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甕棺墓と東三河(4)

 投稿者:maeda  投稿日:2016年10月27日(木)21時36分33秒
  6.甕棺使用の推定時代
甕棺埋葬時期は、BC300~AD180年である。北九州が中心で、AD300年まで継続する例もある。 ほとんどの甕棺は西暦180年頃までには消えていったと思われる。

7.まとめ(甕棺墓文化を担う人々)
 日本各地の甕棺出土地は、九州北部が最大で2000基以上発見されている。次いで発見の多いのが、東三河で300基程度出土している。更に、奈良橿原市で約100基、近江が90基程度出土している。その他、兵庫県、丹後、大阪、青森などがあるが、数件程度で珍しい出土例と言われ、地域の上流階級の墓とされている。
 九州北部の弥生時代の甕棺文化を形成した人たちは、東三河麻生田遺跡周辺や畿内特に奈良橿原地域に移動したと考えてよいのではなかろうか。麻生田遺跡近くの地に、小坂井の徐福伝承や牛窪記が残っており、これらの人々は徐福集団の国を構成していた可能性が高い。
 

甕棺墓と東三河(3)

 投稿者:maeda  投稿日:2016年10月27日(木)21時35分29秒
  4.麻生田遺物整理の方法及び出土遺物の概要
 本遺跡から出土した遺物には様々なものがあるが、1期の縄文中期後半から晩期前半の土器に続き、2期に土器棺132基、その他凸帯文系及び条痕文系土器片多量、少量の遠賀川系土器などが出土している。
尚、地理的環境として、豊川市は、愛知県の東部を流れる豊川の下流域にあり、豊橋市や、宝飯郡一宮町・同小坂井町・同御津町、同音羽町などと接している。歴史的環境は、麻生田大橋遺跡のある豊川下流域の地域は、愛知県下でも縄文晩期の遺跡が集中して分布する地域として古くより注目されており、標式遺跡も数多く存在する。麻生田大橋遺跡の南南東約4kmの豊川左岸に位置する白石遺跡では、近年の調査で遠賀川系土器を伴う環濠の可能性の高い溝が検出され注目をあびている。
本遺跡から検出された土器棺墓は、この133基以外に(財)愛知県埋蔵文化財センターの調査による102基と、木下克己氏らによる調査の2基があり、それらを合わせれば237基となる。遺跡の未調査区もまだ残されており、本遺跡に埋設された土器棺墓の実数は優に300基を上回るものと推察されている。

5.日本の各地域の土器棺の出土地とその意義
1)九州地域  2000基以上
(1)玄界灘沿岸:西北九州、唐津西沿岸地域と島嶼部,唐津、糸島、早良、福岡・春日。
(2)有明海沿岸:神埼、佐賀、旧小城、武雄、島原、熊本、筑後南部 旧八女など。
(3)内陸部:嘉穂,二日市、朝倉、三輪町,甘木市,小郡・鳥栖、久留米など。
(4)その他:長崎県大村市、大分県日田市、薩摩半島西海岸地城など。
2)兵庫県篠山市下板井内場山弥生墳丘墓群
弥生墳丘墓のほか、木棺墓、土器棺墓、土壙墓で構成される墳墓群である。副葬品には全長93.5センチの長大な素環頭大刀がある。
3)丹後地域:京都府与謝郡加悦町字加悦 吾野山遺跡
 加悦町字加悦遺跡の土器棺 大型壺型土器(長径0.8m、短径0.5m)と中型壺型土器を合口にして置かれていた。丹後地域では、北西尾根地区に土器棺墓が検出されている。
4)滋賀県今津町の北仰西海道遺跡
  土器棺90基、土壙墓110基以上の縄文時代晩期の集団墓が発掘されている。(今津町教育委員会 1987「今津町文化財調査報告書」第7集)
5)大阪府讃良郡条里遺跡(四條畷市)(羽曳野市)
大阪府文化財センターによる第二京阪道路建設に伴う発掘調査で土器棺出土。従来縄文時代晩期後半から弥生時代早期の遺跡である。
6)奈良県 橿原市曲川町の「曲川遺跡」(奈良新聞(2003年5月9日)記事)
橿原市曲川町の「曲川遺跡」で、大規模な土器棺墓群を伴う縄文時代晩期中頃から後半(2500~2200年前)の拠点集落が見つかり、縄文時代の土器棺墓群としては全国的にも屈指の規模である。土器棺は直径30~40cm、高さ30~60cmの深鉢で、72基がまとまって出土。過去の調査を合わせると81基に上り、遺跡全体で100基を越えると見られる。縄文時代の土器棺墓としては、麻生田大橋遺跡(愛知県豊川)の170基、北仰西海道遺跡(滋賀県今津町)の96基に次ぐ規模となる。
7)青森県三戸郡倉石村 薬師前遺跡 墓坑出土
 昭和52年5月、当時三戸郡倉石村にあるこの遺跡で、土器棺の一部と上部の配石を発見、倉石村教育委員会による緊急調査の結果、3基の土器棺が埋設されているのが確認され、1基からは、貝輪を尺骨に装着した保存状態の良い縄文人骨が納められていた。
 

甕棺墓と東三河(2)

 投稿者:maeda  投稿日:2016年10月27日(木)21時34分17秒
編集済
  3.東三河の麻生田遺跡における甕棺発見状況
 2016年3月4日に、豊川市の麻生田大橋遺跡の紹介を行っている「豊川市桜ケ丘ミュージアム」に行き、確認を行った。遺跡そのものは、東名高速道路の豊川インターチェンジの下になっており、発掘状況は確認できないが、豊川教育委員会1993年発行の「麻生田大橋遺跡発掘調査報告書」を紹介された。その報告書によると、「麻生田大橋遺跡は、東名高速道路豊川インターチェンジの南約500mの豊川右岸の低位段丘上に位置する遺跡であり、昭和52年から平成元年(1977~1989)の13か月にわたり発掘調査を実施し、その結果、「縄文時代晩期後半から弥生時代中期の土器棺墓133基、弥生時代中期の方形周溝墓6基が発見された」と記載されている。図1参照。

   図1 豊川市麻生田遺跡での甕棺墓出土状況と推定埋納形態

 その後も、発見が続き、現在では237基の土器棺が発見されていると別の報告にはある。発見の時期はかなり長期に亘っており、発見時期は1970年代後半~1980年代と考えてよい。また、この遺跡の数キロメートル北部にある水神平遺跡からも甕棺20基が発見されている。この遺跡の土器は東三河独特の水神平土器として有名で、弥生式土器の標準資料となっている。遠賀川式土器との関係があり、近くの豊橋市・石巻山北西部の白石遺跡は環濠集落で、遠賀川式土器が出土している。
 麻生田遺跡付近の地名は、牧野と呼ばれており、この地方豪族・牧野氏が、「牛窪記」「牛窪密談記」に徐福のことを記載している。地元伝承では、縄文・弥生時代からこの地に住みついていた人々だとも言われており、徐福一行に関わる人達だった可能性がある。
 

東三河の徐福伝承と麻生田遺跡の甕棺墓大量出土の意義(1)

 投稿者:maeda  投稿日:2016年10月27日(木)21時33分2秒
編集済
  1.はじめに
日本には徐福が着いたという伝説が23ケ所ぐらいある。北は青森県の小泊から南は八丈島、九州・紀州熊野、東三河にも伝承がある。東三河で江戸時代に発行された牛窪記には、徐福集団が住みついたことを伝承している。
ところで、東三河に瓜郷遺跡など弥生時代の遺跡が多数存在するが、東名高速道路のインターチェンジ工事の際、豊川市にある麻生田遺跡から、甕棺が237基出土した。近くの三遠式土器の発祥地である水神平遺跡からも、甕棺が20基出土している。
 一方、佐賀県吉野ヶ里遺跡は、徐福集団渡来時期に存在した事跡である。2008年の佐賀・徐福国際シンポジウムで吉野ヶ里遺跡発掘調査総責任者・七太忠昭氏は基調講演で、佐賀の弥生文化の中に、徐福に代表される中国文化流入が認められると発表されている。この遺跡の特徴の一つに、甕棺が2000基以上出土したことが挙げられる。甕棺墓は弥生時代の徐福一行の文化と関連していると考えられる。
本発表は、麻生田遺跡で出土した甕棺の出土状況の確認と、この地域に存在する徐福伝承の関係について考察するものである。

2.吉野ヶ里遺跡での甕棺墓(土器棺)出土とその背景
甕棺の風習は紀元前4千年の中国に求められるという。それは、中国の戦国時代(日本の縄文晩期)頃までは長江河口流域に残っていて、日本では紀元前2世紀(弥生前期末)北九州で始まった。弥生時代の北九州の墓制としては、前期末から甕棺墓が現われ、中期では北九州から佐賀、熊本・大分で主流を占める。後期に入って、甕棺墓は急激に少なくなり、箱式石棺墓・木棺墓などに変わる。埋葬された人は、首長または祭事を司った人と推定されている。
 吉野ケ里の存在した時代と徐福の平原広沢の時代はほぼ近い、BC3世紀ごろである。壺を死の世界に応用する甕棺は、二つ壷を合わせる独特の構えであり、有明海周辺の壷を再生の場にするのは中国の思想である。「壷中の天」という話があり、壷を出入りする貴人がいるという。そして壷の中から様々なものが出入りする。その壷は再生の場所として中国では考えられている。(荒竹清光講演議事録抜粋1999.3.「徐福」渡来伝承とその背景)
それが大量に吉野ケ里を中心として出るということは、この壷の思想が中国伝来であることは疑えないのではないか。それが徐福の時代に近い。
 

柿本人麻呂

 投稿者:秦野北斗  投稿日:2016年10月25日(火)13時35分34秒
  日並皇子尊の殯宮の時に、柿本人麻呂の作る歌一首 (2-167)

天照らす 日女の命 であり。ニニギノミコト(邇邇芸命)が行方不明になった。
内容は古事記の天孫降臨(てんそんこうりん)になる。

また、別の歌に、卑弥呼が東の国(狗奴国)に冬の雪降る日に襲撃される。
吹雪のごとく弓矢が宮殿に降り注ぎ、卑弥呼は春に百済の野、城上の宮に葬る。

万葉集に歌われている。東の国は魏志倭人伝の女王国東のようです。
万葉集にも徐福の記録があるが、天照らす 日女の命では力ふぞく・・・。
 

東海扶桑国者

 投稿者:秦野北斗  投稿日:2016年10月 3日(月)13時05分58秒
  東海扶桑国者の東海は現在の東海地方でないようです。

竜宮城では乙姫(一説には東海竜王の娘:竜女)が太郎を歓待する。
丹波国餘?郡(現・京都府与謝郡)の住人である浦嶋子は舟に乗って釣りに出たが、・・
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%A6%E5%B3%B6%E5%A4%AA%E9%83%8E

東海は丹波国餘?郡(現・京都府与謝郡)方向になる。日本海側
東海扶桑国者は石川の扶桑国になる。扶桑記内容のから7世紀頃まで存在か?
 

蓬莱郡彙ノ宮城

 投稿者:秦野北斗  投稿日:2016年 9月26日(月)20時24分24秒
  「蓬莱郡彙ノ宮城」は、蓬莱の郡(むら?)の彙(い:集り)の宮城。

蓬莱郡は郡(ぐん)の様だ

古代の郡は、律令制の行政区画で、国(=令制国)の下に置かれた。『日本書紀』は、大化の改新の時に「郡」(こおり)が成立したと記しているが、当時は実際には「評」(こおり)と書いていた。

大宝律令の成立の時に「郡」が設置され、かつての国造などが郡司となって管轄した。郡には郡衙が置かれ、班田や徴税の管理に重要な任務を果たし、律令制度下の中央集権的行政の末端に位置した。延喜式では591郡があったとされる。郡の下に郷、郷の下に里が置かれた。郡は、郷の数によって大・上・中・下・小の五等級に分かれていた。南伊勢の度会評は「神郡」というかたちで、半ば自律的な行政単位であった。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%83%A1
 

白村江の戦い

 投稿者:秦野北斗  投稿日:2016年 9月23日(金)22時04分53秒
  時系列に整理しました。(年代で矛盾を含む)

白村江の戦い前の調査
645年大化元年8月、改新政府は「東国国司」8組を、今後の政治改革遂行のために人口と田地面積の調査、武器の収公などの任務を与え、現在の中部・関東から東北地方南部に臨時的に派遣した。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%AE%E5%9F%8E%E7%9C%8C

663年(天智2年?)8月白村江の戦い。唐では(654年)永徽五年になる。

宮城県は東海扶桑国者の移住先になる?(新妻家墓地)

(670年)咸享元年遣使が高句麗平定を祝賀。斉明天皇の使者だろう。

帰化人
日本からは高句麗?に学問僧など留学生が派遣された。持統天皇元年(687年)、日本の朝廷は帰化した新羅人14人を下野国に、新羅の僧侶及び百姓の男女22人を武蔵国に土地と食料を給付し、生活が出来るようにする。帰化人の総数には日本から新羅に帰化していた倭人も含まれる。また天皇により新羅人の帰国が奨励され、半島に帰還するものに対しては食料が配布された。歴史的に残留した新羅からの帰化人は百数十名と少なく、多くは漢民族であった。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B0%E7%BE%85%E3%81%AE%E5%85%A5%E5%AF%87

新妻家墓地
仙台駅の北方4.5kmの青葉区北根四丁目にあった江戸時代の武士や女性を葬った墓地で、現在は全て別の場所に移されている。墓石は29基あり、棺桶(かんおけ)や甕棺(かめかん)無棺(むかん)の三つの形態の葬法(そうほう)がとられ、副葬品(ふくそうひん)として太刀(たち)や手鏡、古銭などが埋葬されていた。
http://www.city.sendai.jp/kyouiku/bunkazai/iseki/c0000000091.html
 

石巻山の名は東北へ移動か?

 投稿者:maeda  投稿日:2016年 9月23日(金)15時34分15秒
  宮城県(みやぎけん)宮城県石巻市鹿又蓬莱

 東三河の名山・石巻山は蓬莱山の1つかもしれない。利修仙人が鳳来寺山から鳳凰に乗って、文武天皇の御悩を治しに来たという伝説が、八名群の石巻神社にあり、鳳来=蓬莱と関係がありそうである。

 宮城県に関するウィキペディアに記載の記事に「現在の宮城県の領域は古墳時代からヤマト王権の影響下にあり、雷神山古墳や陸奥国府と推定される官衙(郡山遺跡)が名取郡に置かれ、後に宮城郡に多賀城(陸奥国府・鎮守府)や陸奥国分寺、陸奥国分尼寺が置かれた。」とある。

 この記述は、各地に国分寺を立てる方針を出された、聖武天皇と関係しそうである。鳳来寺山方面には、「光明皇后」が、鳳来寺山の利修仙人の小水を鹿がなめて生まれたという伝承に関係している。
 鳳来寺には、光明皇后の自筆といわれる門札があるという。
 また聖武天皇の父・文武天皇が悩みを解消されたお礼のためか、石巻神社に剣を奉納されたと伝えられている。
 

蓬莱郡彙ノ宮城

 投稿者:秦野北斗  投稿日:2016年 9月23日(金)08時25分59秒
  「蓬莱郡彙ノ宮城」は、蓬莱の郡(むら?)の彙(い:集り)の宮城。

宮城県(みやぎけん)宮城県石巻市鹿又蓬莱   何かありそうです。

大化元年8月、改新政府は「東国国司」8組を、今後の政治改革遂行のために人口と田地面積の調査、武器の収公などの任務を与え、現在の中部・関東から東北地方南部に臨時的に派遣した。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%AE%E5%9F%8E%E7%9C%8C
 

熊野権現

 投稿者:秦野北斗  投稿日:2016年 9月23日(金)00時54分42秒
  牛窪記の侍郎舟(じろうぶね)は秦と思われる。侍郎に近い黄門侍郎がある。
侍郎は秦から漢に受け継がれた可能性がある。

熊野権現
権現:上四社-三所権現-両所権現-第一殿-西宮(結宮)-伊邪那美尊
権現:上四社-三所権現-両所権現-第二殿-中宮(早玉明神)-伊邪那岐大神
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%86%8A%E9%87%8E%E6%A8%A9%E7%8F%BE

黄門侍郎
秦において、皇帝の勅命を伝達する官職として創始され、漢以降の歴代王朝にも受け継がれた。

中納言
日本の官職を唐名で呼ぶようになったとき、中納言は中国のこの官職に相当すると見なされて「黄門侍郎」、後には略して「黄門」と呼ばれるようになった。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BB%84%E9%96%80%E4%BE%8D%E9%83%8E


 

侍郎(じろう)

 投稿者:maeda  投稿日:2016年 9月23日(金)00時08分57秒
  侍郎(じろう)とは、中国の官僚制度の名称の一つ。一般には、漢代に創建され、20世紀初頭まで用いられたと考えられている。

漢朝の郎官の一種であり、元々は宮廷の近侍であった。東漢(後漢)以後、尚書の属官となり、始めは郎中に任じられ、満一年後に尚書郎’’になり、満三年して侍郎’’となる。以後、尚書台の権利が大きくなるにつれて、侍郎も重要となってきた。隋・唐の時代、首都に、戸礼刑工吏兵の六部が設けられ、国家の政務を司った。その中で、各部に一名の侍郎が置かれ、尚書主管の事務、実際の執行の補佐をした。現在の内閣の次長に相当する。
 

蓬莱郡彙ノ宮城

 投稿者:maeda  投稿日:2016年 9月23日(金)00時04分58秒
   有難うございます。
「蓬莱郡彙ノ宮城」は、蓬莱の郡(むら?)の彙(い:集り)の宮城。

「古座侍郎舟ヲ浮ベテ」は、古座の侍郎 が舟を浮べて ではないでしょうか。

「熊野権現」は、徐福を表すという説があります。
 

牛窪記翻訳

 投稿者:秦野北斗  投稿日:2016年 9月20日(火)20時55分54秒
編集済
  翻訳したのですが地名が特定できない。
一部、翻訳に間違いがあり訂正します。

東海道の翻訳で混乱した。東海道は律令時代(大化の改新の終わりごろから律令国家)になる。道には「語る」の意味がある。此れが混乱の原因。

「律令時代の東海道は、東海道の諸国の国府を駅路で結ぶもので、各道に派遣された官人が諸国を巡察する為に整備された路を指す。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E6%B5%B7%E9%81%93

飛鳥時代の書の様です。

天智天皇(中大兄皇子)は、大化の改新、白村江の戦いなど。争いの時代で武器が必要になり、熊野権現(火ノ神)を奉り鉄工生産に力を入れたのだろう。
白村江の百済避難民は長岡京、京都、近江に定住した。「一座者秦国徐氏之霊也。東海扶桑国者神仙ノ嗣系」で扶桑国(愛知)に定住。駿河以北には新羅人、高句麗人が定住。越国は扶桑国(福井、石川、新潟)に定住した模様。白村江の戦い後に扶桑国は改名
尚、倭国は総称の様だ。

1)「ココニ東海道三河国宝飯郡牛久保之庄者、往昔秦氏熊野権現ヲ常左府長山之郷ニ勧請ス。崇神天皇御宇ニ、紀州手間戸之湊ヨリ、徐氏古座侍郎舟ヲ浮ベテ、コノ国沖ノ六本松ト云ウ浜ニ来ル。礒山続キ、前ハ晴、後者深シ。得一種産百物地ナリトテ、御館ヲ築キ給フ。民屋之族尊敬シテ恵ミ蒙ラシムルコト甚多シ。徐氏者秦国ノ姓、コノ子孫以秦為氏。
長山之神者常天地久キ護リ給フ。故ニ庄ノ名モ常左府トイエリ。」

七世紀前半
此処、東海道三河国宝飯郡久保之庄者は古昔に秦氏熊野権現を常左府(牛久保)長山之郷に勧請(来臨を願う)す。

三世紀前半
崇神天皇の御宇に紀州志摩戸之湊に依る、徐氏は古座から侍郎舟(じろうぶね:徐福の船)で此国の沖の六本松と云う浜に来る。礒山が続き、礒は晴れ、山は深い。色々な種を得て、屋敷を築き与える。民屋之族(徐氏者)を尊敬する事で恵みを蒙ること甚だ多い。徐氏者は秦国の姓、此の子は孫から秦氏。長山之神者(徐氏者)は常に天地を末永く護り給う。故に久保之庄の名も常左府と云う。

2)故説事熊野三所大権現之事
家秘ノ旧記ニ「伊ザナミノ尊火ノ神ヲ産ミ給ヒテカン去リ給フトアレバ、是熊野山ノ本主也。」

家秘の旧記に
「イザナミ尊が火神を産み給いて、時は去り給ふと在れば、此れ熊野山の本主也」
熊野権現:上四社-三所権現-両所権現-第一殿-西宮(結宮)-伊邪那美尊
熊野権現:上四社-三所権現-両所権現-第二殿-中宮(早玉明神)-伊邪那岐大神

3)証誠殿相伝ノ事ニ付テ密義有り  七世紀前半
「一座者秦国徐氏之霊也。東海扶桑国者神仙ノ嗣系、蓬莱郡彙ノ宮城也ト聞キテ、薬求メン為ニ艤スルト偽ッテ、ヒソカニ聖典百家ノ書、種々ノ財ヲ数船ニツンデ徐氏一族
併蘭姿伶節ノ童男児女五百人ヲ乗セ、勅ニヨッテ海ヲ渡ルトイヒテ我ガ日本ニ来ル。徐市ハ不尽山ニメデ、駿州ニ到リ、徐明ハ金峯山ニ入ル。
徐林ハ肥前金立山ニ住シ、
徐福ハ着岸ノ津紀州古座ニ止リ後熊野山ニ入ル。
徐福ガ孫古座侍郎三州ニ移リ来ル故ニ、本宮山下秦氏之者多シ。

七世紀前半
一団者は秦国徐氏の末裔也。東海扶桑国者は神仙の系統、蓬莱郡彙ノ宮城と聞く
薬を求めん為にふなよそおいすると偽って、密かに聖典百家ノ書、種々の財を数船に積んで徐氏一族併せ蘭姿伶節の童男児女五百人を乗せ、勅に依って海を渡ると言いて我が日本に来る。徐市は富士山に目で駿州に到り、徐明は金峯山に入る。徐林は肥前金立山に住み、徐福は紀州古座に止まり後、熊野山に入る。徐福が孫、古座侍郎三州に移り来る故に
本宮山下秦氏之者多し。

 

牛窪記

 投稿者:maeda  投稿日:2016年 9月20日(火)18時29分48秒
  牛窪記の翻訳は、小生は行っておりません。恐縮です。  

牛窪記

 投稿者:秦野北斗  投稿日:2016年 9月19日(月)08時53分33秒
  牛窪記ですが翻訳しましたか?

東海地方の徐福伝承   2015.1.21前田豊
牛窪記(抜粋)
著者、年代未詳。牛久保牧野氏を中心とする合戦及び社寺の記録
神宮文庫所蔵。牛久保の熊野神社は、徐福伝説とイザナミ神がもととなっている。
1)「ココニ東海道三河国宝飯郡牛久保之庄者、往昔秦氏熊野権現ヲ常左府長山之郷ニ勧請ス。崇神天皇御宇ニ、紀州手間戸之湊ヨリ、徐氏古座侍郎舟ヲ浮ベテ、コノ国沖ノ六本松ト云ウ浜ニ来ル。礒山続キ、前ハ晴、後者深シ。得一種産百物地ナリトテ、御館ヲ築キ給フ。民屋之族尊敬シテ恵ミ蒙ラシムルコト甚多シ。徐氏者秦国ノ姓、コノ子孫以秦為氏。長山之神者常天地久キ護リ給フ。故ニ庄ノ名モ常左府トイエリ。」
2)故説事熊野三所大権現之事
家秘ノ旧記ニ「伊ザナミノ尊火ノ神ヲ産ミ給ヒテカン去リ給フトアレバ、是熊野山ノ本主也。」
3)証誠殿相伝ノ事ニ付テ密義有り
「一座者秦国徐氏之霊也。東海扶桑国者神仙ノ嗣系、蓬莱郡彙ノ宮城也ト聞キテ、薬求メン為ニ艤スルト偽ッテ、ヒソカニ聖典百家ノ書、種々ノ財ヲ数船ニツンデ徐氏一族併蘭姿伶節ノ童男児女五百人ヲ乗セ、勅ニヨッテ海ヲ渡ルトイヒテ我ガ日本ニ来ル。徐市ハ不尽山ニメデ、駿州ニ到リ、徐明ハ金峯山ニ入ル。
徐林ハ肥前金立山ニ住シ、
徐福ハ着岸ノ津紀州古座ニ止リ後熊野山ニ入ル。
徐福ガ孫古座侍郎三州ニ移リ来ル故ニ、本宮山下秦氏之者多シ。
 

卑弥呼以後の日本

 投稿者:秦野北斗  投稿日:2016年 9月16日(金)12時52分53秒
編集済
  247年頃~、日本は毛人国、俀国、倭国の三つ分かれる。
扶桑国は移国

東海扶桑国者神仙ノ嗣系の文章に〈日本〉がある。日本は七世紀前半からの名称になる。
東海扶桑国は七世紀前半まで三河に存在した模様。蓬莱郡彙ノ宮城?明智の城?
3)証誠殿相伝ノ事ニ付テ密義有り
「一座者秦国徐氏之霊也。東海扶桑国者神仙ノ嗣系、蓬莱郡彙ノ宮城也ト聞キテ、薬求メン為ニ艤スルト偽ッテ、ヒソカニ聖典百家ノ書、種々ノ財ヲ数船ニツンデ徐氏一族
併蘭姿伶節ノ童男児女五百人ヲ乗セ、勅ニヨッテ海ヲ渡ルトイヒテ我ガ〈日本〉ニ来ル。
 

扶桑国の変遷

 投稿者:秦野北斗  投稿日:2016年 9月16日(金)11時55分57秒
  扶桑国は卑弥呼の金印で揉めて、三河から石川県に移国している。
卑弥弓呼の官であった古智は残った模様。三河の明智は古智の末裔?家紋は桔梗(扶桑)。

「扶桑国、三州八名郡大野村、総社大明神は近隣五県の氏神也。」意味は魏志倭人伝の伊都国王
が卑弥弓呼の様です。総社大明神は大明神?近隣五県は女王国?
「女王国より以北には、特に一大率という役職を置いて諸国を検察させている。
諸国はこの一大率を畏(おそ)れ憚(はばか)っている。伊都(いと)国に常駐している。
その様子は、まるで中国の地方長官・刺史(しし)のようである。」
 

扶桑国no

 投稿者:秦野北斗  投稿日:2016年 9月16日(金)11時31分4秒
  扶桑国は卑弥呼の金印で揉めて、三河から石川県に移国している。
卑弥弓呼の官であった古智は残った模様。三河の明智は古智の末裔?家紋は桔梗(扶桑)。
 

扶桑国関連情報

 投稿者:maeda  投稿日:2016年 9月16日(金)01時02分47秒
編集済
  先の書き込みで「扶桑国八名郡大野町」と記載したところを訂正します。
即ち、「『八名郡誌』の大野神社の説明書きに、「扶桑国、三州八名郡大野村、総社大明神は近隣五県の氏神也。」とあったのです。参考『古代神都東三河p216~220』
牛窪密談記に「密義あり、一座は秦国徐氏之霊なり。東海扶桑国者神仙ノ嗣系・・」と書かれていることも含めて、少なくとも古代のある時期、東三河(東海地方)は扶桑国に含まれていたと考えます。
 

卑弥呼以前の日本

 投稿者:秦野北斗  投稿日:2016年 9月14日(水)08時51分23秒
  日本は古代から地名、国名の変更が多いのには驚いている。
九州、韓半島の国名が不明であったが明らかになった。
毛人国、俀国、扶桑国
地図を添付します。
 

神武東征と扶桑國

 投稿者:秦野北斗  投稿日:2016年 9月12日(月)21時12分52秒
  投稿者:maeda  投稿日:2016年 9月 7日(水)22時04分35秒
小生は、東三河のニギタエの絹を織って、伊勢神宮に奉納している服部神社の地名が、古代に、扶桑国八名郡大野町と書かれていたことを述べ、扶桑国は東海地方を含む広域を表しているのではないかと提言しておきました。

「扶桑国八名郡大野町」には恐れ入りました。

神武東征は紀元前の話になるが、??垂仁天皇25年3月丙
「是神風伊勢國 則常世之浪重浪歸國也 傍國可怜國也 欲居是國」
(この神風(かむかぜ)の伊勢の国は常世の浪の重浪(しきなみ)帰(よ)する国なり。傍国(かたくに)の可怜(うまし)国なり。この国に居(を)らむと欲(おも)ふ)
から可怜国を伊勢國として読み進めている。

実のところ可怜国(美し国)、扶桑國(狗奴国)は三河に220~247年頃に存在した。
短命です。傍国(わきくに)の可怜(うまし)国なり。傍(わき)の形状から渥美湾になる。

当時は二君政で俀国と扶桑国に分かれるが、聖徳太子では俀国と倭国になる。
倭国の扶桑国は247年頃消滅したか。
扶桑国は??『梁書』巻54 列伝第48 諸夷 海南 東夷 西北諸戎 扶桑國で明かされる。
『梁書』の扶桑国は247年頃の建国と想われる。

紀元前~、日本は毛人国、俀国、可怜国(美し国)の三つ分かれる。
~247年頃、日本は毛人国、俀国、扶桑国の三つ分かれる。
247年頃~、日本は毛人国、俀国、倭国の三つ分かれる。
古事記に宇都志國(うましくに)可怜国(美し国)がある。
 

甕棺は江戸時代まで流通

 投稿者:秦野北斗  投稿日:2016年 9月 9日(金)23時21分47秒
  金沢城下町遺跡(東兼六町5番地区)
  越前焼甕
 福井県丹生郡越前町で生産された陶磁器です。江戸時代を通じて石川県でも広く流通
していました。写真の甕は土葬の甕棺として用いられたもので、本遺跡の甕棺はすべて
越前焼甕が使われています。
http://www.ishikawa-maibun.or.jp/senter/pdf/jouhou_33.pdf
 

壹與

 投稿者:秦野北斗  投稿日:2016年 9月 9日(金)09時10分20秒
  神宮式年遷宮(じんぐうしきねんせんぐう)は、神宮(伊勢神宮)において行われる式年遷宮(定期的に行われる遷宮)のことである。神宮式年遷宮(じんぐうしきねんせんぐう)
推定(247年)頃に伊勢神宮の創建、11歳?の少女の壹與

正始8年(247年)頃に卑弥呼が死去すると塚がつくられ、百人が殉葬された。
推定(248年)頃その後男王が立てられるが人々はこれに服さず内乱となり千余人が死んだ。
推定(249年)頃そのため、卑弥呼の後継者(宗女)である13歳の少女の壹與が王に立てられ国は治まった。先に倭国に派遣された張政は檄文をもって壹與を諭しており、壹與もまた魏に使者を送っている。魏に代って成立した晋の皇帝(武帝)に朝貢したものと考えられる。曹魏(220年 - 265年)。晋(晉、しん、265年 - 420年)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AD%8F%E5%BF%97%E5%80%AD%E4%BA%BA%E4%BC%9D

神宮式年遷宮20年に一度造り替えられる常に瑞々しいご社殿
 

扶桑国の建国

 投稿者:秦野北斗  投稿日:2016年 9月 8日(木)18時41分29秒
  投稿者:maeda  投稿日:2016年 9月 7日(水)22時04分35秒
小生は、東三河のニギタエの絹を織って、伊勢神宮に奉納している服部神社の地名が、古代に、扶桑国八名郡大野町と書かれていたことを述べ、扶桑国は東海地方を含む広域を表しているのではないかと提言しておきました。

文意から扶桑国は狗奴国になる。しかし、古代距離の扶桑国と一致しない。
「扶桑の東1000余里(53km)に女国があり、」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%89%B6%E6%A1%91

整理すると狗奴国の男王卑弥弓呼の国が扶桑国になる。
正始八年(247年) - 倭は載斯、烏越らを帯方郡に派遣、狗奴国との戦いを報告した。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%91%E5%BC%A5%E5%91%BC

247年後、狗奴国放棄し、扶桑国は「扶桑の東1000余里(53km)に女国があり」に建国。

東三河のニギタエの絹が狗奴国放棄と扶桑国の建国。伊勢神宮の創建が解る。
 

馬見塚出土の甕棺数

 投稿者:maeda  投稿日:2016年 9月 8日(木)14時56分21秒
  その後、インターネットで調べると、馬見塚出土の甕棺墓の総数は不明とのことですが、数十例と書かれています。資料を見ると21基は確認できるのですが、別の個所から数基出ているようです。
 ちなみに、渥美半島の吉胡貝塚から35例が出土しています。
 馬見塚出土の土器は、五貫森貝塚のそれと似ており、これは豊橋の瓜郷遺跡に近く、麻生田遺跡とも近い関係にあるようです。
 やはり、本州の甕棺墓出土数は、麻生田遺跡の237基が最大のようです。
 

豊(朝鮮)

 投稿者:秦野北斗  投稿日:2016年 9月 8日(木)09時05分45秒
  古事記に「大国主は、高志國(越国:こしのくに)の沼河に住む沼河比売を第二の妻」
越国は韓国の全羅南道になる。大国主の出雲では豊と呼んでいる。

豊臣秀吉「朝廷から豊臣の姓を賜る」。豊(朝鮮)の臣(おみ)、臣は地方豪族
豊臣秀吉は朝鮮豪族になる。

豊雲野神(トヨクモノカミ)で説明しましょう。

古事記:豊雲野神(とよぐもぬのかみ)
豊=豊前国、豊後国、雲野=宇野   福岡(豊)から岡山(宇野)

日本書紀:豊斟渟尊(とよぐもぬのみこと)
豊=豊前国、豊後国、斟(酒盛り(斟浅))、渟(留まる)
斟(酒盛り(斟浅))、渟(留まる):出雲は酒の産地に由来:産物で示している。
斟渟=出雲=酒
豊宇野(豊酒)の神=出雲国(とよぐもぬのかみ)
福岡(豊)から岡山(宇野)出雲は酒の産地

別の例
古事記:国之常立神(くにのとこたちのかみ)
日本書紀:国常立尊(くにのとこたちのみこと)
常立=日立=日が立つ、日が昇る?
古名、常陸=日立に対応する。常立=常陸=日立=常陸国
日=日本、陸=陸奥。大八島国で大日本(静岡・八丈島)、陸奥までになる。

古事記 .第1章 神々の出現

その後、クニノトコタチノカミ(国之常立神)とトヨクモノカミ(豊雲野神)の二柱の神様が独身で現れました。その次からは、ご夫婦の神として五組の神々が現れました。そのうちの最後に現れましたのは、イザナギの神と(伊耶那岐命=イザナギノミコト)とイザナミの女神(イザナミノミコト=伊耶那美命)のご夫婦の神様です。(以上、クニノトコタチの神からイザナミの女神までを「神代七代(かみよななよ)」といいます。※ご夫婦の神は、二柱で一代です。)

愛知県一宮神社付近でも甕棺が発見されていたそうですね。何基くらい出土しているのでしょうか。天日明命、ニギハヤヒ命の集団であれば、東三河と同族集団になりそうです。
詳細確認はWEBでは不可。愛知県に聞くしかない。
 

甕棺墓について

 投稿者:maeda  投稿日:2016年 9月 7日(水)22時31分34秒
編集済
   小さな甕棺(土器棺)は、縄文時代から幼児の骨を入れる風習で、日本各地で発見されているようです。しかし、吉野ケ里で発見されたような大型甕棺を2つ合わせて大人の人骨を入れる文化は、九州地方が最も多く出土しており、4000基以上といわれます。本州で、このタイプの甕棺が最も多く出土しているのが、東三河の麻生田遺跡で、237基、近くの水神平遺跡の20基や、見落としなどを含めると300基くらいあると発掘調査書類に記載されています。
 その他本州で多いところは、琵琶湖西岸の今津町の遺跡から90基、奈良橿原曲川遺跡で81~90基程度が出土しております。 その他兵庫県篠山や丹後地域、大阪四条畷など近畿地方の弥生初期遺跡から数基づつ出土しているようです。ただ、本州でまとまって、300基近く出ている麻生田遺跡が最も多いと、2003年の奈良新聞に記載されておりました。
 東三河は、豊の名のつく地名が多く、出雲神話や大国主時代の歴史に詳しい人が、九州の豊国(宇佐)から入植があったと本に記載しております。九州と本州の交流を伝承及び考古学的に突き止めると、邪馬台国問題が解決すると思っております。

 ところで、愛知県一宮神社付近でも甕棺が発見されていたそうですね。何基くらい出土しているのでしょうか。天日明命、ニギハヤヒ命の集団であれば、東三河と同族集団になりそうです。
 

扶桑国について

 投稿者:maeda  投稿日:2016年 9月 7日(水)22時04分35秒
編集済
   8月21日に東京田町で開かれた「先古代史の会」で、壱岐一郎氏による「扶桑国とは関西である」というテーマの講演会を持ちました。山海経、梁書など多数の中国文献をもとに、距離、方角を算定し、関西が扶桑だと結論づけられました。そして、扶桑木は、桐のような木であるとのことでした。
 小生は、東三河のニギタエの絹を織って、伊勢神宮に奉納している服部神社の地名が、古代に、扶桑国八名郡大野町と書かれていたことを述べ、扶桑国は東海地方を含む広域を表しているのではないかと提言しておきました。
 その後、東三河の麻生田遺跡付近の出自といわれる牧野氏が保持していた徐福伝承を記載した「牛窪記」の中に、「密義あり、一座は秦国徐氏之霊なり。東海扶桑国者神仙ノ嗣系・・」と書いてあるのを見つけました。従って、東海地方は扶桑国に含まれると見てよいと思います。
 更に、雑誌歴史研究2015年3月号(第529号)p28に、道家康之助氏の「謎の扶桑国」が掲載されているのを見つけました。その論文の結論は、「扶桑は、大漢国の東2万余里にある。」ということで、直江津当たりと見ており、梁書に現れる僧慧深は、「岐阜県以東の扶桑国の地に足を踏み入れた。」と記載しております。
 秦野様の書き込みに「湯谷(湯国、佐賀)の上に扶桑木あり」と書いてありますが、奥三河の鳳来町に、湯谷温泉があり、鳳来山は桐生山と呼ばれ、扶桑木(桐)が生えていたようです。
 佐賀と東三河は、甕棺墓や、淀姫(豊姫)を祭る神社でもつながりがあり、不思議な因縁がありそうですね。
 

曲川遺跡

 投稿者:秦野北斗  投稿日:2016年 9月 7日(水)10時11分49秒
  秦野の地図から甕棺墓に国名を割り当てる。邪馬台国、狗奴国、女王国

曲川遺跡(邪馬台国)
畝傍山の北西約3km、本市西部を北流する葛城川と曽我川に挟まれた沖積低地に位置する縄文時代から中世にかけての複合遺跡です。
http://bunarinn.lolipop.jp/bunarinn.lolipop/tok2-index/11GkinkiAA/kinnki/kiyotonara/7/kasiwaraA.html

愛知県一宮市馬見塚出土の甕棺墓(女王国)
甕棺墓と言えば北部九州の弥生時代の代表的墓制で、吉野ヶ里遺跡からも大量に出土しています。それと酷似した甕棺群が一宮市から出土していたとのことで、北部九州以外の地からこれほどの量の甕棺が出土するのは珍しいのではないでしょうか。
http://furutasigakukai.gates.jp/koganikki/god-name-of-layers-of-history/post-2691/

麻生田(あそうだ)大橋遺跡 (狗奴国)
 主要地方道東三河環状線の築造に伴い、側道となる市道6-20号線築造の事前発掘調査が開始された。大橋遺跡は縄文時代晩期後葉(三河地方編年五貫森式~)からの複合遺跡で、旧豊川沿いに形成された住居跡及び甕棺墓の遺跡である。
http://blog.goo.ne.jp/kourei-flow/e/a9333608ae9b551c76b3f253153ba21b

甕棺墓

甕棺墓(かめかんぼ)とは、甕(かめ)や壺(つぼ)を棺(ひつぎ)として埋葬する墓をいう。歴史的墓制として世界各地に見られるが、乳幼児の墓として用いられる例が多い。1個の甕に土器などの蓋をするもの(単棺)、2個の甕を開口部で合わせたもの(合口棺)などがある。気密性を確保するため、蓋や合口部を粘土などで固定することも多い。甕棺内部では、遺体を屈める屈葬(くっそう)の形態がとられる。屈葬及び甕棺の採用には、死者の魂を遺体にとどめておこうとする思想背景があった、と考える研究者もいる。

アジア各地の甕棺墓
アジアでは、まず黄河文明期の中国に現れている。ほとんどが乳幼児のものであり、成人のものは華北西部のみに分布する。また、東南アジアでも紀元前数世紀の頃から、ジャワ島やベトナム中部(サーフィン文化)を中心に甕棺墓が行われていた。これについては、海洋民の習俗だったとする見方がある。さらに南インドにおいても、紀元前数世紀頃の甕棺墓の跡が発見されている。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%95%E6%A3%BA%E5%A2%93
 

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