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甕棺墓

 投稿者:秦野北斗  投稿日:2016年 9月 2日(金)15時12分40秒
編集済
  返って、混乱させたようです。当方は拘奴國、扶桑国の位置で十分と思いましたが
扶桑は桔梗、槿は狗奴國男王の紋章で扶桑木と扶桑国は同じ物になる。
疑問があれば質問してください。

徐福と邪馬台国(秦野北斗)狗奴国を徳島と表記、資料を確認するとまた国の隣になる。
完全にミスです。

『後漢書』倭人伝、魏志倭人伝、女国(ウィキペディア)を図にお越し判断しています。

女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種。『魏志倭人伝』
女王国の東に海を渡ること千余里、また国がある。いずれも倭人である。

*自女王國東度海千餘里至拘奴國。『後漢書』倭人伝
女王国より東に海を渡ること千余里で拘奴国に至る。

其南有狗奴國、男子為王、其官有狗古智卑狗、不屬女王。『魏志倭人伝』
その南に狗奴国があり、男性を王と為し、官には狗古智卑狗があり、
不属女王に従属していない。

魏志倭人伝には方位が2種類ある。女王國東は伊勢になる。其南有狗奴國の
其南は南北の南を指す。女王國が付くか付かないかです。

実在の地名に愛知県扶桑町が存在する。狗奴國も吉野ヶ里遺跡、越国も同様だろう。
もう一つ扶桑が存在する。扶桑国だが、六世紀前半間まで存在した模様
詳細は十七条憲法(聖徳太子)の二君政を知らなければ理解できない。
扶桑は桔梗、槿を意味する。桔梗は王の紋章 扶桑木は王の木になる。

扶桑木 佐賀県筑後川河口(大川)自生した木

大荒之中 有山名曰孽搖頵羝 上有扶木 柱三百里 其葉如芥 有谷曰?源谷 湯谷上有扶木
一日方至 一日方出 皆載於烏      『山海経』海経巻九 第十四 大荒東經

荒野の中に山有り名は曰く孽搖頵羝、上に扶桑木あり。影柱は
三百里(一五.九㎞)其の葉は芥(メタセコイア属の常緑針葉樹)の如し、
谷あり、曰く?源谷(雲仙谷)。湯谷(湯国、佐賀)の上に扶桑木あり。
日の出には影が一五.九㎞に至り、日の入りには一五.九㎞で終わる。
皆、烏(烏帽子)をのせる。                 秦野北斗訳
 

甕棺墓と邪馬台国

 投稿者:maeda  投稿日:2016年 9月 1日(木)23時16分56秒
  秦野北斗 さま
>甕棺墓に興味があり調べました。東三河の麻生田遺跡は245年から数年間ですが邪馬台国の卑弥呼と狗奴国の男王卑弥弓呼の戦い。魏志倭人伝の記録にある。狗奴国の男王卑弥弓呼が関係する甕棺墓です。原因は親魏倭王の金印です。甕棺墓はこの時のでしょう。

興味ある情報を有難うございます。
麻生田遺跡が、卑弥呼と狗奴国王卑弥弓呼との戦い、245年から数年間、ということ及び、
甕棺墓が狗奴国と関係するという、根拠の資料はあるでしょうか。よろしくお願いします。
 

東三河の麻生田遺跡

 投稿者:秦野北斗  投稿日:2016年 8月26日(金)09時31分30秒
  2016年 5月18日(水)09時48分33秒 投稿者:maeda
東三河の麻生田遺跡から、甕棺墓が237基出土していることから、吉野ケ里遺跡とのつながりが考えられるなど、興味深い情報を集まってきています。

甕棺墓に興味があり調べました。東三河の麻生田遺跡は245年から数年間ですが邪馬台国
の卑弥呼と狗奴国の男王卑弥弓呼の戦い。魏志倭人伝の記録にある。狗奴国の男王卑弥弓呼が関係する甕棺墓です。原因は親魏倭王の金印です。甕棺墓はこの時のでしょう。
狗奴国は西三河になるが東三河ですか逃げましたな。

霊岩郡(韓国)は102基に至る甕棺墓が集中的に分布している地域である。
全羅南道霊岩郡は越国、倭奴国です。名古屋の語源になる。「名越」名は越になる。
【名古屋市の由来】 名古屋は、平安時代末期の荘園名として「那古野荘」で見えるものが最も古いが、その他「名護屋」「浪越」「名越」などとも表記されていた。
http://www.nishida-s.com/main/categ2/korea-1/korea-1.htm

「吉野ケ里遺跡とのつながり」は省略
 

會稽東縣

 投稿者:秦野北斗  投稿日:2016年 7月 5日(火)21時58分25秒
編集済
  お邪魔します。魏志倭人伝を解読しています。

會稽東縣は中国浙江省紹興市(倭人街)のようです。
徐福一向を先導した倭人が紹興市の倭人(古代から交易ありです)

『孫権伝』
二年春正月,魏作合肥新城。詔立都講祭酒,以教學諸子。遣將軍衛?、諸葛直將甲士萬人,浮海求夷洲及亶洲。亶洲在海中,長老傳言:秦始皇帝遣方士徐福將童男童女數千人入海,求蓬萊神山及仙藥,止此洲不還。世相承有數萬家,其上人民。時有至會稽貨布,會稽東縣人海行,亦有遭風流移至亶洲者。所在?遠,卒不可得至,但得夷洲數千人還。

二年春正月,魏の新城の築城を求める。詔立をもって酒宴、みな教學する。派遣將軍の衛?、諸葛直將、兵士萬人は夷洲及亶洲への出航を求める。亶洲は海中にある。長老の言伝え:秦始皇帝遣方士徐福將童男童女數千人が蓬萊神山及仙藥求め、出航する。ただ此の洲に還えらず。代々、會稽貨幣(交易)至る時、會稽東縣人、出航また遭風流移で亶洲至る。所在は?遠し不明。將軍、ついに得られず、ただ夷洲に數千人が還える。
 

「呉人外国図云亶州去琅邪三万里」奈良(高天原)

 投稿者:秦野北斗  投稿日:2016年 5月21日(土)02時12分15秒
  朗報です
「呉人外国図云亶州去琅邪万里」(呉人外国図は、亶州は琅邪を去ること万里という。)
万里の答えは、『山海経』に「君子の国は衣冠をつけ、剣を帯びて獣肉を食べ、2つの飾りの虎をいつもそばに置いている」「不死の人が交脛(山東地方か?)の東にあり、その人は色が黒く、長寿でなかなか死なない。君子国も不死国もともに東方にある」とあり、『外国図』には「君子国は瑯邪(現:山東省臨沂市付近)から三万里離れたところにある」とある。
「呉人外国図云亶州去琅邪三万里」奈良(高天原)
http://www2.ezbbs.net/cgi/reply?id=kojima&dd=22&re=817
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E5%A4%B7

琅邪郡(琅琊郡、ろうや-ぐん)は、中国にかつて存在した郡。秦代から唐代にかけて、現在の山東省東南部と江蘇省東北部にまたがる地域に設置された。
前漢のとき、徐州は琅邪郡に属す

イザナミ、イザナギの伊邪(イザ)の意味は伊=神の意志を伝える聖職者。治める人の意を表す。調和をさせる様、邪=瑯邪(ろうや)になる。

イザナギ(伊弉諾/伊邪那岐/伊耶那岐)、イザナミ(伊弉冉、伊邪那美、伊耶那美、伊弉弥)
イザナギは徐福になる。イザナミ、イザナギともに瑯邪(ろうや)

発表概要を事務局まで連絡の件、小生失業につき1年程度は自由になりません。
参加したいのですが、保留になります。
徐福の調査で1年程度潰します。亶州の港が堺になり、小生の目の先です。

 

先古代史の会

 投稿者:maeda  投稿日:2016年 5月20日(金)21時44分8秒
  小著「徐福と日本神話の神々」を購入いただいた由、有難うございます。
ところで、「先古代史の会」(本部東京)で、5月29日(日)pmに徐福関係の発表を行います。
案内は、次のHPをご覧ください。
http://senkodaishi.seesaa.net/

また、今年度後半の発表者を募集しておりますので、よろしければご応募ください。
ただし、交通費なし、資料コピー代支給、発表概要を前もって事務局まで連絡いただき、査読審査があります。
 

ソテツ

 投稿者:秦野北斗  投稿日:2016年 5月18日(水)15時11分23秒
  先日「徐福と日本神話の神々」購入しました。
最近、蘇鉄の調査をしています。堺の資料では天保1800年が最古です。
南蛮船駿河湾来航図(堺)に蘇鉄が画かれています。
南蛮船駿河湾来航図(堺)は約1500年。これから堺には最低500年前から存在する。
蘇鉄の樹齢は10mで1000年ぐらいになる。天皇家も蘇鉄を大切にしている。

あやまる第2貝塚、縄文時代から弥生時代(「今から2500年前)で蘇鉄は徐福が持ってきた五穀に入るのでは。
分布 神奈川、愛知、堺、高知、九州、韓国、済州島、奄美、新潟

日本の九州南部、南西諸島、台湾、中国大陸南部に分布する。
日本の局方には収載されていないが、 中国では漢方薬として、葉・種子・茎・花・根が薬用になると考えられている。葉には止血・解毒・止痛の効果があるとされ、胃薬や血止めの薬にされる。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BD%E3%83%86%E3%83%84

ソテツ
1億5千万年以前のジェラ紀に全盛を極め繁殖したといわれる古い植物で、前生代の生命を今なお持続している生きた標本です。雌雄異株で精虫によって受精します。ソテツは葉を肥料に、種子を味噌、醤油の原料に茎を澱粉に精成し、食料に利用していたといわれています。方言でステイチともいいます。
環境庁・鹿児島県

あやまる第2貝塚
縄文時代から弥生時代(「今から2500年前)の貝塚です。1983年(昭和58年)に町教委によって発掘調査が行われました。調査の結果縄文時代の土器片と弥生時代の生活跡が確認されました。
出土遺跡は町歴史民俗資料館に展示保管されております。
笠利町教育委員会・歴史民俗資料館
http://hn2784.hatenablog.com/entry/2014/10/15/220546
 

お久しぶりです

 投稿者:maeda  投稿日:2016年 5月18日(水)09時48分33秒
  全国邪馬台国連絡協議会で、邪馬台国の研究発表したりしております。
東三河の麻生田遺跡から、甕棺墓が237基出土していることから、吉野ケ里遺跡とのつながりが考えられるなど、興味深い情報を集まってきています。

ところで、徐福の出身地は、江蘇省連雲港市かん楡(ゆ)県金山郷で徐阜村(徐福村)ということで、発掘調査が裏付けています。それ以外に、龍口という説があります。
 小生、まだ中国の地理に詳しくないのですが、徐州と近いといえば近いのではないでしょうか。
 

徐阜村は徐州の近くでしょうか。

 投稿者:秦野北斗  投稿日:2016年 5月 3日(火)20時37分35秒
  古代史で泰始2年(266)11月文章を再考しています。
質問ですが徐福の徐阜村は徐州の近くでしょうか。

 円丘・方丘を南・北の郊に併せ、ニ至の祀りをニ郊に合わせたり。の文章がある。
円丘・北方丘を南の郊に併せた所から方丘方向に方位を延長すると徐州に至る。
距離は3万2千里で徐州付近になる。

泰始2年(266)の文章は壱與(約38才)になる。
円丘・北方丘を南の郊に併せた所は裏鬼門で徐阜村になると思われる。

斉の国 琅邪(ろうや)
(現在は山東省の東部です)
1984年,江蘇省連雲港市かん楡(ゆ)県金山郷で徐阜村(徐福村)発見されています。

泰始2年(266)11月
   倭人、来たりて方物を献ず。
   円丘・方丘を南・北の郊に併せ、ニ至の祀りをニ郊に合わせたり。
http://8220.teacup.com/toraijin/bbs/mobile/index/detail/comm_id/2072/?reverse=0&TEACUPRBBS=02b5381024cd398b2fe29893ab7b715a


 

富士山

 投稿者:秦野北斗  投稿日:2016年 1月27日(水)14時06分42秒
  方士は徐福?

ワキは紺の狩衣姿で唐冠を戴き、二人のワキツレはオレンジの狩衣に烏帽子姿

昔唐土の方士と云つし者。日本に渡り。駿河国富士山に到り。
不死の薬を求めし例あり。我も其遺跡を尋ねん為。唯今駿河国富士山に赴き候
http://www.kanazawa-bidai.ac.jp/~hangyo/utahi/text/yo025.txt
 

徐福と日本の神々

 投稿者:maeda  投稿日:2016年 1月23日(土)22時57分42秒
   今年初の拙著「徐福と日本神話の神々」が、彩流社(2016.1.15付)から出版されました。
 縄文から弥生時代の変わり目のころ、徐福一行が日本列島に渡来したといわれているが、徐福伝承は日本列島全体に広がって存在する。その徐福像をあぶり出し、日本文化への影響を探っております。
 つまり、徐福一行が、日本神話の神々に祭り上げられたことを論証いたします。ご興味がある方は、ご照覧を。(maeda)
 

徐福研究者、漢文読めず

 投稿者:秦野北斗  投稿日:2016年 1月11日(月)22時49分45秒
  日本の古代の歴史は歪められているな。

批判する意図はないが、もう少し見聞を広げてたら、墓穴を掘りますよ。

徐福伝説の研究者 逵志保は『臨海水土志』『孫権伝』を漢文を読み下せない。
要約だが秦始皇帝遣方士徐福將童男童女數千人、亶洲至る。
この文章を知らない様だ。亶洲(堺)は知らなくも良い。

『孫権伝』に長老の言伝え:秦始皇帝遣方士徐福將童男童女數千人が蓬萊神山及仙藥
求め出航する。ただ此の洲に還えらず。會稽東縣人、遭風流移で亶洲至る。

孫権の夷洲は台湾。しかし、文章を訳せば九州の阿蘇山

『臨海水土志』
夷洲在臨海東南、去郡二千里。土地無霜雪、草木不死。四面是山谿。人皆?髮穿耳、女人不穿耳。土地饒沃、既生五穀。又多魚肉。有犬、尾短如麕尾状。此夷舅姑子婦臥息共一大牀、略不相避。地有銅鐵、唯用鹿格爲矛以戰闘、摩礪青石以作(弓)矢鏃。取生魚肉雜貯大瓦器中、以鹽鹵之、歴月所日、乃啖食之、以爲上肴

夷洲は臨海東南にあり、郡(末盧国:香椎)から二千里 (約一〇七㎞)土地(阿蘇山)は霜雪なく草木は枯れない。四面は山谿。人みな、?髮は耳を通す。女は通さない。土地は肥沃で既に五穀が実る。また、魚は多い。犬あり尾は短く麕(のろ)の尾の如し。
夷の舅、姑、子、婦は供に大床で寝る。互いに避けない。夷洲には銅鐵あり、ただ
鹿格爲の矛を、戰闘で用いる。磨いた青石で矢鏃を作る。生魚肉を取り大瓦器の
中に雑に入れ塩地でこれ歴月所日もって食べものとして喰らう上肴なり。
秦野北斗訳

『孫権伝』
遣將軍衛?、諸葛直將甲士萬人,浮海求夷洲及亶洲。亶洲在海中,長老傳言:秦始皇帝遣方士徐福將童男童女數千人入海,求蓬萊神山及仙藥,止此洲不還。世相承有數萬家,其上人民。時有至會稽貨布,會稽東縣人海行,亦有遭風流移至亶洲者。所在?遠,卒不可得至,但得夷洲數千人還。

派遣將軍の衛?、諸葛直將、兵士萬人は夷洲及亶洲への出航を求める。
亶洲は海中にある。長老の言伝え:秦始皇帝遣方士徐福將童男童女數千人が
蓬萊神山及仙藥求め、出航する。ただ此の洲に還えらず。代々、會稽貨幣
(交易)至る時、會稽東縣人、出航また遭風流移で亶洲至る。
所在は?遠し不明。將軍、ついに得られず、ただ夷洲に數千人が還える。

秦野北斗訳
 

南蛮船駿河湾来航図

 投稿者:秦野北斗  投稿日:2016年 1月 9日(土)23時18分29秒
  九州国立博物館収蔵(大友 宗麟)

来航図の駿河湾来航は堺(亶洲)の港になる。
大友 宗麟の終焉の地を堺の津久野に因み、津久見(商号?)にした模様。
利休、今井宗久、津田 宗及も関係する。歴史は繋がります。

初代当主の大友能直は、相模国愛甲郡古庄の郷司の近藤能成(古庄能成とも)の息子として生まれた。父の能成は、藤原秀郷の子の藤原千常の6代後の近藤景頼の子とするのが系図があるが、藤原利仁の9代後の近藤貞成の子であるという説もある。

義鎮 / 大友 宗麟(おおとも よししげ / おおとも そうりん)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、戦国大名。キリシタン大名。豊後国大友氏21代当主。宗麟の法号で知られている。

海外貿易による経済力と優れた武将陣、巧みな外交により版図を拡げ、大内氏や毛利氏を初めとする土豪・守護大名などの勢力が錯綜する戦国時代の北九州東部を平定した。

当初は蜜教:ネストリウス派(禅宗は間違い)に帰依していたが後にカトリックへの関心を強め、ついに自ら洗礼を受けた。洗礼は南蛮貿易(火縄銃、火薬)の権益を得るためだろう。最盛期には九州六ヶ国に版図を拡げた。しかし「キリシタン王国」建設間近で島津義久に敗れ、晩年には豊臣秀吉傘下の一大名に甘んじて豊後一国までに衰退した。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%8F%8B%E6%B0%8F

秦氏 家紋「杏葉」
神武東征(年号「秦」)で朝鮮(韓半島)に東征する。国内は「抱き茗荷」になる。
283年 秦氏、弓月君(匈奴の月氏)として帰国する。家紋は「杏葉」
「抱き茗荷」「杏葉」は良く似ていて見分けが付かない。浄土宗の紋
 

先古代史の会

 投稿者:maeda  投稿日:2016年 1月 6日(水)17時23分3秒
  歴史研究会(全国歴史研究会)の下部組織です。
事務局長が全国邪馬台国連絡協議会の理事でもあり、交流があります。
 

先古代史の会

 投稿者:秦野北斗  投稿日:2016年 1月 6日(水)06時21分33秒
  前田さんの先古代史の会とはどんな団体になるのでしょうか。

狗奴国東海説・・・前田豊氏(先古代史の会会長)

高尾山古墳は地方豪族の墓だろう。古墳にも変遷がありそうです。

秦氏
秦氏、行基、良弁、徳一、空海は神奈川から唐に渡航している。
また、ネストリウス派の様です。
 

狗奴国サミットスケジュール

 投稿者:maeda  投稿日:2016年 1月 5日(火)15時38分20秒
  スケジュールは以下の通り決定されています。

第1回狗奴国サミットin沼津
高尾山古墳と狗奴国の魅力を知る

狗奴国は邪馬台国と同様に日本国の起源として重要であるにも関わらず、あまり注目されていません。邪馬台国に関しては畿内説と九州説が長年に渡って行なわれていますが、狗奴国についてはなされていません。全国の狗奴国候補地を中心にサミットを開催して狗奴国の関心が高めることをねらいとして「狗奴国サミット」を企画しました。
第1回目は高尾山古墳の保存で注目を浴びている沼津市で開催します。

日時 2月13日(土)13時~16時半
場所 沼津市民文化センター小ホール(定員526人)
   沼津駅(南口)徒歩約15分 沼津市御幸町15-1
会費 800円(全国邪馬台国連絡協議会会員は600円)
   高校生以下は無料
受付 当日受付(先着順)
スケジュール
開演 13時(受付開始12時から)
第1部 高尾山古墳の魅力について―東日本の古墳時代の幕開け―
概要説明 現地ボランティア
基調講演
大塚重先生講演(明治大学名誉教授・元日本考古学協会会長)

原秀三郎先生講演(静岡大学名誉教授・元沼津市史編纂委員長)
「高尾山古墳に葬られたのは誰か―日本史上に占めるスルガ高尾山古墳の歴
史的位置―」
第2部 狗奴国サミット
基調講演
森岡秀人先生講演(奈良県立橿原考古学研究所共同研究員・元日本考古学協会理事)
「邪馬台国と狗奴国―その領域問題をめぐる考古学論争―」
2.研究発表大会
 ①狗奴国東海説・・・前田豊氏(先古代史の会会長)
②狗奴国大和説・・・若井正一(掛川市・袋井市中東遠総合医療センター副院長)
③狗奴国熊本説・・・菊池秀夫(全国邪馬台国連絡協議会事務局長)
主催 全国邪馬台国連絡協議会

 

狗奴国サミット講演可能ですか

 投稿者:秦野北斗  投稿日:2016年 1月 3日(日)19時02分16秒
  狗奴国の位置は確認済みです。

西三河:愛知県幡豆郡(はずぐん)近辺になる。
 

狗奴国東海・関東説

 投稿者:maeda  投稿日:2016年 1月 3日(日)12時01分38秒
  2月13日、全国邪馬台国連絡協議会主催の「狗奴国サミット」で、狗奴国東海・関東説のショートスピーチをします。
邪馬台国は、原倭国 拡大畿内説「東三河・東静岡」を前提としています。
ご参考まで。
 

明けましておめでとうございます

 投稿者:maeda  投稿日:2016年 1月 3日(日)11時54分4秒
  2016年が、幕開けしました。
昨年は、いろいろなことが起こりましたが、様々な予言が示したような大被害はかなり回避されたようです。
意識が現象を創るという見方をとれば、希望をもつことこそ重要ではないでしょうか。
今年は、新たな世界が開けるような気がします。
明るい未来をイメージして、1年を過ごしましょう。
 

静岡と三河は同一文化圏になる。

 投稿者:秦野北斗  投稿日:2015年12月29日(火)16時25分59秒
  豊 のつく地名は、東三河に多く、東三河と考えていますが、昔は、静岡東三河は同一文化圏だったようです。

魏志倭人伝まで遡ると、静岡と三河は同一文化圏になる。魏志倭人伝の狗奴國が関係する。

魏志倭人伝の解読は終わりました。徐福がらみが多々ある。講演、出版を考えていますが
妙案なしです。専門家の前田さんに協力を求めます。

「東国#開発」を参照
持統天皇3年(689年)にも投化した新羅人を下毛野に移し、翌持統天皇4年(690年)には帰化した新羅の韓奈末許満等12人を武蔵国や、下毛野国に居住させる。霊亀元年(715年)には尾張国人の席田君邇近及び新羅人74人が美濃国を本貫地とし、席田郡に移される、天平5年(733年)。しかし何れの集落もその後断絶しており、歴史的資料や他地域への移動も行われていない。

秦野市は宝蓮寺の蓑毛(美濃毛)が古名と思われる。
http://www.geocities.jp/fusan0208/dainitidou.htm

持統天皇3年(689年)にも投化した新羅人を下毛野に移し、翌持統天皇4年(690年)には帰化した新羅の韓奈末許満等12人を武蔵国や、下毛野国に居住させる。
霊亀元年(715年)には尾張国人の席田君邇近及び新羅人74人が美濃国を本貫地とし、
席田郡に移される。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B0%E7%BE%85%E3%81%AE%E5%85%A5%E5%AF%87

帰化人
日本からは高句麗に学問僧など留学生が派遣された。持統天皇元年(687年)、日本の朝廷は帰化した新羅人14人を下野国に、新羅の僧侶及び百姓の男女22人を武蔵国に土地と食料を給付し、生活が出来るようにする。帰化人の総数には日本から新羅に帰化していた倭人も含まれる。また天皇により新羅人の帰国が奨励され、半島に帰還するものに対しては食料が配布された。歴史的に残留した新羅からの帰化人は百数十名と少なく、多くは漢民族であった。

「東国#開発」を参照
持統天皇3年(689年)にも投化した新羅人を下毛野に移し、翌持統天皇4年(690年)には帰化した新羅の韓奈末許満等12人を武蔵国や、下毛野国に居住させる。霊亀元年(715年)には尾張国人の席田君邇近及び新羅人74人が美濃国を本貫地とし、席田郡に移される、天平5年(733年)。しかし何れの集落もその後断絶しており、歴史的資料や他地域への移動も行われていない。

開発
飛鳥時代から平安時代にかけては、朝廷の政策により、朝鮮半島から多数の渡来人・難民が東国方面に移住・入植した経緯がある。六国史を始めとする記録からは、これら半島出身者の東国への移住が、朝廷により逐一把握されていたことが分かる。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B0%E7%BE%85%E3%81%AE%E5%85%A5%E5%AF%87
 

宝蓮寺

 投稿者:秦野北斗  投稿日:2015年12月23日(水)15時43分57秒
  宝蓮寺のお札ですが(行基、聖武天皇、良弁)と言っていましたが聖武天皇らしき人の頭に
十字架がある。十字架を調べるとネストリウス派の様です。らしき人は聖武天皇でなく、
秦氏になる。

ネストリウス派とは、古代キリスト教の教派の1つ。コンスタンティノポリス総主教
ネストリオスにより説かれた。325年のキリスト教会最初の公会議ニカイア公会議で
三位一体説が正統とされたため、それに異を唱えるネストリウス派は431年のエフェソス
公会議において異端認定され、排斥された。これにより、ネストリウス派はペルシャ帝国
へ移動し、7世紀ごろには中央アジア・モンゴル・中国へと伝わった。唐代の中国において
は景教と呼ばれる。のちアッシリア東方教会が継承した。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8D%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%AA%E3%82%A6%E3%82%B9%E6%B4%BE
 

豐秋津洲

 投稿者:秦野北斗  投稿日:2015年12月21日(月)17時11分39秒
  豐秋津洲 が静岡 という根拠があるのでしょうか。

天之御中主神(アメノミナカヌシノカミ)が徐福を案内した東方の神山が古事記、
日本書記の大八島国になる。
徐福伝説の地は大八島国、徐福:イザナギ、司馬:イザナミが重なる。
近畿、中部が空白地帯になる。
 

追記と訂正、

 投稿者:秦野北斗  投稿日:2015年12月21日(月)13時50分11秒
  辰韓の秦ではない。→辰韓は始皇帝の秦ではない。俀国の秦である。

韓三種:馬韓、辰韓、弁辰。の顛末は古事記、日本書記に記録がある。
韓半島は馬韓、辰韓、弁辰、倭国の4国に成っている。

『後漢書』辰韓伝:秦の逃亡者とあるが、始皇帝の秦ではない。馬韓(ばかん)は、
(紀元前2世紀末から4世紀中葉)始皇帝の秦(紀元前778年 - 紀元前206年)になり、
辰韓は始皇帝の秦ではない。2世紀末に俀国が存在する。

『後漢書』馬韓伝

 韓有三種:一曰馬韓、二曰辰韓、三曰弁辰。馬韓在西、有五十四國、其北與樂浪、南與倭接。辰韓在東、十有二國、其北與濊貊接。弁辰在辰韓之南、亦十有二國、其南亦與倭接。凡七十八國、伯濟是其一國焉。大者萬餘戸、小者數千家、各在山海閒、地合方四千餘里、東西以海為限、皆古之辰國也。馬韓最大、共立其種為辰王、都目支國、盡王三韓之地。其諸國王先皆是馬韓種人焉。

 韓には三種あり、一に馬韓、二に辰韓、三に弁辰という。馬韓は西に在り、五十四カ国、その北に楽浪、南に倭と接する。辰韓は東に在り、十有二国、その北に濊貊と接する。弁辰は辰韓の南に在り、また十有二国、その南はまた倭と接する。およそ七十八国、伯済はその一国である。大国は万余戸、小国は数千家、各々に山海の間に在り、土地は合計四千余里、東西は海が限界で、いずれも昔の辰国である。馬韓が最大、その苗裔を辰王として共立し、都は目支国、三韓の地の大王である。そこの諸国王の先祖は皆、馬韓の血族である。
 

俀国,

 投稿者:秦野北斗  投稿日:2015年12月20日(日)23時48分40秒
  大業三年(607年)、用明天皇の頃に俀国が中国史籍に出てくる。数年で倭国に訂正される。
『隋書』倭国伝、『後漢書』辰韓伝に文書がある。辰韓Wikipedia の年代は始皇帝の秦。

『隋書』倭国伝:文章には魏志の地名を入れます。
翌年、上(天子)は文林郎の裴世清を使者として倭国に派遣した。まず百済(馬韓)、竹島(済州島)、都斯麻国(対馬)、一支国(一大國:壱岐)、竹斯国(末盧国:香椎)、秦王国(伊都国)に至る。 そこの人は華夏(中華)と同じ、以て夷洲となす。疑わしいが解明は不能である。また十余国を経て、海岸(佐賀の有明海)に達した。竹斯国より以東(魏志倭人伝の邪馬台国までの国と行程)は、いずれも倭(俀国)に附庸している。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AD%8F%E5%BF%97%E5%80%AD%E4%BA%BA%E4%BC%9D

「疑わしいが解明は不能である。」に注目する。
伊都国を「魏志:代々王がおり、皆、女王国の統治下に属し」裴世清は秦王国としている。
以東は、いずれも倭に附庸している。実際は用明天皇の統治下は俀国になる。
裴世清としては倭国なのになぜ俀国(倭人伝は俀国伝に変更)なの???だろう。
伊都国を秦王国、秦の音が出ている。伊都国が秦の王国になると、以東は秦国になる。
俀は秦(シン)と推定できる。

『後漢書』辰韓伝:秦の逃亡者とあるが、始皇帝の秦ではない。馬韓(ばかん)は、
(紀元前2世紀末から4世紀中葉)始皇帝の秦(紀元前778年 - 紀元前206年)になり、
辰韓の秦ではない。2世紀末に俀国が存在する。
  辰韓、古老は秦の逃亡者で、苦役を避けて韓国に往き、馬韓は東界の地を彼らに割譲したのだと自称する。そこでは国を邦、弓を弧、賊を寇、行酒を行觴(酒杯を廻すこと)と称し、互いを徒と呼び、秦語に相似している故に、これを秦韓とも呼んでいる。
 城柵、家屋、宮室がある。諸々の小邑落には各自に渠帥がおり、大長は臣智、次に儉側、次に樊秖、次に殺奚、次に邑借がいる。土地は肥沃、五穀の栽培に適している。養蚕を知っており、縑布を作る。牛馬の車に乗る。嫁は婚礼をして娶る。道で行き合えば道を譲る。
 国内で鉄を産出し、濊、倭、馬韓などが、これを求めに来る。おおよそ諸々の交易では皆、鉄を以て通貨とする。習俗は歌舞、飲酒、鼓を打ち瑟(しつ=弦が25本か16本の琴)を弾くことを好む。幼児はその頭を扁平にするため、皆でこれを石に押し付ける。
http://members3.jcom.home.ne.jp/sadabe/kanbun/bakan-kanbun2-gokanzho.htm

俀国は、漢和辞典では俀(タイ)、当時の読みは失われる。同様に邪馬壹国の壹(ト)も失われている。邪馬壹(ヤマト)は韓半島の国名で、神武東征で命名される。

『隋書』倭国伝

明年、上遣文林郎裴清使於倭國。度百濟、行至竹島、南望○羅國、經都斯麻國、迥在大海中。又東至一支國、又至竹斯國、又東至秦王國。其人同於華夏、以為夷洲、疑不能明也。又經十餘國、達於海岸。自竹斯國以東、皆附庸於倭。

 翌年、上(天子)は文林郎の裴世清を使者として倭国に派遣した。百済を渡り、竹島に行き着き、南に○羅国を望み、都斯麻国(対馬)を経て、遙か大海中に在り。また東に一支国に至り、また竹斯国に至り、また東に秦王国に至る。そこの人は華夏(中華)と同じ、以て夷洲となす。疑わしいが解明は不能である。また十余国を経て、海岸に達した。竹斯国より以東は、いずれも倭に附庸している。

伊都國(いとこく)

 東南陸行五百里、到伊都國、官曰爾支、副曰泄謨觚、柄渠觚。有千餘戸、世有王、皆統屬女王國、郡使往來常所駐。

 東南に陸行すること五百里(約二六・七㎞)、伊都国に到る。官は爾支、副は泄謨觚、柄渠觚という。千余戸あり、代々王がおり、皆、女王国の統治下に属し、郡使の往来では常にここに逗留する。

『後漢書』辰韓伝
 辰韓、耆老自言秦之亡人、避苦役、適韓國、馬韓割東界地與之。其名國為邦、弓為弧、賊為寇、行酒為行觴、相呼為徒、有似秦語、故或名之為秦韓。有城柵屋室。諸小別邑、各有渠帥、大者名臣智、次有儉側、次有樊秖、次有殺奚、次有邑借。土地肥美、宜五穀。知蠶桑、作縑布。乘駕牛馬。嫁娶以禮。行者讓路。國出鐵、濊、倭、馬韓並從?之。凡諸(貨)〔貿〕易、皆以鐵為貨。俗喜歌舞飲酒鼓瑟。兒生欲令其頭扁、皆押之以石。

 辰韓、古老は秦の逃亡者で、苦役を避けて韓国に往き、馬韓は東界の地を彼らに割譲したのだと自称する。そこでは国を邦、弓を弧、賊を寇、行酒を行觴(酒杯を廻すこと)と称し、互いを徒と呼び、秦語に相似している故に、これを秦韓とも呼んでいる。
 城柵、家屋、宮室がある。諸々の小邑落には各自に渠帥がおり、大長は臣智、次に儉側、次に樊秖、次に殺奚、次に邑借がいる。土地は肥沃、五穀の栽培に適している。養蚕を知っており、縑布を作る。牛馬の車に乗る。嫁は婚礼をして娶る。道で行き合えば道を譲る。
 国内で鉄を産出し、濊、倭、馬韓などが、これを求めに来る。おおよそ諸々の交易では皆、鉄を以て通貨とする。習俗は歌舞、飲酒、鼓を打ち瑟(しつ=弦が25本か16本の琴)を弾くことを好む。幼児はその頭を扁平にするため、皆でこれを石に押し付ける。
伊都國:三沢遺跡、福岡県小郡市三沢

 

俀国,豐秋津洲

 投稿者:maeda  投稿日:2015年12月19日(土)18時44分28秒
  秦野様

 色々の情報を有難うございます。

 ところで、俀国は、一般にタイコクと読まれていますが、シンコクとは読めるのでしょうか。
 俀 という字は、旺文社の漢和辞典に出てきません。

 また、豐秋津洲 が静岡 という根拠があるのでしょうか。
 豊 のつく地名は、東三河に多く、東三河と考えていますが、昔は、静岡東三河は同一文化圏だったようです。 (maeda)
 

日本と国名

 投稿者:秦野北斗  投稿日:2015年12月14日(月)19時49分26秒
  日本は、みず穂の国、俀国(シン国)、和国、日本と国名を変えている。
俀国へ改名はBC200年頃に徐福將童男童女數千人がしたと思われる。
和国(倭国)は改名AC607年になる。俀国は800年間使用される。

日本名は日本書紀の大日本豐秋津洲(静岡)から命名にした模様
領主は国之常立神(クニノトコタチノカミ)、常立(常陸、日立)国の神

『隋書』倭国伝 名が紛らわしいので俀王国であるが秦王国を使う。
大業三年(607年)翌年、上(天子)は文林郎の裴世清を使者として倭国に派遣した。
ここでは隋が倭国と思い込んで書いている。訳には現在の地名を補足する。
百済から竹島(済州島)、南に五島列島を望み、対馬国を経て、東に壱岐に至る。
竹斯国(志賀島)に至り、東に秦王国(三沢遺跡)に至る。
秦王国は魏志の伊都国になる。そこの人は華夏(中華)と同じ、以て夷洲となす。
秦王国の名前:裴世清は疑わしいが解明は不能である。
竹斯国(志賀島)より以東は、いずれも倭に附庸している。
注)裴世清はまだ倭国と思っている。魏志倭人伝では邪馬壹國(奈良)の統治下になる。
多利思比孤(用明天皇)が統治。当時の日本名(俀国:シン国)

魏志倭人伝
東南陸行五百里、到伊都國、官曰爾支、副曰泄謨觚、柄渠觚。有千餘戸、世有王、皆統屬女王國、郡使往來常所駐。

 東南に陸行すること五百里、伊都国に到る。官は爾支、副は泄謨觚、柄渠觚という。千余戸あり、代々王がおり、皆、女王国の統治下に属し、郡使の往来では常にここに逗留する。

『隋書』倭国伝
大業三年、其王多利思比孤遣使朝貢。使者曰:「聞海西菩薩天子重興佛法、故遣朝拜、兼沙門數十人來學佛法。」其國書曰「日出處天子致書日沒處天子無恙」云云。帝覽之不悅、謂鴻臚卿曰:「蠻夷書有無禮者、勿復以聞。」

 大業三年(607年)、その王の多利思比孤(用明天皇)が遣使を以て朝貢。
 使者が曰く「海西の菩薩天子、重ねて仏法を興すと聞き、故に遣わして朝拝させ、兼ねて沙門数十人を仏法の修学に来させた」。
 その国書に曰く「日出ずる處の天子、書を日沒する處の天子に致す。恙なきや」云々。帝はこれを見て悦ばず。鴻臚卿が曰く「蛮夷の書に無礼あり。再び聞くことなかれ」と。
事の原因は 国書に俀国(シン国)と記した模様。古代の日本は俀国と韓半島の倭国(和国)
で成立つ。日本は通説の倭国とするが、俀国と和国になる。裴世清以後に和国になる。
聖徳太子の和を重んじ・・は、和国の事で平和の和ではない。

 明年、上遣文林郎裴清使於倭國。度百濟、行至竹島、南望○羅國、經都斯麻國、迥在大海中。又東至一支國、又至竹斯國、又東至秦王國。其人同於華夏、以為夷洲、疑不能明也。又經十餘國、達於海岸。自竹斯國以東、皆附庸於倭。

 翌年、上(天子)は文林郎の裴世清を使者として倭国に派遣した。百済を渡り、竹島に行き着き、南に○羅国を望み、都斯麻国を経て、遙か大海中に在り。また東に一支国に至り、また竹斯国に至り、また東に秦王国に至る。そこの人は華夏(中華)と同じ、以て夷洲となす。疑わしいが解明は不能である。また十余国を経て、海岸に達した。竹斯国より以東は、いずれも倭に附庸している。

 

徐福,亶洲至る

 投稿者:秦野北斗  投稿日:2015年11月21日(土)15時28分39秒
  魏志倭人伝の再考で末盧国は香椎(かしい)、福岡県福岡市東区の北部に位置する
孫権の夷州と亶州の捜査文章。二百二十九年に呉の孫権が衛温・諸葛直に1万を与え、捜査を行わせた。
秦野は孫権の將軍と末盧国軍で戦闘を予想したが間違い、また「南至投馬國、水行二十日、・・」で断念
と思いや出航、夷洲に數千人が還える。遭難です。歴史は簡単に理解できないものです。

『臨海水土志』、『孫権伝』秦野北斗訳

孫権 夷洲の文章

『臨海水土志』
夷洲在臨海東南、去郡二千里。土地無霜雪、草木不死。四面是山谿。人皆?髮穿耳、女人不穿耳。土地饒沃、既生五穀。又多魚肉。有犬、尾短如麕尾状。此夷舅姑子婦臥息共一大牀、略不相避。地有銅鐵、唯用鹿格爲矛以戰闘、摩礪青石以作(弓)矢鏃。取生魚肉雜貯大瓦器中、以鹽鹵之、歴月所日、乃啖食之、以爲上肴

夷洲は臨海東南にあり、郡から二千里 (約百六㎞)、(阿蘇山)土地は霜雪なく草木は枯れない。四面は山谿。人みな、?髮は耳を通す。女は通さない。土地は肥沃で既に五穀が実る。また、魚は多い。犬あり尾は短く麕(のろ)の尾の如し。夷の舅、姑、子、婦は供に大床で寝る。互いに避けない。夷洲には銅鐵あり、ただ
鹿格爲の矛を、戰闘で用いる。磨いた青石で矢鏃を作る。生魚肉を取り大瓦器の中に雑に入れ塩地でこれ歴月所日もって食べものとして喰らう上肴なり。

『孫権伝』
二年春正月,魏作合肥新城。詔立都講祭酒,以教學諸子。遣將軍衛?、諸葛直將甲士萬人,浮海求夷洲及亶洲。亶洲在海中,長老傳言:秦始皇帝遣方士徐福將童男童女數千人入海,求蓬萊神山及仙藥,止此洲不還。世相承有數萬家,其上人民。時有至會稽貨布,會稽東縣人海行,亦有遭風流移至亶洲者。所在?遠,卒不可得至,但得夷洲數千人還。

二年春正月,魏の新城の築城を求める。詔立をもって酒宴、みな教學する。派遣將軍の衛?、諸葛直將、兵士萬人は夷洲及亶洲への出航を求める。亶洲は海中にある。長老の言伝え:秦始皇帝遣方士徐福將童男童女數千人が蓬萊神山及仙藥求め、出航する。ただ此の洲に還えらず。代々、會稽貨幣(交易)至る時、會稽東縣人、出航また遭風流移で亶洲至る。所在は?遠し不明。將軍、ついに得られず、ただ夷洲に數千人が還える。
 

漢委奴国王印の再考

 投稿者:秦野北斗  投稿日:2015年11月17日(火)22時33分48秒
  漢委奴国(かんのわのなのこく)は委奴国=伊都国

ついに解かれた!?邪馬台国と女王卑弥呼と金印の謎?!
https://www.youtube.com/watch?v=q_TEbO5Y2H8

漢委奴国王印(かんのわのなのこくおういん、漢委奴國王印)は誤訳のようだな。
正式な読みは、漢委奴国王印(やまとの伊都国王印)になる。

魏志倭人伝の伊都国の文章に「世々、王が居る。」とある。
「世々、王が居る。」これが、漢委奴国王印(やまとの伊都国王印)の人物のようだな。
倭奴國、東南に100里進むと奴国、女王国より北方にある国々は、・・、奴国。
奴国を統率する王の様だな。

東南陸行五百里、到伊都國。官曰爾支、副曰泄謨觚・柄渠觚。有千餘戸。丗有王、皆統屬女王國。郡使往來常所駐。
東南へ500里陸行すると、伊都国に到着する。長官は爾支(にき)、副官は泄謨觚(せもこ)と柄渠觚(へくこ)。1000余戸が有る。世々、王が居る。皆、女王国に属する。

東南至奴國百里。官曰兕馬觚、副曰卑奴母離。有二萬餘戸。
東南に100里進むと奴国に至る。長官は兕馬觚(しまこ)、副官は卑奴母離(ひなもり)。2万余戸が有る。

自女王國以北、其戸數道里可得略載、其餘旁國遠絶、不可得詳。 ・・・、次有烏奴國、次有奴國。 此女王境界所盡。
女王国より北方にある国々は、其の戸数・道里を略載することが可能だが、・・・、烏奴国、奴国。此れが女王の境界が尽きる所である。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AD%8F%E5%BF%97%E5%80%AD%E4%BA%BA%E4%BC%9D


『後漢書』「卷八五 列傳卷七五 東夷傳」の「倭奴國」「倭國」「光武賜以印綬」の記述にある印綬であると認識することが・・
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BC%A2%E5%A7%94%E5%A5%B4%E5%9B%BD%E7%8E%8B%E5%8D%B0
 

漢委奴国(かんのわのなのこく)は伊都国

 投稿者:秦野北斗  投稿日:2015年10月17日(土)12時44分44秒
  ついに解かれた!?邪馬台国と女王卑弥呼と金印の謎?!
https://www.youtube.com/watch?v=q_TEbO5Y2H8

漢委奴国王印(かんのわのなのこくおういん、漢委奴國王印)は誤訳のようだな。
正式な読みは、漢委奴国王印(やまとの伊都国王印)になる。
しかし、魏志倭人伝の行程は完全に間違っているな。

末廬国:博多、唐津に郡(帯方郡が有名)があり、伊都国に漢委奴国王印を送った。
魏志倭人伝に伊都国の名が出てくる。尚、当時の日本は俀国(秦国:シン国)に成っている。
金印の側面に「常根津日子命(とこねつひこのみこと)」常根津日子命が伊都国王
http://6309.teacup.com/kobutu/bbs/507

夷州(今の台湾・沖縄諸島)とされている。現実は、台湾は青丘国、沖縄諸島は黒歯国になる。
『梁書』に、黒歯国の位置については『山海経』には「青丘国」の北という。

孫権の夷州文章は台湾でなく福岡の末廬国になる。文章には阿蘇山の状況がよみとれる。
尚、当時は卑弥呼による韓半島奪回戦争の真っ最中。孫権が派遣した兵の大部分を失う。
は理解できる。

230年(黄龍2年)孫権が末廬国に兵を派遣する。当時、末廬国は臨海の東、南
に郡を要していた。一般に魏志倭人伝では末廬国は唐津になっているが、これは
間違いになる。唐津(臨海の南)には郡があり上陸できない。また博多(臨海の東)
も同様から、福岡県福岡市東区の志賀島が入口になる。

将軍の衛温・諸葛直らに兵1万を率いさせ、夷州および亶州の探索を行わせる亶州には辿り着けず、夷州の数千人を得るだけで、派遣した兵の大部分を失う。翌年、探索失敗により衛温・諸葛直らを処刑する。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AD%AB%E6%A8%A9
http://6327.teacup.com/maeda/bbs/601

魏志倭人伝
又渡一海千餘里、至末廬國。有四千餘戸、濱山海居。草木茂盛、行不見前人。好捕魚鰒、水無深淺、皆沈没取之。
また海を1000余里渡ると、末廬国に至る。4000余戸が有り、山海に沿って住む。草木が茂り、前を行く人が見えない。魚やアワビを捕るのを好み、皆が潜る。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AD%8F%E5%BF%97%E5%80%AD%E4%BA%BA%E4%BC%9D
 

澶洲の位置

 投稿者:秦野北斗  投稿日:2015年 9月17日(木)17時47分44秒
  澶洲(堺):四ツ池遺跡 注)位置は現在の堺とは異なる。
http://www.city.sakai.lg.jp/kanko/rekishi/bunkazai/bunkazai/isekishokai/yotsuike.html

澶洲(堺)には茅渟宮(離宮):神野の茶屋とも・・。

アルノルドゥス・モンタヌス(Arnoldus Montanus、1625年 - 1683年)は、オランダの宣教師、歴史学者。
世界中の地理歴史についての書物を多数著した。日本に関しては、1669年著の『東インド会社遣日使節紀行』(通称「日本誌」 独:Gedenkwaerdige Gesantschappen der Oost-Indische Maetschappy aen de Kaisaren van Japan)がある。ただし、自身は一度も来日しておらず、イエズス会士の報告書や、使節の江戸参府紀行に基づいて著したとされる。
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1879653
 

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