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徐福フォーラムin神奈川

 投稿者:maeda  投稿日:2007年12月 5日(水)19時08分10秒
   徐福フォーラムin神奈川が、間もなく開催されます。
 日時 2007年12月11日(火)~12日(水)
 場所 神奈川県民センター(2F大ホール、1F展示室、402号室など)
 資料費 2000円(2日間通し)

 今から2200年以上前、秦の始皇帝の命令により、「不老不死の霊薬」を探しに東海へと船出した徐福。史記にも書かれている史実と、その後の影響などを、日本、韓国、中国に残る資料や伝承、民間行事に探る。これらの最新の映像を紹介すると同時に、各地の徐福研究者から直接報告を聞きます。徐福関連の写真展示や書籍の販売、映画「徐福さん」の上映会もあります。徐福を通じて、アジアの過去と現在を知り、未来を考えましょう。

 12月11日 10時開幕 基調講演「徐福のアジア的ひろがり」池上正治
        13時   「目で見る徐福たち」青森から九州まで、徐福ゆかりの行事を映像で紹介する。
        18時懇親会(会費6000円)、18時映画「徐福さん」上映
 12月12日 9時徐福up-to-date研究
        9:10  神奈川や静岡の徐福 前田、姫井、中浜
        10:20 日本各地の徐福   山口、中上、笹本、末岡、土橋
        13:00 韓国・中国の徐福  石川、鐘
        14:00 徐福研究の最新動向 木村、逵、鳥居
        15:10 全体討論 講評   河野
            徐福研究の今後のあり方、徐福は本当に日本に渡来していたか。
        16:00 閉会挨拶 田島

 会場:かながわ県民センター(横浜市神奈川区鶴屋町2-42-2、TEL045-312-1121)
 参加申し込み:神奈川県日本中国友好協会気付
        徐福フォーラムin神奈川実行委員会
         Tel045-896-0124、Fax045-896-0125
 

日女命と邪馬台国

 投稿者:maeda  投稿日:2007年11月19日(月)11時14分29秒
   最近、邪馬台国論争は、いささか低調気味ですが、本年9月9日発行の伴とし子著「トヨはアマテラスだった」(明窓出版)に卑弥呼とその孫トヨのことが記載されているので、紹介しておきたい。
 その情報の根拠になっているのは、「海部氏勘注系図」であり、これには「古伝」「秘伝」が含まれているという。
 古事記、日本書紀が正しくて、それに抵触するものは「先代旧事本紀」のように偽書扱いされてきた。しかし、古代の氏族は記紀以前の記録を持っており、迫害を恐れて、極秘に代々伝えられてきた。「海部氏勘注系図」はその一つであり、その系図の中に2人の日女命が載っている。
 日本書紀では、卑弥呼を神功皇后のように書いているが、海外の歴史的記述と年代的に一致しない。
 「海部氏勘注系図」の九世孫「意富那比命」の妹に「日女命」があり、亦の名は「倭トト日百襲姫命」「千々速日女命」「日神」「神大市姫命」であるという。
 また、十一世孫「子登與命」の妹に「日女命」があり、亦の名は「小豊姫命」「豊秋津姫命」「宮ズ姫命」「日神荒魂命」「玉依姫命」とある。
 このことから、九世孫の「日女命」が卑弥呼であり、十一世孫の「日女命」がトヨであると結論付けている。
 本HPでも、同様の見方をしているが、トヨの亦の名を見ていると東海地方とのつながりで面白いことがわかる。
 十一世孫の小登與命は、尾張氏の族長であり、その妹の「日女命」は亦の名「宮ズ姫命」である。つまり熱田神宮付近を拠点としていた人々ではないか。
 熱田神宮の大宮司は、東三河の豊津付近に居住地をもっていたといい、その近くにアマテラス伝承がある。
 邪馬台国の2代目祭祀主のトヨは、尾張や三河に関係があり、トヨの別名「豊秋津姫命」は地名「豊津」との関係で、東三河と邪馬台国の関連を伺わせるものがある。
 

古代神都説の効果

 投稿者:maeda  投稿日:2007年10月30日(火)10時38分10秒
   もみじ さん

 古代神都・東三河説で、お子様が故郷に呼び寄せられたことは、大変結構なことでしたね。
 今までで経験した大きな効果の1つには、古代神都の本を読んで、聖地を訪れたひと(若い男、女)が、意気投合して結婚に到達したと連絡をいただいたことがあります。
その後に、お子さんが生まれたとのこと。
 思いがけない、よい効果が見られており、うれしくなります。
 

ありがとうございました

 投稿者:もみじ  投稿日:2007年10月27日(土)23時48分34秒
  maeda 様
履歴を拝見して、とても専門的、学術的な投稿欄のようだと今気付き、慌ててます。始めから自分のペースで読んで勉強させて頂きます。それにしても前田先生の古代神都説の三冊を回し読みしている県外の娘と息子が最近とみに帰省を口にし、又故郷の山に登りたいと言います。いわれなき自尊心が湧いてきたとのこと。故郷へ我が子らを呼び寄せたい方、これらの本のプレゼント効果大かもしれませんよ(笑)。
 

銅鐸

 投稿者:maeda  投稿日:2007年10月23日(火)14時57分12秒
  もみじ さん

 はじめまして。ようこそ。
 銅鐸は、どのような人たちがつくったのか、どのような目的で使われたのか、諸説がありますが、必ずしも解明されていないと思われます。
 三遠式銅鐸は、銅鐸文化の最盛期~末期に動乱に巻き込まれて埋納されたもののようですね。
 卑弥呼の時代に、邪馬台国と狗奴国が争ったといわれており、時期的にもAD200年過ぎですから、銅鐸文化の消長と関係があるように考えております。いかがでしょうか。
 

三遠式伊奈銅鐸里帰り展示

 投稿者:もみじ  投稿日:2007年10月21日(日)09時30分29秒
  はじめまして。歴史音痴のもみじです。「銅鐸は何を表しているのか?」前田先生の謎掛けに導かれるように大正13年に宝飯郡伊奈で発見された銅鐸三基を豊橋市前芝地区市民館で見てきまた。これがAD200年頃にに?と思うほど精巧な作りで、微かに腐食したそれはずっと神聖視されて来たという故郷のスポットに共鳴してか、さながら掘りたてのような臨場感があり感動的でした。三遠式はどれも埋葬のように埋まっていたと言う説明文があり、また新たな謎掛けとなってわくわくさせてくれそうです。  

「徐福フォーラムin神奈川」のご紹介

 投稿者:maeda  投稿日:2007年 9月28日(金)23時08分48秒
編集済
  「徐福フォーラムin神奈川」のご紹介

 今から2200年以上前、秦の始皇帝の命令により、「不老不死の霊薬」を探しに東海へと船出した「徐福」のことは、司馬遷の「史記」にも書かれている。この史実とその後の影響などを、日本、中国、韓国に残る資料や伝承、民間行事に探り、最新の映像を紹介すると同時に、各地の徐福研究者たちから直接、報告を聞く「徐福フォーラムin神奈川」が2007年12月11日~12日(水)に横浜市(かながわ県民センター、ホール・展示室)で開催されます。
 これは、日中友好35周年を記念するものでもあります。内容は以下の通りですので、徐福に関心をお持ちの方は、是非ご参加ください。

12月11日(火)
 10時開幕 基調講演「徐福のアジア的ひろがり」(講師:池上正治氏)
 13時「目で見る徐福たち」
 17時 映画「徐福さん」上映、開演17:30
 18時 別途懇親会

12月12日(水)
 09時 徐福Up-to-Date研究発表会
     日本の各地や、中国、韓国からの発表を予定
 15時 全体討論と質疑応答
     徐福研究の今後のあり方、徐福は本当に日本に渡来していたか、など
 16時 総括
 16時30分 終了

 参加費:資料費2000円、
     懇親会参加の場合、別途懇親会費5000円
 映画は、フォーラム参加者無料、映画のみ鑑賞の場合、大人500円(中学生以下300円)
 申込連絡先:〒247-0007神奈川県横浜市栄区小菅ケ谷1-2-1
            地球市民かながわプラザ1F
       神奈川県日本中国友好協会 気付 田島孝子 宛
            TEL045-896-0124、FAX045-896-0125
 

空海と役行者と徐福

 投稿者:maeda  投稿日:2007年 8月11日(土)14時04分17秒
   役行者は、東三河の鳳来寺山に、利修仙人を求めて来所したと伝えられている。
 鳳来寺山に行者返しというところがあり、役行者が鳳来寺山に行くのに苦労したことが伝えられている。この地にもホウライと徐福の伝説がある。
 また、東三河の吉祥山麓には、空海が根本道場を立てるため、適当な地を求めて探したところがある(長慶寺)。

 他方、相模の丹沢山系にも、役行者の伝説がある(孫仏山)。
 丹沢山系を越えて、富士山麓から、徐福の子孫一行が秦野に下ってきたという伝承がある。また、空海が修行したという弘法山がある。

 役行者と空海の伝説があるところに、徐福伝承もセットでついてまわっているようだ。
 

空海と寛輔そして徐福の関係

 投稿者:maeda  投稿日:2007年 8月11日(土)11時53分44秒
   義楚六帖で「日本の徐福の伝承」を中国に伝えた弘順大師賜紫寛輔は「道賢と同じく真言宗の僧侶であることにまず間違いはなかろう」(王勇、アジア遊学22、p47)と述べられている。王勇氏によれば、金峰山の詳細を知り尽くしている寛輔は「金峰山修行に仲間と思われてもおかしくない」としている。
 また、「寛輔は、京(杭州?)にありユガ大教を弘め、弘順大師号を賜り・・授法灌頂の弟子は三十余人あり。」(在唐記)といわれるが、「ユガ大教」とは真言宗のことで、空海が唐で学んだ密教の流れに属するものである」(王麗平、アジア遊学22,p54)。
 中国では武宗による会昌年間(841-846)の仏教弾圧を経て、真言密教は中国で次第に衰弱の一途をたどり、かえって扶桑(日本)において隆盛を極めた。
 「空海が入唐して長安の青竜寺で恵果より付法されたのは密教、そして帰国して高野山で開宗したのは真言宗、その流れを汲んだ寛輔が京(杭州)で弘めたのが「ユガ大教」と称されている」(王麗平)という。
 寛輔と義楚が出会ったのは「釈氏六帖」によれば、後周の顕徳5年(958)のことで、義楚は、寛輔から、金峰山と富士山の話を聞いている。
 金峰山に関する臨場感あふれる描写から、「寛輔は長く金峰山で修行していた僧であると推定」されている。
 一方、富士山の話に関しては、徐福に関する有名な話である。「また東北千余理に山あり、富士といい、また蓬莱という。その山峻しく、三面これ海あり。一だ上の聳え、頂に火煙あり。日中に上に諸宝あって流れ下り、夜即ち上に却える。常に音楽が聞こゆ。徐福ここに止まって蓬莱という。今に至って子孫みな秦氏という。」

 興味深いことに、寛輔が義楚に伝えた、金峰山と富士山は共に、役小角の伝承をもつところである。役の行者は五色の雲に乗り、仙人と遊ぶなど、神仙的な姿が描かれ、後に、仙人となって天に飛び、不死の生命を得たという。
 弘法大師空海も、高野山で即身仏となり、不死の状態で存在するという。
 寛輔は、このような神仙思想を、役行者や空海から修行を通して身に着けており、そこに徐福の情報が混じっていたことが考えられる。
 

徐福伝説(東三河と神奈川)

 投稿者:maeda  投稿日:2007年 7月31日(火)09時54分17秒
   「神奈川県民」さま

>徐福伝説(東三河と神奈川)が読めないのが残念です。

 とのことですが、多くの方には問題なく見られているようです。
 ブラウザーやセキュリテイーの程度の問題は、ありませんか。
 MACのパソコンで、内容が読めないという人がいましたが、
 Microsoft Internet Explorer でなく、Netscape:(http://wp.netscape.com/ja/)
で開くと、読めるという話を聞きました。一度お試し下さい。
 

東三河と神奈川

 投稿者:神奈川県民  投稿日:2007年 7月28日(土)23時06分4秒
  徐福伝説(東三河と神奈川)が読めないのが残念です。  

徐福伝承を伝えた人々

 投稿者:莽翁 寒岩  投稿日:2007年 7月12日(木)07時26分7秒
  うるさくてすまん。地上の創造界は何らかの構成、編集が事実や真実であることは多少とも考える人には周知であります。貴兄様のこういう、基底の何かからのしっかりした語調さと推察を承ると、徐福という人物存在の息使いと、歩行の姿が垣間見え隠れしてきます。なお
労を省いた勉強を詫びなければいけないのですが、http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%89%E7%A5%A5%E5%A4%A9では≪吉祥天は、仏教の守護神である天部の一つで、ヒンドゥー教の女神であるラクシュミに対応する≫とか書いてありました。そして女性伸の画像でした。ヒインドゥの勉強を少ししておりますので、どうも読んだ気がしてきました。天部にはたくさんおられますが、徐福に助命された、秦国訪問の天竺僧侶とはどうも異なるようですね。紛らわしいお名前です。≪吉祥≫を付した仏閣、地名はいろいろあり、この天竺僧侶とは、またこれ、異なるようですね。
 

徐福伝承を伝えた人々

 投稿者:maeda  投稿日:2007年 7月11日(水)10時57分13秒
  莽翁寒岩 さま

 コメント有難うございます。
 徐福伝承を伝えた人々のことは、三河や相模、紀州の神社、仏閣の縁起書、弘法大師の経歴、弘順大師寛輔の経歴、波多野氏の歴史などをもとに、推論を加えた結論です。
 徐福の記事が、明確に載っているのは、新宮の詩碑以外では、秦野「宝蓮寺」の縁起書や藤沢の妙善寺の福岡家の墓碑です。
 多くの情報の組み合わせから、推論したものですので、一つの考察結果とお考え下さい。
 

徐福伝承を伝えた人々

 投稿者:莽翁 寒岩  投稿日:2007年 7月 8日(日)06時54分46秒
  ①うっすらと関係あるのではないかとおもっていたことが、ずいぶん明白に認識化できるみたいです。ご結論の明確にご提示ですが、むずかしくややこしいのかもしれないが、出典や、どんなご研究経過かが(生意気ですみません)注記されると、わからないながらも、更に宝になります。できましたらいつかお願いします。 ②吉祥とはインドの僧侶でしたか。ここで私にはまた、新しいことば≪異俗≫がでてきました。多分異国的風俗、民俗の面からかんねんしてればいいのでしょう。インド僧と徐福との接点は興味がわきました。吉祥については自分も、勉強をしてみます。  

徐福伝承を伝えた人々

 投稿者:maeda  投稿日:2007年 7月 7日(土)10時49分47秒
   徐福伝承は、秦河(川)勝を含む、秦氏一族によって伝えられたと思われます。
 平安時代に波多野氏が、宮廷歌人として京で活躍しており、様々な神仙思想も彼等によって、広げられた可能性があります。
 波多野氏の祖先は、藤原秀郷と言われていますが、その元は京に出仕した秦野氏あるいは秦氏であります。そこに佐伯氏が絡んできます。佐伯氏は、空海の祖であります。
 空海は、佐伯氏と秦氏から徐福と神仙思想を受け継ぎ、真言密教に反映させたことが考えられます。
 空海は、真言密教を弘順大師紫賜寛輔に伝え、それが中国の義楚六帳における「日本の徐福の伝承」として文献に載ったものと思われます。
 空海は、相模の大山寺の三代目住職であったと、大山寺縁起に書かれています。近くに秦野市やその郊外に宝来山や権現山、弘法山があります。権現は、熊野権現を表すと考えられ、徐福を表していると思われます。
 空海は、一時期、東三河の吉祥山麓・長慶寺あたりで「根本中堂を建立」しようと考えたそうです。しかし、それより高野山の方が適しているとの考えに変わり、紀伊熊野の北部に移っていったと伝説されています。
 ところで、吉祥山に関係して逸話があります。つまり、吉祥とは秦国を訪問した天竺(印度)僧侶たちの呼び名であります。
 このことが秦野の大日堂・宝蓮寺の縁起書に現れており、五大尊の仏像を始皇帝の時代に秦国にもたらしたが、吉祥一行は、異俗を嫌う始皇帝に殺されるところでした。そこを「徐福」に助けられ、仏像、経典を徐福に託し、天竺に帰っていきました。
 これらの仏像、経典は、始皇帝の後裔・弓月氏(秦氏)によって、日本にもたらされ、京都の太秦や相模の秦野に移されました。
 徐福伝承は、彼等・秦氏によって伝えられたと考えられるのです。
 

徐福繋が り━帰化

 投稿者:莽翁 寒岩  投稿日:2007年 6月12日(火)06時23分22秒
  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B8%B0%E5%8C%96とgooでは、≪「帰化」という語句の本来の意味は、「君主の徳に教化・感化されて、そのもとに服して従うこと」(後漢書童恢伝)である。≫という説明が、同じ文言でありました。渡来人ということばもありました。
帰順ということばも化すというもありますから。ともかく、その土地と人々とになった、ということなのでしょうね。落ち着く、というのよりもっと長い構えと、基本性で。どんな落ち着き方をしていったか、だんだんなんとなく納得できるかもしれませんね。
 

徐福繋がり

 投稿者:莽翁 寒岩  投稿日:2007年 6月11日(月)06時27分57秒
  maeda様 そうなんですか。山岳神道や熊野修験道に伝承され、生きてきているのですか。
漢字の読み方なども、古い読み方が私達日本に生き、伝承されていると聞いていましたが、こういう風に思想や生き方、考え方、行法などにも伝承、生きているのですね。多分いろんな文化なども、ずいぶんそうやって伝承され、生きているのですね。山岳神道やしゅげんどうは日本独特で、外国にはないものだと、聞かされていたのですが、そんなに古い、時代から、日本の文化として根づいていたわけですね。何か仙人の仕方にはにているとはかんじていたのですけれど。本当にありがとうございました。ところで紀伊熊野に落ち着き帰化したとのお話ですが、ちょいと瑣末なことですが、今の言葉の内容では、帰化というのは国籍を取得するというようになっておりますが、この時代の帰化というと、まぁこの国の人間になったという意味なのでしょうね。だから“落ち着き”という意味とおなじなのでしょうね。
 

日本武尊ヤマトタケルノミコト ~国津神:戦神~ 草薙剣クサナギノツルギ

 投稿者:大軍師、日本武尊命  投稿日:2007年 6月11日(月)03時38分52秒
  日本武尊ヤマトタケルノミコト ~国津神:戦神~  草薙剣クサナギノツルギ

 第十二代天皇景行天皇の息子。母は針間之伊那毘能大郎女(ハリマナビノオオイラツメ)
 実在した神と言われるが確証なしっ。でも草薙は実在してんだよなぁ。
 幼名?は小碓命(オウスノミコト)という名前だった
 気性の荒かった彼を父景行天皇は嫌っていた
 九州の首長神たる熊襲建(クマソタケル)兄弟の討伐を父より命じられ、叔母:倭比売(ヤマトヒメ)の提案で女装し、宴の席にて彼を刺し殺した。 もう一人出雲建(イズモタケル)も以下同文。だが、半分嫌がらせのよーなこの難題を彼はこなし、この所行(建)によって「倭建命」「日本武尊」(ヤマトタケルノミコト)の名を賜り、最強の勇者扱いされて帰ってきた。親父は業を煮やして「今度は東国各国を周り「荒ぶる神、伏まつろわぬ人ども」をぶっ飛ばしまくってこい」とまで言う。
 東国平定の前に叔母の家によった彼は「西国を平定し帰ってくると兵も与えられずに東を平らげよとは・・・天皇は私に死ねっつーのか?」と泣き言を漏らしたんだがその通りだったんで悲しい。
 途中、草原彷徨いてると「荒ぶる神」の一派から火攻めを食らった。しかし天叢雲剣が刹那の間に全ての草を薙ぎ払う・・・こうしてその剣は「草薙の剣」と名を変えることになった。

 いじけつつも彼は全土平定しました。おみごと。
===============================================================
写真を、クリックすれば、拡大するタイプ有り。
(無料掲示板)http://8914.teacup.com/yamatotakerunomikoto/bbs

   ===”虎穴に、いらずんば、虎子を、獲ず!!!。”===
 

徐福繋がり

 投稿者:maeda  投稿日:2007年 6月10日(日)23時23分43秒
   神奈川県の秦野市には、秦始皇帝に不老長寿の仙薬を勧めた方士徐福が、蓬莱の島を求めて日本の紀伊の熊野に落ち着き帰化し、その子孫が富士山麓に土着し、延暦19年(800)に富士山の大噴火が起こり、大きな被害を受け、やむなく秦野に移住したとの伝えがあります。
 また、秦川勝一行の秦野開拓(600年代)伝承、さらには、応神天皇や仁徳天皇の時代(300年代~)の五大尊の安置に関する伝承が存在しました。
 神奈川県の「徐福伝承」は、これら秦氏の流れ、大山に関連した山岳神道や熊野修験道および弘法大師開創の真言宗や臨済宗を中心とした仏教展開の流れにのって、かなり古い時代から存在していたことが考えられます。
 ここで伝えられてきた「徐福伝承」が、真言密教の僧侶「日本国持念弘順大師賜紫寛輔」によって中国大陸に紹介され、10世紀(955年)の成書・義楚六帖に現れたと見てよいのではないかと考えられます。
 

たたらのこと

 投稿者:莽翁 寒岩  投稿日:2007年 6月10日(日)07時07分34秒
  ≪たたら≫を検索すると≪踏鞴≫という字がでてきますが、これは当て字なのでしょうか。日本の古いことばなら、こういう字ではないと存じますが。どうかお分かりの皆様のご見識をお願いします。懇請、平伏。仰祈。  

徐福繋がり

 投稿者:莽翁 寒岩  投稿日:2007年 6月10日(日)07時03分41秒
  徐福のこと、とても楽しいですね。これがだんだんしっかり判ってきて、ある程度本当なのだとなってくるとなお、嬉しいですね。もう皆さんにはそれが、そうとう本当なのでしょうけれども。無数といえるくらいに伝説、由緒、遺跡、史跡。文書の記録。これにぜひ付加していってもらいたいのは、今の生活や伝統の中で、民俗の中で何か残っているものがないのかなぁ。とはかなく思い続けています。そして徐福のしたこと、教え、導き。行法などについて。いつも希望ばかりですみません。貢献がなくて。  

鋼都より愛をこめて

 投稿者:中村  投稿日:2007年 6月 9日(土)23時29分9秒
  古事記記載のイザナミの神陵があると言われる、山陰の島根県安来市へいったことがありますが、そこは出雲国風土記の伝えるところによると、大穴持(大国主)大神がヤマタノオロチを退治したとあるそうです。しかも、その地の「安来」という名を命名したのがスサノオであるともされています。
 そこは「もののけ姫」で有名になったたたら製鉄が紹介されている和鋼博物館があり、かつてこの地は大規模な出雲式製鉄が行われていたときかされました。日本庭園が世界一と言われる足立美術館もこの地にあり、横山大観の神代を題材とした絵には圧倒されました。不思議な大地の力を感じたようでした。
 

徐福繋がり

 投稿者:maeda  投稿日:2007年 6月 7日(木)11時48分7秒
編集済
   新宮市に鎌倉時代の禅僧・無学祖元の詠んだ漢詩「徐福祠献晋詩」があります。
 1281年頃、作られたもので、確かな文献による熊野での徐福伝承の初見とみられています。注目すべきことは、新宮の徐福嗣の建立が、祖元の東渡(1279)以前だったということであります。
 では、日本の徐福伝承が、最初に文献に載ったのかと言いますと、『六帖』(955年に成書、一名は義楚六帖)であります。これを著わした義楚は、五代の后周の高僧で、仏教の立場で書かれており、正史ではありませんが、徐福の得た「平原広沢」が日本であると指摘した中国初の文献です。
 その「城郭・日本」という部分に、「日本国は別名を倭国ともいい、東海の中にあり。秦の時、徐福は五百の童男と五首の童女を率いて、この国に止まる…東北千里あまりに山あり、富士と名づけ、別名を蓬莱という。三面は海となり、その山は峻険で、一朶として上に聳え、山項に火が燃える。日中には、諸宝が流れくだり、夜には逆の上がる。常に音楽が開こえ、徐福はここに止まる。蓬莱という。今にいたるも、子孫はみな秦氏を名のる…」とあります。
 この情報をもたらした人は、日本国持念弘順大師賜紫寛輔であり、寛輔は延長五年(927)に寛建の従僧として渡海真言宗・密教の僧侶だったらしいのであります。(→弘法に繋がる。)
 済州(いまの山東省)の開元寺にいた義楚は、寛輔と交誼をもち、『六帖』にある日本の歴史や風俗などは、寛輔から聞いたことを基としています。すでに千余年以上もの昔、日本で徐福が仙薬を求めて東渡し、蓬莱(日本)に住みついたことが広く知られていたということであります。
 

上村様どうかもっと教えてください

 投稿者:莽翁 寒岩  投稿日:2007年 6月 6日(水)06時43分41秒
  上村様 たたらというのは漢字ではないのでしょうか?神話時代にもそんなことばがあったようなことを、聞きかじっています。どうかそういうことでホーム・ページをひらいてくれないでしょうか。最初はちょいとのことで。さいしょから膨大だと勉強するほうも途方にくれますから。私は労働法しか勉強してこなかったけど、定年後そういうことが面白いのだと判ってきた人間です  

出雲の鉄

 投稿者:上村  投稿日:2007年 6月 4日(月)11時39分22秒
   プロジェクトXのDVDで、たたら製鉄の話を見ましたが、
出雲の製鉄の歴史はずいぶん長いことが色々と勉強して
分りました。島根の日立金属っていうところはなかなか
名門の工場なんだなあと思いました。
 

徐福繋がりの情報:お礼

 投稿者:莽翁 寒岩  投稿日:2007年 5月12日(土)11時18分34秒
   ありがとう御座います。よくご調査されております。揚げ足はどうにも取れるものですが、今後どんなことが分るか楽しみです。今は不可視になったようなことですが、神秘なことを想像しながら、引き込まれそうな広範な、深いお話ですね。徐福の教えや考え、思想、術というのでしょうか、いわゆるpractise、行法(高野山のマントラ修行ではぎょうぼうという、発音)などが伝わっていて、所在が片鱗でも出てくると、なおいいですね。道教や山岳修行や、その他のことも、どうしても習合していますからね。難しいでしょうね。  

徐福繋がり

 投稿者:maeda  投稿日:2007年 5月11日(金)23時02分15秒
   莽翁寒岩 さん  コメント有難うございます。

 徐福繋がりの情報をもう少し書いてみます。

 徐福文献とも呼ばれる富士古文書には、徐福の子孫は秦氏を称したことになっています。
 一方、秦氏は、日本列島に渡来後、姓を変えたが、特に大化改新以降それが著しいといいます。
 飛鳥昭雄・三神たける両氏は「秦氏の謎」(学研)の中で、秦氏が姓を変えるにあたって、読み方の「ハタ」や「ハダ」は変えないが、当てる漢字を変えるケースが多いといいます。
 つまり、畑、端、秦、畠、波田、波多、波蛇、羽田、八田、半田、矢田など。
 次に、それらに「野」「山」「田」をつけて、
秦野、畠山、畠田、畑川、波多野、畑中、広幡、八幡など。
 最後に、まったく違う姓になるケースとして、
服部、林、神保、宗、朝原、太秦、惟宗、田村、島津、長田、長蔵、辛島、小松、大蔵、依智、三林、小宅、高尾、高橋、原、常、井出、赤染、大幡など。

 身近にこれらの姓の方々を発見されるケースは、多いと思います。

 一方、神奈川県に秦野市がありますが、蓑毛大日堂を管理する宝蓮寺には、由来書に「徐福と秦始皇帝」のことが出てきますし、秦川勝が来所してこの地を拓いたことを記す石碑が立っています。
 秦野の中世の領主は、波多野氏ですが、波多野氏は、鎌倉時代に全国に広がっており、日本各地の波多野氏は、秦野から広がった氏族が多いと思われます。
 同じく神奈川県の藤沢には、福岡家の墓碑があり、徐福の子孫であることを明記しております。
 神奈川県の相模川周辺には、富士古文献を保管した寒川神社があり、この近くにも三河から移転した土器等の遺物が出土しているところがあります。
 徐福一行の展開が三河を経由して、富士山麓、関東に広がった可能性が考えられます。
 

徐福繋がり

 投稿者:莽翁 寒岩  投稿日:2007年 5月 9日(水)17時44分49秒
   石頭の歴史学の碩学とは違い、単なる現行法規の解釈の勉強しかしてこなかった外野人のせいか、とても面白いと存じました。専門家はいろいろ揚げ足を取るように、批判するかも知れませんが、勿論大衆一般としての私は、無責任ではないが、夢を見るように拝読しております。今後のご研究を期待しております。斯界が認めるか、無視するかは私には無関係でして、自分の思索に資すればいいだけですから。  

善光寺如来と聖徳太子

 投稿者:maeda  投稿日:2007年 5月 9日(水)10時52分12秒
   百瀬高子著「御柱祭 火と鉄と神と・・・縄文時代を科学する」(彩流社2006.7.10発行)には、東日本の古代史を見直させる様々なデータが載っています。

 その一つの例に、善光寺如来と聖徳太子の交わした現存する書簡というものがあります。
「法隆寺の五重の塔の天辺には諏訪の風の神のシンボルの鎌が今も飾られているので、太子系勢力は諏訪系勢力だということを物語っていると同時に、善光寺如来と書簡を交わしていたので長野の勢力とも通じていた勢力だったともいえる。」とかかれています。

 興味深いのは、「聖徳太子と山国の善光寺如来と交わしたという書簡の日付は、なんとその日の内で、信州と奈良とを一日にして往復したことになっている。だが一日で書簡を交わすことは、信州と奈良の間ではありえない距離だ。」というのですが。

 東三河には、善光寺川が流れており、善光院があり多くの仏像が祭られています。聖徳太子伝承も厚く広がり、聖徳太子自彫の木像と称されるものも存在しています。
 上記書簡の交信があったのが、東三河での出来事だとすれば、一日の往復も十分ありうることだと考えられます。
 日本の古代史解明には、東三河の古代史解明が欠かせないと思われます。
 

徐福の繋がり

 投稿者:maeda  投稿日:2007年 5月 9日(水)10時24分13秒
  莽翁寒岩 さん ようこそ

 徐福繋がりの情報をもう少し書いてみます。
 徐福を表すと思われる「保福大神」の石碑がある牛川稲荷神社の境内には、石巻山を遥拝するような形で、古墳が存在し、御嶽大神と地神とという石碑が立っています。
 その奥には、嘗て発生基の古墳と言われる方墳が存在しましたが、開発時の発掘で、国宝級とも言われる漢時代将官用の素環頭両刃の直刀が出土したと言われています。
 つまり、東三河は古代中国の将官級の人との繋がりがあったと思われるのです。
 遥拝対象の石巻山は、標高356m(みごろ)と低いのではありますが、富士山のような形をしており、ピラミッド型の蓬莱山とも呼べる山です。
 石巻山の山腹には、石巻神社が存在するのですが、その御祭神は大国主神となっています。しかし、そのご正体は、天御中主神とも大山祇神とも言われています。
 大山祇神は国津神と言われていますが、私の調査結果では、徐福を反映していると考えられます。また、御嶽大神と地神の表現も、徐福の称号とよく合っています。
 つまり、牛川稲荷神社境内は、徐福の子孫の祭り場だったと思われるのです。
 因みに、牛川稲荷神社境内に多くの大神の名を刻んだ立石が林立していますが、この神社の氏子は、これらの大神の子孫だと自称していることが分かりました。

 これらのことは、牛久保密談記に書かれたところの「徐福の子孫一行は、本宮山麓に栄え住み、中国姓を変えて三河に住みついた」ということと符合していると思われます。
 また、徐福一行の姓を残すものとして、秦氏、鵜殿氏があるといわれますが、いずれも東三河に残る氏姓であります。

 これらを背景にして、鳳来寺山の仙人伝説や、持統天皇、文武天皇の三河来訪を考えることが、古事記・日本書紀の記す古代日本の姿を修正するのに役立つのではないかと思っています。
 

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