帝紀』は初代天皇から第33代天皇までの名、天皇の后妃・皇子・皇女の名、及びその子孫の氏族など、このほか皇居の名・治世年数・崩年干支・寿命・陵墓所在地、及びその治世の主な出来事などを記している。これらは朝廷の語部(かたりべ)などが暗誦して天皇の大葬の殯(もがり)の祭儀などで誦み上げる慣習であったが、6世紀半ばになると文字によって書き表されたものである。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%A4%E4%BA%8B%E8%A8%98

夏(か、紀元前2070年頃 - 紀元前1600年頃 [紀元前2000年頃からとする説もある])は、中国最古と伝承される王朝。夏后ともいう。夏・殷・周を三代という。『史記』『竹書紀年』など中国の史書には初代の禹から末代の桀まで14世17代、471年間続いたと記録されている。殷に滅ぼされた。従来、伝説とされてきたが、近年、考古学資料の発掘により実在可能性が見直されてきている。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%8F_(%E4%B8%89%E4%BB%A3)

殷(いん、ピン音:yīn、紀元前17世紀頃 - 紀元前1046年)は、中国の王朝である。殷代(いんだい、yīn dài)とも。文献には夏を滅ぼして王朝を立てたとされ、考古学的に実在が確認されている中国最古の王朝である。最終的に紀元前11世紀に周に滅ぼされた。商(しょう、shāng)、商朝とも呼ばれる。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AE%B7
 

夷州

 投稿者:秦野北斗  投稿日:2014年12月 5日(金)08時07分55秒
  時代は下り三国時代の『臨海水土志』の中に「夷州在浙江臨海郡的東南,離郡二千里,土地無霜雪,草木不枯,四面皆山,衆山夷所居。山頂有越王射的正白,乃是石也。...部落間互不相属,各号為王,分割土地...」という記載があり、この場合の夷州は台湾を指すものと考えられる。しかし孫権伝説の中に、「夷州亶州在海中,長老伝言,秦始皇遣方士徐福将男童女数千人入海,求蓬萊及仙薬...」という記載もあり、地名としての夷州が台湾を指す言葉として確定してはいなかったとも思われる。しかし、『臨海水土志』には別に、

夷洲在臨海東南、去郡二千里。土地無霜雪、草木不死。四面是山谿。人皆?髮穿耳、女人不穿耳。土地饒沃、既生五穀。又多魚肉。有犬、尾短如麕尾状。此夷舅姑子婦臥息共一大牀、略不相避。地有銅鐵、唯用鹿格爲矛以戰闘、摩礪青石以作(弓)矢鏃。取生魚肉雜貯大瓦器中、以鹽鹵之、歴月所日、乃啖食之、以爲上肴

http://ja.yourpedia.org/wiki/%E5%8F%B0%E6%B9%BE

秦野が中国文を訳します。

「夷州在臨海東南、離郡二千里、土地無霜雪、草木不枯、四面皆山、衆山夷所居。山頂有越王射的正白、乃是石也。」

夷州の臨海から東南。郡から二千里、土地は霜雪なく草木は枯れず、四方みな山、人は山を夷(なら)した所に暮らす。山頂を盛んに超えるのは、まさに白い石なり。注)王射=旺射の様だな

夷州在臨海:博多湾
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%9A%E5%A4%9A%E6%B9%BE

離郡二千里:106km
末廬國は郡で末廬國郡(博多)から106km阿蘇山になる。

夷州には台湾説がある。台湾の臨海から106kmは玉山(ぎょくざん、)になるが、情景が合わない。大屯山(だいとんざん)も同様である。台湾説は間違いになる。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8E%89%E5%B1%B1_(%E5%8F%B0%E6%B9%BE)
 

夷州と亶州

 投稿者:秦野北斗  投稿日:2014年11月19日(水)07時09分35秒
  夷州・亶州は東の夷州・亶州(今の台湾・沖縄諸島)は間違いである。

孫権が陸遜の反対にもかかわらず、衛温・諸葛直に1万を与え、夷州と亶州の捜査を行わせた。

その後、孫権は遼東の公孫淵に使者を送って魏を挟撃しようとしたが失敗した。また、東の夷州・亶州(今の台湾・沖縄諸島)に探索と人を集めさせに衛温・諸葛直と兵1万を派遣したが、亶州には辿り着けず、夷州から数千人の住民を連れ帰っただけに終わった。

孫権は229年(黄龍元年)に呉王朝の初代皇帝に即位した。即位の翌年、陸遜の反対にもかかわらず、衛温・諸葛直に1万を与え、夷州と亶州の捜査を行わせた。夷州から数千人を連行するも、この捜査は失敗に終わり、孫権は、衛温・諸葛直を処刑した。233年3月、顧雍・陸遜・張昭ら重臣の諫止を聞かず、公孫淵の内通を真実と信じ、張彌・許晏・賀達らに九錫の礼物と策命書を携え兵1万を動員した。結果は家臣の予想通り、公孫淵は孫権が派遣した使者を斬り、恩賞を奪った上で魏に寝返ってしまった。激怒した孫権は自ら公孫淵征伐を行おうとしたが、薛綜ら側近達の諫止により思いとどまった。その後、公孫淵が魏に対して挙兵し、孫権に援軍を求めると、援軍として孫怡を派遣し、魏の張持を破るも、公孫淵は魏に討たれた。また佞臣とされる呂壱を側近として重用したり(後に悪事が露見して処刑)、王表という神を信じて福を求めたりするなどの失敗が目立つようになった。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AD%AB%E6%A8%A9

画文帯神獣 呉鏡
平縁神獣鏡赤烏元年(238年)狐塚古墳山梨県三珠町
平縁神獣鏡赤烏七年(244年)安倉高塚古墳兵庫県宝塚市

http://www.marino.ne.jp/~rendaico/jinsei/yamataikoku/kagamico.htm
 

徐福と邪馬台国

 投稿者:秦野北斗  投稿日:2014年11月11日(火)23時17分18秒
  『後漢書』倭人伝に邪馬臺國、秦の始皇帝が夷洲および澶洲に方士の徐福を遣わし・・。

秦野は古代の佐賀を古事記、日本書記で説明し、魏志倭人伝の行程・・。
まあ、原稿が審査を通過するかが問題ですが・・。
九州は邪馬台国ではピリピリしている。気にかかるところです。

『後漢書』倭人伝

 倭在韓東南大海中、依山島為居、凡百餘國。自武帝滅朝鮮、使驛通於漢者三十許國、國皆稱王、世世傳統。其大倭王居邪馬臺國。樂浪郡徼去其國萬二千里、去其西北界拘邪韓國七千餘里。其地大較在會稽東冶之東、與朱崖、儋耳相近、故其法俗多同。

 倭は韓の東南、大海中の山島に拠って暮らす。およそ百余国。前漢の武帝が朝鮮を滅ぼしてより、漢に使訳(使者と通訳)を通じてくるのは三十国ほど。国では皆が王を称することが代々の伝統である。そこの大倭王は邪馬臺国に居する。楽浪郡の境界から、その国までは一万二千里。その西北界の拘邪韓国から七千余里。その地は凡そ会稽郡東冶の東に在り、(海南島の)朱崖や儋耳と相似しており、その法俗も多くが同じである。

會稽海外有東鯷人、分為二十餘國。又有夷洲及澶洲。傳言秦始皇遣方士徐福將童男女數千人入海、求蓬萊神仙不得、徐福畏誅不敢還、遂止此洲、世世相承、有數萬家。人民時至會稽市。會稽東冶縣人有入海行遭風、流移至澶洲者。所在絶遠、不可往來。

会稽の海の外に東鯷人があり、二十余国に分かれている。また、夷洲および澶洲がある。伝承によると、秦の始皇帝が方士の徐福を遣わし、数千人の少年少女を連れて海に入った。蓬萊山の神仙を探し求めたが、出会えず、徐福は誅罰を畏れて敢えて帰らず、遂にこの島に留まった。代々に相伝し、数万家を有した。人民は時に会稽に至り交易する。会稽東冶県の人が海に入って航行し風に遭い、漂流して澶洲に至る者がいる。絶海の遠地に在り、往来すべきではない。

http://members3.jcom.home.ne.jp/sadabe/kanbun/wakoku-kanbun2-gokan.htm
 

論文期待しています

 投稿者:maeda  投稿日:2014年11月11日(火)18時07分16秒
  小生も、東海関東の徐福情報ということで、投稿しました。
いろんな説が出されるでしょうから、楽しみです。
ご検討を期待しています。
 

徐福論文

 投稿者:秦野北斗  投稿日:2014年11月10日(月)06時57分41秒
  先日、NPO法人佐賀県徐福会から手紙が届きました。

徐福東渡2225周記念 徐福長寿館開館20周年記念[徐福論文]募集

秦野も徐福を研究していますので投稿します。

フォーラム開催及び最優秀、優秀作品報告書:平成27年5月予定

論文は掲示板の内容を一部含みます。多くの議論ですな

魏志倭人の佐賀ルート
韓半島の地図(馬韓、弁韓、辰韓、倭国)
佐賀ルートの工程図(帯方群から邪馬台国(奈良))
扶桑木の情景(徐福の佐賀入港情景)創作

問題点があれば教授お願いいたします。
 

琅邪(山東省臨沂市付近)から三万里、君子国 2

 投稿者:秦野北斗  投稿日:2014年11月 4日(火)12時35分17秒
  琅邪から君子国、不死国(奈良)までを実測

『後漢書』東夷伝に琅邪から君子国、不死国(奈良)

琅邪は臨沂市  東方三万里(里単位は秦野距離:1600km)で奈良になる。
君子国:礼儀や徳義の厚い国。古代中国で、東方にあったとされる国。

「山海経」に興味深い記述がある。琅邪(山東省臨沂市付近)から三万里、君子国。
琅邪は臨沂市を意味する。臨沂市から東方三万里(里単位は秦野距離)で奈良になる。
秦野距離は実測に基づく距離、秦野著書、徐福と邪馬台国参照。

 

琅邪(山東省臨沂市付近)から三万里、君子国

 投稿者:秦野北斗  投稿日:2014年11月 3日(月)15時55分19秒
  『後漢書』東夷伝に琅邪から君子国、不死国(奈良)

琅邪は臨沂市  東方三万里(里単位は秦野距離:1600km)で奈良になる。
君子国:礼儀や徳義の厚い国。古代中国で、東方にあったとされる国。

「山海経」に興味深い記述がある。琅邪(山東省臨沂市付近)から三万里、君子国。
琅邪は臨沂市を意味する。臨沂市から東方三万里(里単位は秦野距離)で奈良になる。
秦野距離は実測に基づく距離、秦野著書、徐福と邪馬台国参照。

『後漢書』東夷伝に以下のように記されている
『礼記』王制篇に「東方のことを夷という。夷とは根本の意味である」とあり、その意味は「恵み育て生命を尊重することで、万物は土地に根ざしてできるものである」となる。そのため、東夷諸民族は生まれつきが従順で、道理をもってすれば容易に治められるといい、君子の国や不死の国があるとさえいわれる。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E5%A4%B7

東夷(とうい)
日本では「夷」をえびす、えみし、ころす、たいらげる、と訓読させた。「蝦夷(えぞ)」や「東夷(あずまえびす)」などにその用法が見られる。またみやこから遠くはなれた未開の土地の風俗(田舎ふう)をさす夷曲(ひなぶり)として、上代の歌謡の一種、あるいは田舎風の詩歌、狂歌として表現した。荒々しい武士、情を理解しない荒っぽい人、風情が無く、教養・文化に欠ける人、特に東国の武士を京都の人から見て「あずまえびす」「えびす」と呼称した。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E5%A4%B7

ろうや【琅邪 Láng yá】
中国の古地名。瑯邪,瑯琊,琅?とも書く。春秋時代越王句践(こうせん)が現在の山東省膠南県南西の地に黄海を望む台館を起こし,諸侯と会盟を行ったという。秦の始皇帝はここを治所に琅邪郡を置き,28年(前219)の泰山封禅ののち琅邪台を設け,秦朝の頌徳碑を建てた(琅邪台刻石)。前漢も今の諸城県を治所に琅邪郡を置き,後漢は今の臨沂(りんぎ)県を中心に琅邪国とした。東晋・南朝で第一流の名族とされた王導一族は,琅邪・臨沂の出身である。
https://kotobank.jp/word/%E7%90%85%E9%82%AA-1217566
 

泉州:センシュウ

 投稿者:秦野北斗  投稿日:2014年10月28日(火)22時47分14秒
  >小生は、澶洲を、センシュウと呼び、参州、三河との仮説を立てています。
大阪府堺市は泉州:センシュウになる。

石津の戦い(いしづのたたかい)とは、南北朝時代の延元3年/暦応元年5月22日(1338年6月10日)に和泉国堺浦・石津(現在の大阪府堺市一帯)において、南朝方の北畠顕家と北朝方の高師直が戦った合戦。石津合戦・堺浦合戦・堺浜合戦などの異名がある。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%B3%E6%B4%A5%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84

家原城は、戦国時代に大和信貴山城主松永久秀によって支城として築かれた。 永禄年間以降、久秀は、三好義継を擁する三好三人衆と対立し、家原城には松永方の和泉衆が在城していた。 永禄11年、松永方の寺町左近将監・雀部治兵衛らが守備していたが、三好政康によって攻められ落城した。
永禄(えいろく)は、日本の元号の一つ。弘治の後、元亀の前。1558年から1570年までの期間を指す。
http://www.asahi-net.or.jp/~qb2t-nkns/izumiebara.htm
 

夷洲、澶洲

 投稿者:秦野北斗  投稿日:2014年10月28日(火)13時02分7秒
  『隋書』倭国伝を秦野が訳し説明します。

翌年、倭国へ使者を派遣、百済から=済州島=筑紫国(博多)に至り、秦国(壇洲)の用明天皇に謁見。ルートは百済、竹島(つく島)=済州島、○羅国(タン羅国) を南に望み、都斯麻国(つしま国)= 対馬国、一支)、竹斯国(つくし国)=筑紫国(博多)、東に秦王国=秦国の海岸に達し、夷洲沿いに秦国(壇洲)に入った模様。どうやら隋から船で来たな。これから遣隋使ルートは韓半島の百済から隋に渡ったのがわかるな。秦国から隋は別ルートになる。添付地図参照

多利思比孤=用明天皇で飛鳥が秦国(壇洲)になる。徐福の寄港は現在の伊勢道=茅渟道、
茅渟道は茅渟海から茅渟県(あがた)、奈良までの道。茅渟海は現在埋められ石津川が残る。1500年ぐらいに埋めたようだ。現在の堺市四つ池遺跡の入り江になる。当時は巨大船の100艘の停泊は可能な大きな入り江になっていた模様。

http://www.city.sakai.lg.jp/kanko/rekishi/bunkazai/bunkazai/isekishokai/yotsuike.html

秦国(壇洲):歴史学者は日本を倭国と思っているが大きな間違いで『隋書』倭国伝から秦国(俀国)になる。徐福のヒルメ、アマテラスがBC200年に瑞穂の国を秦国(俀国)に改名した模様。『後漢書』辰韓伝に残る。東三河の民の可能性があるな。また、神武東征は韓半島が終着点ですな。

『隋書』倭国伝

 大業三年、其王多利思比孤遣使朝貢。使者曰:「聞海西菩薩天子重興佛法、故遣朝拜、兼沙門數十人來學佛法。」其國書曰「日出處天子致書日沒處天子無恙」云云。帝覽之不悅、謂鴻臚卿曰:「蠻夷書有無禮者、勿復以聞。」

 大業三年(607年)、その王の多利思比孤が遣使を以て朝貢。
 使者が曰く「海西の菩薩天子、重ねて仏法を興すと聞き、故に遣わして朝拝させ、兼ねて沙門数十人を仏法の修学に来させた」。
 その国書に曰く「日出ずる處の天子、書を日沒する處の天子に致す。恙なきや」云々。帝はこれを見て悦ばず。鴻臚卿が曰く「蛮夷の書に無礼あり。再び聞くことなかれ」と。

 明年、上遣文林郎裴清使於倭國。度百濟、行至竹島、南望○羅國、經都斯麻國、迥在大海中。又東至一支國、又至竹斯國、又東至秦王國。其人同於華夏、以為夷洲、疑不能明也。又經十餘國、達於海岸。自竹斯國以東、皆附庸於倭。

 翌年、上(天子)は文林郎の裴世清を使者として倭国に派遣した。百済を渡り、竹島に行き着き、南に○羅国を望み、都斯麻国を経て、遙か大海中に在り。また東に一支国に至り、また竹斯国に至り、また東に秦王国に至る。そこの人は華夏(中華)と同じ、以て夷洲となす。疑わしいが解明は不能である。また十余国を経て、海岸に達した。竹斯国より以東は、いずれも倭に附庸している。
http://members3.jcom.home.ne.jp/sadabe/kanbun/wakoku-kanbun9-zuisho.htm

『後漢書』辰韓伝

 辰韓、耆老自言秦之亡人、避苦役、適韓國、馬韓割東界地與之。其名國為邦、弓為弧、賊為寇、行酒為行觴、相呼為徒、有似秦語、故或名之為秦韓。有城柵屋室。諸小別邑、各有渠帥、大者名臣智、次有儉側、次有樊秖、次有殺奚、次有邑借。土地肥美、宜五穀。知蠶桑、作縑布。乘駕牛馬。嫁娶以禮。行者讓路。國出鐵、濊、倭、馬韓並從?之。凡諸(貨)〔貿〕易、皆以鐵為貨。俗喜歌舞飲酒鼓瑟。兒生欲令其頭扁、皆押之以石。

 辰韓、古老は秦の逃亡者で、苦役を避けて韓国に往き、馬韓は東界の地を彼らに割譲したのだと自称する。そこでは国を邦、弓を弧、賊を寇、行酒を行觴(酒杯を廻すこと)と称し、互いを徒と呼び、秦語に相似している故に、これを秦韓とも呼んでいる。
 城柵、家屋、宮室がある。諸々の小邑落には各自に渠帥がおり、大長は臣智、次に儉側、次に樊秖、次に殺奚、次に邑借がいる。土地は肥沃、五穀の栽培に適している。養蚕を知っており、縑布を作る。牛馬の車に乗る。嫁は婚礼をして娶る。道で行き合えば道を譲る。
 国内で鉄を産出し、濊、倭、馬韓などが、これを求めに来る。おおよそ諸々の交易では皆、鉄を以て通貨とする。習俗は歌舞、飲酒、鼓を打ち瑟(しつ=弦が25本か16本の琴)を弾くことを好む。幼児はその頭を扁平にするため、皆でこれを石に押し付ける。
http://members3.jcom.home.ne.jp/sadabe/kanbun/sankan-sinkan.htm
 

夷洲、澶洲

 投稿者:maeda  投稿日:2014年10月25日(土)23時20分48秒
編集済
  質問ですが
徐福の文章の夷洲、澶洲は特定しているのでしょうか。


徐福文献といわれる富士古文献では、まだ、夷洲、澶洲 を見つけていません。
一般に、夷州は台湾とされているが、澶洲は不明です。
「邪馬台国は沖縄だった」という本の著者、木村政昭琉球大教授は、澶洲をタンシュウと呼び、種子島と考えています。
 小生は、澶洲を、センシュウと呼び、参州、三河との仮説を立てています。
 というのは、渥美半島は安曇族の根拠地で、蒲郡市には赤彦神社に豊玉彦が祭られ、潮満玉、潮干玉が保管されているという伝承があるのです。

 最近、九州博多の名島神社が安曇族の根拠地で、豊玉彦が来て居たという情報を得ました。しかもこの神社は、徐福上陸伝承をもっているのです。筑紫から来たそうです。
 徐福は、始皇帝の命で、阿蘇山に近い九州高千穂の幣立神宮に来たが、富士山へ行ってしまったという文言を記した立て札が、幣立神宮にあるのを、昨年夏発見しました。

 古代には、海人族は高速船で、日本の周辺を行き来していた可能性があります。
 日本の神社伝承を、素直にまとめると徐福の動きが結構判るものですよ。(maeda)
 

常世の国(済州島)

 投稿者:秦野北斗  投稿日:2014年10月24日(金)22時26分50秒
  大八島国で徐福は碑を残している。

朝鮮における徐福伝説、徐福渡来伝承が残る・・・
惜しみながら西方の日本へ向かったといわれ・・。筑紫島から対馬(津島)に向かう行為。
当時は帆船なので対馬海流に乗るため、西方に向かう必要がある。奄美(裸国)でも同様
の操船を行っている。
.
筑紫國菟狹=筑紫島(つくしこく、うさ):済州島
胴体が1つで、顔が4つある。顔のそれぞれの名は以下の通り。
白日別(しらひわけ)
豊日別(とよひわけ)
建日向日豊久士比泥別(たけひむかひとよじひねわけ)
建日別(たけひわけ)

常世の国(とこよのくに)は、古代日本で信仰された、海の彼方にあるとされる異世界である。一種の理想郷として観想され、永久不変や不老不死、若返りなどと結び付けられた、日本神話の他界観をあらわす代表的な概念で、古事記、日本書紀、万葉集、風土記などの記述にその顕れがある。

常世の国の来訪者
日本神話においては、少彦名神、御毛沼命、田道間守が常世の国に渡ったという記事が存在する。浦島子(浦島太郎)の伝承にも、常世の国が登場する。

御毛沼命(みけぬのみこと)
『古事記』『日本書紀』では、鸕鶿草葺不合尊と、海神の娘である玉依姫の子で、初代天皇・神武天皇の兄であるとする。

『日本書紀』神武即位前紀では、兄弟とともに神武東征に従うが熊野に進んで行くときに暴風に遭い、「母も叔母も海神であるのに、どうして我々は波によって進軍を阻まれなければならないのか」と言って、波頭を踏んで常世に行ったとしている。
『古事記』では、事績は何も記されずに「波頭を踏んで常世の国に渡った」とだけ記されている。
 

夷洲、澶洲

 投稿者:秦野北斗  投稿日:2014年10月24日(金)12時23分6秒
  質問ですが

徐福の文章の夷洲、澶洲は特定しているのでしょうか。

『後漢書』倭人伝

 會稽海外有東鯷人、分為二十餘國。又有夷洲及澶洲。傳言秦始皇遣方士徐福將童男女數千人入海、求蓬萊神仙不得、徐福畏誅不敢還、遂止此洲、世世相承、有數萬家。人民時至會稽市。會稽東冶縣人有入海行遭風、流移至澶洲者。所在絶遠、不可往來。

 会稽の海の外に東鯷人があり、二十余国に分かれている。また、夷洲および澶洲がある。伝承によると、秦の始皇帝が方士の徐福を遣わし、数千人の少年少女を連れて海に入った。蓬萊山の神仙を探し求めたが、出会えず、徐福は誅罰を畏れて敢えて帰らず、遂にこの島に留まった。代々に相伝し、数万家を有した。人民は時に会稽に至り交易する。会稽東冶県の人が海に入って航行し風に遭い、漂流して澶洲に至る者がいる。絶海の遠地に在り、往来すべきではない。

http://members3.jcom.home.ne.jp/sadabe/kanbun/wakoku-kanbun2-gokan.htm
 

宇摩志阿斯訶備比古遅神の翻訳

 投稿者:秦野北斗  投稿日:2014年10月21日(火)19時13分13秒
編集済
  宇摩志阿斯訶備比古遅神の翻訳に間違いがあるな。訂正する。

東三河には宇摩志阿斯訶備比古遅神(ウマシアシカビヒコジノカミ)が該当しそうだ。
宇摩志阿斯訶備比古遅神、
読みは宇志摩阿を叱るよき舅神は間違いで、宇志摩阿で「せめにいにしえからそなえる。」

宇摩志阿斯訶備比古遅神
宇気(伊勢志摩)、愛知=宇摩志阿

訶備比古遅
せめに、いにしえ、から、そなえる。

訶:しか-る、せ-める
備:そな-える、そな-わる
比:なら-ぶ、なら-べる、よそ-える、なぞら-える、たぐ-える、たぐい、ころ
古:ふる-い、いにしえ
遅:おく-れる、おく-らす、おそ-い

2200年の時間差はきついな。天の香具山の情景を添付します。

万葉集に愛知(あゆち)=美し国(うましくに)
全羅北道完州郡白村江(倭国)は韓国クンサン(群山)も うまし国

舒明天皇の歌
「大和には 群山あれど とりよろふ 天の香具山 登り立ち 国見をすれば 国原は 煙り立ち立つ 海原は かまめ立ち立つ うまし国ぞ あきづ島 大和の国は」 (巻1-2)
 

万葉集に愛知(あゆち)

 投稿者:秦野北斗  投稿日:2014年10月20日(月)06時40分37秒
  女王國東渡海千餘里復有國皆倭種

復有國=阿湯地=あゆち になり、復有=阿湯=あゆ

復=阿=あ の関係がつかめない。

万葉集に愛知(あゆち)=美し国(うましくに)

愛知(あゆち)万葉集にも、「あゆち潟」を題材にした歌がいくつかあります。
古事記 第1章 神々の出現に宇摩志阿斯訶備比古遅神は宇気(伊勢志摩)、
愛知=美し国(うましくに)だろう。

あゆち=阿湯地
阿=倭王、姓は阿毎(あめ)
湯=鋳造、材料(主に鉄・アルミ合金・銅・真鍮などの金属)
地=地(チ、ジ、つち)とは、土、陸、場所、下などを指す。

鋳造(ちゅうぞう、英: casting)は、材料(主に鉄・アルミ合金・銅・真鍮などの金属)を融点よりも高い温度で熱して液体にしたあと、型に流し込み、冷やして目的の形状に固める加工方法である。

古事記 第1章 神々の出現
その次に、日本の国がまだ海に浮かぶ脂のごとく、くらげのようにただよっていた時に葦(あし)の芽が萌え上がるように現れたのは、ウマシアシカビヒコジノカミ(宇摩志阿斯訶備比古遅神)とアメノトコタチ(天之常立神)という神様でした。

宇志摩阿:宇志摩=宇気、志摩。阿(あゆち:愛知)あゆち:阿湯地 湯:鉄
=宇気(伊勢志摩)、愛知=美し国(うましくに)
阿(あゆち:愛知)は徐福と渡来した司馬氏が鉄の生産地にした模様。

舒明天皇の歌
「大和には 群山あれど とりよろふ 天の香具山 登り立ち 国見をすれば 国原は 煙り立ち立つ 海原は かまめ立ち立つ うまし国ぞ あきづ島 大和の国は」 (巻1-2) 美し国(うましくに)は万葉集にある。

大和には・・海原は かまめ立ち立つ うまし国ぞ・・。
どうも、かまめ立ち・・は高炉で鉄の国・・?。

古代
愛知郡の最も古い記述は、平城京出土木簡で、尾張国愛知郡と記載されている。 和名抄に、愛智とあり、訓読は阿伊知(あいち)である。
なお、江戸時代末期編纂の尾張志では、あいちは誤りであり、あゆちが正しいという説を唱えており、世間に流布する愛知は古代はあゆち説の元となっているが、木簡の愛知の記述(あゆち阿由知、という記述の木簡が出土せず)、平安時代の和名抄に愛智の訓読は阿伊知(あいち)と明記されていることから、疑問がある。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%84%9B%E7%9F%A5%E9%83%A1_(%E6%84%9B%E7%9F%A5%E7%9C%8C)

万葉集
万葉集にも、「あゆち潟」を題材にした歌がいくつかあります。

「桜田へたず鳴きわたる 年魚市(あゆち)潟潮干にけらしたず鳴きわたる」
「年魚市潟(あゆちがた)、潮干にけらし、知多の浦に、朝漕ぐ舟も、沖に寄る見ゆ」
「小治田の 年魚道(あゆち)の水を 間なくぞ 人は汲むといふ 時じくぞ 人は飲むといふ 汲む人の 間なきがごと 飲む人の 時じきがごと 我妹子に 我が恋ふらくは やむ時もなし」
http://nagoya-sanpo.info/article/388896036.html


 

神武東征の痕跡

 投稿者:秦野北斗  投稿日:2014年10月18日(土)16時48分29秒
  秦野著書:徐福と邪馬台国の地図と比較すると面白いな。

朝鮮半島楽浪土城は位置関係から京師の様だな。
京師は卑弥呼の故郷になる。これで、京師、倭国(任那、白村江)がつながる。
京師の206Pb /204Pb:17.699と弥生後期平形銅剣 17.715がほぼ一致する。
阿毎の存在につながるな。中国史籍では阿残。神武東征だな。

206Pb /204Pbの見直しですな。

韓国金海市が全羅北道完州郡
18.481≒18.314
韓国金海市、朝鮮半島楽浪土城が奈良県
18.481+17.699≒18.044
朝鮮半島楽浪土城の銅は弥生期に朝鮮から奈良に入った銅だな。

朝鮮半島楽浪土城    206Pb /204Pb: 17.699 京師
北朝鮮京幾道    現代206Pb /204Pb: 17.338  開城(楽浪郡)
奈良県        206Pb /204Pb: 18.044  獣形鏡
全羅北道完州郡      206Pb /204Pb:18.314 白村江(倭国)
韓国金海市  1C-2C 206Pb /204Pb:  18.481  釜山広域市(倭国、任那)

交易ルートは卑弥呼の影響が残る。

飛鳥時代
飛鳥時代(あすかじだい)は、日本の歴史の時代区分の一つである。崇峻天皇5年(592年)から和銅3年(710年)の118年間にかけて飛鳥に宮・都が置かれていた時代を指す。草創期は古墳時代の終末期と重なる。
狭義には、推古天皇元年(593年)に聖徳太子が摂政になってから、持統天皇8年(694年)の藤原京への移転までの、約102年間を飛鳥時代と称している。以前は、古墳時代と合わせて大和時代とされていた時期があったが、今日では古墳時代と飛鳥時代に分けて捉えるのが一般的である。推古朝に飛鳥文化、天武・持統朝に白鳳文化が華開いた時代でもある。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A3%9B%E9%B3%A5%E6%99%82%E4%BB%A3

白村江の戦い

白村江の戦い(はくすきのえのたたかい、はくそんこうのたたかい)とは、663年(天智2年)8月に朝鮮半島の白村江(現在の錦江河口付近)で行われた、倭国・百済遺民の連合軍と、唐・新羅連合軍との戦争のことである。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BD%E6%9D%91%E6%B1%9F%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84

日本書紀には「額田姫王(ぬかたのひめみこ)」とある。父は鏡王。天武天皇の妃となり、十市皇女を生む。鏡姫王(鎌足の嫡室)の妹かともいう。
斉明四年(658)十月、斉明天皇の紀温湯行幸に従駕し、歌を詠む(万葉集巻1-9)。斉明七年
http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/nukata.html

ちょっと参考まで
http://members3.jcom.home.ne.jp/arai-hiroshi/lecture/07.11.17.pdf#search='三角縁+鉛同位体比'

 

未央宮(びおうきゅう)高門殿に葬らる。

 投稿者:秦野北斗  投稿日:2014年10月18日(土)09時29分57秒
  徐福伝説の終止符が漢書 卷六十二 司馬遷傳第三十二に記録した模様

昌は毋懌(ぶえき)を生み、毋懌は漢の市長と爲る。 毋懌は喜を生み、喜は五大夫と爲る。 卒するや、みな高門に葬らる。

未央宮(びおうきゅう)高門殿に葬らる。

大館高門 (おおだち-たかかど)何かきになるな?

司馬昌  毋懌(無澤、むえき)

遠い部分の信憑性には疑問があるが、父・司馬談が亡くなる際の遺言によると、司馬遷の家系は堯・舜の時代に功績を挙げ、代々歴史・天文を司る一族であるという。秦の恵文王らに仕えた司馬錯、その孫で白起の部下として長平の戦いに従軍した司馬靳(中国語版)(しばきん)、さらにその孫で始皇帝時代に鉄鉱を管理する役職にあった司馬昌がいる。昌の子は毋懌(無澤、むえき)と言い、漢市の長官に就いた。その子で五大夫の爵位を得た司馬喜は司馬遷の祖父に当たる。
このような家系において、父・司馬談もさまざまな師から天文・易・道論などの教えを受け、漢王朝に仕え、司馬遷3歳の年から元封までの約30年間にわたり太史公の官職を得ていた。談は道家的思想を基礎に、旺盛な批判精神を持ち、先祖が取り組んだ歴史書編纂事業への熱意を常々抱えていた。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%B8%E9%A6%AC%E9%81%B7


司馬昌  毋懌(無澤、むえき)

漢書 卷六十二 司馬遷傳第三十二
 漢之伐楚 卬歸漢 以其地爲河内郡 昌生毋懌 毋懌爲漢市長 毋懌生喜 喜爲五大夫 卒 皆葬高門 喜生談 談爲太史公

 漢の楚を伐つや、卬(こう)は漢に歸し、その地を以って河内郡と爲す。
昌は毋懌(ぶえき)を生み、毋懌は漢の市長と爲る。 毋懌は喜を生み、喜は五大夫と爲る。 卒するや、みな高門に葬らる。 喜は談(たん)を生み、談は太史公と爲る。
http://www010.upp.so-net.ne.jp/tenmei-zehi/kanjo/shibasen/frame.htm

広漢市
広漢市(こうかん-し)は中華人民共和国四川省徳陽市南西部に位置する県級市。四川盆地の中部、成都平原の只中に位置する。市政府は雒城鎮に所在する。

広漢市は全域が、秦代に建設された水利施設・都江堰の灌漑の恩恵を受けている。市内は平野が92.3%、低い丘陵が7.7%を占める。
広漢市は、徳陽市の南西部に位置し成都市と境界を接する。隣接する行政区は、成都市では青白江区・金堂県・彭州市、徳陽市では什邡市、旌陽区、中江県。



河内(かわち、こうち、かだい、ハノイ)
河内郡
河内郡 (大阪府)(かわちぐん) - 大阪府の郡
河内郡(かわちぐん)- 栃木県の郡
南河内郡(みなみかわちぐん) - 大阪府の郡
河内郡 (茨城県)(こうちぐん) - 常陸国の郡
河内郡 (河南省)(かないぐん) - 中国の漢代の郡名

未央宮(びおうきゅう)は、古代中国の前漢の都である長安の南西部にあった宮殿であり、前漢の皇帝の居場所であった。

『三輔黄図』によると宮殿は周囲28里であり、これは現代の発掘調査による未央宮の全長8,800メートルとほぼ符合する。前殿、宣室、温室殿、清涼殿、麒麟殿、金華殿、承明殿、掖庭宮、椒房殿、高門殿、金馬門などのさまざま建物があった。諸侯や大臣と朝会を開く場所である前殿は龍首山の丘陵を利用して建てられており、長安の城壁より高い位置にあった。

広島県庄原市高門町

大館高門 - 本居宣長記念館
www.norinagakinenkan.com/norinaga/kaisetsu/oodachi.html
明和3年(1776)2月17日~天保10年(1839)12月13日。享年74歳。門人(天明4年入門)。尾張海東郡木田村の庄屋木田家の次男。名、大煕、信煕。号瓊主、清蘆、梅の屋等。藤木田左市とも。最初、田中道麿に学び、道麿没後は宣長に師事した。医者をした ...

大館高門(オオダチ・タカカド)

明和3年(1776)2月17日~天保10年(1839)12月13日。享年74歳。門人(天明4年入門)。尾張海東郡木田村の庄屋木田家の次男。名、大煕、信煕。号瓊主、清蘆、梅の屋等。藤木田左市とも。最初、田中道麿に学び、道麿没後は宣長に師事した。医者をしたこともある。また後年は京に住んだ。宣長門人としては、大変熱心で、一族も門人の列に加えさせ、宣長の名古屋来訪時には、道中の宿を提供すること4度(寛政元年、同4、5、6年)に及んだ。その間には自宅で師・宣長の60歳祝賀会(現代のような宴会ではなく、歌会を中心としたのだろうか)を開催。寛政3、4年頃に、春庭が眼病治療のため馬嶋明眼院に入院した際には宣長の手紙を届けるなどその世話をした。木田村と馬島は約5km位しか離れていない。また、宣長の著作では。『仰瞻鹵簿長歌』や『手枕』。その他の本としては『口遊』等を自費で刊行した。
 但し、国学への関心を越えて、好事家的な要素も強かったことは否定できない。

大館高門 おおだち-たかかど

1766-1840* 江戸時代後期の国学者。
明和3年2月17日生まれ。田中道麿,のち本居宣長(もとおり-のりなが)にまなび,吉田玄覚につき医術をおさめる。天保(てんぽう)4年京都にでて一条家の侍医となった。歌集に「清廬集」。天保10年12月13日死去。74歳。尾張(おわり)(愛知県)出身。名は大煕,信煕。通称は左市。別号に瓊主,清廬,梅の屋。

本居 宣長(もとおり のりなが)は、江戸時代の国学者・文献学者・医師。名は栄貞。通称は、はじめ弥四郎、のち健蔵。号は芝蘭、瞬庵、春庵。自宅の鈴屋(すずのや)にて門人を集め講義をしたことから鈴屋大人(すずのやのうし)と呼ばれた。また、荷田春満、賀茂真淵、平田篤胤とともに「国学の四大人(しうし)」の一人とされる

本居宣長は1730年6月伊勢国松坂(現在の三重県松阪市)の木綿商である小津家の次男として生まれた。幼名は富之助。少年時代から習字を習い、漢籍を学び、執筆も行った。寛延元年(1744年)、16歳の時伊勢山田の今井田家の養子となり紙商売を始めるが、3年後に離縁して松坂に帰った。

本居宣長記念館(三重県松阪市)


 

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