投稿者
 メール ※掲示板には表示されません(詳細)
  題名 ※管理者の承認後に掲載されます。
  内容 入力補助画像・ファイル<IMG>タグが利用可能です。(詳細)
    
 URL
[ ケータイで使う ] [ BBSティッカー ] [ 書込み通知 ] [ 検索 ]


富士山

 投稿者:秦野北斗  投稿日:2017年 3月 6日(月)00時13分10秒
編集済
  徐福は富士山に行っていない模様

御殿場泥流

約2,300年前、富士山の東斜面で大規模な山体崩壊が発生し、泥流が御殿場市から東へは足柄平野へ、南へは三島市を通って駿河湾へ流下しました。これは御殿場泥流と呼ばれており、この泥流が堆積した範囲は現在の三島市の広い地域に相当します。山体崩壊が発生した原因は、現在のところ特定されていませんが、崩壊当時、顕著な噴火活動が見られないこともあって、富士川河口断層帯ないし国府津松田断層帯を震源とする大規模な地震によるのではないかという説が出されています。

http://www.city.fuji.shizuoka.jp/safety/c0107/fmervo000000oxtb.html

徐市ハ不尽山ニメデ、駿州ニ到リ、富士宮?


東海地方の徐福伝承   2015.1.21前田豊
牛窪記(抜粋)
著者、年代未詳。牛久保牧野氏を中心とする合戦及び社寺の記録
神宮文庫所蔵。牛久保の熊野神社は、徐福伝説とイザナミ神がもととなっている。
1)「ココニ東海道三河国宝飯郡牛久保之庄者、往昔秦氏熊野権現ヲ常左府長山之郷ニ勧請ス。崇神天皇御宇ニ、紀州手間戸之湊ヨリ、徐氏古座侍郎舟ヲ浮ベテ、コノ国沖ノ六本松ト云ウ浜ニ来ル。礒山続キ、前ハ晴、後者深シ。得一種産百物地ナリトテ、御館ヲ築キ給フ。民屋之族尊敬シテ恵ミ蒙ラシムルコト甚多シ。徐氏者秦国ノ姓、コノ子孫以秦為氏。長山之神者常天地久キ護リ給フ。故ニ庄ノ名モ常左府トイエリ。」
2)故説事熊野三所大権現之事
家秘ノ旧記ニ「伊ザナミノ尊火ノ神ヲ産ミ給ヒテカン去リ給フトアレバ、是熊野山ノ本主也。」
3)証誠殿相伝ノ事ニ付テ密義有り
「一座者秦国徐氏之霊也。東海扶桑国者神仙ノ嗣系、蓬莱郡彙ノ宮城也ト聞キテ、薬求メン為ニ艤スルト偽ッテ、ヒソカニ聖典百家ノ書、種々ノ財ヲ数船ニツンデ徐氏一族併蘭姿伶節ノ童男児女五百人ヲ乗セ、勅ニヨッテ海ヲ渡ルトイヒテ我ガ日本ニ来ル。「徐市ハ不尽山ニメデ、駿州ニ到リ」、徐明ハ金峯山ニ入ル。
徐林ハ肥前金立山ニ住シ、
徐福ハ着岸ノ津紀州古座ニ止リ後熊野山ニ入ル。
徐福ガ孫古座侍郎三州ニ移リ来ル故ニ、本宮山下秦氏之者多シ。
 

面白い解明ですね

 投稿者:maeda  投稿日:2017年 3月 3日(金)22時53分43秒
  古事記の崇神天皇の項に、卑弥呼や徐福が出てくるのですか?
柿本人麻呂は、真実の歴史を知っていたから、持統天皇に疎まれて、島根に流されたのでしょうね。柿本人麻呂は、遠州浜名湖周辺の国司を務めていたといわれています。
 

崇神天皇

 投稿者:秦野北斗  投稿日:2017年 2月28日(火)14時47分27秒
  古事記 崇神天皇の項に卑弥呼を確認しました。徐福も同様に確認しました。

卑弥呼は綏靖天皇の末裔になる。

正始八年(247年) - 倭は載斯、烏越らを帯方郡に派遣、狗奴国との戦いを報告した。
内容は集歌199(柿本人麻呂)詳細に記録される。

定説を超えている。難物になるな・・。
 

日本書記

 投稿者:秦野北斗  投稿日:2017年 2月 7日(火)22時18分18秒
編集済
  古事記で十分に徐福は説明できるが、同様の文章が日本書記にある。
問題の近道は翻訳になる。今回、試しに「高山波雲根火雄男・・」を翻訳した。
歌の意味を再考しています。阿倍野仲麻呂との整合性を取った。

少しずつ古代が見えてきます。

白村江の戦い
663年(天智2年)8月の唄です。 中大兄近江宮御宇天皇三山歌一首
高山波雲根火雄男志等耳梨與相諍竸伎神代従如此尓有良之古昔母然尓有許曽虚蝉毛嬬乎相挌良思吉

日本書記の文体を使い現代文に翻訳しました。

斉明天皇、天智天皇、天武天皇 その他が列跡

「高(高志国)山並み雲根火(うねび)雄男(安寧天皇)、志し等しい。耳成(みみなし)、与(くみ)する、相争う、競う技、神代(かみよ)、遵(したが)う如し、此れ然り有る、浪(ろ)(艪、やぐら)行く古い昔。母然り有る、許す即ち虚蝉(うつせみ)。毛妻や相打つ良い思い吉。日本書記形式」

内容は議事録です。虚蝉は卑弥呼の戦法の様です。


尚、現代訳添付 小学館の新日本古典文学全集本
香具山(かぐやま)は 畝傍(うねび)雄雄(をを)しと 耳梨(みみなし)と 相(あひ)争(あらそ)ひき 神代(かみよ)より かくにあるらし 古(いにしへ)も 然(しか)にあれこそ うつせみも 妻(つま)を 争ふらしき(13)
 

古事記

 投稿者:秦野北斗  投稿日:2017年 1月27日(金)22時26分40秒
編集済
  高志之八俣遠呂智(やまたのおろち)を翻訳しています。

成果ですが、草薙剣(くさなぎのつるぎ)は伽耶製と記録されている。

本居 宣長(もとおり のりなが)さん古事記翻訳に失敗しています。
古事記に剣の詳細は述べられていない。

徐福の航路が判明しています。地名を確認していきます。

神奈川、八丈島 訂正→伊豆大島、八丈島 は古事記の兩兒嶋になる。
神奈川は愛知からの陸路になる。
 

大和文字について

 投稿者:秦野北斗  投稿日:2017年 1月 7日(土)18時14分33秒
  大和文字について(徐福の渡来が影響していると思われる。)

大和文字は『古事記』、万葉集の大和文字になる。古事記の内容が、神話になり理解不能になるのは、大和文字に原因がある。大和文字は仮名文字を示すが、此れとは異なる。
未解明の文字を指す。古代文字になる。

万葉集 三七二 春日乎 春日山乃  山部宿祢赤人 の訳だが、知識人の文章ではない。意味を成さない。言える事は、本居宣長は『古事記』を理解できず、人名等、名詞らしき文字を拾い創作した様だ。

万葉集、『古事記』は再翻訳すれば解決する。再翻訳する際は協力お願い致します。

春日乎 春日山乃 高座之 御笠乃山尓  朝不離 雲居多奈引 容鳥能 間無數鳴 雲居奈須 心射左欲比 其鳥乃 片戀耳二 晝者毛 日之盡 夜者毛 夜之盡 立而居而 念曽吾為流 不相兒故荷

万葉集訳
春日を 春日の山の たかくらの 御笠の山に  朝さらず 雲居たなびき かほとりの 間無くしば鳴く  雲居なす 心いさよひ その鳥の 片恋のみに  昼はも 日のことごと 夜はも 夜のことごと  立ちて居て おもひぞあがする あはぬこゆへに

秦野訳
概略  春に伊勢を立ち、美(うま)し国の食国に行き、朝(あさ) 食国を立つ、行く所(霊岩郡・・・)が多い、末盧国に至る。末盧国から奴国(なこく)に行く馬の頭数が少ないので奴国(なこく)に求める。心差す事は、過多(かた)乞う、耳(卑弥呼)に尽くす者、寄る者、毛(津)に夜到(よるいた)る、尽(ことごと)く立ち迎える。念を重ねるが吾ため、とは言(い)わない。

『古事記』の研究は、近世以降、特に盛んとなった。江戸時代の本居宣長による全44巻の註釈書『古事記傳』は『古事記』研究の古典であり、厳密かつ実証的な校訂は後世に大きな影響を与えている。赤信号が灯りました。
 

万葉集

 投稿者:秦野北斗  投稿日:2017年 1月 6日(金)22時50分1秒
編集済
  万葉集を現代文に訳した、大和文字は理解出来ないだろう。7月頃を目標に冊子を製本する予定
万葉集、古事記は大和文字になる。

万葉集 三七二 春日乎 春日山乃  山部宿祢赤人

春日乎 春日山乃 高座之 御笠乃山尓  朝不離 雲居多奈引 容鳥能 間無數鳴 雲居奈須 心射左欲比 其鳥乃 片戀耳二 晝者毛 日之盡 夜者毛 夜之盡 立而居而 念曽吾為流 不相兒故荷

概略  概略 春に伊勢を立ち、高座(かうざ)の御笠の山然り、朝(あさ)、名、(な)高志國(たかしくに)を立つ、行く所が多い、末盧国に至る。香椎(かしい)から奴国(なこく)(下高橋官衙遺跡)に行く馬の頭数が少ないので奴国(なこく)に求める。心差す事は、寄る者、毛、 夜到(よるいた)る、尽(ことごと)く立ち迎える。念を重ねるが吾ため、とは言(い)わない。兒、殊更(ちごことさら)、派遣する。

視察の文章、諸国は魏志倭人伝に寄る。
 

明けましておめでとうございます

 投稿者:maeda  投稿日:2017年 1月 5日(木)11時12分17秒
  北斗様 今年もどうぞよろしくお願いします。
万葉集の訳に、甕棺が出るのですか?しかも卑弥呼由来とは!
ゆっくりでよいですから、ご紹介いただければ幸いです。(maeda)
 

甕棺

 投稿者:秦野北斗  投稿日:2017年 1月 4日(水)14時16分2秒
  2017年、今年も宜しく
万葉集の主要文を訳しました。結果。甕棺ですが総て卑弥呼由来になった。
甕棺の埋葬者は倭人になる。意外でした。
魏志倭人伝の解読の終了しました。邪馬台国は近畿で、魏志の邪馬台は音表記になる。
古田説は創作になった。
古代史の扉を開けた様です。
 

甕棺と東北地方2

 投稿者:秦野北斗  投稿日:2016年12月29日(木)02時25分4秒
  >甕棺墓が、仙台北方に出ていましたか。
岩手県の石巻市の名は、東三河の石巻山の名前が移動したようでしたね。

東三河から直接、宮城へは移住していない。中継点は愛知になっている。
万葉集の解読は以前お伝えしました。
万葉集に天智天皇の葬儀を扶桑が取仕切る。とある。葬儀の後に壬申の乱が起きている。理由は白村江の戦いの後始末。住民の移住、詳細は国引き神話
東海扶桑国は壬申の乱後、天武天皇により宮城に移住させられる。
壬申の乱(じんしんのらん)は、天武天皇元年6月24日 - 7月23日、(ユリウス暦672年7月24日 - 8月21日)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A3%AC%E7%94%B3%E3%81%AE%E4%B9%B1

国引き神話 、注:文章の翻訳が不完全である。合っているのは国名ていど
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E5%BC%95%E3%81%8D%E7%A5%9E%E8%A9%B1
 

甕棺と東北地方

 投稿者:maeda  投稿日:2016年12月22日(木)23時24分29秒
  >仙台市の北方に展開 ... 甕棺や棺桶からは副葬品として、大小の太刀や古銭・柄鏡・煙管・鉄製の角釘・陶器の椀・漆器椀・素焼きの人形・和鋏などが ...

甕棺墓が、仙台北方に出ていましたか。
岩手県の石巻市の名は、東三河の石巻山の名前が移動したようでしたね。
 

牛窪記の内容は正しい。

 投稿者:秦野北斗  投稿日:2016年12月20日(火)20時20分11秒
  松尾 芭蕉(まつお ばしょう、寛永21年(1644年) - 元禄7年10月12日(1694年11月28日))は、江戸時代前期の俳諧師。現在の三重県伊賀市出身

抑ことふりにたれど、松島は扶桑第一の好風にして、凡洞庭・西湖を恥ず。

松島(まつしま)は、宮城県の松島湾内外にある大小260余りの諸島のこと。または、それら諸島と湾周囲を囲む松島丘陵も含めた修景地区のことである。

663年(天智2年?)8月白村江の戦い。唐では(654年)永徽五年になる。
宮城県は東海扶桑国者の移住先になる?(新妻家墓地)

新妻家墓地
種別, 古墳・墓. 解 説. 新妻家墓地は、仙台駅の北方4.5kmの青葉区北根四丁目に所在していた。この地域は、仙台市の北方に展開 ... 甕棺や棺桶からは副葬品として、大小の太刀や古銭・柄鏡・煙管・鉄製の角釘・陶器の椀・漆器椀・素焼きの人形・和鋏などが ...
 

万葉集の現在の訳と原文訳

 投稿者:秦野北斗  投稿日:2016年12月19日(月)18時42分12秒
  万葉集の情景に使った投稿です。
投稿日:2014年10月20日(月)06時40分37
投稿日:2014年10月21日(火)19時13分13秒

万葉集の現在の訳と原文訳を列記します。
万葉集の原文を訳すと「あゆち」が消滅、「あゆち」何処にもない。

現在の訳
櫻田部 鶴鳴渡 年魚市方 塩干二家良之 鶴鳴渡
高市黒人(たけちのくろひと)
桜田(さくらだ)へ、鶴(たづ)鳴き渡る、年魚市潟(あゆちがた)、潮干にけらし、鶴(たづ)鳴き渡る
http://www6.airnet.ne.jp/manyo/main/three/m0271.html
原文訳
櫻田部鶴鳴渡年魚市方塩干二家良之鶴鳴渡       高市黒人(たけちのくろひと)
桜田辺 鶴鳴き渡り 根魚一夜 夜塩干しふた打ち 真に此れよし 鶴鳴き渡り

現在の訳
年魚市方塩干二家良思知多乃浦尓朝榜舟毛奥尓依所見
あゆち潟潮ひにけらし 知多の海に朝こく 舟も沖に寄る見ゆ

原文訳
年魚市方塩干二家良思知多乃浦尓朝榜舟毛奥尓依所見
根魚一夜 夜塩干しふた打ち 真に此れ思う 知多の浦に 阿坂寺 船も熊(荒熊神社)しかり依る。

秦野訳では、根魚の一夜塩干しが美味かった。と阿坂寺(あさかじ)存在不明
になる。

万葉集ですが、あゆち(愛知)の由来とのこと、
訳は 愛知(いとしい、しる)で扶桑国、美し国になる。
伊勢神宮を創祀、「傍国(わきくに)は可怜国(うましくに)」
可怜国=傍国=扶桑国=美し国、傍国は伊勢の対岸(愛知)
 

どういうことですか

 投稿者:maeda  投稿日:2016年12月19日(月)17時13分14秒
  「現在の文章が創作と判明した」というのは、本掲示板のどこからどこまででしょうか。  

痛い教訓

 投稿者:秦野北斗  投稿日:2016年12月16日(金)21時10分32秒
  万葉集、古事記の再翻訳することで現在の文章が創作と判明した。
古事記の冒頭に、
「天地の始まりは高天原とある。また、国の指導者が徐福に引継がれる。」
古事記の大八島は神仙探しの航路になる。驚愕である。
万葉集の現在確認ずみの文章。
挂文(卑弥呼葬儀)、秋山(土岐、邪馬台から逃げる)、天地之分時(土岐を宇久島に葬る)、

過去に万葉集、古事記を元に歴史を確認したが総て白紙になった。
痛い教訓になった。
 

万葉集 挂文 忌之伎鴨

 投稿者:秦野北斗  投稿日:2016年12月15日(木)15時53分2秒
  万葉集では卑弥呼は
春、巻向の祭殿で嶺者(土岐)に暗殺される。葬儀は「古事記の天の岩戸」で行われる。
埋葬は
原文「百濟之原従 神葬、木上宮乎 常宮等 高之奉」
直訳「百濟之原より請い葬る、小高い宮を並宮ら高め此れ奉ず、」
小高い宮:小高い山の宮

源為朝の子孫が卑弥呼伝承
「天の神・太陽の光が消え、」古事記の「天の岩戸」伝説。
「小牧山山頂に移し埋葬されたと記されている。」山頂は正しいが小牧山は創作。
付属の情景も創作になる。

古事記、日本書記の編纂の動機は日本の言語の表記の変更と想われる。
古事記は音表記で現在の様な活用がなかった模様。万葉集も古事記と同様
源為朝には解読不可能である。本居宣長も解読できていない。

国では、不破(ふわ:美濃国)、背友乃國(きたのみかたのくに:女王国北)、
吾妻乃國(あずまのくに、ひがしのくに:狗奴国)、食國(いこく:美し国)
 

源為朝の子孫が卑弥呼伝承を持っていました

 投稿者:maeda  投稿日:2016年12月14日(水)18時49分14秒
編集済
  卑弥呼は、正始9年に、天の神・太陽の光が消え、黒い太陽になることを知っていたという。
その年、卑弥呼は自分の目で確かめようと、美濃の恵那郷に向かった。9月5日、黒い太陽を目の当たりに見て、気を失って倒れたといわれる。随行の警護の付き人とともに、自国へ運ばれたが、敵方の目を避けながらも、道に迷い、行方が分からなくなり、進むうちに尾州(尾張)の原へ出た。小牧山見張りの敵方の目に入り、賊の襲撃を受けながら、曾本まで逃走したが、尽き、すべて惨殺されたという。卑弥呼の御首吸は、小牧山山頂に移し埋葬されたと記されている。
 

万葉集

 投稿者:秦野北斗  投稿日:2016年12月12日(月)15時56分51秒
  万葉集 宇久島(うくじま)で土岐を伐る。
 天地之分時従神左備手高貴寸駿河有布士能高嶺乎天原振放見者振放見者度日之蔭毛隠比照月乃光毛不見白雲母伊去波伐加利時自久曽雪者落家留語告言継将往不盡能高嶺者
   山部宿禰赤人(やまべのすくねあかひと)

翻訳文は後日、公開します。徐福も含まれる。

正始年間(240年 - 249年) - 卑弥呼死亡。
卑弥呼死亡の詳細内容が記録される。狗奴国に倍返ししている。
また、万葉集に狗奴国は土岐(冬木)とある。

土岐は嶺者:愛知県北設楽郡豊根村坂宇場嶺の者
伊勢から韓国に行く途中、嶺者が卑弥呼に矢を射った事を洩らし、宇久島で討たれる。
長崎県五島列島最北端 宇久島(うくじま)甕棺 29基
東三河で300基程度出土している。奈良橿原市で約100基、近江が90基程度出土している。
狗奴国に倍返ししている。事から宇久島に差し引き50基は在るだろう。
http://www.town94.com/fishing/sewatashi_3914/ukujima.html
 

葦牙(あしは、あしかび)

 投稿者:秦野北斗  投稿日:2016年12月 2日(金)10時29分10秒
編集済
  古事記 翻訳に成功しました。詳細な文章があり速報の訂正です。

徐福の寄港地は宮崎の門川(カドカワ)湾、当時地名は毛金津(けかね)
磯の根の名前が葦牙(あしは、あしかび)の模様

お隣、宮崎県延岡市大門町/今山八幡宮 徐福岩
 

柿本人麻呂

 投稿者:秦野北斗  投稿日:2016年11月18日(金)11時45分41秒
編集済
  万葉集 翻訳に成功しました。
正始年間(240年 - 249年) - 卑弥呼死亡。
卑弥呼死亡の詳細内容が記録される。狗奴国に倍返ししている。
また、万葉集に狗奴国は土岐(冬木)とある。

土岐氏支流の明智光秀の桔梗の家紋(扶桑紋)
https://www.google.co.jp/webhp?sourceid=chrome-instant&ion=1&espv=2&ie=UTF-8#q=%E5%AE%B6%E7%B4%8B%20%E6%A1%94%E6%A2%97



甕棺東三河
奈良近江190基程度が確認される。万葉集から380基(190×2=380)
になる。残り100基程度が有りそうです。
奈良約100基、近江90基程度 計190基、東三河で300基程度

甕棺墓と東三河(4)
7.まとめ(甕棺墓文化を担う人々)
 日本各地の甕棺出土地は、九州北部が最大で2000基以上発見されている。次いで発見の多いのが、東三河で300基程度出土している。更に、奈良橿原市で約100基、近江が90基程度出土している。その他、兵庫県、丹後、大阪、青森などがあるが、数件程度で珍しい出土例と言われ、地域の上流階級の墓とされている。
 

富士山ー石巻山ライン

 投稿者:maeda  投稿日:2016年11月14日(月)21時54分40秒
  秦野北斗様

 富士山ー石巻山ラインのほぼ延長線上に伊勢神宮が乗ってくるようです。
 

古代史15の新説

 投稿者:maeda  投稿日:2016年11月14日(月)21時43分4秒
   別冊宝島が、2016年11月15日付けの書籍『古代史15の新説』という本を刊行しました。
 テーマは、邪馬台国、任那日本府、徐福伝説、古代豪族、聖徳太子、稲作DNA解析ほかです。
この中の第3章対外関係からみる古代日本の中に、本HPの管理者の論文「徐福は倭国(古代日本)に何をもたらしたのか」という題が掲載されましたので、ご覧ください。
 徐福集団は、日本神話の神々として反映され、日本の国家形成の原点を担い、倭国の国造りの基礎を築いたと結論づけます。別冊宝島「古代史15の新説」(宝島社、2016.11.15発行p146-157)
 

石巻神社の延長に富士山

 投稿者:秦野北斗  投稿日:2016年11月 9日(水)02時36分48秒
  石巻神社(いしまきじんじゃ)は、愛知県豊橋市にある神社である。

創建時期は不明。孝安天皇または推古天皇の時代の創建ともいわれている。元々は石巻山自体が信仰の対象と推測される。

吉田城の鬼門にあたるため、吉田城築城以来、歴代城主の信仰を受けていたという。
石巻山の中腹の奥宮(上神社)と山里の里宮(下神社)に分かれている。奥宮では管粥祭、里宮では鬼祭が行われる。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%B3%E5%B7%BB%E7%A5%9E%E7%A4%BE

吉田城の鬼門は石巻神社だが、石巻神社の延長に富士山がある。
蓬莱信仰?
 

甕棺墓と東三河(4)

 投稿者:maeda  投稿日:2016年10月27日(木)21時36分33秒
  6.甕棺使用の推定時代
甕棺埋葬時期は、BC300~AD180年である。北九州が中心で、AD300年まで継続する例もある。 ほとんどの甕棺は西暦180年頃までには消えていったと思われる。

7.まとめ(甕棺墓文化を担う人々)
 日本各地の甕棺出土地は、九州北部が最大で2000基以上発見されている。次いで発見の多いのが、東三河で300基程度出土している。更に、奈良橿原市で約100基、近江が90基程度出土している。その他、兵庫県、丹後、大阪、青森などがあるが、数件程度で珍しい出土例と言われ、地域の上流階級の墓とされている。
 九州北部の弥生時代の甕棺文化を形成した人たちは、東三河麻生田遺跡周辺や畿内特に奈良橿原地域に移動したと考えてよいのではなかろうか。麻生田遺跡近くの地に、小坂井の徐福伝承や牛窪記が残っており、これらの人々は徐福集団の国を構成していた可能性が高い。
 

甕棺墓と東三河(3)

 投稿者:maeda  投稿日:2016年10月27日(木)21時35分29秒
  4.麻生田遺物整理の方法及び出土遺物の概要
 本遺跡から出土した遺物には様々なものがあるが、1期の縄文中期後半から晩期前半の土器に続き、2期に土器棺132基、その他凸帯文系及び条痕文系土器片多量、少量の遠賀川系土器などが出土している。
尚、地理的環境として、豊川市は、愛知県の東部を流れる豊川の下流域にあり、豊橋市や、宝飯郡一宮町・同小坂井町・同御津町、同音羽町などと接している。歴史的環境は、麻生田大橋遺跡のある豊川下流域の地域は、愛知県下でも縄文晩期の遺跡が集中して分布する地域として古くより注目されており、標式遺跡も数多く存在する。麻生田大橋遺跡の南南東約4kmの豊川左岸に位置する白石遺跡では、近年の調査で遠賀川系土器を伴う環濠の可能性の高い溝が検出され注目をあびている。
本遺跡から検出された土器棺墓は、この133基以外に(財)愛知県埋蔵文化財センターの調査による102基と、木下克己氏らによる調査の2基があり、それらを合わせれば237基となる。遺跡の未調査区もまだ残されており、本遺跡に埋設された土器棺墓の実数は優に300基を上回るものと推察されている。

5.日本の各地域の土器棺の出土地とその意義
1)九州地域  2000基以上
(1)玄界灘沿岸:西北九州、唐津西沿岸地域と島嶼部,唐津、糸島、早良、福岡・春日。
(2)有明海沿岸:神埼、佐賀、旧小城、武雄、島原、熊本、筑後南部 旧八女など。
(3)内陸部:嘉穂,二日市、朝倉、三輪町,甘木市,小郡・鳥栖、久留米など。
(4)その他:長崎県大村市、大分県日田市、薩摩半島西海岸地城など。
2)兵庫県篠山市下板井内場山弥生墳丘墓群
弥生墳丘墓のほか、木棺墓、土器棺墓、土壙墓で構成される墳墓群である。副葬品には全長93.5センチの長大な素環頭大刀がある。
3)丹後地域:京都府与謝郡加悦町字加悦 吾野山遺跡
 加悦町字加悦遺跡の土器棺 大型壺型土器(長径0.8m、短径0.5m)と中型壺型土器を合口にして置かれていた。丹後地域では、北西尾根地区に土器棺墓が検出されている。
4)滋賀県今津町の北仰西海道遺跡
  土器棺90基、土壙墓110基以上の縄文時代晩期の集団墓が発掘されている。(今津町教育委員会 1987「今津町文化財調査報告書」第7集)
5)大阪府讃良郡条里遺跡(四條畷市)(羽曳野市)
大阪府文化財センターによる第二京阪道路建設に伴う発掘調査で土器棺出土。従来縄文時代晩期後半から弥生時代早期の遺跡である。
6)奈良県 橿原市曲川町の「曲川遺跡」(奈良新聞(2003年5月9日)記事)
橿原市曲川町の「曲川遺跡」で、大規模な土器棺墓群を伴う縄文時代晩期中頃から後半(2500~2200年前)の拠点集落が見つかり、縄文時代の土器棺墓群としては全国的にも屈指の規模である。土器棺は直径30~40cm、高さ30~60cmの深鉢で、72基がまとまって出土。過去の調査を合わせると81基に上り、遺跡全体で100基を越えると見られる。縄文時代の土器棺墓としては、麻生田大橋遺跡(愛知県豊川)の170基、北仰西海道遺跡(滋賀県今津町)の96基に次ぐ規模となる。
7)青森県三戸郡倉石村 薬師前遺跡 墓坑出土
 昭和52年5月、当時三戸郡倉石村にあるこの遺跡で、土器棺の一部と上部の配石を発見、倉石村教育委員会による緊急調査の結果、3基の土器棺が埋設されているのが確認され、1基からは、貝輪を尺骨に装着した保存状態の良い縄文人骨が納められていた。
 

甕棺墓と東三河(2)

 投稿者:maeda  投稿日:2016年10月27日(木)21時34分17秒
編集済
  3.東三河の麻生田遺跡における甕棺発見状況
 2016年3月4日に、豊川市の麻生田大橋遺跡の紹介を行っている「豊川市桜ケ丘ミュージアム」に行き、確認を行った。遺跡そのものは、東名高速道路の豊川インターチェンジの下になっており、発掘状況は確認できないが、豊川教育委員会1993年発行の「麻生田大橋遺跡発掘調査報告書」を紹介された。その報告書によると、「麻生田大橋遺跡は、東名高速道路豊川インターチェンジの南約500mの豊川右岸の低位段丘上に位置する遺跡であり、昭和52年から平成元年(1977~1989)の13か月にわたり発掘調査を実施し、その結果、「縄文時代晩期後半から弥生時代中期の土器棺墓133基、弥生時代中期の方形周溝墓6基が発見された」と記載されている。図1参照。

   図1 豊川市麻生田遺跡での甕棺墓出土状況と推定埋納形態

 その後も、発見が続き、現在では237基の土器棺が発見されていると別の報告にはある。発見の時期はかなり長期に亘っており、発見時期は1970年代後半~1980年代と考えてよい。また、この遺跡の数キロメートル北部にある水神平遺跡からも甕棺20基が発見されている。この遺跡の土器は東三河独特の水神平土器として有名で、弥生式土器の標準資料となっている。遠賀川式土器との関係があり、近くの豊橋市・石巻山北西部の白石遺跡は環濠集落で、遠賀川式土器が出土している。
 麻生田遺跡付近の地名は、牧野と呼ばれており、この地方豪族・牧野氏が、「牛窪記」「牛窪密談記」に徐福のことを記載している。地元伝承では、縄文・弥生時代からこの地に住みついていた人々だとも言われており、徐福一行に関わる人達だった可能性がある。
 

東三河の徐福伝承と麻生田遺跡の甕棺墓大量出土の意義(1)

 投稿者:maeda  投稿日:2016年10月27日(木)21時33分2秒
編集済
  1.はじめに
日本には徐福が着いたという伝説が23ケ所ぐらいある。北は青森県の小泊から南は八丈島、九州・紀州熊野、東三河にも伝承がある。東三河で江戸時代に発行された牛窪記には、徐福集団が住みついたことを伝承している。
ところで、東三河に瓜郷遺跡など弥生時代の遺跡が多数存在するが、東名高速道路のインターチェンジ工事の際、豊川市にある麻生田遺跡から、甕棺が237基出土した。近くの三遠式土器の発祥地である水神平遺跡からも、甕棺が20基出土している。
 一方、佐賀県吉野ヶ里遺跡は、徐福集団渡来時期に存在した事跡である。2008年の佐賀・徐福国際シンポジウムで吉野ヶ里遺跡発掘調査総責任者・七太忠昭氏は基調講演で、佐賀の弥生文化の中に、徐福に代表される中国文化流入が認められると発表されている。この遺跡の特徴の一つに、甕棺が2000基以上出土したことが挙げられる。甕棺墓は弥生時代の徐福一行の文化と関連していると考えられる。
本発表は、麻生田遺跡で出土した甕棺の出土状況の確認と、この地域に存在する徐福伝承の関係について考察するものである。

2.吉野ヶ里遺跡での甕棺墓(土器棺)出土とその背景
甕棺の風習は紀元前4千年の中国に求められるという。それは、中国の戦国時代(日本の縄文晩期)頃までは長江河口流域に残っていて、日本では紀元前2世紀(弥生前期末)北九州で始まった。弥生時代の北九州の墓制としては、前期末から甕棺墓が現われ、中期では北九州から佐賀、熊本・大分で主流を占める。後期に入って、甕棺墓は急激に少なくなり、箱式石棺墓・木棺墓などに変わる。埋葬された人は、首長または祭事を司った人と推定されている。
 吉野ケ里の存在した時代と徐福の平原広沢の時代はほぼ近い、BC3世紀ごろである。壺を死の世界に応用する甕棺は、二つ壷を合わせる独特の構えであり、有明海周辺の壷を再生の場にするのは中国の思想である。「壷中の天」という話があり、壷を出入りする貴人がいるという。そして壷の中から様々なものが出入りする。その壷は再生の場所として中国では考えられている。(荒竹清光講演議事録抜粋1999.3.「徐福」渡来伝承とその背景)
それが大量に吉野ケ里を中心として出るということは、この壷の思想が中国伝来であることは疑えないのではないか。それが徐福の時代に近い。
 

柿本人麻呂

 投稿者:秦野北斗  投稿日:2016年10月25日(火)13時35分34秒
  日並皇子尊の殯宮の時に、柿本人麻呂の作る歌一首 (2-167)

天照らす 日女の命 であり。ニニギノミコト(邇邇芸命)が行方不明になった。
内容は古事記の天孫降臨(てんそんこうりん)になる。

また、別の歌に、卑弥呼が東の国(狗奴国)に冬の雪降る日に襲撃される。
吹雪のごとく弓矢が宮殿に降り注ぎ、卑弥呼は春に百済の野、城上の宮に葬る。

万葉集に歌われている。東の国は魏志倭人伝の女王国東のようです。
万葉集にも徐福の記録があるが、天照らす 日女の命では力ふぞく・・・。
 

東海扶桑国者

 投稿者:秦野北斗  投稿日:2016年10月 3日(月)13時05分58秒
  東海扶桑国者の東海は現在の東海地方でないようです。

竜宮城では乙姫(一説には東海竜王の娘:竜女)が太郎を歓待する。
丹波国餘?郡(現・京都府与謝郡)の住人である浦嶋子は舟に乗って釣りに出たが、・・
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%A6%E5%B3%B6%E5%A4%AA%E9%83%8E

東海は丹波国餘?郡(現・京都府与謝郡)方向になる。日本海側
東海扶桑国者は石川の扶桑国になる。扶桑記内容のから7世紀頃まで存在か?
 

蓬莱郡彙ノ宮城

 投稿者:秦野北斗  投稿日:2016年 9月26日(月)20時24分24秒
  「蓬莱郡彙ノ宮城」は、蓬莱の郡(むら?)の彙(い:集り)の宮城。

蓬莱郡は郡(ぐん)の様だ

古代の郡は、律令制の行政区画で、国(=令制国)の下に置かれた。『日本書紀』は、大化の改新の時に「郡」(こおり)が成立したと記しているが、当時は実際には「評」(こおり)と書いていた。

大宝律令の成立の時に「郡」が設置され、かつての国造などが郡司となって管轄した。郡には郡衙が置かれ、班田や徴税の管理に重要な任務を果たし、律令制度下の中央集権的行政の末端に位置した。延喜式では591郡があったとされる。郡の下に郷、郷の下に里が置かれた。郡は、郷の数によって大・上・中・下・小の五等級に分かれていた。南伊勢の度会評は「神郡」というかたちで、半ば自律的な行政単位であった。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%83%A1
 

/18