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そうですか

 投稿者:maeda  投稿日:2017年11月21日(火)21時38分53秒
  豊川稲荷の近くの砥鹿神社が天武天皇に関係があると推定していましたが。この東数キロのところにある石巻神社には、持統天皇や文武天皇の伝承があります。  

びっくり 2

 投稿者:秦野北斗  投稿日:2017年11月20日(月)18時46分3秒
  舊唐書卷八十四/列傳三十四/劉仁軌伝によると統一新羅時代は存在してない。
新羅による三国統一はなく、劉仁軌が統一の様です。古代の日韓史は大きく変わるな。

それと豊川稲荷の白狐は天武天皇の様です?。詳細は不明です。


新羅による三国統一後、ほぼ同時期に渤海が旧高句麗の支配地域に建国され、両者は渤海が滅亡するまで並立していた。ただし、渤海を朝鮮の歴史の一部とみなすべきか否かについては賛否両論があり、渤海を朝鮮史の一部とする1975年以降の韓国では統一新羅・渤海並立時代を「南北国時代」と称しているが、渤海を朝鮮史へ組み込むことに否定的な日本・中国などでは「統一新羅時代(中国語版記事)」と称される。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%9D%E9%AE%AE%E3%81%AE%E6%AD%B4%E5%8F%B2
 

また国が穂国になる

 投稿者:秦野北斗  投稿日:2017年11月 4日(土)22時59分59秒
  魏志の文章:女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種。

復の意味は、くりかえす。再びで、同様になる。
小生の著書(徐福と邪馬台国)P76 また国が穂国になる。
著書では豊橋とするが、豊川、豊橋かは不明、豊川が有力?

狗奴国は著書では徳島としたが間違っている。2018年の著書出版で訂正する。


 

魏志倭人伝に穂の国?

 投稿者:maeda  投稿日:2017年11月 4日(土)21時28分59秒
  秦野北斗様

>魏志倭人伝に穂の国と思われる文章がある。
>「文章は邪馬台国と同様の国がある。」

 これは、気が付きませんでした。どの辺にあるのでしょうか。
 読み直してみます。

   maeda
 

穂の国

 投稿者:秦野北斗  投稿日:2017年11月 3日(金)22時35分32秒
  お世話に成ります。穂の国は小生は知りませんでした。
魏志倭人伝に穂の国と思われる文章がある。「文章は邪馬台国と同様の国がある。」
位置関係から豊川になる。『先代旧事本紀』尾張・三河・穂の記録は正しいだろう、
魏志から穂の国の都が存在した模様。豊川稲荷が都の名残?

 

投稿有難うございました

 投稿者:maeda  投稿日:2017年11月 2日(木)17時51分35秒
   mutuさまお久しぶりです。

 最近、『三河国、ここに始まる! 』(雄山閣、2017年10月25日発行)という書籍が、安城市教育委員会・土生田純之編で出版されました。
 三河と穂の国は、別の国造が治めていたようで、それぞれの地域に国造の古墳があるようです。
 大和政権とのつながりも多そうですが、古墳は古く3世紀後半ごろから始まっているので、邪馬台国とのつながりが考えられそうです。
 ただ、豊川市の甕棺出土や徐福伝承は全く触れられておらず、邪馬台国以前の歴史解明に、アカデミズムの限界があるようですね。
 

お久しぶりです。

 投稿者:mutu  投稿日:2017年10月20日(金)00時27分44秒
  mixi、ここ最近また少し見るようになって、古墳コミュを見ていたら、久しぶりに『古代神都』を覗いてみたくなりました。
勝者が残した歴史書より、何も言わないけど、そこにずっと佇んでいる古墳のほうが、なんか語りかけるものがあります。
現在の政治は、奥の院を理解しないと、表面的にはあまりインパクトがなく、なんというか情報操作を掻い潜るのにかなり苦労します。
前田先生をはじめ、この掲示板に書き込んでいる方々の熱意に敬意を表したく書き込ませていただきました。また、諸先生方の新たなインスピレーションや大発見に夢を託しています!豊川市より。
 

本当ですか

 投稿者:maeda  投稿日:2017年10月 9日(月)10時31分53秒
  白村江の戦い、【大化の改新】 、壬申の乱もなかったとは、本当かしら?
裏付け資料の公開もよろしくお願いします。
 

びっくり

 投稿者:秦野北斗  投稿日:2017年10月 6日(金)22時06分1秒
  舊唐書卷八十四/列傳三十四/劉仁軌伝の翻訳完了

天智天皇の韓半島ですが則天武后に騙し取られる。が真実の様です。

白村江の戦い、【大化の改新】 645年は無かった。壬申の乱も同様です。

日本書記は創作、捏造の歴史書になる。
 

出版期待

 投稿者:maeda  投稿日:2017年 9月15日(金)23時49分57秒
  不思議な歴史が展開されますね。出版されるのを期待しております。  

著書出版

 投稿者:秦野北斗  投稿日:2017年 9月11日(月)01時20分53秒
  古事記の序文に天智天皇が登場するのです。百済は問題が多いな、白村江の戦いは嘘を確認しました。聖徳太子は高句麗の戦闘で、隋末に援軍を求めている。白村江の真意は聖徳太子、蘇我が影響している模様。天智天皇は藤ノ木で自害している、自害は秦法の裁きと書いてある。どうも、天智天皇が何かをやらかした模様。大化の改新が疑わしくなって来た。

過去の歴史家を疑う、この頃です。著書出版は2018年
 

お久しぶりです

 投稿者:maeda  投稿日:2017年 9月10日(日)22時09分46秒
  秦野様
最近、掲示板に遠ざかっていて、失礼しました。
北朝鮮の水爆が問題になっているようで、物騒な世の中になりました。
お元気でご活躍ください。
ご著書出版は、どのようになっているでしょうか。(Y.M)
 

聖徳太子

 投稿者:秦野北斗  投稿日:2017年 9月 9日(土)21時26分46秒
  劉仁軌伝に韓半島の統治は安宗、則天武后、その後、冊封にした。との事。
また、琉球国が冊封国になるが、韓国も同様になる。国名を倭国から日本に改名後からになる。現在の歴史観は崩壊の可能性がある。

舊唐書卷八十四/列傳三十四/劉仁軌伝を翻訳中ですが、文中に隋末・・
聖徳太子が、遼東で高句麗と戦闘している、隋に援軍を求めている。

隋の高句麗遠征(ずいのこうくりえんせい)は、598年から614年まで4回にわたって行われた、隋による高句麗への遠征である。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9A%8B%E3%81%AE%E9%AB%98%E5%8F%A5%E9%BA%97%E9%81%A0%E5%BE%81
 

好太王碑は仁軌立碑

 投稿者:秦野北斗  投稿日:2017年 8月28日(月)19時46分23秒
  好太王碑は「旧唐書」劉仁軌伝に開元中726~7年、仁軌立碑と記される。
内容は文献とある。書物や文書。碑文に新羅の建国史が記録される。
新羅舊:辰、並び古い。辰(辰国)は古い国、になる。
劉 仁軌(りゅう じんき、ピンイン:Liú Réngu?、602年 - 685年3月2日)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8A%89%E4%BB%81%E8%BB%8C

好太王碑は現在の理解は下記とされる。下記は誤訳になる。

好太王(こうたいおう、374年 - 412年)は高句麗の第19代の王(在位:391年 - 412年)。姓は高、諱は談徳。先代の故国壌王の息子で、386年に太子に立てられており、先王の死とともに辛卯年(391年)に王位に就いた。鮮卑の前燕の攻撃を受けて衰退していた高句麗を中興し、領土を大きく拡張した。好太王の名は、好太王碑文によれば正式な諡は國岡上廣開土境平安好太王といい、韓国では広開土王または広開土大王とも呼ばれる。在位中に永楽という年号を使用したので永楽大王とも呼ばれる。

399年、百済は先年の誓いを破って倭と和通した。そこで王は百済を討つため平壌に出向いた。ちょうどそのとき新羅からの使いが「多くの倭人が新羅に侵入し、王を倭の臣下としたので高句麗王の救援をお願いしたい」と願い出たので、大王は救援することにした。
400年、5万の大軍を派遣して新羅を救援した。新羅王都にいっぱいいた倭軍が退却したので、これを追って任那・加羅に迫った。ところが安羅軍などが逆をついて、新羅の王都を占領した。
404年、倭が帯方地方(現在の黄海道地方)に侵入してきたので、これを討って大敗させた

百殘新羅舊是屬民由來朝貢而倭以耒卯年來渡海破百殘加羅新羅以為臣民
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A5%BD%E5%A4%AA%E7%8E%8B%E7%A2%91
 

古墳

 投稿者:秦野北斗  投稿日:2017年 7月25日(火)00時05分37秒
編集済
  古墳には喪(も)が有った模様。万葉集を翻訳した文章に喪と記される。
現在の日本の古墳の年代は喪の最終年代になっている可能性がある。
大友皇子の墓が前方後円墳なら、間違いでしょう。だが一筋縄では行かないのが現実。

追記、一部の古墳に再度埋葬したと思わせる物が在る、高松塚、キトラ
再確認が必要になる。大友皇子がこれに当たるか?

この件は白村江の内容を確認したい、壬申の乱にも疑問が浮き上がっている。


 

中大兄の墓は?

 投稿者:秦野北斗  投稿日:2017年 7月20日(木)23時42分39秒
編集済
  天智天皇の墓は、古事記、万葉集によると藤ノ木古墳です。
舊唐書卷八十四/列傳三十四/劉仁軌伝を翻訳中ですが、内容は万葉集と一致します。
詳細は著書が出来れば説明します。大友皇子の行方は万葉集に頼ることのなる、
「天智天皇は伏見で、履物を残して、・・・」は扶桑記になる。内容は・・・、捏造でしょう。


愛知県岡崎市小針町にある小針1号墳が大友皇子の陵とする伝承、愛知県岡崎市西大友町の大友皇子御陵という塚を陵とする伝承なども存在する。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BC%98%E6%96%87%E5%A4%A9%E7%9A%87
 

中大兄の墓は?

 投稿者:maeda  投稿日:2017年 7月20日(木)22時28分45秒
編集済
  白村江の戦いは著名ですが、詳しい状況が語られていませんね。解明していただけるとありがたいです。
尚、天智天皇は伏見で、履物を残して、行方不明になった後、どこに行かれたのか、どこに葬られたのか、判っていません。
不思議なことに、東三河に、中大兄墓と銘打った、前方後円墳があるのです。その真相を知りたいですね。

因みに、天智天皇の御子で壬申の乱で敗北した、大友皇子の墓が、神奈川県の大山東麓・伊勢原にあるのも、興味深いところです。
伊勢原市の三宮・比々多神社に、天智天皇の孫・衣縫女王(施基皇子の子)の古墳があるのも不思議だし、東国は、歴史の謎を秘めています。
 

白村江の戦い

 投稿者:秦野北斗  投稿日:2017年 7月16日(日)23時36分36秒
編集済
  白村江の戦い、舊唐書卷八十四/列傳三十四/劉仁軌伝を翻訳しています。
当時の文章は日本書記と同様文体になっている。

内容は翻訳中でるが、白村江の戦いは無かった模様。
「旧唐書」劉仁軌伝
唐軍は扶餘隆が率いる水軍、及糧船を白江之口で襲うこと四戰、焚く其の舟は四百艘。水軍、及糧船は耽羅國の使い。唐軍は大いに潰れる 。扶餘隆: 百濟義慈王の子

「日本書記」
倭国軍は唐の水軍によってはさみうちにされ、軍船400隻は燃え上がり、倭国軍は大敗してしまう。(歴史上最初で最大の敗戦となった)
http://www.asuka-tobira.com/hakusonkou/hakusonkou.htm

「日本書記」は捏造文書になる。天智天皇の思惑が文中にない、
 

日本人の先祖とは?

 投稿者:アストライアの会  投稿日:2017年 7月11日(火)11時52分24秒
  古代、私達ちの先祖はどこから来たのか
~北、南、そして半島から~
古代人が日本本土を「オオヤマトトヨアキヅシマ」と言う明確な島ととらえていた事は、考えれば不思議である。いずれにしろ日本は四方(よも)を海に囲まれ、日本を島と知るにはどう
しても一回りしなくてはならず、小舟では危険な荒ぶる黒潮を避ける事は出来ない。
「先祖達ち」は相応の準備を整え、失敗を重ねつつ遠い古代に、葦原(あしはら)の拡がる山紫水明(さんしすいめい)のこの地に辿り着いたものと思われる。
通説では後期旧石器時代、およそ4~2万年前ごろ、後に縄文人と呼ばれる人々が列島に渡って狩猟生活を送り、その後、新石器時代にいわゆる弥生人が渡来して、稲作などの農
耕文化を伝えたとされる。
北の蝦夷(えみし)の地からは夙(つと)にアイヌ人が列島に住んでいたが、彼らは縄文人の遺伝子を色濃く残していると言われる。南の海路からは日本近海の当時は貴重な産品であった宝(たから)貝(がい)を採るために、中国南部から台湾、東南アジアの人々が黒潮に乗ってやって来たと、民俗学者の柳田国男氏は竿頭(かんとう)衣(い)や入れ墨など共通する証拠を挙げている。また江上波夫氏は北方騎馬民族が朝鮮半島より半征服者としてやって来て日本に古代国家が生まれたとの説を述べた。
講師の「フィールドワークの鬼」堀内氏は、国内及び海外の現地調査を幾度も重ねて来た。その結果をもとに、私たちの先祖がアイヌ人なのか、中国人なのか、朝鮮人なのか、あるいはそのどれにも属さない何がしかの混血として今に至るのか、本日明らかにしてくれる筈である。

「世界古代文明の謎を探る」(12)日本人の先祖とは?
主 催 アストライアの会  協 力 日本セカンドライフ協会
ゲスト 堀内好浩山梨県立大学特任教授
日 時 平成29年9月30日(土)午後2時から5時
会 場 豊島区イケビズ第2会議室(池袋駅西口徒歩9分)
費 用 お茶代込み参加費二千円
備 考 画像を見ながらお話し。後半はゲストを交えたお茶会です。
連絡先 TEL049(258)3218 松原まで
道 順 東京芸術劇場の裏手の劇場通りを池袋警察署、消防署の方角に進むとその先に。

http://www.gilishya-shinwa.com

 

いちき串木野市 徐福伝説

 投稿者:秦野北斗  投稿日:2017年 5月24日(水)10時31分45秒
編集済
  封禅(ほうぜん)の儀式を行って冠をここに留めたからついた名という説もあります。
http://www.densetsu-tobira.com/jofuku/kagoshima.html

司馬遷の『史記』(卷二十八封禪書第六)の注釈書である『史記三家注』によれば、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%81%E7%A6%85
正義此泰山上築土為壇以祭天,報天之功,故曰封.此泰山下小山上除地,報地之功,故曰禪.

古事記に従い翻訳するが(言語は秦語になる。現在は漢語で訳されるので意味が異なる)
文章は総括になる。信じがたい内容に成っている。

意訳、正に好い、此処は豊かな山のほとり、筑紫なす、以て壇州は天を祭る、天の知らせに務める。曰く、
(封禅)元を封じ、譲り、豊かな山の地に下りる、小さい山ほとりは徐福の津の地、知らせ従い津の地、行き務める。
 

常根津日子命

 投稿者:秦野北斗  投稿日:2017年 5月19日(金)21時31分29秒
  常根津日子命は古事記で確認できました。安寧天皇には三子おり、兄二子が二王座につく、
常根津日子命は倭国に帰る。池田仁三氏の佐賀県一貴山銚子塚古墳でよい。
当時は倭奴国は九州の伊都国に属している。が真相のようです。
金印は漢委奴国王印(カン、イ、ト、コク、オウ、イン)が正しい。
池田仁三氏、惜しい人です。
 

金印の常根津日子命

 投稿者:maeda  投稿日:2017年 5月 8日(月)11時09分5秒
  原典図書の著者名と書名、その箇所から引用したことを明記すれば、特に問題は生じないと思います。今回提案されている書籍の著者はいずれも故人ですから、許可を取るわけには行きませんね。
尚、池田仁三氏の著書印影は、池田仁三著『画像解析によって判明した古墳墓碑(上)』(青林堂、平成」25年5月23日発行、p35)に載っております。
 

藤ノ木古墳

 投稿者:秦野北斗  投稿日:2017年 5月 8日(月)01時49分57秒
編集済
  藤ノ木古墳の埋葬者、池田仁三氏は日子人大兄王とその妻、小和田王→小治田王
藤ノ木古墳の埋葬者は特定している。埋葬者は日子人大兄王、小治田王は正しい。
感服する。池田仁三氏の字の読みは正しい。読みは点数をつけるなら満点になる。恐るべし男だ。
秦野が調査した所、古墳の文字は訂正、江戸→飛鳥時代、の百済ものになる。
金印の鑑定は亀井南冥(1743~1814年)が行うが正しい、また、当時は側面の文字(常根津日子命)は
読めていない。池田仁三氏は金印の常根津日子命の文字をよむ、約2,000年前の文字になる。
池田仁三氏はイザナギ、イザナミ、アマテラスの古墳を掲載する、間違いなく、正しいだろう。
また、文字から飛鳥時代にはキトラ、高松塚、藤ノ木古墳に入室は自由だったことになる。
著書に採用する予定。古墳に落書きした人物は今は伏せていきます。
 

金印の側面に常根津日子命

 投稿者:maeda  投稿日:2017年 5月 7日(日)22時20分17秒
  金印の側面に書き込まれた文字に現れた「常根津日子命」の解明は、池田仁三氏によるものだと思います。
小生は、池田仁三氏の伊勢市のご自宅を訪問し、解明の実施法を教えてもらいましたが、自分のパソコンとの相性が悪く、同様の解明方法には、成功しておりません。
ただ、小生が池田仁三氏に会った、翌年(2013年5月)古墳墓石のコンピューター解析の総合解析結果を報告した書籍が出版されたその日に亡くなったという情報を、後で知りました。世の中不思議なことがあるものです。
 

「漢委奴國王」の金印

 投稿者:秦野北斗  投稿日:2017年 5月 6日(土)16時07分58秒
  金印の側面に常根津日子命の名が有る。
インターネットで写真はあるがどこの誰のかは不明です。知りませんか
常根津日子命は安寧天皇の三子になる。安寧天皇の存在は確認済み


 

己大方 印

 投稿者:秦野北斗  投稿日:2017年 4月16日(日)10時56分0秒
編集済
  『孫権伝』は真実の話しのようです。

己大方は「黄巾軍」の大将の呼び名になる。 『孫権伝』二三〇年に
「将軍、衛温と諸葛直、兵士万人は海に浮かび夷洲と亶洲を求める。・・
将軍はついに亶洲に至らず、夷洲數千人は還る。」

黄巾の乱は中国後漢末期の西暦184年の話しになる。己大方 印から孫権軍に黄巾の末裔が兵士に居た模様、
兵士が神奈川に流れ着いたと考えられる。

『孫権伝』二三〇年の文章の將甲士を兵士と翻訳している。將甲士は兵士よりハイクラスのようだ
また、「秦の始皇帝の方士徐福將」が記される。

黒潮は最大流速は最大で4ノット(約7.4km/h)、鹿児島県最南端の大隅半島から神奈川は
約900㎞になる。最大5日、平均を3割とすると2週間以内で神奈川に着く。

南蛮船の記録(長崎から大坂)があり44日費やしている。これから、2ヶ月ぐらいになる。

注、神奈川に来る事はできるが、帰る事の出来ない一方通行。生きていればの話しです。
 

富士山

 投稿者:秦野北斗  投稿日:2017年 3月 6日(月)00時13分10秒
編集済
  徐福は富士山に行っていない模様

御殿場泥流

約2,300年前、富士山の東斜面で大規模な山体崩壊が発生し、泥流が御殿場市から東へは足柄平野へ、南へは三島市を通って駿河湾へ流下しました。これは御殿場泥流と呼ばれており、この泥流が堆積した範囲は現在の三島市の広い地域に相当します。山体崩壊が発生した原因は、現在のところ特定されていませんが、崩壊当時、顕著な噴火活動が見られないこともあって、富士川河口断層帯ないし国府津松田断層帯を震源とする大規模な地震によるのではないかという説が出されています。

http://www.city.fuji.shizuoka.jp/safety/c0107/fmervo000000oxtb.html

徐市ハ不尽山ニメデ、駿州ニ到リ、富士宮?


東海地方の徐福伝承   2015.1.21前田豊
牛窪記(抜粋)
著者、年代未詳。牛久保牧野氏を中心とする合戦及び社寺の記録
神宮文庫所蔵。牛久保の熊野神社は、徐福伝説とイザナミ神がもととなっている。
1)「ココニ東海道三河国宝飯郡牛久保之庄者、往昔秦氏熊野権現ヲ常左府長山之郷ニ勧請ス。崇神天皇御宇ニ、紀州手間戸之湊ヨリ、徐氏古座侍郎舟ヲ浮ベテ、コノ国沖ノ六本松ト云ウ浜ニ来ル。礒山続キ、前ハ晴、後者深シ。得一種産百物地ナリトテ、御館ヲ築キ給フ。民屋之族尊敬シテ恵ミ蒙ラシムルコト甚多シ。徐氏者秦国ノ姓、コノ子孫以秦為氏。長山之神者常天地久キ護リ給フ。故ニ庄ノ名モ常左府トイエリ。」
2)故説事熊野三所大権現之事
家秘ノ旧記ニ「伊ザナミノ尊火ノ神ヲ産ミ給ヒテカン去リ給フトアレバ、是熊野山ノ本主也。」
3)証誠殿相伝ノ事ニ付テ密義有り
「一座者秦国徐氏之霊也。東海扶桑国者神仙ノ嗣系、蓬莱郡彙ノ宮城也ト聞キテ、薬求メン為ニ艤スルト偽ッテ、ヒソカニ聖典百家ノ書、種々ノ財ヲ数船ニツンデ徐氏一族併蘭姿伶節ノ童男児女五百人ヲ乗セ、勅ニヨッテ海ヲ渡ルトイヒテ我ガ日本ニ来ル。「徐市ハ不尽山ニメデ、駿州ニ到リ」、徐明ハ金峯山ニ入ル。
徐林ハ肥前金立山ニ住シ、
徐福ハ着岸ノ津紀州古座ニ止リ後熊野山ニ入ル。
徐福ガ孫古座侍郎三州ニ移リ来ル故ニ、本宮山下秦氏之者多シ。
 

面白い解明ですね

 投稿者:maeda  投稿日:2017年 3月 3日(金)22時53分43秒
  古事記の崇神天皇の項に、卑弥呼や徐福が出てくるのですか?
柿本人麻呂は、真実の歴史を知っていたから、持統天皇に疎まれて、島根に流されたのでしょうね。柿本人麻呂は、遠州浜名湖周辺の国司を務めていたといわれています。
 

崇神天皇

 投稿者:秦野北斗  投稿日:2017年 2月28日(火)14時47分27秒
  古事記 崇神天皇の項に卑弥呼を確認しました。徐福も同様に確認しました。

卑弥呼は綏靖天皇の末裔になる。

正始八年(247年) - 倭は載斯、烏越らを帯方郡に派遣、狗奴国との戦いを報告した。
内容は集歌199(柿本人麻呂)詳細に記録される。

定説を超えている。難物になるな・・。
 

日本書記

 投稿者:秦野北斗  投稿日:2017年 2月 7日(火)22時18分18秒
編集済
  古事記で十分に徐福は説明できるが、同様の文章が日本書記にある。
問題の近道は翻訳になる。今回、試しに「高山波雲根火雄男・・」を翻訳した。
歌の意味を再考しています。阿倍野仲麻呂との整合性を取った。

少しずつ古代が見えてきます。

白村江の戦い
663年(天智2年)8月の唄です。 中大兄近江宮御宇天皇三山歌一首
高山波雲根火雄男志等耳梨與相諍竸伎神代従如此尓有良之古昔母然尓有許曽虚蝉毛嬬乎相挌良思吉

日本書記の文体を使い現代文に翻訳しました。

斉明天皇、天智天皇、天武天皇 その他が列跡

「高(高志国)山並み雲根火(うねび)雄男(安寧天皇)、志し等しい。耳成(みみなし)、与(くみ)する、相争う、競う技、神代(かみよ)、遵(したが)う如し、此れ然り有る、浪(ろ)(艪、やぐら)行く古い昔。母然り有る、許す即ち虚蝉(うつせみ)。毛妻や相打つ良い思い吉。日本書記形式」

内容は議事録です。虚蝉は卑弥呼の戦法の様です。


尚、現代訳添付 小学館の新日本古典文学全集本
香具山(かぐやま)は 畝傍(うねび)雄雄(をを)しと 耳梨(みみなし)と 相(あひ)争(あらそ)ひき 神代(かみよ)より かくにあるらし 古(いにしへ)も 然(しか)にあれこそ うつせみも 妻(つま)を 争ふらしき(13)
 

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