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牛窪記の内容は正しい。

 投稿者:秦野北斗  投稿日:2016年12月20日(火)20時20分11秒
  松尾 芭蕉(まつお ばしょう、寛永21年(1644年) - 元禄7年10月12日(1694年11月28日))は、江戸時代前期の俳諧師。現在の三重県伊賀市出身

抑ことふりにたれど、松島は扶桑第一の好風にして、凡洞庭・西湖を恥ず。

松島(まつしま)は、宮城県の松島湾内外にある大小260余りの諸島のこと。または、それら諸島と湾周囲を囲む松島丘陵も含めた修景地区のことである。

663年(天智2年?)8月白村江の戦い。唐では(654年)永徽五年になる。
宮城県は東海扶桑国者の移住先になる?(新妻家墓地)

新妻家墓地
種別, 古墳・墓. 解 説. 新妻家墓地は、仙台駅の北方4.5kmの青葉区北根四丁目に所在していた。この地域は、仙台市の北方に展開 ... 甕棺や棺桶からは副葬品として、大小の太刀や古銭・柄鏡・煙管・鉄製の角釘・陶器の椀・漆器椀・素焼きの人形・和鋏などが ...
 

万葉集の現在の訳と原文訳

 投稿者:秦野北斗  投稿日:2016年12月19日(月)18時42分12秒
  万葉集の情景に使った投稿です。
投稿日:2014年10月20日(月)06時40分37
投稿日:2014年10月21日(火)19時13分13秒

万葉集の現在の訳と原文訳を列記します。
万葉集の原文を訳すと「あゆち」が消滅、「あゆち」何処にもない。

現在の訳
櫻田部 鶴鳴渡 年魚市方 塩干二家良之 鶴鳴渡
高市黒人(たけちのくろひと)
桜田(さくらだ)へ、鶴(たづ)鳴き渡る、年魚市潟(あゆちがた)、潮干にけらし、鶴(たづ)鳴き渡る
http://www6.airnet.ne.jp/manyo/main/three/m0271.html
原文訳
櫻田部鶴鳴渡年魚市方塩干二家良之鶴鳴渡       高市黒人(たけちのくろひと)
桜田辺 鶴鳴き渡り 根魚一夜 夜塩干しふた打ち 真に此れよし 鶴鳴き渡り

現在の訳
年魚市方塩干二家良思知多乃浦尓朝榜舟毛奥尓依所見
あゆち潟潮ひにけらし 知多の海に朝こく 舟も沖に寄る見ゆ

原文訳
年魚市方塩干二家良思知多乃浦尓朝榜舟毛奥尓依所見
根魚一夜 夜塩干しふた打ち 真に此れ思う 知多の浦に 阿坂寺 船も熊(荒熊神社)しかり依る。

秦野訳では、根魚の一夜塩干しが美味かった。と阿坂寺(あさかじ)存在不明
になる。

万葉集ですが、あゆち(愛知)の由来とのこと、
訳は 愛知(いとしい、しる)で扶桑国、美し国になる。
伊勢神宮を創祀、「傍国(わきくに)は可怜国(うましくに)」
可怜国=傍国=扶桑国=美し国、傍国は伊勢の対岸(愛知)
 

どういうことですか

 投稿者:maeda  投稿日:2016年12月19日(月)17時13分14秒
  「現在の文章が創作と判明した」というのは、本掲示板のどこからどこまででしょうか。  

痛い教訓

 投稿者:秦野北斗  投稿日:2016年12月16日(金)21時10分32秒
  万葉集、古事記の再翻訳することで現在の文章が創作と判明した。
古事記の冒頭に、
「天地の始まりは高天原とある。また、国の指導者が徐福に引継がれる。」
古事記の大八島は神仙探しの航路になる。驚愕である。
万葉集の現在確認ずみの文章。
挂文(卑弥呼葬儀)、秋山(土岐、邪馬台から逃げる)、天地之分時(土岐を宇久島に葬る)、

過去に万葉集、古事記を元に歴史を確認したが総て白紙になった。
痛い教訓になった。
 

万葉集 挂文 忌之伎鴨

 投稿者:秦野北斗  投稿日:2016年12月15日(木)15時53分2秒
  万葉集では卑弥呼は
春、巻向の祭殿で嶺者(土岐)に暗殺される。葬儀は「古事記の天の岩戸」で行われる。
埋葬は
原文「百濟之原従 神葬、木上宮乎 常宮等 高之奉」
直訳「百濟之原より請い葬る、小高い宮を並宮ら高め此れ奉ず、」
小高い宮:小高い山の宮

源為朝の子孫が卑弥呼伝承
「天の神・太陽の光が消え、」古事記の「天の岩戸」伝説。
「小牧山山頂に移し埋葬されたと記されている。」山頂は正しいが小牧山は創作。
付属の情景も創作になる。

古事記、日本書記の編纂の動機は日本の言語の表記の変更と想われる。
古事記は音表記で現在の様な活用がなかった模様。万葉集も古事記と同様
源為朝には解読不可能である。本居宣長も解読できていない。

国では、不破(ふわ:美濃国)、背友乃國(きたのみかたのくに:女王国北)、
吾妻乃國(あずまのくに、ひがしのくに:狗奴国)、食國(いこく:美し国)
 

源為朝の子孫が卑弥呼伝承を持っていました

 投稿者:maeda  投稿日:2016年12月14日(水)18時49分14秒
編集済
  卑弥呼は、正始9年に、天の神・太陽の光が消え、黒い太陽になることを知っていたという。
その年、卑弥呼は自分の目で確かめようと、美濃の恵那郷に向かった。9月5日、黒い太陽を目の当たりに見て、気を失って倒れたといわれる。随行の警護の付き人とともに、自国へ運ばれたが、敵方の目を避けながらも、道に迷い、行方が分からなくなり、進むうちに尾州(尾張)の原へ出た。小牧山見張りの敵方の目に入り、賊の襲撃を受けながら、曾本まで逃走したが、尽き、すべて惨殺されたという。卑弥呼の御首吸は、小牧山山頂に移し埋葬されたと記されている。
 

万葉集

 投稿者:秦野北斗  投稿日:2016年12月12日(月)15時56分51秒
  万葉集 宇久島(うくじま)で土岐を伐る。
 天地之分時従神左備手高貴寸駿河有布士能高嶺乎天原振放見者振放見者度日之蔭毛隠比照月乃光毛不見白雲母伊去波伐加利時自久曽雪者落家留語告言継将往不盡能高嶺者
   山部宿禰赤人(やまべのすくねあかひと)

翻訳文は後日、公開します。徐福も含まれる。

正始年間(240年 - 249年) - 卑弥呼死亡。
卑弥呼死亡の詳細内容が記録される。狗奴国に倍返ししている。
また、万葉集に狗奴国は土岐(冬木)とある。

土岐は嶺者:愛知県北設楽郡豊根村坂宇場嶺の者
伊勢から韓国に行く途中、嶺者が卑弥呼に矢を射った事を洩らし、宇久島で討たれる。
長崎県五島列島最北端 宇久島(うくじま)甕棺 29基
東三河で300基程度出土している。奈良橿原市で約100基、近江が90基程度出土している。
狗奴国に倍返ししている。事から宇久島に差し引き50基は在るだろう。
http://www.town94.com/fishing/sewatashi_3914/ukujima.html
 

葦牙(あしは、あしかび)

 投稿者:秦野北斗  投稿日:2016年12月 2日(金)10時29分10秒
編集済
  古事記 翻訳に成功しました。詳細な文章があり速報の訂正です。

徐福の寄港地は宮崎の門川(カドカワ)湾、当時地名は毛金津(けかね)
磯の根の名前が葦牙(あしは、あしかび)の模様

お隣、宮崎県延岡市大門町/今山八幡宮 徐福岩
 

柿本人麻呂

 投稿者:秦野北斗  投稿日:2016年11月18日(金)11時45分41秒
編集済
  万葉集 翻訳に成功しました。
正始年間(240年 - 249年) - 卑弥呼死亡。
卑弥呼死亡の詳細内容が記録される。狗奴国に倍返ししている。
また、万葉集に狗奴国は土岐(冬木)とある。

土岐氏支流の明智光秀の桔梗の家紋(扶桑紋)
https://www.google.co.jp/webhp?sourceid=chrome-instant&ion=1&espv=2&ie=UTF-8#q=%E5%AE%B6%E7%B4%8B%20%E6%A1%94%E6%A2%97



甕棺東三河
奈良近江190基程度が確認される。万葉集から380基(190×2=380)
になる。残り100基程度が有りそうです。
奈良約100基、近江90基程度 計190基、東三河で300基程度

甕棺墓と東三河(4)
7.まとめ(甕棺墓文化を担う人々)
 日本各地の甕棺出土地は、九州北部が最大で2000基以上発見されている。次いで発見の多いのが、東三河で300基程度出土している。更に、奈良橿原市で約100基、近江が90基程度出土している。その他、兵庫県、丹後、大阪、青森などがあるが、数件程度で珍しい出土例と言われ、地域の上流階級の墓とされている。
 

富士山ー石巻山ライン

 投稿者:maeda  投稿日:2016年11月14日(月)21時54分40秒
  秦野北斗様

 富士山ー石巻山ラインのほぼ延長線上に伊勢神宮が乗ってくるようです。
 

古代史15の新説

 投稿者:maeda  投稿日:2016年11月14日(月)21時43分4秒
   別冊宝島が、2016年11月15日付けの書籍『古代史15の新説』という本を刊行しました。
 テーマは、邪馬台国、任那日本府、徐福伝説、古代豪族、聖徳太子、稲作DNA解析ほかです。
この中の第3章対外関係からみる古代日本の中に、本HPの管理者の論文「徐福は倭国(古代日本)に何をもたらしたのか」という題が掲載されましたので、ご覧ください。
 徐福集団は、日本神話の神々として反映され、日本の国家形成の原点を担い、倭国の国造りの基礎を築いたと結論づけます。別冊宝島「古代史15の新説」(宝島社、2016.11.15発行p146-157)
 

石巻神社の延長に富士山

 投稿者:秦野北斗  投稿日:2016年11月 9日(水)02時36分48秒
  石巻神社(いしまきじんじゃ)は、愛知県豊橋市にある神社である。

創建時期は不明。孝安天皇または推古天皇の時代の創建ともいわれている。元々は石巻山自体が信仰の対象と推測される。

吉田城の鬼門にあたるため、吉田城築城以来、歴代城主の信仰を受けていたという。
石巻山の中腹の奥宮(上神社)と山里の里宮(下神社)に分かれている。奥宮では管粥祭、里宮では鬼祭が行われる。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%B3%E5%B7%BB%E7%A5%9E%E7%A4%BE

吉田城の鬼門は石巻神社だが、石巻神社の延長に富士山がある。
蓬莱信仰?
 

甕棺墓と東三河(4)

 投稿者:maeda  投稿日:2016年10月27日(木)21時36分33秒
  6.甕棺使用の推定時代
甕棺埋葬時期は、BC300~AD180年である。北九州が中心で、AD300年まで継続する例もある。 ほとんどの甕棺は西暦180年頃までには消えていったと思われる。

7.まとめ(甕棺墓文化を担う人々)
 日本各地の甕棺出土地は、九州北部が最大で2000基以上発見されている。次いで発見の多いのが、東三河で300基程度出土している。更に、奈良橿原市で約100基、近江が90基程度出土している。その他、兵庫県、丹後、大阪、青森などがあるが、数件程度で珍しい出土例と言われ、地域の上流階級の墓とされている。
 九州北部の弥生時代の甕棺文化を形成した人たちは、東三河麻生田遺跡周辺や畿内特に奈良橿原地域に移動したと考えてよいのではなかろうか。麻生田遺跡近くの地に、小坂井の徐福伝承や牛窪記が残っており、これらの人々は徐福集団の国を構成していた可能性が高い。
 

甕棺墓と東三河(3)

 投稿者:maeda  投稿日:2016年10月27日(木)21時35分29秒
  4.麻生田遺物整理の方法及び出土遺物の概要
 本遺跡から出土した遺物には様々なものがあるが、1期の縄文中期後半から晩期前半の土器に続き、2期に土器棺132基、その他凸帯文系及び条痕文系土器片多量、少量の遠賀川系土器などが出土している。
尚、地理的環境として、豊川市は、愛知県の東部を流れる豊川の下流域にあり、豊橋市や、宝飯郡一宮町・同小坂井町・同御津町、同音羽町などと接している。歴史的環境は、麻生田大橋遺跡のある豊川下流域の地域は、愛知県下でも縄文晩期の遺跡が集中して分布する地域として古くより注目されており、標式遺跡も数多く存在する。麻生田大橋遺跡の南南東約4kmの豊川左岸に位置する白石遺跡では、近年の調査で遠賀川系土器を伴う環濠の可能性の高い溝が検出され注目をあびている。
本遺跡から検出された土器棺墓は、この133基以外に(財)愛知県埋蔵文化財センターの調査による102基と、木下克己氏らによる調査の2基があり、それらを合わせれば237基となる。遺跡の未調査区もまだ残されており、本遺跡に埋設された土器棺墓の実数は優に300基を上回るものと推察されている。

5.日本の各地域の土器棺の出土地とその意義
1)九州地域  2000基以上
(1)玄界灘沿岸:西北九州、唐津西沿岸地域と島嶼部,唐津、糸島、早良、福岡・春日。
(2)有明海沿岸:神埼、佐賀、旧小城、武雄、島原、熊本、筑後南部 旧八女など。
(3)内陸部:嘉穂,二日市、朝倉、三輪町,甘木市,小郡・鳥栖、久留米など。
(4)その他:長崎県大村市、大分県日田市、薩摩半島西海岸地城など。
2)兵庫県篠山市下板井内場山弥生墳丘墓群
弥生墳丘墓のほか、木棺墓、土器棺墓、土壙墓で構成される墳墓群である。副葬品には全長93.5センチの長大な素環頭大刀がある。
3)丹後地域:京都府与謝郡加悦町字加悦 吾野山遺跡
 加悦町字加悦遺跡の土器棺 大型壺型土器(長径0.8m、短径0.5m)と中型壺型土器を合口にして置かれていた。丹後地域では、北西尾根地区に土器棺墓が検出されている。
4)滋賀県今津町の北仰西海道遺跡
  土器棺90基、土壙墓110基以上の縄文時代晩期の集団墓が発掘されている。(今津町教育委員会 1987「今津町文化財調査報告書」第7集)
5)大阪府讃良郡条里遺跡(四條畷市)(羽曳野市)
大阪府文化財センターによる第二京阪道路建設に伴う発掘調査で土器棺出土。従来縄文時代晩期後半から弥生時代早期の遺跡である。
6)奈良県 橿原市曲川町の「曲川遺跡」(奈良新聞(2003年5月9日)記事)
橿原市曲川町の「曲川遺跡」で、大規模な土器棺墓群を伴う縄文時代晩期中頃から後半(2500~2200年前)の拠点集落が見つかり、縄文時代の土器棺墓群としては全国的にも屈指の規模である。土器棺は直径30~40cm、高さ30~60cmの深鉢で、72基がまとまって出土。過去の調査を合わせると81基に上り、遺跡全体で100基を越えると見られる。縄文時代の土器棺墓としては、麻生田大橋遺跡(愛知県豊川)の170基、北仰西海道遺跡(滋賀県今津町)の96基に次ぐ規模となる。
7)青森県三戸郡倉石村 薬師前遺跡 墓坑出土
 昭和52年5月、当時三戸郡倉石村にあるこの遺跡で、土器棺の一部と上部の配石を発見、倉石村教育委員会による緊急調査の結果、3基の土器棺が埋設されているのが確認され、1基からは、貝輪を尺骨に装着した保存状態の良い縄文人骨が納められていた。
 

甕棺墓と東三河(2)

 投稿者:maeda  投稿日:2016年10月27日(木)21時34分17秒
編集済
  3.東三河の麻生田遺跡における甕棺発見状況
 2016年3月4日に、豊川市の麻生田大橋遺跡の紹介を行っている「豊川市桜ケ丘ミュージアム」に行き、確認を行った。遺跡そのものは、東名高速道路の豊川インターチェンジの下になっており、発掘状況は確認できないが、豊川教育委員会1993年発行の「麻生田大橋遺跡発掘調査報告書」を紹介された。その報告書によると、「麻生田大橋遺跡は、東名高速道路豊川インターチェンジの南約500mの豊川右岸の低位段丘上に位置する遺跡であり、昭和52年から平成元年(1977~1989)の13か月にわたり発掘調査を実施し、その結果、「縄文時代晩期後半から弥生時代中期の土器棺墓133基、弥生時代中期の方形周溝墓6基が発見された」と記載されている。図1参照。

   図1 豊川市麻生田遺跡での甕棺墓出土状況と推定埋納形態

 その後も、発見が続き、現在では237基の土器棺が発見されていると別の報告にはある。発見の時期はかなり長期に亘っており、発見時期は1970年代後半~1980年代と考えてよい。また、この遺跡の数キロメートル北部にある水神平遺跡からも甕棺20基が発見されている。この遺跡の土器は東三河独特の水神平土器として有名で、弥生式土器の標準資料となっている。遠賀川式土器との関係があり、近くの豊橋市・石巻山北西部の白石遺跡は環濠集落で、遠賀川式土器が出土している。
 麻生田遺跡付近の地名は、牧野と呼ばれており、この地方豪族・牧野氏が、「牛窪記」「牛窪密談記」に徐福のことを記載している。地元伝承では、縄文・弥生時代からこの地に住みついていた人々だとも言われており、徐福一行に関わる人達だった可能性がある。
 

東三河の徐福伝承と麻生田遺跡の甕棺墓大量出土の意義(1)

 投稿者:maeda  投稿日:2016年10月27日(木)21時33分2秒
編集済
  1.はじめに
日本には徐福が着いたという伝説が23ケ所ぐらいある。北は青森県の小泊から南は八丈島、九州・紀州熊野、東三河にも伝承がある。東三河で江戸時代に発行された牛窪記には、徐福集団が住みついたことを伝承している。
ところで、東三河に瓜郷遺跡など弥生時代の遺跡が多数存在するが、東名高速道路のインターチェンジ工事の際、豊川市にある麻生田遺跡から、甕棺が237基出土した。近くの三遠式土器の発祥地である水神平遺跡からも、甕棺が20基出土している。
 一方、佐賀県吉野ヶ里遺跡は、徐福集団渡来時期に存在した事跡である。2008年の佐賀・徐福国際シンポジウムで吉野ヶ里遺跡発掘調査総責任者・七太忠昭氏は基調講演で、佐賀の弥生文化の中に、徐福に代表される中国文化流入が認められると発表されている。この遺跡の特徴の一つに、甕棺が2000基以上出土したことが挙げられる。甕棺墓は弥生時代の徐福一行の文化と関連していると考えられる。
本発表は、麻生田遺跡で出土した甕棺の出土状況の確認と、この地域に存在する徐福伝承の関係について考察するものである。

2.吉野ヶ里遺跡での甕棺墓(土器棺)出土とその背景
甕棺の風習は紀元前4千年の中国に求められるという。それは、中国の戦国時代(日本の縄文晩期)頃までは長江河口流域に残っていて、日本では紀元前2世紀(弥生前期末)北九州で始まった。弥生時代の北九州の墓制としては、前期末から甕棺墓が現われ、中期では北九州から佐賀、熊本・大分で主流を占める。後期に入って、甕棺墓は急激に少なくなり、箱式石棺墓・木棺墓などに変わる。埋葬された人は、首長または祭事を司った人と推定されている。
 吉野ケ里の存在した時代と徐福の平原広沢の時代はほぼ近い、BC3世紀ごろである。壺を死の世界に応用する甕棺は、二つ壷を合わせる独特の構えであり、有明海周辺の壷を再生の場にするのは中国の思想である。「壷中の天」という話があり、壷を出入りする貴人がいるという。そして壷の中から様々なものが出入りする。その壷は再生の場所として中国では考えられている。(荒竹清光講演議事録抜粋1999.3.「徐福」渡来伝承とその背景)
それが大量に吉野ケ里を中心として出るということは、この壷の思想が中国伝来であることは疑えないのではないか。それが徐福の時代に近い。
 

柿本人麻呂

 投稿者:秦野北斗  投稿日:2016年10月25日(火)13時35分34秒
  日並皇子尊の殯宮の時に、柿本人麻呂の作る歌一首 (2-167)

天照らす 日女の命 であり。ニニギノミコト(邇邇芸命)が行方不明になった。
内容は古事記の天孫降臨(てんそんこうりん)になる。

また、別の歌に、卑弥呼が東の国(狗奴国)に冬の雪降る日に襲撃される。
吹雪のごとく弓矢が宮殿に降り注ぎ、卑弥呼は春に百済の野、城上の宮に葬る。

万葉集に歌われている。東の国は魏志倭人伝の女王国東のようです。
万葉集にも徐福の記録があるが、天照らす 日女の命では力ふぞく・・・。
 

東海扶桑国者

 投稿者:秦野北斗  投稿日:2016年10月 3日(月)13時05分58秒
  東海扶桑国者の東海は現在の東海地方でないようです。

竜宮城では乙姫(一説には東海竜王の娘:竜女)が太郎を歓待する。
丹波国餘?郡(現・京都府与謝郡)の住人である浦嶋子は舟に乗って釣りに出たが、・・
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%A6%E5%B3%B6%E5%A4%AA%E9%83%8E

東海は丹波国餘?郡(現・京都府与謝郡)方向になる。日本海側
東海扶桑国者は石川の扶桑国になる。扶桑記内容のから7世紀頃まで存在か?
 

蓬莱郡彙ノ宮城

 投稿者:秦野北斗  投稿日:2016年 9月26日(月)20時24分24秒
  「蓬莱郡彙ノ宮城」は、蓬莱の郡(むら?)の彙(い:集り)の宮城。

蓬莱郡は郡(ぐん)の様だ

古代の郡は、律令制の行政区画で、国(=令制国)の下に置かれた。『日本書紀』は、大化の改新の時に「郡」(こおり)が成立したと記しているが、当時は実際には「評」(こおり)と書いていた。

大宝律令の成立の時に「郡」が設置され、かつての国造などが郡司となって管轄した。郡には郡衙が置かれ、班田や徴税の管理に重要な任務を果たし、律令制度下の中央集権的行政の末端に位置した。延喜式では591郡があったとされる。郡の下に郷、郷の下に里が置かれた。郡は、郷の数によって大・上・中・下・小の五等級に分かれていた。南伊勢の度会評は「神郡」というかたちで、半ば自律的な行政単位であった。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%83%A1
 

白村江の戦い

 投稿者:秦野北斗  投稿日:2016年 9月23日(金)22時04分53秒
  時系列に整理しました。(年代で矛盾を含む)

白村江の戦い前の調査
645年大化元年8月、改新政府は「東国国司」8組を、今後の政治改革遂行のために人口と田地面積の調査、武器の収公などの任務を与え、現在の中部・関東から東北地方南部に臨時的に派遣した。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%AE%E5%9F%8E%E7%9C%8C

663年(天智2年?)8月白村江の戦い。唐では(654年)永徽五年になる。

宮城県は東海扶桑国者の移住先になる?(新妻家墓地)

(670年)咸享元年遣使が高句麗平定を祝賀。斉明天皇の使者だろう。

帰化人
日本からは高句麗?に学問僧など留学生が派遣された。持統天皇元年(687年)、日本の朝廷は帰化した新羅人14人を下野国に、新羅の僧侶及び百姓の男女22人を武蔵国に土地と食料を給付し、生活が出来るようにする。帰化人の総数には日本から新羅に帰化していた倭人も含まれる。また天皇により新羅人の帰国が奨励され、半島に帰還するものに対しては食料が配布された。歴史的に残留した新羅からの帰化人は百数十名と少なく、多くは漢民族であった。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B0%E7%BE%85%E3%81%AE%E5%85%A5%E5%AF%87

新妻家墓地
仙台駅の北方4.5kmの青葉区北根四丁目にあった江戸時代の武士や女性を葬った墓地で、現在は全て別の場所に移されている。墓石は29基あり、棺桶(かんおけ)や甕棺(かめかん)無棺(むかん)の三つの形態の葬法(そうほう)がとられ、副葬品(ふくそうひん)として太刀(たち)や手鏡、古銭などが埋葬されていた。
http://www.city.sendai.jp/kyouiku/bunkazai/iseki/c0000000091.html
 

石巻山の名は東北へ移動か?

 投稿者:maeda  投稿日:2016年 9月23日(金)15時34分15秒
  宮城県(みやぎけん)宮城県石巻市鹿又蓬莱

 東三河の名山・石巻山は蓬莱山の1つかもしれない。利修仙人が鳳来寺山から鳳凰に乗って、文武天皇の御悩を治しに来たという伝説が、八名群の石巻神社にあり、鳳来=蓬莱と関係がありそうである。

 宮城県に関するウィキペディアに記載の記事に「現在の宮城県の領域は古墳時代からヤマト王権の影響下にあり、雷神山古墳や陸奥国府と推定される官衙(郡山遺跡)が名取郡に置かれ、後に宮城郡に多賀城(陸奥国府・鎮守府)や陸奥国分寺、陸奥国分尼寺が置かれた。」とある。

 この記述は、各地に国分寺を立てる方針を出された、聖武天皇と関係しそうである。鳳来寺山方面には、「光明皇后」が、鳳来寺山の利修仙人の小水を鹿がなめて生まれたという伝承に関係している。
 鳳来寺には、光明皇后の自筆といわれる門札があるという。
 また聖武天皇の父・文武天皇が悩みを解消されたお礼のためか、石巻神社に剣を奉納されたと伝えられている。
 

蓬莱郡彙ノ宮城

 投稿者:秦野北斗  投稿日:2016年 9月23日(金)08時25分59秒
  「蓬莱郡彙ノ宮城」は、蓬莱の郡(むら?)の彙(い:集り)の宮城。

宮城県(みやぎけん)宮城県石巻市鹿又蓬莱   何かありそうです。

大化元年8月、改新政府は「東国国司」8組を、今後の政治改革遂行のために人口と田地面積の調査、武器の収公などの任務を与え、現在の中部・関東から東北地方南部に臨時的に派遣した。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%AE%E5%9F%8E%E7%9C%8C
 

熊野権現

 投稿者:秦野北斗  投稿日:2016年 9月23日(金)00時54分42秒
  牛窪記の侍郎舟(じろうぶね)は秦と思われる。侍郎に近い黄門侍郎がある。
侍郎は秦から漢に受け継がれた可能性がある。

熊野権現
権現:上四社-三所権現-両所権現-第一殿-西宮(結宮)-伊邪那美尊
権現:上四社-三所権現-両所権現-第二殿-中宮(早玉明神)-伊邪那岐大神
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%86%8A%E9%87%8E%E6%A8%A9%E7%8F%BE

黄門侍郎
秦において、皇帝の勅命を伝達する官職として創始され、漢以降の歴代王朝にも受け継がれた。

中納言
日本の官職を唐名で呼ぶようになったとき、中納言は中国のこの官職に相当すると見なされて「黄門侍郎」、後には略して「黄門」と呼ばれるようになった。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BB%84%E9%96%80%E4%BE%8D%E9%83%8E


 

侍郎(じろう)

 投稿者:maeda  投稿日:2016年 9月23日(金)00時08分57秒
  侍郎(じろう)とは、中国の官僚制度の名称の一つ。一般には、漢代に創建され、20世紀初頭まで用いられたと考えられている。

漢朝の郎官の一種であり、元々は宮廷の近侍であった。東漢(後漢)以後、尚書の属官となり、始めは郎中に任じられ、満一年後に尚書郎’’になり、満三年して侍郎’’となる。以後、尚書台の権利が大きくなるにつれて、侍郎も重要となってきた。隋・唐の時代、首都に、戸礼刑工吏兵の六部が設けられ、国家の政務を司った。その中で、各部に一名の侍郎が置かれ、尚書主管の事務、実際の執行の補佐をした。現在の内閣の次長に相当する。
 

蓬莱郡彙ノ宮城

 投稿者:maeda  投稿日:2016年 9月23日(金)00時04分58秒
   有難うございます。
「蓬莱郡彙ノ宮城」は、蓬莱の郡(むら?)の彙(い:集り)の宮城。

「古座侍郎舟ヲ浮ベテ」は、古座の侍郎 が舟を浮べて ではないでしょうか。

「熊野権現」は、徐福を表すという説があります。
 

牛窪記翻訳

 投稿者:秦野北斗  投稿日:2016年 9月20日(火)20時55分54秒
編集済
  翻訳したのですが地名が特定できない。
一部、翻訳に間違いがあり訂正します。

東海道の翻訳で混乱した。東海道は律令時代(大化の改新の終わりごろから律令国家)になる。道には「語る」の意味がある。此れが混乱の原因。

「律令時代の東海道は、東海道の諸国の国府を駅路で結ぶもので、各道に派遣された官人が諸国を巡察する為に整備された路を指す。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E6%B5%B7%E9%81%93

飛鳥時代の書の様です。

天智天皇(中大兄皇子)は、大化の改新、白村江の戦いなど。争いの時代で武器が必要になり、熊野権現(火ノ神)を奉り鉄工生産に力を入れたのだろう。
白村江の百済避難民は長岡京、京都、近江に定住した。「一座者秦国徐氏之霊也。東海扶桑国者神仙ノ嗣系」で扶桑国(愛知)に定住。駿河以北には新羅人、高句麗人が定住。越国は扶桑国(福井、石川、新潟)に定住した模様。白村江の戦い後に扶桑国は改名
尚、倭国は総称の様だ。

1)「ココニ東海道三河国宝飯郡牛久保之庄者、往昔秦氏熊野権現ヲ常左府長山之郷ニ勧請ス。崇神天皇御宇ニ、紀州手間戸之湊ヨリ、徐氏古座侍郎舟ヲ浮ベテ、コノ国沖ノ六本松ト云ウ浜ニ来ル。礒山続キ、前ハ晴、後者深シ。得一種産百物地ナリトテ、御館ヲ築キ給フ。民屋之族尊敬シテ恵ミ蒙ラシムルコト甚多シ。徐氏者秦国ノ姓、コノ子孫以秦為氏。
長山之神者常天地久キ護リ給フ。故ニ庄ノ名モ常左府トイエリ。」

七世紀前半
此処、東海道三河国宝飯郡久保之庄者は古昔に秦氏熊野権現を常左府(牛久保)長山之郷に勧請(来臨を願う)す。

三世紀前半
崇神天皇の御宇に紀州志摩戸之湊に依る、徐氏は古座から侍郎舟(じろうぶね:徐福の船)で此国の沖の六本松と云う浜に来る。礒山が続き、礒は晴れ、山は深い。色々な種を得て、屋敷を築き与える。民屋之族(徐氏者)を尊敬する事で恵みを蒙ること甚だ多い。徐氏者は秦国の姓、此の子は孫から秦氏。長山之神者(徐氏者)は常に天地を末永く護り給う。故に久保之庄の名も常左府と云う。

2)故説事熊野三所大権現之事
家秘ノ旧記ニ「伊ザナミノ尊火ノ神ヲ産ミ給ヒテカン去リ給フトアレバ、是熊野山ノ本主也。」

家秘の旧記に
「イザナミ尊が火神を産み給いて、時は去り給ふと在れば、此れ熊野山の本主也」
熊野権現:上四社-三所権現-両所権現-第一殿-西宮(結宮)-伊邪那美尊
熊野権現:上四社-三所権現-両所権現-第二殿-中宮(早玉明神)-伊邪那岐大神

3)証誠殿相伝ノ事ニ付テ密義有り  七世紀前半
「一座者秦国徐氏之霊也。東海扶桑国者神仙ノ嗣系、蓬莱郡彙ノ宮城也ト聞キテ、薬求メン為ニ艤スルト偽ッテ、ヒソカニ聖典百家ノ書、種々ノ財ヲ数船ニツンデ徐氏一族
併蘭姿伶節ノ童男児女五百人ヲ乗セ、勅ニヨッテ海ヲ渡ルトイヒテ我ガ日本ニ来ル。徐市ハ不尽山ニメデ、駿州ニ到リ、徐明ハ金峯山ニ入ル。
徐林ハ肥前金立山ニ住シ、
徐福ハ着岸ノ津紀州古座ニ止リ後熊野山ニ入ル。
徐福ガ孫古座侍郎三州ニ移リ来ル故ニ、本宮山下秦氏之者多シ。

七世紀前半
一団者は秦国徐氏の末裔也。東海扶桑国者は神仙の系統、蓬莱郡彙ノ宮城と聞く
薬を求めん為にふなよそおいすると偽って、密かに聖典百家ノ書、種々の財を数船に積んで徐氏一族併せ蘭姿伶節の童男児女五百人を乗せ、勅に依って海を渡ると言いて我が日本に来る。徐市は富士山に目で駿州に到り、徐明は金峯山に入る。徐林は肥前金立山に住み、徐福は紀州古座に止まり後、熊野山に入る。徐福が孫、古座侍郎三州に移り来る故に
本宮山下秦氏之者多し。

 

牛窪記

 投稿者:maeda  投稿日:2016年 9月20日(火)18時29分48秒
  牛窪記の翻訳は、小生は行っておりません。恐縮です。  

牛窪記

 投稿者:秦野北斗  投稿日:2016年 9月19日(月)08時53分33秒
  牛窪記ですが翻訳しましたか?

東海地方の徐福伝承   2015.1.21前田豊
牛窪記(抜粋)
著者、年代未詳。牛久保牧野氏を中心とする合戦及び社寺の記録
神宮文庫所蔵。牛久保の熊野神社は、徐福伝説とイザナミ神がもととなっている。
1)「ココニ東海道三河国宝飯郡牛久保之庄者、往昔秦氏熊野権現ヲ常左府長山之郷ニ勧請ス。崇神天皇御宇ニ、紀州手間戸之湊ヨリ、徐氏古座侍郎舟ヲ浮ベテ、コノ国沖ノ六本松ト云ウ浜ニ来ル。礒山続キ、前ハ晴、後者深シ。得一種産百物地ナリトテ、御館ヲ築キ給フ。民屋之族尊敬シテ恵ミ蒙ラシムルコト甚多シ。徐氏者秦国ノ姓、コノ子孫以秦為氏。長山之神者常天地久キ護リ給フ。故ニ庄ノ名モ常左府トイエリ。」
2)故説事熊野三所大権現之事
家秘ノ旧記ニ「伊ザナミノ尊火ノ神ヲ産ミ給ヒテカン去リ給フトアレバ、是熊野山ノ本主也。」
3)証誠殿相伝ノ事ニ付テ密義有り
「一座者秦国徐氏之霊也。東海扶桑国者神仙ノ嗣系、蓬莱郡彙ノ宮城也ト聞キテ、薬求メン為ニ艤スルト偽ッテ、ヒソカニ聖典百家ノ書、種々ノ財ヲ数船ニツンデ徐氏一族併蘭姿伶節ノ童男児女五百人ヲ乗セ、勅ニヨッテ海ヲ渡ルトイヒテ我ガ日本ニ来ル。徐市ハ不尽山ニメデ、駿州ニ到リ、徐明ハ金峯山ニ入ル。
徐林ハ肥前金立山ニ住シ、
徐福ハ着岸ノ津紀州古座ニ止リ後熊野山ニ入ル。
徐福ガ孫古座侍郎三州ニ移リ来ル故ニ、本宮山下秦氏之者多シ。
 

卑弥呼以後の日本

 投稿者:秦野北斗  投稿日:2016年 9月16日(金)12時52分53秒
編集済
  247年頃~、日本は毛人国、俀国、倭国の三つ分かれる。
扶桑国は移国

東海扶桑国者神仙ノ嗣系の文章に〈日本〉がある。日本は七世紀前半からの名称になる。
東海扶桑国は七世紀前半まで三河に存在した模様。蓬莱郡彙ノ宮城?明智の城?
3)証誠殿相伝ノ事ニ付テ密義有り
「一座者秦国徐氏之霊也。東海扶桑国者神仙ノ嗣系、蓬莱郡彙ノ宮城也ト聞キテ、薬求メン為ニ艤スルト偽ッテ、ヒソカニ聖典百家ノ書、種々ノ財ヲ数船ニツンデ徐氏一族
併蘭姿伶節ノ童男児女五百人ヲ乗セ、勅ニヨッテ海ヲ渡ルトイヒテ我ガ〈日本〉ニ来ル。
 

扶桑国の変遷

 投稿者:秦野北斗  投稿日:2016年 9月16日(金)11時55分57秒
  扶桑国は卑弥呼の金印で揉めて、三河から石川県に移国している。
卑弥弓呼の官であった古智は残った模様。三河の明智は古智の末裔?家紋は桔梗(扶桑)。

「扶桑国、三州八名郡大野村、総社大明神は近隣五県の氏神也。」意味は魏志倭人伝の伊都国王
が卑弥弓呼の様です。総社大明神は大明神?近隣五県は女王国?
「女王国より以北には、特に一大率という役職を置いて諸国を検察させている。
諸国はこの一大率を畏(おそ)れ憚(はばか)っている。伊都(いと)国に常駐している。
その様子は、まるで中国の地方長官・刺史(しし)のようである。」
 

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