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蓬莱郡彙ノ宮城

 投稿者:秦野北斗  投稿日:2016年 9月23日(金)08時25分59秒
  「蓬莱郡彙ノ宮城」は、蓬莱の郡(むら?)の彙(い:集り)の宮城。

宮城県(みやぎけん)宮城県石巻市鹿又蓬莱   何かありそうです。

大化元年8月、改新政府は「東国国司」8組を、今後の政治改革遂行のために人口と田地面積の調査、武器の収公などの任務を与え、現在の中部・関東から東北地方南部に臨時的に派遣した。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%AE%E5%9F%8E%E7%9C%8C
 

熊野権現

 投稿者:秦野北斗  投稿日:2016年 9月23日(金)00時54分42秒
  牛窪記の侍郎舟(じろうぶね)は秦と思われる。侍郎に近い黄門侍郎がある。
侍郎は秦から漢に受け継がれた可能性がある。

熊野権現
権現:上四社-三所権現-両所権現-第一殿-西宮(結宮)-伊邪那美尊
権現:上四社-三所権現-両所権現-第二殿-中宮(早玉明神)-伊邪那岐大神
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%86%8A%E9%87%8E%E6%A8%A9%E7%8F%BE

黄門侍郎
秦において、皇帝の勅命を伝達する官職として創始され、漢以降の歴代王朝にも受け継がれた。

中納言
日本の官職を唐名で呼ぶようになったとき、中納言は中国のこの官職に相当すると見なされて「黄門侍郎」、後には略して「黄門」と呼ばれるようになった。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BB%84%E9%96%80%E4%BE%8D%E9%83%8E


 

侍郎(じろう)

 投稿者:maeda  投稿日:2016年 9月23日(金)00時08分57秒
  侍郎(じろう)とは、中国の官僚制度の名称の一つ。一般には、漢代に創建され、20世紀初頭まで用いられたと考えられている。

漢朝の郎官の一種であり、元々は宮廷の近侍であった。東漢(後漢)以後、尚書の属官となり、始めは郎中に任じられ、満一年後に尚書郎’’になり、満三年して侍郎’’となる。以後、尚書台の権利が大きくなるにつれて、侍郎も重要となってきた。隋・唐の時代、首都に、戸礼刑工吏兵の六部が設けられ、国家の政務を司った。その中で、各部に一名の侍郎が置かれ、尚書主管の事務、実際の執行の補佐をした。現在の内閣の次長に相当する。
 

蓬莱郡彙ノ宮城

 投稿者:maeda  投稿日:2016年 9月23日(金)00時04分58秒
   有難うございます。
「蓬莱郡彙ノ宮城」は、蓬莱の郡(むら?)の彙(い:集り)の宮城。

「古座侍郎舟ヲ浮ベテ」は、古座の侍郎 が舟を浮べて ではないでしょうか。

「熊野権現」は、徐福を表すという説があります。
 

牛窪記翻訳

 投稿者:秦野北斗  投稿日:2016年 9月20日(火)20時55分54秒
編集済
  翻訳したのですが地名が特定できない。
一部、翻訳に間違いがあり訂正します。

東海道の翻訳で混乱した。東海道は律令時代(大化の改新の終わりごろから律令国家)になる。道には「語る」の意味がある。此れが混乱の原因。

「律令時代の東海道は、東海道の諸国の国府を駅路で結ぶもので、各道に派遣された官人が諸国を巡察する為に整備された路を指す。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E6%B5%B7%E9%81%93

飛鳥時代の書の様です。

天智天皇(中大兄皇子)は、大化の改新、白村江の戦いなど。争いの時代で武器が必要になり、熊野権現(火ノ神)を奉り鉄工生産に力を入れたのだろう。
白村江の百済避難民は長岡京、京都、近江に定住した。「一座者秦国徐氏之霊也。東海扶桑国者神仙ノ嗣系」で扶桑国(愛知)に定住。駿河以北には新羅人、高句麗人が定住。越国は扶桑国(福井、石川、新潟)に定住した模様。白村江の戦い後に扶桑国は改名
尚、倭国は総称の様だ。

1)「ココニ東海道三河国宝飯郡牛久保之庄者、往昔秦氏熊野権現ヲ常左府長山之郷ニ勧請ス。崇神天皇御宇ニ、紀州手間戸之湊ヨリ、徐氏古座侍郎舟ヲ浮ベテ、コノ国沖ノ六本松ト云ウ浜ニ来ル。礒山続キ、前ハ晴、後者深シ。得一種産百物地ナリトテ、御館ヲ築キ給フ。民屋之族尊敬シテ恵ミ蒙ラシムルコト甚多シ。徐氏者秦国ノ姓、コノ子孫以秦為氏。
長山之神者常天地久キ護リ給フ。故ニ庄ノ名モ常左府トイエリ。」

七世紀前半
此処、東海道三河国宝飯郡久保之庄者は古昔に秦氏熊野権現を常左府(牛久保)長山之郷に勧請(来臨を願う)す。

三世紀前半
崇神天皇の御宇に紀州志摩戸之湊に依る、徐氏は古座から侍郎舟(じろうぶね:徐福の船)で此国の沖の六本松と云う浜に来る。礒山が続き、礒は晴れ、山は深い。色々な種を得て、屋敷を築き与える。民屋之族(徐氏者)を尊敬する事で恵みを蒙ること甚だ多い。徐氏者は秦国の姓、此の子は孫から秦氏。長山之神者(徐氏者)は常に天地を末永く護り給う。故に久保之庄の名も常左府と云う。

2)故説事熊野三所大権現之事
家秘ノ旧記ニ「伊ザナミノ尊火ノ神ヲ産ミ給ヒテカン去リ給フトアレバ、是熊野山ノ本主也。」

家秘の旧記に
「イザナミ尊が火神を産み給いて、時は去り給ふと在れば、此れ熊野山の本主也」
熊野権現:上四社-三所権現-両所権現-第一殿-西宮(結宮)-伊邪那美尊
熊野権現:上四社-三所権現-両所権現-第二殿-中宮(早玉明神)-伊邪那岐大神

3)証誠殿相伝ノ事ニ付テ密義有り  七世紀前半
「一座者秦国徐氏之霊也。東海扶桑国者神仙ノ嗣系、蓬莱郡彙ノ宮城也ト聞キテ、薬求メン為ニ艤スルト偽ッテ、ヒソカニ聖典百家ノ書、種々ノ財ヲ数船ニツンデ徐氏一族
併蘭姿伶節ノ童男児女五百人ヲ乗セ、勅ニヨッテ海ヲ渡ルトイヒテ我ガ日本ニ来ル。徐市ハ不尽山ニメデ、駿州ニ到リ、徐明ハ金峯山ニ入ル。
徐林ハ肥前金立山ニ住シ、
徐福ハ着岸ノ津紀州古座ニ止リ後熊野山ニ入ル。
徐福ガ孫古座侍郎三州ニ移リ来ル故ニ、本宮山下秦氏之者多シ。

七世紀前半
一団者は秦国徐氏の末裔也。東海扶桑国者は神仙の系統、蓬莱郡彙ノ宮城と聞く
薬を求めん為にふなよそおいすると偽って、密かに聖典百家ノ書、種々の財を数船に積んで徐氏一族併せ蘭姿伶節の童男児女五百人を乗せ、勅に依って海を渡ると言いて我が日本に来る。徐市は富士山に目で駿州に到り、徐明は金峯山に入る。徐林は肥前金立山に住み、徐福は紀州古座に止まり後、熊野山に入る。徐福が孫、古座侍郎三州に移り来る故に
本宮山下秦氏之者多し。

 

牛窪記

 投稿者:maeda  投稿日:2016年 9月20日(火)18時29分48秒
  牛窪記の翻訳は、小生は行っておりません。恐縮です。  

牛窪記

 投稿者:秦野北斗  投稿日:2016年 9月19日(月)08時53分33秒
  牛窪記ですが翻訳しましたか?

東海地方の徐福伝承   2015.1.21前田豊
牛窪記(抜粋)
著者、年代未詳。牛久保牧野氏を中心とする合戦及び社寺の記録
神宮文庫所蔵。牛久保の熊野神社は、徐福伝説とイザナミ神がもととなっている。
1)「ココニ東海道三河国宝飯郡牛久保之庄者、往昔秦氏熊野権現ヲ常左府長山之郷ニ勧請ス。崇神天皇御宇ニ、紀州手間戸之湊ヨリ、徐氏古座侍郎舟ヲ浮ベテ、コノ国沖ノ六本松ト云ウ浜ニ来ル。礒山続キ、前ハ晴、後者深シ。得一種産百物地ナリトテ、御館ヲ築キ給フ。民屋之族尊敬シテ恵ミ蒙ラシムルコト甚多シ。徐氏者秦国ノ姓、コノ子孫以秦為氏。長山之神者常天地久キ護リ給フ。故ニ庄ノ名モ常左府トイエリ。」
2)故説事熊野三所大権現之事
家秘ノ旧記ニ「伊ザナミノ尊火ノ神ヲ産ミ給ヒテカン去リ給フトアレバ、是熊野山ノ本主也。」
3)証誠殿相伝ノ事ニ付テ密義有り
「一座者秦国徐氏之霊也。東海扶桑国者神仙ノ嗣系、蓬莱郡彙ノ宮城也ト聞キテ、薬求メン為ニ艤スルト偽ッテ、ヒソカニ聖典百家ノ書、種々ノ財ヲ数船ニツンデ徐氏一族併蘭姿伶節ノ童男児女五百人ヲ乗セ、勅ニヨッテ海ヲ渡ルトイヒテ我ガ日本ニ来ル。徐市ハ不尽山ニメデ、駿州ニ到リ、徐明ハ金峯山ニ入ル。
徐林ハ肥前金立山ニ住シ、
徐福ハ着岸ノ津紀州古座ニ止リ後熊野山ニ入ル。
徐福ガ孫古座侍郎三州ニ移リ来ル故ニ、本宮山下秦氏之者多シ。
 

卑弥呼以後の日本

 投稿者:秦野北斗  投稿日:2016年 9月16日(金)12時52分53秒
編集済
  247年頃~、日本は毛人国、俀国、倭国の三つ分かれる。
扶桑国は移国

東海扶桑国者神仙ノ嗣系の文章に〈日本〉がある。日本は七世紀前半からの名称になる。
東海扶桑国は七世紀前半まで三河に存在した模様。蓬莱郡彙ノ宮城?明智の城?
3)証誠殿相伝ノ事ニ付テ密義有り
「一座者秦国徐氏之霊也。東海扶桑国者神仙ノ嗣系、蓬莱郡彙ノ宮城也ト聞キテ、薬求メン為ニ艤スルト偽ッテ、ヒソカニ聖典百家ノ書、種々ノ財ヲ数船ニツンデ徐氏一族
併蘭姿伶節ノ童男児女五百人ヲ乗セ、勅ニヨッテ海ヲ渡ルトイヒテ我ガ〈日本〉ニ来ル。
 

扶桑国の変遷

 投稿者:秦野北斗  投稿日:2016年 9月16日(金)11時55分57秒
  扶桑国は卑弥呼の金印で揉めて、三河から石川県に移国している。
卑弥弓呼の官であった古智は残った模様。三河の明智は古智の末裔?家紋は桔梗(扶桑)。

「扶桑国、三州八名郡大野村、総社大明神は近隣五県の氏神也。」意味は魏志倭人伝の伊都国王
が卑弥弓呼の様です。総社大明神は大明神?近隣五県は女王国?
「女王国より以北には、特に一大率という役職を置いて諸国を検察させている。
諸国はこの一大率を畏(おそ)れ憚(はばか)っている。伊都(いと)国に常駐している。
その様子は、まるで中国の地方長官・刺史(しし)のようである。」
 

扶桑国no

 投稿者:秦野北斗  投稿日:2016年 9月16日(金)11時31分4秒
  扶桑国は卑弥呼の金印で揉めて、三河から石川県に移国している。
卑弥弓呼の官であった古智は残った模様。三河の明智は古智の末裔?家紋は桔梗(扶桑)。
 

扶桑国関連情報

 投稿者:maeda  投稿日:2016年 9月16日(金)01時02分47秒
編集済
  先の書き込みで「扶桑国八名郡大野町」と記載したところを訂正します。
即ち、「『八名郡誌』の大野神社の説明書きに、「扶桑国、三州八名郡大野村、総社大明神は近隣五県の氏神也。」とあったのです。参考『古代神都東三河p216~220』
牛窪密談記に「密義あり、一座は秦国徐氏之霊なり。東海扶桑国者神仙ノ嗣系・・」と書かれていることも含めて、少なくとも古代のある時期、東三河(東海地方)は扶桑国に含まれていたと考えます。
 

卑弥呼以前の日本

 投稿者:秦野北斗  投稿日:2016年 9月14日(水)08時51分23秒
  日本は古代から地名、国名の変更が多いのには驚いている。
九州、韓半島の国名が不明であったが明らかになった。
毛人国、俀国、扶桑国
地図を添付します。
 

神武東征と扶桑國

 投稿者:秦野北斗  投稿日:2016年 9月12日(月)21時12分52秒
  投稿者:maeda  投稿日:2016年 9月 7日(水)22時04分35秒
小生は、東三河のニギタエの絹を織って、伊勢神宮に奉納している服部神社の地名が、古代に、扶桑国八名郡大野町と書かれていたことを述べ、扶桑国は東海地方を含む広域を表しているのではないかと提言しておきました。

「扶桑国八名郡大野町」には恐れ入りました。

神武東征は紀元前の話になるが、??垂仁天皇25年3月丙
「是神風伊勢國 則常世之浪重浪歸國也 傍國可怜國也 欲居是國」
(この神風(かむかぜ)の伊勢の国は常世の浪の重浪(しきなみ)帰(よ)する国なり。傍国(かたくに)の可怜(うまし)国なり。この国に居(を)らむと欲(おも)ふ)
から可怜国を伊勢國として読み進めている。

実のところ可怜国(美し国)、扶桑國(狗奴国)は三河に220~247年頃に存在した。
短命です。傍国(わきくに)の可怜(うまし)国なり。傍(わき)の形状から渥美湾になる。

当時は二君政で俀国と扶桑国に分かれるが、聖徳太子では俀国と倭国になる。
倭国の扶桑国は247年頃消滅したか。
扶桑国は??『梁書』巻54 列伝第48 諸夷 海南 東夷 西北諸戎 扶桑國で明かされる。
『梁書』の扶桑国は247年頃の建国と想われる。

紀元前~、日本は毛人国、俀国、可怜国(美し国)の三つ分かれる。
~247年頃、日本は毛人国、俀国、扶桑国の三つ分かれる。
247年頃~、日本は毛人国、俀国、倭国の三つ分かれる。
古事記に宇都志國(うましくに)可怜国(美し国)がある。
 

甕棺は江戸時代まで流通

 投稿者:秦野北斗  投稿日:2016年 9月 9日(金)23時21分47秒
  金沢城下町遺跡(東兼六町5番地区)
  越前焼甕
 福井県丹生郡越前町で生産された陶磁器です。江戸時代を通じて石川県でも広く流通
していました。写真の甕は土葬の甕棺として用いられたもので、本遺跡の甕棺はすべて
越前焼甕が使われています。
http://www.ishikawa-maibun.or.jp/senter/pdf/jouhou_33.pdf
 

壹與

 投稿者:秦野北斗  投稿日:2016年 9月 9日(金)09時10分20秒
  神宮式年遷宮(じんぐうしきねんせんぐう)は、神宮(伊勢神宮)において行われる式年遷宮(定期的に行われる遷宮)のことである。神宮式年遷宮(じんぐうしきねんせんぐう)
推定(247年)頃に伊勢神宮の創建、11歳?の少女の壹與

正始8年(247年)頃に卑弥呼が死去すると塚がつくられ、百人が殉葬された。
推定(248年)頃その後男王が立てられるが人々はこれに服さず内乱となり千余人が死んだ。
推定(249年)頃そのため、卑弥呼の後継者(宗女)である13歳の少女の壹與が王に立てられ国は治まった。先に倭国に派遣された張政は檄文をもって壹與を諭しており、壹與もまた魏に使者を送っている。魏に代って成立した晋の皇帝(武帝)に朝貢したものと考えられる。曹魏(220年 - 265年)。晋(晉、しん、265年 - 420年)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AD%8F%E5%BF%97%E5%80%AD%E4%BA%BA%E4%BC%9D

神宮式年遷宮20年に一度造り替えられる常に瑞々しいご社殿
 

扶桑国の建国

 投稿者:秦野北斗  投稿日:2016年 9月 8日(木)18時41分29秒
  投稿者:maeda  投稿日:2016年 9月 7日(水)22時04分35秒
小生は、東三河のニギタエの絹を織って、伊勢神宮に奉納している服部神社の地名が、古代に、扶桑国八名郡大野町と書かれていたことを述べ、扶桑国は東海地方を含む広域を表しているのではないかと提言しておきました。

文意から扶桑国は狗奴国になる。しかし、古代距離の扶桑国と一致しない。
「扶桑の東1000余里(53km)に女国があり、」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%89%B6%E6%A1%91

整理すると狗奴国の男王卑弥弓呼の国が扶桑国になる。
正始八年(247年) - 倭は載斯、烏越らを帯方郡に派遣、狗奴国との戦いを報告した。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%91%E5%BC%A5%E5%91%BC

247年後、狗奴国放棄し、扶桑国は「扶桑の東1000余里(53km)に女国があり」に建国。

東三河のニギタエの絹が狗奴国放棄と扶桑国の建国。伊勢神宮の創建が解る。
 

馬見塚出土の甕棺数

 投稿者:maeda  投稿日:2016年 9月 8日(木)14時56分21秒
  その後、インターネットで調べると、馬見塚出土の甕棺墓の総数は不明とのことですが、数十例と書かれています。資料を見ると21基は確認できるのですが、別の個所から数基出ているようです。
 ちなみに、渥美半島の吉胡貝塚から35例が出土しています。
 馬見塚出土の土器は、五貫森貝塚のそれと似ており、これは豊橋の瓜郷遺跡に近く、麻生田遺跡とも近い関係にあるようです。
 やはり、本州の甕棺墓出土数は、麻生田遺跡の237基が最大のようです。
 

豊(朝鮮)

 投稿者:秦野北斗  投稿日:2016年 9月 8日(木)09時05分45秒
  古事記に「大国主は、高志國(越国:こしのくに)の沼河に住む沼河比売を第二の妻」
越国は韓国の全羅南道になる。大国主の出雲では豊と呼んでいる。

豊臣秀吉「朝廷から豊臣の姓を賜る」。豊(朝鮮)の臣(おみ)、臣は地方豪族
豊臣秀吉は朝鮮豪族になる。

豊雲野神(トヨクモノカミ)で説明しましょう。

古事記:豊雲野神(とよぐもぬのかみ)
豊=豊前国、豊後国、雲野=宇野   福岡(豊)から岡山(宇野)

日本書紀:豊斟渟尊(とよぐもぬのみこと)
豊=豊前国、豊後国、斟(酒盛り(斟浅))、渟(留まる)
斟(酒盛り(斟浅))、渟(留まる):出雲は酒の産地に由来:産物で示している。
斟渟=出雲=酒
豊宇野(豊酒)の神=出雲国(とよぐもぬのかみ)
福岡(豊)から岡山(宇野)出雲は酒の産地

別の例
古事記:国之常立神(くにのとこたちのかみ)
日本書紀:国常立尊(くにのとこたちのみこと)
常立=日立=日が立つ、日が昇る?
古名、常陸=日立に対応する。常立=常陸=日立=常陸国
日=日本、陸=陸奥。大八島国で大日本(静岡・八丈島)、陸奥までになる。

古事記 .第1章 神々の出現

その後、クニノトコタチノカミ(国之常立神)とトヨクモノカミ(豊雲野神)の二柱の神様が独身で現れました。その次からは、ご夫婦の神として五組の神々が現れました。そのうちの最後に現れましたのは、イザナギの神と(伊耶那岐命=イザナギノミコト)とイザナミの女神(イザナミノミコト=伊耶那美命)のご夫婦の神様です。(以上、クニノトコタチの神からイザナミの女神までを「神代七代(かみよななよ)」といいます。※ご夫婦の神は、二柱で一代です。)

愛知県一宮神社付近でも甕棺が発見されていたそうですね。何基くらい出土しているのでしょうか。天日明命、ニギハヤヒ命の集団であれば、東三河と同族集団になりそうです。
詳細確認はWEBでは不可。愛知県に聞くしかない。
 

甕棺墓について

 投稿者:maeda  投稿日:2016年 9月 7日(水)22時31分34秒
編集済
   小さな甕棺(土器棺)は、縄文時代から幼児の骨を入れる風習で、日本各地で発見されているようです。しかし、吉野ケ里で発見されたような大型甕棺を2つ合わせて大人の人骨を入れる文化は、九州地方が最も多く出土しており、4000基以上といわれます。本州で、このタイプの甕棺が最も多く出土しているのが、東三河の麻生田遺跡で、237基、近くの水神平遺跡の20基や、見落としなどを含めると300基くらいあると発掘調査書類に記載されています。
 その他本州で多いところは、琵琶湖西岸の今津町の遺跡から90基、奈良橿原曲川遺跡で81~90基程度が出土しております。 その他兵庫県篠山や丹後地域、大阪四条畷など近畿地方の弥生初期遺跡から数基づつ出土しているようです。ただ、本州でまとまって、300基近く出ている麻生田遺跡が最も多いと、2003年の奈良新聞に記載されておりました。
 東三河は、豊の名のつく地名が多く、出雲神話や大国主時代の歴史に詳しい人が、九州の豊国(宇佐)から入植があったと本に記載しております。九州と本州の交流を伝承及び考古学的に突き止めると、邪馬台国問題が解決すると思っております。

 ところで、愛知県一宮神社付近でも甕棺が発見されていたそうですね。何基くらい出土しているのでしょうか。天日明命、ニギハヤヒ命の集団であれば、東三河と同族集団になりそうです。
 

扶桑国について

 投稿者:maeda  投稿日:2016年 9月 7日(水)22時04分35秒
編集済
   8月21日に東京田町で開かれた「先古代史の会」で、壱岐一郎氏による「扶桑国とは関西である」というテーマの講演会を持ちました。山海経、梁書など多数の中国文献をもとに、距離、方角を算定し、関西が扶桑だと結論づけられました。そして、扶桑木は、桐のような木であるとのことでした。
 小生は、東三河のニギタエの絹を織って、伊勢神宮に奉納している服部神社の地名が、古代に、扶桑国八名郡大野町と書かれていたことを述べ、扶桑国は東海地方を含む広域を表しているのではないかと提言しておきました。
 その後、東三河の麻生田遺跡付近の出自といわれる牧野氏が保持していた徐福伝承を記載した「牛窪記」の中に、「密義あり、一座は秦国徐氏之霊なり。東海扶桑国者神仙ノ嗣系・・」と書いてあるのを見つけました。従って、東海地方は扶桑国に含まれると見てよいと思います。
 更に、雑誌歴史研究2015年3月号(第529号)p28に、道家康之助氏の「謎の扶桑国」が掲載されているのを見つけました。その論文の結論は、「扶桑は、大漢国の東2万余里にある。」ということで、直江津当たりと見ており、梁書に現れる僧慧深は、「岐阜県以東の扶桑国の地に足を踏み入れた。」と記載しております。
 秦野様の書き込みに「湯谷(湯国、佐賀)の上に扶桑木あり」と書いてありますが、奥三河の鳳来町に、湯谷温泉があり、鳳来山は桐生山と呼ばれ、扶桑木(桐)が生えていたようです。
 佐賀と東三河は、甕棺墓や、淀姫(豊姫)を祭る神社でもつながりがあり、不思議な因縁がありそうですね。
 

曲川遺跡

 投稿者:秦野北斗  投稿日:2016年 9月 7日(水)10時11分49秒
  秦野の地図から甕棺墓に国名を割り当てる。邪馬台国、狗奴国、女王国

曲川遺跡(邪馬台国)
畝傍山の北西約3km、本市西部を北流する葛城川と曽我川に挟まれた沖積低地に位置する縄文時代から中世にかけての複合遺跡です。
http://bunarinn.lolipop.jp/bunarinn.lolipop/tok2-index/11GkinkiAA/kinnki/kiyotonara/7/kasiwaraA.html

愛知県一宮市馬見塚出土の甕棺墓(女王国)
甕棺墓と言えば北部九州の弥生時代の代表的墓制で、吉野ヶ里遺跡からも大量に出土しています。それと酷似した甕棺群が一宮市から出土していたとのことで、北部九州以外の地からこれほどの量の甕棺が出土するのは珍しいのではないでしょうか。
http://furutasigakukai.gates.jp/koganikki/god-name-of-layers-of-history/post-2691/

麻生田(あそうだ)大橋遺跡 (狗奴国)
 主要地方道東三河環状線の築造に伴い、側道となる市道6-20号線築造の事前発掘調査が開始された。大橋遺跡は縄文時代晩期後葉(三河地方編年五貫森式~)からの複合遺跡で、旧豊川沿いに形成された住居跡及び甕棺墓の遺跡である。
http://blog.goo.ne.jp/kourei-flow/e/a9333608ae9b551c76b3f253153ba21b

甕棺墓

甕棺墓(かめかんぼ)とは、甕(かめ)や壺(つぼ)を棺(ひつぎ)として埋葬する墓をいう。歴史的墓制として世界各地に見られるが、乳幼児の墓として用いられる例が多い。1個の甕に土器などの蓋をするもの(単棺)、2個の甕を開口部で合わせたもの(合口棺)などがある。気密性を確保するため、蓋や合口部を粘土などで固定することも多い。甕棺内部では、遺体を屈める屈葬(くっそう)の形態がとられる。屈葬及び甕棺の採用には、死者の魂を遺体にとどめておこうとする思想背景があった、と考える研究者もいる。

アジア各地の甕棺墓
アジアでは、まず黄河文明期の中国に現れている。ほとんどが乳幼児のものであり、成人のものは華北西部のみに分布する。また、東南アジアでも紀元前数世紀の頃から、ジャワ島やベトナム中部(サーフィン文化)を中心に甕棺墓が行われていた。これについては、海洋民の習俗だったとする見方がある。さらに南インドにおいても、紀元前数世紀頃の甕棺墓の跡が発見されている。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%95%E6%A3%BA%E5%A2%93
 

甕棺墓

 投稿者:秦野北斗  投稿日:2016年 9月 2日(金)15時12分40秒
編集済
  返って、混乱させたようです。当方は拘奴國、扶桑国の位置で十分と思いましたが
扶桑は桔梗、槿は狗奴國男王の紋章で扶桑木と扶桑国は同じ物になる。
疑問があれば質問してください。

徐福と邪馬台国(秦野北斗)狗奴国を徳島と表記、資料を確認するとまた国の隣になる。
完全にミスです。

『後漢書』倭人伝、魏志倭人伝、女国(ウィキペディア)を図にお越し判断しています。

女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種。『魏志倭人伝』
女王国の東に海を渡ること千余里、また国がある。いずれも倭人である。

*自女王國東度海千餘里至拘奴國。『後漢書』倭人伝
女王国より東に海を渡ること千余里で拘奴国に至る。

其南有狗奴國、男子為王、其官有狗古智卑狗、不屬女王。『魏志倭人伝』
その南に狗奴国があり、男性を王と為し、官には狗古智卑狗があり、
不属女王に従属していない。

魏志倭人伝には方位が2種類ある。女王國東は伊勢になる。其南有狗奴國の
其南は南北の南を指す。女王國が付くか付かないかです。

実在の地名に愛知県扶桑町が存在する。狗奴國も吉野ヶ里遺跡、越国も同様だろう。
もう一つ扶桑が存在する。扶桑国だが、六世紀前半間まで存在した模様
詳細は十七条憲法(聖徳太子)の二君政を知らなければ理解できない。
扶桑は桔梗、槿を意味する。桔梗は王の紋章 扶桑木は王の木になる。

扶桑木 佐賀県筑後川河口(大川)自生した木

大荒之中 有山名曰孽搖頵羝 上有扶木 柱三百里 其葉如芥 有谷曰?源谷 湯谷上有扶木
一日方至 一日方出 皆載於烏      『山海経』海経巻九 第十四 大荒東經

荒野の中に山有り名は曰く孽搖頵羝、上に扶桑木あり。影柱は
三百里(一五.九㎞)其の葉は芥(メタセコイア属の常緑針葉樹)の如し、
谷あり、曰く?源谷(雲仙谷)。湯谷(湯国、佐賀)の上に扶桑木あり。
日の出には影が一五.九㎞に至り、日の入りには一五.九㎞で終わる。
皆、烏(烏帽子)をのせる。                 秦野北斗訳
 

甕棺墓と邪馬台国

 投稿者:maeda  投稿日:2016年 9月 1日(木)23時16分56秒
  秦野北斗 さま
>甕棺墓に興味があり調べました。東三河の麻生田遺跡は245年から数年間ですが邪馬台国の卑弥呼と狗奴国の男王卑弥弓呼の戦い。魏志倭人伝の記録にある。狗奴国の男王卑弥弓呼が関係する甕棺墓です。原因は親魏倭王の金印です。甕棺墓はこの時のでしょう。

興味ある情報を有難うございます。
麻生田遺跡が、卑弥呼と狗奴国王卑弥弓呼との戦い、245年から数年間、ということ及び、
甕棺墓が狗奴国と関係するという、根拠の資料はあるでしょうか。よろしくお願いします。
 

東三河の麻生田遺跡

 投稿者:秦野北斗  投稿日:2016年 8月26日(金)09時31分30秒
  2016年 5月18日(水)09時48分33秒 投稿者:maeda
東三河の麻生田遺跡から、甕棺墓が237基出土していることから、吉野ケ里遺跡とのつながりが考えられるなど、興味深い情報を集まってきています。

甕棺墓に興味があり調べました。東三河の麻生田遺跡は245年から数年間ですが邪馬台国
の卑弥呼と狗奴国の男王卑弥弓呼の戦い。魏志倭人伝の記録にある。狗奴国の男王卑弥弓呼が関係する甕棺墓です。原因は親魏倭王の金印です。甕棺墓はこの時のでしょう。
狗奴国は西三河になるが東三河ですか逃げましたな。

霊岩郡(韓国)は102基に至る甕棺墓が集中的に分布している地域である。
全羅南道霊岩郡は越国、倭奴国です。名古屋の語源になる。「名越」名は越になる。
【名古屋市の由来】 名古屋は、平安時代末期の荘園名として「那古野荘」で見えるものが最も古いが、その他「名護屋」「浪越」「名越」などとも表記されていた。
http://www.nishida-s.com/main/categ2/korea-1/korea-1.htm

「吉野ケ里遺跡とのつながり」は省略
 

會稽東縣

 投稿者:秦野北斗  投稿日:2016年 7月 5日(火)21時58分25秒
編集済
  お邪魔します。魏志倭人伝を解読しています。

會稽東縣は中国浙江省紹興市(倭人街)のようです。
徐福一向を先導した倭人が紹興市の倭人(古代から交易ありです)

『孫権伝』
二年春正月,魏作合肥新城。詔立都講祭酒,以教學諸子。遣將軍衛?、諸葛直將甲士萬人,浮海求夷洲及亶洲。亶洲在海中,長老傳言:秦始皇帝遣方士徐福將童男童女數千人入海,求蓬萊神山及仙藥,止此洲不還。世相承有數萬家,其上人民。時有至會稽貨布,會稽東縣人海行,亦有遭風流移至亶洲者。所在?遠,卒不可得至,但得夷洲數千人還。

二年春正月,魏の新城の築城を求める。詔立をもって酒宴、みな教學する。派遣將軍の衛?、諸葛直將、兵士萬人は夷洲及亶洲への出航を求める。亶洲は海中にある。長老の言伝え:秦始皇帝遣方士徐福將童男童女數千人が蓬萊神山及仙藥求め、出航する。ただ此の洲に還えらず。代々、會稽貨幣(交易)至る時、會稽東縣人、出航また遭風流移で亶洲至る。所在は?遠し不明。將軍、ついに得られず、ただ夷洲に數千人が還える。
 

「呉人外国図云亶州去琅邪三万里」奈良(高天原)

 投稿者:秦野北斗  投稿日:2016年 5月21日(土)02時12分15秒
  朗報です
「呉人外国図云亶州去琅邪万里」(呉人外国図は、亶州は琅邪を去ること万里という。)
万里の答えは、『山海経』に「君子の国は衣冠をつけ、剣を帯びて獣肉を食べ、2つの飾りの虎をいつもそばに置いている」「不死の人が交脛(山東地方か?)の東にあり、その人は色が黒く、長寿でなかなか死なない。君子国も不死国もともに東方にある」とあり、『外国図』には「君子国は瑯邪(現:山東省臨沂市付近)から三万里離れたところにある」とある。
「呉人外国図云亶州去琅邪三万里」奈良(高天原)
http://www2.ezbbs.net/cgi/reply?id=kojima&dd=22&re=817
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E5%A4%B7

琅邪郡(琅琊郡、ろうや-ぐん)は、中国にかつて存在した郡。秦代から唐代にかけて、現在の山東省東南部と江蘇省東北部にまたがる地域に設置された。
前漢のとき、徐州は琅邪郡に属す

イザナミ、イザナギの伊邪(イザ)の意味は伊=神の意志を伝える聖職者。治める人の意を表す。調和をさせる様、邪=瑯邪(ろうや)になる。

イザナギ(伊弉諾/伊邪那岐/伊耶那岐)、イザナミ(伊弉冉、伊邪那美、伊耶那美、伊弉弥)
イザナギは徐福になる。イザナミ、イザナギともに瑯邪(ろうや)

発表概要を事務局まで連絡の件、小生失業につき1年程度は自由になりません。
参加したいのですが、保留になります。
徐福の調査で1年程度潰します。亶州の港が堺になり、小生の目の先です。

 

先古代史の会

 投稿者:maeda  投稿日:2016年 5月20日(金)21時44分8秒
  小著「徐福と日本神話の神々」を購入いただいた由、有難うございます。
ところで、「先古代史の会」(本部東京)で、5月29日(日)pmに徐福関係の発表を行います。
案内は、次のHPをご覧ください。
http://senkodaishi.seesaa.net/

また、今年度後半の発表者を募集しておりますので、よろしければご応募ください。
ただし、交通費なし、資料コピー代支給、発表概要を前もって事務局まで連絡いただき、査読審査があります。
 

ソテツ

 投稿者:秦野北斗  投稿日:2016年 5月18日(水)15時11分23秒
  先日「徐福と日本神話の神々」購入しました。
最近、蘇鉄の調査をしています。堺の資料では天保1800年が最古です。
南蛮船駿河湾来航図(堺)に蘇鉄が画かれています。
南蛮船駿河湾来航図(堺)は約1500年。これから堺には最低500年前から存在する。
蘇鉄の樹齢は10mで1000年ぐらいになる。天皇家も蘇鉄を大切にしている。

あやまる第2貝塚、縄文時代から弥生時代(「今から2500年前)で蘇鉄は徐福が持ってきた五穀に入るのでは。
分布 神奈川、愛知、堺、高知、九州、韓国、済州島、奄美、新潟

日本の九州南部、南西諸島、台湾、中国大陸南部に分布する。
日本の局方には収載されていないが、 中国では漢方薬として、葉・種子・茎・花・根が薬用になると考えられている。葉には止血・解毒・止痛の効果があるとされ、胃薬や血止めの薬にされる。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BD%E3%83%86%E3%83%84

ソテツ
1億5千万年以前のジェラ紀に全盛を極め繁殖したといわれる古い植物で、前生代の生命を今なお持続している生きた標本です。雌雄異株で精虫によって受精します。ソテツは葉を肥料に、種子を味噌、醤油の原料に茎を澱粉に精成し、食料に利用していたといわれています。方言でステイチともいいます。
環境庁・鹿児島県

あやまる第2貝塚
縄文時代から弥生時代(「今から2500年前)の貝塚です。1983年(昭和58年)に町教委によって発掘調査が行われました。調査の結果縄文時代の土器片と弥生時代の生活跡が確認されました。
出土遺跡は町歴史民俗資料館に展示保管されております。
笠利町教育委員会・歴史民俗資料館
http://hn2784.hatenablog.com/entry/2014/10/15/220546
 

お久しぶりです

 投稿者:maeda  投稿日:2016年 5月18日(水)09時48分33秒
  全国邪馬台国連絡協議会で、邪馬台国の研究発表したりしております。
東三河の麻生田遺跡から、甕棺墓が237基出土していることから、吉野ケ里遺跡とのつながりが考えられるなど、興味深い情報を集まってきています。

ところで、徐福の出身地は、江蘇省連雲港市かん楡(ゆ)県金山郷で徐阜村(徐福村)ということで、発掘調査が裏付けています。それ以外に、龍口という説があります。
 小生、まだ中国の地理に詳しくないのですが、徐州と近いといえば近いのではないでしょうか。
 

徐阜村は徐州の近くでしょうか。

 投稿者:秦野北斗  投稿日:2016年 5月 3日(火)20時37分35秒
  古代史で泰始2年(266)11月文章を再考しています。
質問ですが徐福の徐阜村は徐州の近くでしょうか。

 円丘・方丘を南・北の郊に併せ、ニ至の祀りをニ郊に合わせたり。の文章がある。
円丘・北方丘を南の郊に併せた所から方丘方向に方位を延長すると徐州に至る。
距離は3万2千里で徐州付近になる。

泰始2年(266)の文章は壱與(約38才)になる。
円丘・北方丘を南の郊に併せた所は裏鬼門で徐阜村になると思われる。

斉の国 琅邪(ろうや)
(現在は山東省の東部です)
1984年,江蘇省連雲港市かん楡(ゆ)県金山郷で徐阜村(徐福村)発見されています。

泰始2年(266)11月
   倭人、来たりて方物を献ず。
   円丘・方丘を南・北の郊に併せ、ニ至の祀りをニ郊に合わせたり。
http://8220.teacup.com/toraijin/bbs/mobile/index/detail/comm_id/2072/?reverse=0&TEACUPRBBS=02b5381024cd398b2fe29893ab7b715a


 

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