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明けましておめでとうございます

 投稿者:maeda  投稿日:2016年 1月 3日(日)11時54分4秒
  2016年が、幕開けしました。
昨年は、いろいろなことが起こりましたが、様々な予言が示したような大被害はかなり回避されたようです。
意識が現象を創るという見方をとれば、希望をもつことこそ重要ではないでしょうか。
今年は、新たな世界が開けるような気がします。
明るい未来をイメージして、1年を過ごしましょう。
 

静岡と三河は同一文化圏になる。

 投稿者:秦野北斗  投稿日:2015年12月29日(火)16時25分59秒
  豊 のつく地名は、東三河に多く、東三河と考えていますが、昔は、静岡東三河は同一文化圏だったようです。

魏志倭人伝まで遡ると、静岡と三河は同一文化圏になる。魏志倭人伝の狗奴國が関係する。

魏志倭人伝の解読は終わりました。徐福がらみが多々ある。講演、出版を考えていますが
妙案なしです。専門家の前田さんに協力を求めます。

「東国#開発」を参照
持統天皇3年(689年)にも投化した新羅人を下毛野に移し、翌持統天皇4年(690年)には帰化した新羅の韓奈末許満等12人を武蔵国や、下毛野国に居住させる。霊亀元年(715年)には尾張国人の席田君邇近及び新羅人74人が美濃国を本貫地とし、席田郡に移される、天平5年(733年)。しかし何れの集落もその後断絶しており、歴史的資料や他地域への移動も行われていない。

秦野市は宝蓮寺の蓑毛(美濃毛)が古名と思われる。
http://www.geocities.jp/fusan0208/dainitidou.htm

持統天皇3年(689年)にも投化した新羅人を下毛野に移し、翌持統天皇4年(690年)には帰化した新羅の韓奈末許満等12人を武蔵国や、下毛野国に居住させる。
霊亀元年(715年)には尾張国人の席田君邇近及び新羅人74人が美濃国を本貫地とし、
席田郡に移される。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B0%E7%BE%85%E3%81%AE%E5%85%A5%E5%AF%87

帰化人
日本からは高句麗に学問僧など留学生が派遣された。持統天皇元年(687年)、日本の朝廷は帰化した新羅人14人を下野国に、新羅の僧侶及び百姓の男女22人を武蔵国に土地と食料を給付し、生活が出来るようにする。帰化人の総数には日本から新羅に帰化していた倭人も含まれる。また天皇により新羅人の帰国が奨励され、半島に帰還するものに対しては食料が配布された。歴史的に残留した新羅からの帰化人は百数十名と少なく、多くは漢民族であった。

「東国#開発」を参照
持統天皇3年(689年)にも投化した新羅人を下毛野に移し、翌持統天皇4年(690年)には帰化した新羅の韓奈末許満等12人を武蔵国や、下毛野国に居住させる。霊亀元年(715年)には尾張国人の席田君邇近及び新羅人74人が美濃国を本貫地とし、席田郡に移される、天平5年(733年)。しかし何れの集落もその後断絶しており、歴史的資料や他地域への移動も行われていない。

開発
飛鳥時代から平安時代にかけては、朝廷の政策により、朝鮮半島から多数の渡来人・難民が東国方面に移住・入植した経緯がある。六国史を始めとする記録からは、これら半島出身者の東国への移住が、朝廷により逐一把握されていたことが分かる。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B0%E7%BE%85%E3%81%AE%E5%85%A5%E5%AF%87
 

宝蓮寺

 投稿者:秦野北斗  投稿日:2015年12月23日(水)15時43分57秒
  宝蓮寺のお札ですが(行基、聖武天皇、良弁)と言っていましたが聖武天皇らしき人の頭に
十字架がある。十字架を調べるとネストリウス派の様です。らしき人は聖武天皇でなく、
秦氏になる。

ネストリウス派とは、古代キリスト教の教派の1つ。コンスタンティノポリス総主教
ネストリオスにより説かれた。325年のキリスト教会最初の公会議ニカイア公会議で
三位一体説が正統とされたため、それに異を唱えるネストリウス派は431年のエフェソス
公会議において異端認定され、排斥された。これにより、ネストリウス派はペルシャ帝国
へ移動し、7世紀ごろには中央アジア・モンゴル・中国へと伝わった。唐代の中国において
は景教と呼ばれる。のちアッシリア東方教会が継承した。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8D%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%AA%E3%82%A6%E3%82%B9%E6%B4%BE
 

豐秋津洲

 投稿者:秦野北斗  投稿日:2015年12月21日(月)17時11分39秒
  豐秋津洲 が静岡 という根拠があるのでしょうか。

天之御中主神(アメノミナカヌシノカミ)が徐福を案内した東方の神山が古事記、
日本書記の大八島国になる。
徐福伝説の地は大八島国、徐福:イザナギ、司馬:イザナミが重なる。
近畿、中部が空白地帯になる。
 

追記と訂正、

 投稿者:秦野北斗  投稿日:2015年12月21日(月)13時50分11秒
  辰韓の秦ではない。→辰韓は始皇帝の秦ではない。俀国の秦である。

韓三種:馬韓、辰韓、弁辰。の顛末は古事記、日本書記に記録がある。
韓半島は馬韓、辰韓、弁辰、倭国の4国に成っている。

『後漢書』辰韓伝:秦の逃亡者とあるが、始皇帝の秦ではない。馬韓(ばかん)は、
(紀元前2世紀末から4世紀中葉)始皇帝の秦(紀元前778年 - 紀元前206年)になり、
辰韓は始皇帝の秦ではない。2世紀末に俀国が存在する。

『後漢書』馬韓伝

 韓有三種:一曰馬韓、二曰辰韓、三曰弁辰。馬韓在西、有五十四國、其北與樂浪、南與倭接。辰韓在東、十有二國、其北與濊貊接。弁辰在辰韓之南、亦十有二國、其南亦與倭接。凡七十八國、伯濟是其一國焉。大者萬餘戸、小者數千家、各在山海閒、地合方四千餘里、東西以海為限、皆古之辰國也。馬韓最大、共立其種為辰王、都目支國、盡王三韓之地。其諸國王先皆是馬韓種人焉。

 韓には三種あり、一に馬韓、二に辰韓、三に弁辰という。馬韓は西に在り、五十四カ国、その北に楽浪、南に倭と接する。辰韓は東に在り、十有二国、その北に濊貊と接する。弁辰は辰韓の南に在り、また十有二国、その南はまた倭と接する。およそ七十八国、伯済はその一国である。大国は万余戸、小国は数千家、各々に山海の間に在り、土地は合計四千余里、東西は海が限界で、いずれも昔の辰国である。馬韓が最大、その苗裔を辰王として共立し、都は目支国、三韓の地の大王である。そこの諸国王の先祖は皆、馬韓の血族である。
 

俀国,

 投稿者:秦野北斗  投稿日:2015年12月20日(日)23時48分40秒
  大業三年(607年)、用明天皇の頃に俀国が中国史籍に出てくる。数年で倭国に訂正される。
『隋書』倭国伝、『後漢書』辰韓伝に文書がある。辰韓Wikipedia の年代は始皇帝の秦。

『隋書』倭国伝:文章には魏志の地名を入れます。
翌年、上(天子)は文林郎の裴世清を使者として倭国に派遣した。まず百済(馬韓)、竹島(済州島)、都斯麻国(対馬)、一支国(一大國:壱岐)、竹斯国(末盧国:香椎)、秦王国(伊都国)に至る。 そこの人は華夏(中華)と同じ、以て夷洲となす。疑わしいが解明は不能である。また十余国を経て、海岸(佐賀の有明海)に達した。竹斯国より以東(魏志倭人伝の邪馬台国までの国と行程)は、いずれも倭(俀国)に附庸している。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AD%8F%E5%BF%97%E5%80%AD%E4%BA%BA%E4%BC%9D

「疑わしいが解明は不能である。」に注目する。
伊都国を「魏志:代々王がおり、皆、女王国の統治下に属し」裴世清は秦王国としている。
以東は、いずれも倭に附庸している。実際は用明天皇の統治下は俀国になる。
裴世清としては倭国なのになぜ俀国(倭人伝は俀国伝に変更)なの???だろう。
伊都国を秦王国、秦の音が出ている。伊都国が秦の王国になると、以東は秦国になる。
俀は秦(シン)と推定できる。

『後漢書』辰韓伝:秦の逃亡者とあるが、始皇帝の秦ではない。馬韓(ばかん)は、
(紀元前2世紀末から4世紀中葉)始皇帝の秦(紀元前778年 - 紀元前206年)になり、
辰韓の秦ではない。2世紀末に俀国が存在する。
  辰韓、古老は秦の逃亡者で、苦役を避けて韓国に往き、馬韓は東界の地を彼らに割譲したのだと自称する。そこでは国を邦、弓を弧、賊を寇、行酒を行觴(酒杯を廻すこと)と称し、互いを徒と呼び、秦語に相似している故に、これを秦韓とも呼んでいる。
 城柵、家屋、宮室がある。諸々の小邑落には各自に渠帥がおり、大長は臣智、次に儉側、次に樊秖、次に殺奚、次に邑借がいる。土地は肥沃、五穀の栽培に適している。養蚕を知っており、縑布を作る。牛馬の車に乗る。嫁は婚礼をして娶る。道で行き合えば道を譲る。
 国内で鉄を産出し、濊、倭、馬韓などが、これを求めに来る。おおよそ諸々の交易では皆、鉄を以て通貨とする。習俗は歌舞、飲酒、鼓を打ち瑟(しつ=弦が25本か16本の琴)を弾くことを好む。幼児はその頭を扁平にするため、皆でこれを石に押し付ける。
http://members3.jcom.home.ne.jp/sadabe/kanbun/bakan-kanbun2-gokanzho.htm

俀国は、漢和辞典では俀(タイ)、当時の読みは失われる。同様に邪馬壹国の壹(ト)も失われている。邪馬壹(ヤマト)は韓半島の国名で、神武東征で命名される。

『隋書』倭国伝

明年、上遣文林郎裴清使於倭國。度百濟、行至竹島、南望○羅國、經都斯麻國、迥在大海中。又東至一支國、又至竹斯國、又東至秦王國。其人同於華夏、以為夷洲、疑不能明也。又經十餘國、達於海岸。自竹斯國以東、皆附庸於倭。

 翌年、上(天子)は文林郎の裴世清を使者として倭国に派遣した。百済を渡り、竹島に行き着き、南に○羅国を望み、都斯麻国(対馬)を経て、遙か大海中に在り。また東に一支国に至り、また竹斯国に至り、また東に秦王国に至る。そこの人は華夏(中華)と同じ、以て夷洲となす。疑わしいが解明は不能である。また十余国を経て、海岸に達した。竹斯国より以東は、いずれも倭に附庸している。

伊都國(いとこく)

 東南陸行五百里、到伊都國、官曰爾支、副曰泄謨觚、柄渠觚。有千餘戸、世有王、皆統屬女王國、郡使往來常所駐。

 東南に陸行すること五百里(約二六・七㎞)、伊都国に到る。官は爾支、副は泄謨觚、柄渠觚という。千余戸あり、代々王がおり、皆、女王国の統治下に属し、郡使の往来では常にここに逗留する。

『後漢書』辰韓伝
 辰韓、耆老自言秦之亡人、避苦役、適韓國、馬韓割東界地與之。其名國為邦、弓為弧、賊為寇、行酒為行觴、相呼為徒、有似秦語、故或名之為秦韓。有城柵屋室。諸小別邑、各有渠帥、大者名臣智、次有儉側、次有樊秖、次有殺奚、次有邑借。土地肥美、宜五穀。知蠶桑、作縑布。乘駕牛馬。嫁娶以禮。行者讓路。國出鐵、濊、倭、馬韓並從?之。凡諸(貨)〔貿〕易、皆以鐵為貨。俗喜歌舞飲酒鼓瑟。兒生欲令其頭扁、皆押之以石。

 辰韓、古老は秦の逃亡者で、苦役を避けて韓国に往き、馬韓は東界の地を彼らに割譲したのだと自称する。そこでは国を邦、弓を弧、賊を寇、行酒を行觴(酒杯を廻すこと)と称し、互いを徒と呼び、秦語に相似している故に、これを秦韓とも呼んでいる。
 城柵、家屋、宮室がある。諸々の小邑落には各自に渠帥がおり、大長は臣智、次に儉側、次に樊秖、次に殺奚、次に邑借がいる。土地は肥沃、五穀の栽培に適している。養蚕を知っており、縑布を作る。牛馬の車に乗る。嫁は婚礼をして娶る。道で行き合えば道を譲る。
 国内で鉄を産出し、濊、倭、馬韓などが、これを求めに来る。おおよそ諸々の交易では皆、鉄を以て通貨とする。習俗は歌舞、飲酒、鼓を打ち瑟(しつ=弦が25本か16本の琴)を弾くことを好む。幼児はその頭を扁平にするため、皆でこれを石に押し付ける。
伊都國:三沢遺跡、福岡県小郡市三沢

 

俀国,豐秋津洲

 投稿者:maeda  投稿日:2015年12月19日(土)18時44分28秒
  秦野様

 色々の情報を有難うございます。

 ところで、俀国は、一般にタイコクと読まれていますが、シンコクとは読めるのでしょうか。
 俀 という字は、旺文社の漢和辞典に出てきません。

 また、豐秋津洲 が静岡 という根拠があるのでしょうか。
 豊 のつく地名は、東三河に多く、東三河と考えていますが、昔は、静岡東三河は同一文化圏だったようです。 (maeda)
 

日本と国名

 投稿者:秦野北斗  投稿日:2015年12月14日(月)19時49分26秒
  日本は、みず穂の国、俀国(シン国)、和国、日本と国名を変えている。
俀国へ改名はBC200年頃に徐福將童男童女數千人がしたと思われる。
和国(倭国)は改名AC607年になる。俀国は800年間使用される。

日本名は日本書紀の大日本豐秋津洲(静岡)から命名にした模様
領主は国之常立神(クニノトコタチノカミ)、常立(常陸、日立)国の神

『隋書』倭国伝 名が紛らわしいので俀王国であるが秦王国を使う。
大業三年(607年)翌年、上(天子)は文林郎の裴世清を使者として倭国に派遣した。
ここでは隋が倭国と思い込んで書いている。訳には現在の地名を補足する。
百済から竹島(済州島)、南に五島列島を望み、対馬国を経て、東に壱岐に至る。
竹斯国(志賀島)に至り、東に秦王国(三沢遺跡)に至る。
秦王国は魏志の伊都国になる。そこの人は華夏(中華)と同じ、以て夷洲となす。
秦王国の名前:裴世清は疑わしいが解明は不能である。
竹斯国(志賀島)より以東は、いずれも倭に附庸している。
注)裴世清はまだ倭国と思っている。魏志倭人伝では邪馬壹國(奈良)の統治下になる。
多利思比孤(用明天皇)が統治。当時の日本名(俀国:シン国)

魏志倭人伝
東南陸行五百里、到伊都國、官曰爾支、副曰泄謨觚、柄渠觚。有千餘戸、世有王、皆統屬女王國、郡使往來常所駐。

 東南に陸行すること五百里、伊都国に到る。官は爾支、副は泄謨觚、柄渠觚という。千余戸あり、代々王がおり、皆、女王国の統治下に属し、郡使の往来では常にここに逗留する。

『隋書』倭国伝
大業三年、其王多利思比孤遣使朝貢。使者曰:「聞海西菩薩天子重興佛法、故遣朝拜、兼沙門數十人來學佛法。」其國書曰「日出處天子致書日沒處天子無恙」云云。帝覽之不悅、謂鴻臚卿曰:「蠻夷書有無禮者、勿復以聞。」

 大業三年(607年)、その王の多利思比孤(用明天皇)が遣使を以て朝貢。
 使者が曰く「海西の菩薩天子、重ねて仏法を興すと聞き、故に遣わして朝拝させ、兼ねて沙門数十人を仏法の修学に来させた」。
 その国書に曰く「日出ずる處の天子、書を日沒する處の天子に致す。恙なきや」云々。帝はこれを見て悦ばず。鴻臚卿が曰く「蛮夷の書に無礼あり。再び聞くことなかれ」と。
事の原因は 国書に俀国(シン国)と記した模様。古代の日本は俀国と韓半島の倭国(和国)
で成立つ。日本は通説の倭国とするが、俀国と和国になる。裴世清以後に和国になる。
聖徳太子の和を重んじ・・は、和国の事で平和の和ではない。

 明年、上遣文林郎裴清使於倭國。度百濟、行至竹島、南望○羅國、經都斯麻國、迥在大海中。又東至一支國、又至竹斯國、又東至秦王國。其人同於華夏、以為夷洲、疑不能明也。又經十餘國、達於海岸。自竹斯國以東、皆附庸於倭。

 翌年、上(天子)は文林郎の裴世清を使者として倭国に派遣した。百済を渡り、竹島に行き着き、南に○羅国を望み、都斯麻国を経て、遙か大海中に在り。また東に一支国に至り、また竹斯国に至り、また東に秦王国に至る。そこの人は華夏(中華)と同じ、以て夷洲となす。疑わしいが解明は不能である。また十余国を経て、海岸に達した。竹斯国より以東は、いずれも倭に附庸している。

 

徐福,亶洲至る

 投稿者:秦野北斗  投稿日:2015年11月21日(土)15時28分39秒
  魏志倭人伝の再考で末盧国は香椎(かしい)、福岡県福岡市東区の北部に位置する
孫権の夷州と亶州の捜査文章。二百二十九年に呉の孫権が衛温・諸葛直に1万を与え、捜査を行わせた。
秦野は孫権の將軍と末盧国軍で戦闘を予想したが間違い、また「南至投馬國、水行二十日、・・」で断念
と思いや出航、夷洲に數千人が還える。遭難です。歴史は簡単に理解できないものです。

『臨海水土志』、『孫権伝』秦野北斗訳

孫権 夷洲の文章

『臨海水土志』
夷洲在臨海東南、去郡二千里。土地無霜雪、草木不死。四面是山谿。人皆?髮穿耳、女人不穿耳。土地饒沃、既生五穀。又多魚肉。有犬、尾短如麕尾状。此夷舅姑子婦臥息共一大牀、略不相避。地有銅鐵、唯用鹿格爲矛以戰闘、摩礪青石以作(弓)矢鏃。取生魚肉雜貯大瓦器中、以鹽鹵之、歴月所日、乃啖食之、以爲上肴

夷洲は臨海東南にあり、郡から二千里 (約百六㎞)、(阿蘇山)土地は霜雪なく草木は枯れない。四面は山谿。人みな、?髮は耳を通す。女は通さない。土地は肥沃で既に五穀が実る。また、魚は多い。犬あり尾は短く麕(のろ)の尾の如し。夷の舅、姑、子、婦は供に大床で寝る。互いに避けない。夷洲には銅鐵あり、ただ
鹿格爲の矛を、戰闘で用いる。磨いた青石で矢鏃を作る。生魚肉を取り大瓦器の中に雑に入れ塩地でこれ歴月所日もって食べものとして喰らう上肴なり。

『孫権伝』
二年春正月,魏作合肥新城。詔立都講祭酒,以教學諸子。遣將軍衛?、諸葛直將甲士萬人,浮海求夷洲及亶洲。亶洲在海中,長老傳言:秦始皇帝遣方士徐福將童男童女數千人入海,求蓬萊神山及仙藥,止此洲不還。世相承有數萬家,其上人民。時有至會稽貨布,會稽東縣人海行,亦有遭風流移至亶洲者。所在?遠,卒不可得至,但得夷洲數千人還。

二年春正月,魏の新城の築城を求める。詔立をもって酒宴、みな教學する。派遣將軍の衛?、諸葛直將、兵士萬人は夷洲及亶洲への出航を求める。亶洲は海中にある。長老の言伝え:秦始皇帝遣方士徐福將童男童女數千人が蓬萊神山及仙藥求め、出航する。ただ此の洲に還えらず。代々、會稽貨幣(交易)至る時、會稽東縣人、出航また遭風流移で亶洲至る。所在は?遠し不明。將軍、ついに得られず、ただ夷洲に數千人が還える。
 

漢委奴国王印の再考

 投稿者:秦野北斗  投稿日:2015年11月17日(火)22時33分48秒
  漢委奴国(かんのわのなのこく)は委奴国=伊都国

ついに解かれた!?邪馬台国と女王卑弥呼と金印の謎?!
https://www.youtube.com/watch?v=q_TEbO5Y2H8

漢委奴国王印(かんのわのなのこくおういん、漢委奴國王印)は誤訳のようだな。
正式な読みは、漢委奴国王印(やまとの伊都国王印)になる。

魏志倭人伝の伊都国の文章に「世々、王が居る。」とある。
「世々、王が居る。」これが、漢委奴国王印(やまとの伊都国王印)の人物のようだな。
倭奴國、東南に100里進むと奴国、女王国より北方にある国々は、・・、奴国。
奴国を統率する王の様だな。

東南陸行五百里、到伊都國。官曰爾支、副曰泄謨觚・柄渠觚。有千餘戸。丗有王、皆統屬女王國。郡使往來常所駐。
東南へ500里陸行すると、伊都国に到着する。長官は爾支(にき)、副官は泄謨觚(せもこ)と柄渠觚(へくこ)。1000余戸が有る。世々、王が居る。皆、女王国に属する。

東南至奴國百里。官曰兕馬觚、副曰卑奴母離。有二萬餘戸。
東南に100里進むと奴国に至る。長官は兕馬觚(しまこ)、副官は卑奴母離(ひなもり)。2万余戸が有る。

自女王國以北、其戸數道里可得略載、其餘旁國遠絶、不可得詳。 ・・・、次有烏奴國、次有奴國。 此女王境界所盡。
女王国より北方にある国々は、其の戸数・道里を略載することが可能だが、・・・、烏奴国、奴国。此れが女王の境界が尽きる所である。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AD%8F%E5%BF%97%E5%80%AD%E4%BA%BA%E4%BC%9D


『後漢書』「卷八五 列傳卷七五 東夷傳」の「倭奴國」「倭國」「光武賜以印綬」の記述にある印綬であると認識することが・・
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BC%A2%E5%A7%94%E5%A5%B4%E5%9B%BD%E7%8E%8B%E5%8D%B0
 

漢委奴国(かんのわのなのこく)は伊都国

 投稿者:秦野北斗  投稿日:2015年10月17日(土)12時44分44秒
  ついに解かれた!?邪馬台国と女王卑弥呼と金印の謎?!
https://www.youtube.com/watch?v=q_TEbO5Y2H8

漢委奴国王印(かんのわのなのこくおういん、漢委奴國王印)は誤訳のようだな。
正式な読みは、漢委奴国王印(やまとの伊都国王印)になる。
しかし、魏志倭人伝の行程は完全に間違っているな。

末廬国:博多、唐津に郡(帯方郡が有名)があり、伊都国に漢委奴国王印を送った。
魏志倭人伝に伊都国の名が出てくる。尚、当時の日本は俀国(秦国:シン国)に成っている。
金印の側面に「常根津日子命(とこねつひこのみこと)」常根津日子命が伊都国王
http://6309.teacup.com/kobutu/bbs/507

夷州(今の台湾・沖縄諸島)とされている。現実は、台湾は青丘国、沖縄諸島は黒歯国になる。
『梁書』に、黒歯国の位置については『山海経』には「青丘国」の北という。

孫権の夷州文章は台湾でなく福岡の末廬国になる。文章には阿蘇山の状況がよみとれる。
尚、当時は卑弥呼による韓半島奪回戦争の真っ最中。孫権が派遣した兵の大部分を失う。
は理解できる。

230年(黄龍2年)孫権が末廬国に兵を派遣する。当時、末廬国は臨海の東、南
に郡を要していた。一般に魏志倭人伝では末廬国は唐津になっているが、これは
間違いになる。唐津(臨海の南)には郡があり上陸できない。また博多(臨海の東)
も同様から、福岡県福岡市東区の志賀島が入口になる。

将軍の衛温・諸葛直らに兵1万を率いさせ、夷州および亶州の探索を行わせる亶州には辿り着けず、夷州の数千人を得るだけで、派遣した兵の大部分を失う。翌年、探索失敗により衛温・諸葛直らを処刑する。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AD%AB%E6%A8%A9
http://6327.teacup.com/maeda/bbs/601

魏志倭人伝
又渡一海千餘里、至末廬國。有四千餘戸、濱山海居。草木茂盛、行不見前人。好捕魚鰒、水無深淺、皆沈没取之。
また海を1000余里渡ると、末廬国に至る。4000余戸が有り、山海に沿って住む。草木が茂り、前を行く人が見えない。魚やアワビを捕るのを好み、皆が潜る。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AD%8F%E5%BF%97%E5%80%AD%E4%BA%BA%E4%BC%9D
 

澶洲の位置

 投稿者:秦野北斗  投稿日:2015年 9月17日(木)17時47分44秒
  澶洲(堺):四ツ池遺跡 注)位置は現在の堺とは異なる。
http://www.city.sakai.lg.jp/kanko/rekishi/bunkazai/bunkazai/isekishokai/yotsuike.html

澶洲(堺)には茅渟宮(離宮):神野の茶屋とも・・。

アルノルドゥス・モンタヌス(Arnoldus Montanus、1625年 - 1683年)は、オランダの宣教師、歴史学者。
世界中の地理歴史についての書物を多数著した。日本に関しては、1669年著の『東インド会社遣日使節紀行』(通称「日本誌」 独:Gedenkwaerdige Gesantschappen der Oost-Indische Maetschappy aen de Kaisaren van Japan)がある。ただし、自身は一度も来日しておらず、イエズス会士の報告書や、使節の江戸参府紀行に基づいて著したとされる。
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1879653
 

モンタヌスの挿絵 澶洲の位置

 投稿者:秦野北斗  投稿日:2015年 9月17日(木)17時46分57秒
  澶洲(堺):四ツ池遺跡 注)位置は現在の堺とは異なる。
http://www.city.sakai.lg.jp/kanko/rekishi/bunkazai/bunkazai/isekishokai/yotsuike.html

澶洲(堺)には茅渟宮(離宮):神野の茶屋とも・・。

アルノルドゥス・モンタヌス(Arnoldus Montanus、1625年 - 1683年)は、オランダの宣教師、歴史学者。
世界中の地理歴史についての書物を多数著した。日本に関しては、1669年著の『東インド会社遣日使節紀行』(通称「日本誌」 独:Gedenkwaerdige Gesantschappen der Oost-Indische Maetschappy aen de Kaisaren van Japan)がある。ただし、自身は一度も来日しておらず、イエズス会士の報告書や、使節の江戸参府紀行に基づいて著したとされる。
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1879653
 

マユンガナシ

 投稿者:秦野北斗  投稿日:2015年 8月22日(土)17時00分54秒
  石垣島節祭にマユンガナシがある。大神様(船)が登場する。

マユンガナシの当時から上海の寧波との交易を行っていた模様
徐福の船に近い。石垣島は沖縄(黒歯国)の台湾寄りに成る。
マユンガナシは太平洋海流に乗り台湾から上海(寧波)を目指したようだな。

マユンガナシ
「桴海の真世ん加那志は神の国の話をしてくれる。一番偉い大神様は身の丈、十丁[一丁(町)は約109メートル]。幅五間[約28~36m]もある丸丸とふとった大神であると語り、自分
等は小男、女であるから使者として使い走りしているのだ」と言っていた。
幅五間は遣唐使船から推定
本来、建物の柱の間隔を1間とする、長さそのものではない単位だった

http://www.flet.keio.ac.jp/~shnomura/mayun/mayunganashi.html

寧波の乱

寧波の乱(にんぽーのらん・ねいはのらん)とは、1523年(明では嘉靖2年、日本では室町時代の大永3年)に、明の寧波において日本人が起した事件である。寧波争貢事件、明州の乱、宗設の乱とも。

乱の経緯

背景
足利将軍家の家督争いなどから1467年に応仁の乱が起こると、幕府の管領家で堺を貿易の拠点にしていた細川氏や、山口を本拠に博多、応仁の乱で得た兵庫などに権益を持っていた大内氏がそれぞれ独自に使節団を派遣した貿易を経営をはじめ、大内と細川は勘合符を巡って対立していた。明で正徳帝(武宗)が即位し、大内氏が遣明船(勘合船)を主催して発行された正徳勘合符を独占する。

殺害事件
寧波には先に大内方の遣明船が入港しており、細川方には不利であったが、細川方の副使宋素卿は明の入港管理所である市舶司大監の頼恩に賄賂を贈り、細川方を先に入港検査させた。大内方は細川方を襲撃し遣明船を焼き払い、明の官憲は細川方を支援するが謙道宗設により鸞岡端佐は殺され、紹興城へ逃れた宋素卿らを追い、明の役人を殺害する事件が起こる。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%A7%E6%B3%A2%E3%81%AE%E4%B9%B1
 

(無題)

 投稿者:maeda  投稿日:2015年 8月12日(水)22時03分13秒
  暑い日が続きます。
関東に来られるときに、お会いしましょうか。
本HPメールでご連絡ください。
 

堺に巨木伝説がある。

 投稿者:秦野北斗  投稿日:2015年 8月 4日(火)14時35分13秒
  堺に等乃伎(兎寸河)「(とのきがわ)」の巨木伝説がある。
内容は等乃伎の連(とのきのむらじ)を祀る神社のようです。
http://www.aba-osakafu.or.jp/chiiki-gr/sakai/kenchikujin/sakai_osaka0806.pdf

兎寸河は九州の筑後川になり、巨木伝説は扶桑木です。
九州の連(むらじ)が堺に居たことになる。
愛知の湯谷温泉も扶桑木に相当なら連が存在することになる。
最近ですが織田信長を調べていたら斯波氏(司馬氏)が出てくる。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%AF%E6%B3%A2%E6%B0%8F

魏志倭人伝、中国史籍を見る限り徐福と司馬氏(司馬昌  毋懌(無澤、むえき)が来ている。扶桑国は常陸だが未だ、扶桑国が在るなら、その辺りを検討が必要になる。
徐福:イザナギ(伊弉諾、伊邪那岐、伊耶那岐)
司馬氏:イザナミ(伊弉冉、伊邪那美、伊耶那美、伊弉弥)
邪=耶 琅?(ロウヤ)呉音 : ジャ、ヤ(表外)
イジャナギ、イジャナミ
尚、阿蘇は天(阿)毎氏と扶桑(蘇)になる。


『山海經』に、「扶桑国に扶桑木があり、そこに湯谷がある」と記載されていますが、本HPが対象とする奥三河の大野町の古書紹介文に、扶桑国と記されています。しかもそこに、湯谷温泉があり、鳳来寺山には、扶桑木に相当する、桐の木と太陽信仰の伝承があります。

等乃伎(兎寸河)の連
仁徳天
皇の時代に、「(とのきがわ)」の西に一本の巨大な樹があり、朝日を受ける
とその影が淡路島に達し、夕日を受けるとその影は高安山を越えるほどであった。
この巨木から船を造ったところ、速度が速く「枯野(からぬ)」と名がつけられ、淡
路島より天皇の使われる水を運んだと言われている。巨木伝説のひとつとなる
 

秦野も隠居

 投稿者:秦野北斗  投稿日:2015年 8月 4日(火)08時26分51秒
  秦野も隠居の身になり、活動が可能になりました。

徐福の日本での行動を議論したいものです。11月に関東に行く機会ができましたので
良ければお会いしたいです。

現在の調査では徐福は司馬昌、毋懌と上海の寧波を就航し、沖縄(黒歯国)方向に舵をとり佐賀の扶桑木を目指した。筑後川河口の浮杯に上陸。佐賀を調査後

筑後川から薩摩、宮崎へ航行、宮崎の美々津(みみつ)に上陸。
 

扶桑木と湯谷

 投稿者:maeda  投稿日:2015年 8月 3日(月)22時38分42秒
  『山海經』に、「扶桑国に扶桑木があり、そこに湯谷がある」と記載されていますが、本HPが対象とする奥三河の大野町の古書紹介文に、扶桑国と記されています。しかもそこに、湯谷温泉があり、鳳来寺山には、扶桑木に相当する、桐の木と太陽信仰の伝承があります。  

モンタヌスの挿絵

 投稿者:秦野北斗  投稿日:2015年 7月31日(金)00時40分19秒
  モンタヌスの挿絵は奇怪であるが、中国では扶桑はハイビスカスになる。
挿絵はハイビスカスを模したものだろう。1500年代は織田信長の時代で当時の伝説になる。
注目したいのは扶桑木の下に2名と船に1名が画かれている。
船の1名は徐福で、2名は始皇帝に同行を命ぜられた者だろう。
尚、扶桑木はメタセコイアで100mを超える巨木になる。場所は筑後川河口。

扶桑[フソウ]
中国では扶桑と言えば、観賞用に栽培されるアオイ科の常緑低木:ハイビスカスである。

中国古代の神話中の大きな桑の木;東方の海の向こうにあり,太陽がそこから昇ると考えられていた.≡榑桑.
( Fúsāng )中国の東方の海に浮かぶ伝説上の国名;日本を指した.≡榑桑.

『山海経』によると、東方の海中に黒歯国があり、その北に扶桑という木が立っており、そこから太陽が昇るという。

女王國東渡海千餘里復有國皆倭種 又有侏儒國在其南人長三四尺去女王四千餘里 又有裸國黒齒國復在其東南船行一年可至
(女王・卑弥呼国から4000余里に侏儒国がある。また裸国と黒歯国があり、東南に船で一年で着く)

海外經云 湯谷在黑齒北 上有扶桑木 水中十日所浴 張揖云 日所出也 許慎云 熱如湯
(「海外経」によると、黒歯の北に湯谷があり、その上に扶桑木があり、水中で10の太陽が水浴びをする。張揖によると、そこが日の出の場所である。許慎によると、(そこの海水は)湯のように熱い)

『史記』巻114司馬相如列傳 第57 「湯谷」の注

『山海經』では以下のとおり記述される。
その北に黒歯国がある。そこの人は黒い。稲を食べ蛇をくらう。黒歯国の北に扶桑がある。
黑齒國在其北 爲人黑 食稻啖蛇 一赤一青 在其旁 一曰 在豎亥北 爲人黑首 食稻使蛇 其一蛇赤 下有湯谷 湯谷上有扶桑 十日所浴 在黑齒北 居水中 有大木 九日居下枝 一日居上枝
? 『山海經』 第九 海外東經

 

浮盃2

 投稿者:秦野北斗  投稿日:2015年 7月14日(火)15時57分57秒
  モンタヌスの絵に扶桑、浮盃が画かれている。
絵から半径16kmの日時計が理解できる。場所は現在の筑後川になる。
絵に徐福の船がみえる。船首の飾りは龍のようだな、注意点は1500年までの伝承になる。

アルノルドゥス・モンタヌス(Arnoldus Montanus、1625年 - 1683年)は、オランダの宣教師、歴史学者。
世界中の地理歴史についての書物を多数著した。日本に関しては、1669年著の『東インド会社遣日使節紀行』(通称「日本誌」 独:Gedenkwaerdige Gesantschappen der Oost-Indische Maetschappy aen de Kaisaren van Japan)がある。ただし、自身は一度も来日しておらず、イエズス会士の報告書や、使節の江戸参府紀行に基づいて著したとされる。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%AB%E3%83%8E%E3%83%AB%E3%83%89%E3%82%A5%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%83%A2%E3%83%B3%E3%82%BF%E3%83%8C%E3%82%B9

山海経
大荒之中 有山名曰孽搖頵羝 上有扶木 柱三百里 其葉如芥 有谷曰?源谷 湯谷上有扶木 一日方至 一日方出 皆載於烏
『山海経』海経巻9 第14 大荒東經
秦野訳
大荒(辺境)の中に孽搖頵羝(げつよういんてい)という山があり、山の上に扶木がある。
柱:柱型日時計300里(16km)その葉はカラシナに似る。温源谷(雲仙)という谷があり、湯谷(徳富(諸富))の上に扶木がある。どうして、日の入り、日の出を巡らす。半径16kmの日時計になっている。
温源wēnyuánウンエン:雲仙
湯谷tānggǔタゥクゥ:徳富トクフ(諸富)


扶桑(ふそう、フーサン、英: Fusang)は、中国伝説で東方のはてにある巨木(扶木・扶桑木・扶桑樹とも)である。またその巨木の生えている土地を扶桑国という。後世、扶桑・扶桑国は、中国における日本の異称となったが、それを受けて日本でも自国を扶桑国と呼ぶことがある。例えば『扶桑略記』は平安時代の私撰歴史書の一つである。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%89%B6%E6%A1%91
 

和泉式部

 投稿者:秦野北斗  投稿日:2015年 7月 7日(火)20時05分38秒
  和泉式部の歌に「外山(とやま)吹く嵐・・」とある。堺の深井の地主の名が該当する。

ここで、外山姓は九州宮崎に多い姓とのことです。外山は奈良にも地名である。
また、歌の「津の国」は澶洲「茅渟(ちぬ)の海」で泉北郡踞尾村(つくのむら)。
BC200年、徐福船団入航の際に踞(つくば・う)ったのが語源の様だ。

外山(とやま)吹く嵐の風の音きけばまだきに冬の奥ぞ知らるる(千載396)
津の国のこやとも人を言ふべきにひまこそなけれ葦の八重葺き

和泉式部
長保元年(999年)頃までに和泉守・橘道貞の妻となり、夫と共に和泉国に入る。後の女房名「和泉式部」は夫の任国と父の官名を合わせたものである。道貞との婚姻は後に破綻したが、彼との間に儲けた娘・小式部内侍は母譲りの歌才を示した。帰京後は道貞と別居状態であったらしく、冷泉天皇の第三皇子・為尊親王との熱愛が世に喧伝されるが、身分違いの恋であるとして親から勘当を受けた。紫式部は和泉式部を評して「和泉式部という人こそ、おもしろう書きかはしける。されど、和泉はけしからぬかたこそあれ」と『紫式部日記』に記されている

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%92%8C%E6%B3%89%E5%BC%8F%E9%83%A8

澶洲「茅渟(ちぬ)の海」のイメージを添付する。
 

澶洲

 投稿者:秦野北斗  投稿日:2015年 6月 8日(月)17時24分58秒
  澶洲の港名は茅渟(ちぬ)の海

モンタヌスの絵は南蛮屏風と比較するかぎり、ほぼ情景を模写している。

アルノルドゥス・モンタヌス(Arnoldus Montanus、1625年 - 1683年)は、オランダの宣教師、歴史学者。
世界中の地理歴史についての書物を多数著した。日本に関しては、1669年著の『東インド会社遣日使節紀行』(通称「日本誌」 独:Gedenkwaerdige Gesantschappen der Oost-Indische Maetschappy aen de Kaisaren van Japan)がある。ただし、自身は一度も来日しておらず、イエズス会士の報告書や、使節の江戸参府紀行に基づいて著したとされる。

南蛮屏風
安土桃山時代 16世紀末期~17世紀初期 狩野内膳筆
 

澶洲の港名は茅渟(ちぬ)の海

 投稿者:秦野北斗  投稿日:2015年 6月 8日(月)17時22分8秒
  澶洲の港名は茅渟(ちぬ)の海

モンタヌスの絵は南蛮屏風と比較するかぎり、ほぼ情景を模写している。

アルノルドゥス・モンタヌス(Arnoldus Montanus、1625年 - 1683年)は、オランダの宣教師、歴史学者。
世界中の地理歴史についての書物を多数著した。日本に関しては、1669年著の『東インド会社遣日使節紀行』(通称「日本誌」 独:Gedenkwaerdige Gesantschappen der Oost-Indische Maetschappy aen de Kaisaren van Japan)がある。ただし、自身は一度も来日しておらず、イエズス会士の報告書や、使節の江戸参府紀行に基づいて著したとされる。

南蛮屏風
安土桃山時代 16世紀末期~17世紀初期 狩野内膳筆
 

浮盃

 投稿者:秦野北斗  投稿日:2015年 5月29日(金)23時38分0秒
  徐福は扶木を目印に有明海に入り、筑後川の浮盃(ぶばい)に上陸。
尚、扶木は浮盃の東対岸にあり、盃は1km流れている。

浮盃は古代の港で日本名は寺井津のようです。
「浮盃」佐賀県佐賀市諸富町大字寺井津

山海経
大荒之中 有山名曰孽搖頵羝 上有扶木 柱三百里 其葉如芥 有谷曰?源谷 湯谷上有扶木 一日方至 一日方出 皆載於烏
『山海経』海経巻9 第14 大荒東經
秦野訳
大荒(辺境)の中に孽搖頵羝(げつよういんてい)という山があり、山の上に扶木がある。
柱:柱型日時計300里(16km)その葉はカラシナに似る。温源谷(雲仙)という谷があり、湯谷(徳富(諸富))の上に扶木がある。どうして、日の入り、日の出を巡らす。半径16kmの日時計になっている。
温源wēnyuánウンエン:雲仙
湯谷tānggǔタゥクゥ:徳富トクフ(諸富)

史記正義
張守節『史記正義』では、
海外經云 湯谷在黑齒北 上有扶桑木 水中十日所浴 張揖云 日所出也 許慎云 熱如湯『史記』巻114司馬相如列傳 第57 「湯谷」の注
秦野訳
海外經云 黑齒国の北に湯谷(徳富(諸富))あり。その上、浴む(あむ)ところ、水のなか十日に扶桑木あり。張揖によると日の出の場所なり、許慎によると熱き湯のようである。
黑齒国は浮盃から雲仙谷の延長線上の沖縄になる。魏志倭人伝も同様の位置になる。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%89%B6%E6%A1%91

 

徐福が上陸した港

 投稿者:秦野北斗  投稿日:2015年 5月10日(日)20時28分27秒
  徐福東渡2225周記念 徐福長寿館開館20周年記念[徐福論文
手違いで紛失した模様、発表は未定

『後漢書』倭人伝に徐福

 會稽海外有東鯷人、分為二十餘國。又有夷洲及澶洲。傳言秦始皇遣方士徐福將童男女數千人、入海求蓬萊神仙不得、徐福畏誅不敢還、遂止此洲。世世相承有數萬家、人民時至會稽市。會稽東冶縣人有入海行遭風、流移至澶洲者。所在絶遠、不可往來。

澶洲を発見しました。

澶洲の港名は茅渟(ちぬ)の海で堺に存在する。大阪湾ではない。
徐福が上陸した港になる。
http://dictionary.goo.ne.jp/leaf/jn2/142121/m0u/
 

銅鐸(どうたく)紀元前2世紀

 投稿者:秦野北斗  投稿日:2015年 3月31日(火)19時59分18秒
  銅鐸(どうたく)は、弥生時代に製造された釣鐘型の青銅器である。紀元前2世紀から2世紀の約400年間にわたって製作、使用された。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%8A%85%E9%90%B8

銅鐸は、秦の始皇帝からその命を受けた「徐福」に始まり、卑彌呼で終わったな。
終止符は日本書記に「禮祭神祇、剋己勤躬、日愼一日。是以、人民富足、天下太平也」

銅鐸行事が祭りに変化した様だな。注意することは、古墳と重なることは無い。

「徐福伝説」
その伝説とは、 紀元前219年、秦の始皇帝の時代に童男童女500人を含め総勢3000人の集団を引き連れ、仙人と不老不死の仙薬を求めて中国大陸から東方の桃源郷日本へ旅立った一団がいた。それを先導したのが秦の始皇帝からその命を受けた「徐福」である。というものだ。
http://inoues.net/mystery/jyofuku.html

卑彌呼
其國本亦以男子為王、住七八十年、倭國亂、相攻伐歴年、乃共立一女子為王、名曰卑彌呼、事鬼道、能惑衆、年已長大、無夫婿、有男弟佐治國。自為王以來、少有見者。以婢千人自侍、唯有男子一人給飲食、傳辭出入。居處宮室樓觀、城柵嚴設、常有人持兵守衛。
________________________________________
 その国、本は男性を王としたが、七、八十年で中断し、倭国は擾乱、互いの攻伐が何年も続くに及んで一人の女性を王として共立した。名を卑彌呼といい、鬼道(五斗米道の教え)に従い、(呪術で)よく衆を惑わす。年齢は既に高齢で夫はなく、弟がいて国の統治を補佐した。王位に就いて以来、会えるものは少なく。婢(下女)が千人、その側に侍り、ただ一人の男性が食事を給仕し、伝辞のため出入する。居住する宮殿や楼観、城柵は厳重に設けられ、常に武器を持った守衛がいる。
http://yamatonokuni.seesaa.net/article/32582582.html

活目入?五十狹茅天皇 垂仁天皇
廿五年春二月丁巳朔甲子、詔阿倍臣遠?武渟川別・和珥臣遠??國葺・中臣連遠?大鹿嶋・物部連遠?十千根・大伴連遠?武日、五大夫曰「我先皇御間城入?五十瓊殖天皇、惟叡作聖、欽明聰達、深執謙損、志懷沖退、綢繆機衡、禮祭神祇、剋己勤躬、日愼一日。是以、人民富足、天下太平也。今當朕世、祭祀神祇、豈得有怠乎。」
http://www.seisaku.bz/nihonshoki/shoki_06.html
 

徐福と日本Ⅱ

 投稿者:maeda  投稿日:2015年 2月24日(火)14時11分11秒
  「徐福と日本Ⅱ~各種資料が語り始めた徐福の実像~」がアマゾン電子書籍「Kindle」版で発刊(2015.02.20)されました。
「徐福と日本~日本列島の徐福伝承を徹底検証~」と合わせて読むと、日本の歴史において徐福は隠されてきたが、その存在が、如何に重要であるか判ると思われます。
 

三角縁神獣車馬鏡

 投稿者:秦野北斗  投稿日:2015年 2月21日(土)21時10分53秒
  どうも訳がまとまらないでうな。お手数ですが、適切と主割れすものを採用してください。

銘文の高官は卑弥呼の高官だろう。

陳氏作鏡用青同 上有仙人不知老 君冝高官 保子冝孫長壽
http://www.ne.jp/asahi/isshun/original/mater10.html

秦野訳

陳寿、青銅を用い鏡を造る。神、仙人在り、君(卑弥呼)の宜しき高官、おい (老)を知らず。
保子(開花天皇)の宜しき孫(卑弥呼)は長寿なり。
 

三角縁神獣車馬鏡

 投稿者:秦野北斗  投稿日:2015年 2月21日(土)20時45分23秒
  いきなり訂正です。

陳寿、青銅を用い鏡を造る。神在り、君(卑弥呼)の宜しき高官、仙人不老を知らず。
保子(開花天皇)の宜しき孫(卑弥呼)は長寿なり。



三角縁神獣車馬鏡を訳すと徐福の仙人、長壽が見られる。

陳氏作鏡(用青同) 三角縁神獣車馬鏡

出土場所
岡山県岡山市湯迫 車塚古墳
群馬県藤岡市三本木 古墳
山梨県東八代郡中道町下曽根 銚子塚古墳
福岡県福岡市 藤崎遺跡6号方形周溝墓
琵琶湖文化館蔵

銘文の高官は卑弥呼の高官だろう。

陳氏作鏡用青同 上有仙人不知老 君冝高官 保子冝孫長壽
http://www.ne.jp/asahi/isshun/original/mater10.html

秦野訳

陳寿、青銅を用い鏡を造る。神在り、君(卑弥呼)の宜しき高官、仙人不老を知らず。
保子(開花天皇)の宜しき孫(卑弥呼)は長寿なり。
 

三角縁神獣車馬鏡

 投稿者:秦野北斗  投稿日:2015年 2月21日(土)20時30分18秒
  三角縁神獣車馬鏡を訳すと徐福の仙人、長壽が見られる。

陳氏作鏡(用青同) 三角縁神獣車馬鏡

出土場所
岡山県岡山市湯迫 車塚古墳
群馬県藤岡市三本木 古墳
山梨県東八代郡中道町下曽根 銚子塚古墳
福岡県福岡市 藤崎遺跡6号方形周溝墓
琵琶湖文化館蔵

銘文の高官は卑弥呼の高官だろう

陳氏作鏡用青同 上有仙人不知老 君冝高官 保子冝孫長壽
http://www.ne.jp/asahi/isshun/original/mater10.html

秦野訳

陳寿、青銅を用い鏡を造る。神在り、君(卑弥呼)の宜しき高官 (老)、仙人を知らず。
保子(開花天皇)の宜しき孫(卑弥呼)は長寿なり。

 

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