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出版期待

 投稿者:maeda  投稿日:2017年 9月15日(金)23時49分57秒
  不思議な歴史が展開されますね。出版されるのを期待しております。  

著書出版

 投稿者:秦野北斗  投稿日:2017年 9月11日(月)01時20分53秒
  古事記の序文に天智天皇が登場するのです。百済は問題が多いな、白村江の戦いは嘘を確認しました。聖徳太子は高句麗の戦闘で、隋末に援軍を求めている。白村江の真意は聖徳太子、蘇我が影響している模様。天智天皇は藤ノ木で自害している、自害は秦法の裁きと書いてある。どうも、天智天皇が何かをやらかした模様。大化の改新が疑わしくなって来た。

過去の歴史家を疑う、この頃です。著書出版は2018年
 

お久しぶりです

 投稿者:maeda  投稿日:2017年 9月10日(日)22時09分46秒
  秦野様
最近、掲示板に遠ざかっていて、失礼しました。
北朝鮮の水爆が問題になっているようで、物騒な世の中になりました。
お元気でご活躍ください。
ご著書出版は、どのようになっているでしょうか。(Y.M)
 

聖徳太子

 投稿者:秦野北斗  投稿日:2017年 9月 9日(土)21時26分46秒
  劉仁軌伝に韓半島の統治は安宗、則天武后、その後、冊封にした。との事。
また、琉球国が冊封国になるが、韓国も同様になる。国名を倭国から日本に改名後からになる。現在の歴史観は崩壊の可能性がある。

舊唐書卷八十四/列傳三十四/劉仁軌伝を翻訳中ですが、文中に隋末・・
聖徳太子が、遼東で高句麗と戦闘している、隋に援軍を求めている。

隋の高句麗遠征(ずいのこうくりえんせい)は、598年から614年まで4回にわたって行われた、隋による高句麗への遠征である。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9A%8B%E3%81%AE%E9%AB%98%E5%8F%A5%E9%BA%97%E9%81%A0%E5%BE%81
 

好太王碑は仁軌立碑

 投稿者:秦野北斗  投稿日:2017年 8月28日(月)19時46分23秒
  好太王碑は「旧唐書」劉仁軌伝に開元中726~7年、仁軌立碑と記される。
内容は文献とある。書物や文書。碑文に新羅の建国史が記録される。
新羅舊:辰、並び古い。辰(辰国)は古い国、になる。
劉 仁軌(りゅう じんき、ピンイン:Liú Réngu?、602年 - 685年3月2日)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8A%89%E4%BB%81%E8%BB%8C

好太王碑は現在の理解は下記とされる。下記は誤訳になる。

好太王(こうたいおう、374年 - 412年)は高句麗の第19代の王(在位:391年 - 412年)。姓は高、諱は談徳。先代の故国壌王の息子で、386年に太子に立てられており、先王の死とともに辛卯年(391年)に王位に就いた。鮮卑の前燕の攻撃を受けて衰退していた高句麗を中興し、領土を大きく拡張した。好太王の名は、好太王碑文によれば正式な諡は國岡上廣開土境平安好太王といい、韓国では広開土王または広開土大王とも呼ばれる。在位中に永楽という年号を使用したので永楽大王とも呼ばれる。

399年、百済は先年の誓いを破って倭と和通した。そこで王は百済を討つため平壌に出向いた。ちょうどそのとき新羅からの使いが「多くの倭人が新羅に侵入し、王を倭の臣下としたので高句麗王の救援をお願いしたい」と願い出たので、大王は救援することにした。
400年、5万の大軍を派遣して新羅を救援した。新羅王都にいっぱいいた倭軍が退却したので、これを追って任那・加羅に迫った。ところが安羅軍などが逆をついて、新羅の王都を占領した。
404年、倭が帯方地方(現在の黄海道地方)に侵入してきたので、これを討って大敗させた

百殘新羅舊是屬民由來朝貢而倭以耒卯年來渡海破百殘加羅新羅以為臣民
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A5%BD%E5%A4%AA%E7%8E%8B%E7%A2%91
 

古墳

 投稿者:秦野北斗  投稿日:2017年 7月25日(火)00時05分37秒
編集済
  古墳には喪(も)が有った模様。万葉集を翻訳した文章に喪と記される。
現在の日本の古墳の年代は喪の最終年代になっている可能性がある。
大友皇子の墓が前方後円墳なら、間違いでしょう。だが一筋縄では行かないのが現実。

追記、一部の古墳に再度埋葬したと思わせる物が在る、高松塚、キトラ
再確認が必要になる。大友皇子がこれに当たるか?

この件は白村江の内容を確認したい、壬申の乱にも疑問が浮き上がっている。


 

中大兄の墓は?

 投稿者:秦野北斗  投稿日:2017年 7月20日(木)23時42分39秒
編集済
  天智天皇の墓は、古事記、万葉集によると藤ノ木古墳です。
舊唐書卷八十四/列傳三十四/劉仁軌伝を翻訳中ですが、内容は万葉集と一致します。
詳細は著書が出来れば説明します。大友皇子の行方は万葉集に頼ることのなる、
「天智天皇は伏見で、履物を残して、・・・」は扶桑記になる。内容は・・・、捏造でしょう。


愛知県岡崎市小針町にある小針1号墳が大友皇子の陵とする伝承、愛知県岡崎市西大友町の大友皇子御陵という塚を陵とする伝承なども存在する。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BC%98%E6%96%87%E5%A4%A9%E7%9A%87
 

中大兄の墓は?

 投稿者:maeda  投稿日:2017年 7月20日(木)22時28分45秒
編集済
  白村江の戦いは著名ですが、詳しい状況が語られていませんね。解明していただけるとありがたいです。
尚、天智天皇は伏見で、履物を残して、行方不明になった後、どこに行かれたのか、どこに葬られたのか、判っていません。
不思議なことに、東三河に、中大兄墓と銘打った、前方後円墳があるのです。その真相を知りたいですね。

因みに、天智天皇の御子で壬申の乱で敗北した、大友皇子の墓が、神奈川県の大山東麓・伊勢原にあるのも、興味深いところです。
伊勢原市の三宮・比々多神社に、天智天皇の孫・衣縫女王(施基皇子の子)の古墳があるのも不思議だし、東国は、歴史の謎を秘めています。
 

白村江の戦い

 投稿者:秦野北斗  投稿日:2017年 7月16日(日)23時36分36秒
編集済
  白村江の戦い、舊唐書卷八十四/列傳三十四/劉仁軌伝を翻訳しています。
当時の文章は日本書記と同様文体になっている。

内容は翻訳中でるが、白村江の戦いは無かった模様。
「旧唐書」劉仁軌伝
唐軍は扶餘隆が率いる水軍、及糧船を白江之口で襲うこと四戰、焚く其の舟は四百艘。水軍、及糧船は耽羅國の使い。唐軍は大いに潰れる 。扶餘隆: 百濟義慈王の子

「日本書記」
倭国軍は唐の水軍によってはさみうちにされ、軍船400隻は燃え上がり、倭国軍は大敗してしまう。(歴史上最初で最大の敗戦となった)
http://www.asuka-tobira.com/hakusonkou/hakusonkou.htm

「日本書記」は捏造文書になる。天智天皇の思惑が文中にない、
 

日本人の先祖とは?

 投稿者:アストライアの会  投稿日:2017年 7月11日(火)11時52分24秒
  古代、私達ちの先祖はどこから来たのか
~北、南、そして半島から~
古代人が日本本土を「オオヤマトトヨアキヅシマ」と言う明確な島ととらえていた事は、考えれば不思議である。いずれにしろ日本は四方(よも)を海に囲まれ、日本を島と知るにはどう
しても一回りしなくてはならず、小舟では危険な荒ぶる黒潮を避ける事は出来ない。
「先祖達ち」は相応の準備を整え、失敗を重ねつつ遠い古代に、葦原(あしはら)の拡がる山紫水明(さんしすいめい)のこの地に辿り着いたものと思われる。
通説では後期旧石器時代、およそ4~2万年前ごろ、後に縄文人と呼ばれる人々が列島に渡って狩猟生活を送り、その後、新石器時代にいわゆる弥生人が渡来して、稲作などの農
耕文化を伝えたとされる。
北の蝦夷(えみし)の地からは夙(つと)にアイヌ人が列島に住んでいたが、彼らは縄文人の遺伝子を色濃く残していると言われる。南の海路からは日本近海の当時は貴重な産品であった宝(たから)貝(がい)を採るために、中国南部から台湾、東南アジアの人々が黒潮に乗ってやって来たと、民俗学者の柳田国男氏は竿頭(かんとう)衣(い)や入れ墨など共通する証拠を挙げている。また江上波夫氏は北方騎馬民族が朝鮮半島より半征服者としてやって来て日本に古代国家が生まれたとの説を述べた。
講師の「フィールドワークの鬼」堀内氏は、国内及び海外の現地調査を幾度も重ねて来た。その結果をもとに、私たちの先祖がアイヌ人なのか、中国人なのか、朝鮮人なのか、あるいはそのどれにも属さない何がしかの混血として今に至るのか、本日明らかにしてくれる筈である。

「世界古代文明の謎を探る」(12)日本人の先祖とは?
主 催 アストライアの会  協 力 日本セカンドライフ協会
ゲスト 堀内好浩山梨県立大学特任教授
日 時 平成29年9月30日(土)午後2時から5時
会 場 豊島区イケビズ第2会議室(池袋駅西口徒歩9分)
費 用 お茶代込み参加費二千円
備 考 画像を見ながらお話し。後半はゲストを交えたお茶会です。
連絡先 TEL049(258)3218 松原まで
道 順 東京芸術劇場の裏手の劇場通りを池袋警察署、消防署の方角に進むとその先に。

http://www.gilishya-shinwa.com

 

いちき串木野市 徐福伝説

 投稿者:秦野北斗  投稿日:2017年 5月24日(水)10時31分45秒
編集済
  封禅(ほうぜん)の儀式を行って冠をここに留めたからついた名という説もあります。
http://www.densetsu-tobira.com/jofuku/kagoshima.html

司馬遷の『史記』(卷二十八封禪書第六)の注釈書である『史記三家注』によれば、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%81%E7%A6%85
正義此泰山上築土為壇以祭天,報天之功,故曰封.此泰山下小山上除地,報地之功,故曰禪.

古事記に従い翻訳するが(言語は秦語になる。現在は漢語で訳されるので意味が異なる)
文章は総括になる。信じがたい内容に成っている。

意訳、正に好い、此処は豊かな山のほとり、筑紫なす、以て壇州は天を祭る、天の知らせに務める。曰く、
(封禅)元を封じ、譲り、豊かな山の地に下りる、小さい山ほとりは徐福の津の地、知らせ従い津の地、行き務める。
 

常根津日子命

 投稿者:秦野北斗  投稿日:2017年 5月19日(金)21時31分29秒
  常根津日子命は古事記で確認できました。安寧天皇には三子おり、兄二子が二王座につく、
常根津日子命は倭国に帰る。池田仁三氏の佐賀県一貴山銚子塚古墳でよい。
当時は倭奴国は九州の伊都国に属している。が真相のようです。
金印は漢委奴国王印(カン、イ、ト、コク、オウ、イン)が正しい。
池田仁三氏、惜しい人です。
 

金印の常根津日子命

 投稿者:maeda  投稿日:2017年 5月 8日(月)11時09分5秒
  原典図書の著者名と書名、その箇所から引用したことを明記すれば、特に問題は生じないと思います。今回提案されている書籍の著者はいずれも故人ですから、許可を取るわけには行きませんね。
尚、池田仁三氏の著書印影は、池田仁三著『画像解析によって判明した古墳墓碑(上)』(青林堂、平成」25年5月23日発行、p35)に載っております。
 

藤ノ木古墳

 投稿者:秦野北斗  投稿日:2017年 5月 8日(月)01時49分57秒
編集済
  藤ノ木古墳の埋葬者、池田仁三氏は日子人大兄王とその妻、小和田王→小治田王
藤ノ木古墳の埋葬者は特定している。埋葬者は日子人大兄王、小治田王は正しい。
感服する。池田仁三氏の字の読みは正しい。読みは点数をつけるなら満点になる。恐るべし男だ。
秦野が調査した所、古墳の文字は訂正、江戸→飛鳥時代、の百済ものになる。
金印の鑑定は亀井南冥(1743~1814年)が行うが正しい、また、当時は側面の文字(常根津日子命)は
読めていない。池田仁三氏は金印の常根津日子命の文字をよむ、約2,000年前の文字になる。
池田仁三氏はイザナギ、イザナミ、アマテラスの古墳を掲載する、間違いなく、正しいだろう。
また、文字から飛鳥時代にはキトラ、高松塚、藤ノ木古墳に入室は自由だったことになる。
著書に採用する予定。古墳に落書きした人物は今は伏せていきます。
 

金印の側面に常根津日子命

 投稿者:maeda  投稿日:2017年 5月 7日(日)22時20分17秒
  金印の側面に書き込まれた文字に現れた「常根津日子命」の解明は、池田仁三氏によるものだと思います。
小生は、池田仁三氏の伊勢市のご自宅を訪問し、解明の実施法を教えてもらいましたが、自分のパソコンとの相性が悪く、同様の解明方法には、成功しておりません。
ただ、小生が池田仁三氏に会った、翌年(2013年5月)古墳墓石のコンピューター解析の総合解析結果を報告した書籍が出版されたその日に亡くなったという情報を、後で知りました。世の中不思議なことがあるものです。
 

「漢委奴國王」の金印

 投稿者:秦野北斗  投稿日:2017年 5月 6日(土)16時07分58秒
  金印の側面に常根津日子命の名が有る。
インターネットで写真はあるがどこの誰のかは不明です。知りませんか
常根津日子命は安寧天皇の三子になる。安寧天皇の存在は確認済み


 

己大方 印

 投稿者:秦野北斗  投稿日:2017年 4月16日(日)10時56分0秒
編集済
  『孫権伝』は真実の話しのようです。

己大方は「黄巾軍」の大将の呼び名になる。 『孫権伝』二三〇年に
「将軍、衛温と諸葛直、兵士万人は海に浮かび夷洲と亶洲を求める。・・
将軍はついに亶洲に至らず、夷洲數千人は還る。」

黄巾の乱は中国後漢末期の西暦184年の話しになる。己大方 印から孫権軍に黄巾の末裔が兵士に居た模様、
兵士が神奈川に流れ着いたと考えられる。

『孫権伝』二三〇年の文章の將甲士を兵士と翻訳している。將甲士は兵士よりハイクラスのようだ
また、「秦の始皇帝の方士徐福將」が記される。

黒潮は最大流速は最大で4ノット(約7.4km/h)、鹿児島県最南端の大隅半島から神奈川は
約900㎞になる。最大5日、平均を3割とすると2週間以内で神奈川に着く。

南蛮船の記録(長崎から大坂)があり44日費やしている。これから、2ヶ月ぐらいになる。

注、神奈川に来る事はできるが、帰る事の出来ない一方通行。生きていればの話しです。
 

富士山

 投稿者:秦野北斗  投稿日:2017年 3月 6日(月)00時13分10秒
編集済
  徐福は富士山に行っていない模様

御殿場泥流

約2,300年前、富士山の東斜面で大規模な山体崩壊が発生し、泥流が御殿場市から東へは足柄平野へ、南へは三島市を通って駿河湾へ流下しました。これは御殿場泥流と呼ばれており、この泥流が堆積した範囲は現在の三島市の広い地域に相当します。山体崩壊が発生した原因は、現在のところ特定されていませんが、崩壊当時、顕著な噴火活動が見られないこともあって、富士川河口断層帯ないし国府津松田断層帯を震源とする大規模な地震によるのではないかという説が出されています。

http://www.city.fuji.shizuoka.jp/safety/c0107/fmervo000000oxtb.html

徐市ハ不尽山ニメデ、駿州ニ到リ、富士宮?


東海地方の徐福伝承   2015.1.21前田豊
牛窪記(抜粋)
著者、年代未詳。牛久保牧野氏を中心とする合戦及び社寺の記録
神宮文庫所蔵。牛久保の熊野神社は、徐福伝説とイザナミ神がもととなっている。
1)「ココニ東海道三河国宝飯郡牛久保之庄者、往昔秦氏熊野権現ヲ常左府長山之郷ニ勧請ス。崇神天皇御宇ニ、紀州手間戸之湊ヨリ、徐氏古座侍郎舟ヲ浮ベテ、コノ国沖ノ六本松ト云ウ浜ニ来ル。礒山続キ、前ハ晴、後者深シ。得一種産百物地ナリトテ、御館ヲ築キ給フ。民屋之族尊敬シテ恵ミ蒙ラシムルコト甚多シ。徐氏者秦国ノ姓、コノ子孫以秦為氏。長山之神者常天地久キ護リ給フ。故ニ庄ノ名モ常左府トイエリ。」
2)故説事熊野三所大権現之事
家秘ノ旧記ニ「伊ザナミノ尊火ノ神ヲ産ミ給ヒテカン去リ給フトアレバ、是熊野山ノ本主也。」
3)証誠殿相伝ノ事ニ付テ密義有り
「一座者秦国徐氏之霊也。東海扶桑国者神仙ノ嗣系、蓬莱郡彙ノ宮城也ト聞キテ、薬求メン為ニ艤スルト偽ッテ、ヒソカニ聖典百家ノ書、種々ノ財ヲ数船ニツンデ徐氏一族併蘭姿伶節ノ童男児女五百人ヲ乗セ、勅ニヨッテ海ヲ渡ルトイヒテ我ガ日本ニ来ル。「徐市ハ不尽山ニメデ、駿州ニ到リ」、徐明ハ金峯山ニ入ル。
徐林ハ肥前金立山ニ住シ、
徐福ハ着岸ノ津紀州古座ニ止リ後熊野山ニ入ル。
徐福ガ孫古座侍郎三州ニ移リ来ル故ニ、本宮山下秦氏之者多シ。
 

面白い解明ですね

 投稿者:maeda  投稿日:2017年 3月 3日(金)22時53分43秒
  古事記の崇神天皇の項に、卑弥呼や徐福が出てくるのですか?
柿本人麻呂は、真実の歴史を知っていたから、持統天皇に疎まれて、島根に流されたのでしょうね。柿本人麻呂は、遠州浜名湖周辺の国司を務めていたといわれています。
 

崇神天皇

 投稿者:秦野北斗  投稿日:2017年 2月28日(火)14時47分27秒
  古事記 崇神天皇の項に卑弥呼を確認しました。徐福も同様に確認しました。

卑弥呼は綏靖天皇の末裔になる。

正始八年(247年) - 倭は載斯、烏越らを帯方郡に派遣、狗奴国との戦いを報告した。
内容は集歌199(柿本人麻呂)詳細に記録される。

定説を超えている。難物になるな・・。
 

日本書記

 投稿者:秦野北斗  投稿日:2017年 2月 7日(火)22時18分18秒
編集済
  古事記で十分に徐福は説明できるが、同様の文章が日本書記にある。
問題の近道は翻訳になる。今回、試しに「高山波雲根火雄男・・」を翻訳した。
歌の意味を再考しています。阿倍野仲麻呂との整合性を取った。

少しずつ古代が見えてきます。

白村江の戦い
663年(天智2年)8月の唄です。 中大兄近江宮御宇天皇三山歌一首
高山波雲根火雄男志等耳梨與相諍竸伎神代従如此尓有良之古昔母然尓有許曽虚蝉毛嬬乎相挌良思吉

日本書記の文体を使い現代文に翻訳しました。

斉明天皇、天智天皇、天武天皇 その他が列跡

「高(高志国)山並み雲根火(うねび)雄男(安寧天皇)、志し等しい。耳成(みみなし)、与(くみ)する、相争う、競う技、神代(かみよ)、遵(したが)う如し、此れ然り有る、浪(ろ)(艪、やぐら)行く古い昔。母然り有る、許す即ち虚蝉(うつせみ)。毛妻や相打つ良い思い吉。日本書記形式」

内容は議事録です。虚蝉は卑弥呼の戦法の様です。


尚、現代訳添付 小学館の新日本古典文学全集本
香具山(かぐやま)は 畝傍(うねび)雄雄(をを)しと 耳梨(みみなし)と 相(あひ)争(あらそ)ひき 神代(かみよ)より かくにあるらし 古(いにしへ)も 然(しか)にあれこそ うつせみも 妻(つま)を 争ふらしき(13)
 

古事記

 投稿者:秦野北斗  投稿日:2017年 1月27日(金)22時26分40秒
編集済
  高志之八俣遠呂智(やまたのおろち)を翻訳しています。

成果ですが、草薙剣(くさなぎのつるぎ)は伽耶製と記録されている。

本居 宣長(もとおり のりなが)さん古事記翻訳に失敗しています。
古事記に剣の詳細は述べられていない。

徐福の航路が判明しています。地名を確認していきます。

神奈川、八丈島 訂正→伊豆大島、八丈島 は古事記の兩兒嶋になる。
神奈川は愛知からの陸路になる。
 

大和文字について

 投稿者:秦野北斗  投稿日:2017年 1月 7日(土)18時14分33秒
  大和文字について(徐福の渡来が影響していると思われる。)

大和文字は『古事記』、万葉集の大和文字になる。古事記の内容が、神話になり理解不能になるのは、大和文字に原因がある。大和文字は仮名文字を示すが、此れとは異なる。
未解明の文字を指す。古代文字になる。

万葉集 三七二 春日乎 春日山乃  山部宿祢赤人 の訳だが、知識人の文章ではない。意味を成さない。言える事は、本居宣長は『古事記』を理解できず、人名等、名詞らしき文字を拾い創作した様だ。

万葉集、『古事記』は再翻訳すれば解決する。再翻訳する際は協力お願い致します。

春日乎 春日山乃 高座之 御笠乃山尓  朝不離 雲居多奈引 容鳥能 間無數鳴 雲居奈須 心射左欲比 其鳥乃 片戀耳二 晝者毛 日之盡 夜者毛 夜之盡 立而居而 念曽吾為流 不相兒故荷

万葉集訳
春日を 春日の山の たかくらの 御笠の山に  朝さらず 雲居たなびき かほとりの 間無くしば鳴く  雲居なす 心いさよひ その鳥の 片恋のみに  昼はも 日のことごと 夜はも 夜のことごと  立ちて居て おもひぞあがする あはぬこゆへに

秦野訳
概略  春に伊勢を立ち、美(うま)し国の食国に行き、朝(あさ) 食国を立つ、行く所(霊岩郡・・・)が多い、末盧国に至る。末盧国から奴国(なこく)に行く馬の頭数が少ないので奴国(なこく)に求める。心差す事は、過多(かた)乞う、耳(卑弥呼)に尽くす者、寄る者、毛(津)に夜到(よるいた)る、尽(ことごと)く立ち迎える。念を重ねるが吾ため、とは言(い)わない。

『古事記』の研究は、近世以降、特に盛んとなった。江戸時代の本居宣長による全44巻の註釈書『古事記傳』は『古事記』研究の古典であり、厳密かつ実証的な校訂は後世に大きな影響を与えている。赤信号が灯りました。
 

万葉集

 投稿者:秦野北斗  投稿日:2017年 1月 6日(金)22時50分1秒
編集済
  万葉集を現代文に訳した、大和文字は理解出来ないだろう。7月頃を目標に冊子を製本する予定
万葉集、古事記は大和文字になる。

万葉集 三七二 春日乎 春日山乃  山部宿祢赤人

春日乎 春日山乃 高座之 御笠乃山尓  朝不離 雲居多奈引 容鳥能 間無數鳴 雲居奈須 心射左欲比 其鳥乃 片戀耳二 晝者毛 日之盡 夜者毛 夜之盡 立而居而 念曽吾為流 不相兒故荷

概略  概略 春に伊勢を立ち、高座(かうざ)の御笠の山然り、朝(あさ)、名、(な)高志國(たかしくに)を立つ、行く所が多い、末盧国に至る。香椎(かしい)から奴国(なこく)(下高橋官衙遺跡)に行く馬の頭数が少ないので奴国(なこく)に求める。心差す事は、寄る者、毛、 夜到(よるいた)る、尽(ことごと)く立ち迎える。念を重ねるが吾ため、とは言(い)わない。兒、殊更(ちごことさら)、派遣する。

視察の文章、諸国は魏志倭人伝に寄る。
 

明けましておめでとうございます

 投稿者:maeda  投稿日:2017年 1月 5日(木)11時12分17秒
  北斗様 今年もどうぞよろしくお願いします。
万葉集の訳に、甕棺が出るのですか?しかも卑弥呼由来とは!
ゆっくりでよいですから、ご紹介いただければ幸いです。(maeda)
 

甕棺

 投稿者:秦野北斗  投稿日:2017年 1月 4日(水)14時16分2秒
  2017年、今年も宜しく
万葉集の主要文を訳しました。結果。甕棺ですが総て卑弥呼由来になった。
甕棺の埋葬者は倭人になる。意外でした。
魏志倭人伝の解読の終了しました。邪馬台国は近畿で、魏志の邪馬台は音表記になる。
古田説は創作になった。
古代史の扉を開けた様です。
 

甕棺と東北地方2

 投稿者:秦野北斗  投稿日:2016年12月29日(木)02時25分4秒
  >甕棺墓が、仙台北方に出ていましたか。
岩手県の石巻市の名は、東三河の石巻山の名前が移動したようでしたね。

東三河から直接、宮城へは移住していない。中継点は愛知になっている。
万葉集の解読は以前お伝えしました。
万葉集に天智天皇の葬儀を扶桑が取仕切る。とある。葬儀の後に壬申の乱が起きている。理由は白村江の戦いの後始末。住民の移住、詳細は国引き神話
東海扶桑国は壬申の乱後、天武天皇により宮城に移住させられる。
壬申の乱(じんしんのらん)は、天武天皇元年6月24日 - 7月23日、(ユリウス暦672年7月24日 - 8月21日)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A3%AC%E7%94%B3%E3%81%AE%E4%B9%B1

国引き神話 、注:文章の翻訳が不完全である。合っているのは国名ていど
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E5%BC%95%E3%81%8D%E7%A5%9E%E8%A9%B1
 

甕棺と東北地方

 投稿者:maeda  投稿日:2016年12月22日(木)23時24分29秒
  >仙台市の北方に展開 ... 甕棺や棺桶からは副葬品として、大小の太刀や古銭・柄鏡・煙管・鉄製の角釘・陶器の椀・漆器椀・素焼きの人形・和鋏などが ...

甕棺墓が、仙台北方に出ていましたか。
岩手県の石巻市の名は、東三河の石巻山の名前が移動したようでしたね。
 

牛窪記の内容は正しい。

 投稿者:秦野北斗  投稿日:2016年12月20日(火)20時20分11秒
  松尾 芭蕉(まつお ばしょう、寛永21年(1644年) - 元禄7年10月12日(1694年11月28日))は、江戸時代前期の俳諧師。現在の三重県伊賀市出身

抑ことふりにたれど、松島は扶桑第一の好風にして、凡洞庭・西湖を恥ず。

松島(まつしま)は、宮城県の松島湾内外にある大小260余りの諸島のこと。または、それら諸島と湾周囲を囲む松島丘陵も含めた修景地区のことである。

663年(天智2年?)8月白村江の戦い。唐では(654年)永徽五年になる。
宮城県は東海扶桑国者の移住先になる?(新妻家墓地)

新妻家墓地
種別, 古墳・墓. 解 説. 新妻家墓地は、仙台駅の北方4.5kmの青葉区北根四丁目に所在していた。この地域は、仙台市の北方に展開 ... 甕棺や棺桶からは副葬品として、大小の太刀や古銭・柄鏡・煙管・鉄製の角釘・陶器の椀・漆器椀・素焼きの人形・和鋏などが ...
 

万葉集の現在の訳と原文訳

 投稿者:秦野北斗  投稿日:2016年12月19日(月)18時42分12秒
  万葉集の情景に使った投稿です。
投稿日:2014年10月20日(月)06時40分37
投稿日:2014年10月21日(火)19時13分13秒

万葉集の現在の訳と原文訳を列記します。
万葉集の原文を訳すと「あゆち」が消滅、「あゆち」何処にもない。

現在の訳
櫻田部 鶴鳴渡 年魚市方 塩干二家良之 鶴鳴渡
高市黒人(たけちのくろひと)
桜田(さくらだ)へ、鶴(たづ)鳴き渡る、年魚市潟(あゆちがた)、潮干にけらし、鶴(たづ)鳴き渡る
http://www6.airnet.ne.jp/manyo/main/three/m0271.html
原文訳
櫻田部鶴鳴渡年魚市方塩干二家良之鶴鳴渡       高市黒人(たけちのくろひと)
桜田辺 鶴鳴き渡り 根魚一夜 夜塩干しふた打ち 真に此れよし 鶴鳴き渡り

現在の訳
年魚市方塩干二家良思知多乃浦尓朝榜舟毛奥尓依所見
あゆち潟潮ひにけらし 知多の海に朝こく 舟も沖に寄る見ゆ

原文訳
年魚市方塩干二家良思知多乃浦尓朝榜舟毛奥尓依所見
根魚一夜 夜塩干しふた打ち 真に此れ思う 知多の浦に 阿坂寺 船も熊(荒熊神社)しかり依る。

秦野訳では、根魚の一夜塩干しが美味かった。と阿坂寺(あさかじ)存在不明
になる。

万葉集ですが、あゆち(愛知)の由来とのこと、
訳は 愛知(いとしい、しる)で扶桑国、美し国になる。
伊勢神宮を創祀、「傍国(わきくに)は可怜国(うましくに)」
可怜国=傍国=扶桑国=美し国、傍国は伊勢の対岸(愛知)
 

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